奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/8/14

細見美術館  趣味
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 8月11日(土)山の日、暑い暑い夏、京都岡崎の疎水も暑そうに流れていました。
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 その岡崎の疎水の近くにある細見美術館、若冲の絵をたくさん持ってますが、いつもは企画展ばかりの小さな美術館です。
 -判じ絵-今週は涼しい美術館巡りになりました。
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 判じ絵は、「ら」を10個書いてトラ(虎)とか、釜が切られてる絵でカマキリなど、の絵文字のこと。
 暗い所に飾ってある小さな浮世絵ばかりなので、目がつかれました。
美術館を出たら明るいですが、まだまだ暑い夏!

     返事
花水木さん:このブログも、
    私が死んでからでも有名になれば良いのですが。
     最近は男子トイレを出た時に、方向感覚がボケてきたせいか、
    出口ではなく女子トイレの方向に歩きだすことしばしば、
    変質者に間違われる日も近いような気がします。
大雪男さん:清水坂の下にもたくさんゲストハウスが出来てますね。
    安いんですか? 祇園安井やから安い(地元だけのネタです)
     北条が最後まで持ってくれたら嬉しいですが・・・・。
    阪神負ける日が多いので、8時に寝てしまう日も多い今日この頃です。

2018/8/10

佐川美術館の田中一村展  趣味
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 琵琶湖大橋の近くにある佐川急便の佐川美術館、家からは途中越えで1時間弱で行けます。
この正面看板は、黒田丈二さんの作品だと思いますし、20年前の開館早々に黒田辰秋展もあったと思いますし、その時は息子の丈二さんも生きていましたね。
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 琵琶湖をイメージしているのか、水の上に浮いたような美術館の建物は、20年経っても綺麗です。
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 建物の中からも、葦の植えられた水辺の庭が見渡せます。
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 平山郁夫の絵の収集でも知られた美術館ですが、二人とも平山郁夫さんはそれほど好きではないのでパス。
 もう一人彫刻家佐藤忠良(サトウチュウリョウ)の作品をたくさん集めてることでも有名です。
庭の水面に置かれた「蝦夷鹿」の作品も忠良さんです。
忠良さんの作品はなかなか良いですが、私にとっては我々世代のアイドルでもあった女優の佐藤オリエの父親、の方が分かりやすかったです。
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 男子トイレも20年前に出来たとは思えないぐらい。
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 トイレに寄ったわけではなく、田中一村さんの生誕110年ということで、奄美大島で作品を書き続け、あまり作品を認められないうちに島で亡くなった画家 田村一村展が佐川美術館で開催されていたからです。(1000円)
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 若いころの南画家としての作品が多く、奄美大島の作品は少なかったので、ちょっと物足りない展覧会でした。
子供の時からめちゃくちゃ上手、特に虫は上手でしたが、鳥は軍鶏以外はもひとつ、やっぱり若冲は天才ですね。
 69歳で亡くなるまで一人ものだったのですかね、もっと奄美の絵を見たいものです。

       返事
花水木さん:大丈夫です!
    遊園地9時間中6時間は座っていたと思います。
    好きなキノコ狩り5時間可とはすごいですが、
    まあ私も好きな麻雀なら5時間は楽勝ですね。
     オートバイでは友人の息子を二人も亡くしているので、
    孫にも乗ってほしくはありませんね。

2018/8/3

鈴鹿サーキット  
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 毎年夏の鈴鹿で行われてる日本最大のオートレース 鈴鹿8時間耐久ロードレース 、鈴鹿8耐に行ってきましたというか・・・。
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 オートバイ少年ではなかった私ですが、イギリスマン島のホンダの活躍に胸躍らせた時期もありましたし、医局への通勤時代は50tのホンダラッタッタを使っていましたし、スペンサーのオートバイ騎乗姿のジグゾーパズルも作りました。
 7月27日(金)は8耐公式練習日で、練習走行でも生はすごい迫力で、エンジン音も体に響いて興奮します。
8耐は今年でもう41回目になるそうです。
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 実は鈴鹿8耐を観に来たのではなく、鈴鹿サーキットに併設されてる遊園地に3人の孫を連れて来た日が、たまたま8耐と重なってただけです。
 混雑を心配して朝5時過ぎに家を出ましたが、意外と駐車場にも楽に入れ、遊園地は平日で思いのほか人は少なかったですし、猛暑最後の日だったので暑さの方もましでした。  
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 オートバイの迫力に孫3人はびっくりしていましたが、さすがに私の孫、レーサーになりたいとは誰一人も言わず、「怖いなあ!」と言うだけ。
 ミーハーの家内だけが、「来年は併設ホテルに泊まって鈴鹿8耐観に行こう!」と、興奮していました。
29日(日)8耐のTV中継は、二人でかなり観てしまいましたし、その間に私はアイビスサマーダッシュGVを獲りました。
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 小学1年生は乗れなくて3年生は乗れる遊具などがあるため、3人でもめたりもしていましたが、電動バイクのライセンスも取れて孫たちは大満足したよう。
遊園地滞在時間は8耐以上の9時間近くに及びましたが、子供は疲れを知らずに元気ですね。
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 午後からの私は、日陰で思わず眠ってしまったり、完全に見学監視人化していました。
人生70年にして、遊園地最長滞在時間を更新したと思います。
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 男と生れたからには一度くらいこんなことをしたり、後ろに彼女を載せて走りたかった気もしますが、それは夢のまた夢。
まあ出来なかったので、70歳まで長生きできたのかもしれません。

      返事
花水木さん:花水木さんは私より若く女性なので、
    次の火星大接近は絶対観れるでしょう。
     人間それなりに(あくまでもそれなりですが)苦しみを抱えて生きてるんですが、
    私はまあ、出来たら気楽に生きようと考えています。
和さん:この写真はデジタル処理された火星だと思うので、
    本当の火星はこれとは違うかも。
     年とってからは、へこんでしまうような機会に合わない生活を考えていますが、
    やっぱりへこむことは多いですね。
     毎日が曇りでちょっと雨が降る天気にする機械が出来たら、良いですね。

2018/7/31

火星大接近  
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 本日2018年7月31日(火曜日)、火星大接近ということで、家の窓から東南を観てみると、小さいですがそれらしき星が見えました。
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 倍率を上げると、なんか火星とは思えない像が出てきましたが、赤っぽいんでやっぱり火星ですかね。
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 Canon Power Shot SX730HSの倍率を最大に上げても、こんな像しか出現せず。
光学ズームではなくデジタルズームで160倍なので、こんな火星になるのですかね。
それでも結構大きな火星です。
 次の火星大接近は17年後らしいですが、それをもっと良いカメラで捕えてブログに上げるのは、私にはちょっと無理なようですので(87歳)、この写真がこのブログの火星大接近最後の報告になります。

    返事
花水木さん:台風は夜中に風が強かったぐらいで済みましたが、
    朝窓を開けると、家の裏の体育館建設中の塀が倒れて、
    教習所の車の上に乗っかっていました。
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     台風後少し涼しくなったと思ったのもつかの間、また酷暑です。
     私も最近切れやすくなってるので、切れないお爺さんになる努力をします。

2018/7/28

36−2孝徳天皇皇后間人皇女  天皇陵巡り
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 父第34代舒明天皇、母第35代・37代皇極・斉明天皇の間に生まれ、同母兄弟に第38代天智天皇と第40代天武天皇を持つ、貴人中の貴人間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(?〜665)は、母の同母弟の計算上は30歳以上も年の違う第36代孝徳天皇の皇后になりましたが、子供は産んでいません。
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 古代異母兄弟姉妹の結婚はたくさん有りましたし、親族で固めるためにも良かったのかもしれませんが、同母兄弟姉妹の恋は絶対に許されないようです。
以前第19代允恭天皇の息子木梨軽皇子(キナシカルノミコ)は同母妹と道ならぬ恋に落ちて、流罪(死刑とも)になっています。
 間人皇女と同母兄中大兄皇子(後の天智天皇)は、どうも同母兄妹恋をしてしまったみたいで(証拠はない話のようですが)、年の離れた叔父の孝徳天皇に嫁いだ間人皇女には子供は生れませんでした。
同母兄の中大兄皇子が皇太子として夫の孝徳天皇と対立した時は、同母妹の間人皇女と難波長柄豊崎宮を一緒に去っています。
又、中大兄皇子は何度も天皇に成れる機会がありましたが、成らなかったり成れなかったのは、この同母兄妹の道ならぬ恋が原因だったのかもしれませんし、間人皇女の死後やっと周りも納得して即位できたと推測してるのですが、単なる下ネタ好きの私の邪推ですかね。
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 間人皇女は母親の皇極・斉明天皇陵である越智崗上陵(オチノオカノウエノミササギ)に、孝徳天皇皇后間人皇女として合葬されています。
この陵には斉明天皇が愛したと言われてる孫、中大兄皇子の息子建王(タケルノミコ)も一緒に葬られ、建王墓の名も制札には書いてありました。
 祖母である皇極・斉明天皇が息子中大兄皇子と遠智娘(オチノイラツメ)との間の子建王(持統天皇とも姉弟になる)を、近くで愛せるほどかわいがることがその当時可能でしょうか。
実の娘の間人皇女の子供なら、近くで愛することも可能なのではないでしょうか。
この話すことも出来なかった8歳で夭折した建王は、自分の実の息子と娘の子、許されない中大兄皇子(天智天皇)と間人皇女の間の不幸な生まれの孫ということで、祖母の皇極・斉明天皇はよけいに可愛くて、この幸が少ない3人で一緒に墓に入ることを望んだのではないか・・・・。

   返事
花水木さん:私は昔から芸能界相関図とか好きでした。
     金平糖のたとえはおもしろい。
    歳を取ると人間丸くなるというのは、確かに嘘と思いますが、
    女の人の方が、金平糖になりやすい気はします。
タグ: 天皇陵

2018/7/25

36−1孝徳天皇  天皇陵巡り
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 軽皇子(カルノミコ)は第35代皇極天皇の同母弟なので、父は茅渟王で母は吉備姫王です。
王位とは無縁の三世王でしたが、姉の宝皇女が第34代舒明天皇の皇后になり、その後は第35代皇極天皇ともなったので、一世王に準じた地位に自動的に上がりました。
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 写真の板蓋宮で実行された乙巳の変(大化の改新)の主導者は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったという説もありますが、その変後、姉の皇極天皇が初の譲位をし、次の天皇に成るのを中大兄皇子は辞退し、古人大兄皇子は出家してしまったので、軽皇子が第36代孝徳天皇(コウトク)(596〜654)(在位645〜654)として即位しました。
 唐の属国ではないという証のためか、初めて元号をもうけ大化としました。
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 姉の皇極天皇の娘で中大兄皇子とは同母兄妹である若い間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を皇后としましたが、二人の間には子供はなく、左大臣の阿部内麻呂(アベノウチマロ)の娘小足媛(オタラシヒメ)を妃として、悲劇の主人公と言われてる有間皇子(アリマノミコ)をもうけていますし、右大臣になった乙巳の変の功労者蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダイシカワノマロ)の娘乳娘(チチノイラツメ)も妃としています。
 二上山山麓、竹内街道に沿ってある孝徳天皇陵には、車を道の駅に置いて、そこから自転車で太子町の他の御陵と一緒に廻りました。
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 中臣鎌子(ナカトミノカマコ)(藤原鎌足のことです)を内臣(ウチツオミ)にし、徐々に政権は中大兄皇子に集中していき、出家していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼし、蘇我山田石川麻呂も間違った情報で殺してしまった中大兄皇子の独裁が目立ってきました。
 石段を登った先の孝徳天皇陵拝所は、正面には廻れない配置になっていました。
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 外交政策でも中大兄皇子と対立し、自分の若い皇后間人皇女と同母兄妹の中大兄皇子との許されぬ恋もあったようですが、孝徳天皇の周りの皆が離反していき、難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)(大阪市北区)で一人寂しく亡くなり、ここ大阪磯長陵(オオサカシナガノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 この古墳は円墳の山田上ノ山古墳(ヤマダカミノヤマコフン)です。

      返事
花水木さん:元気ではないですよ。
    さすがに今年の夏は暑いですね!
    外では水分補給あまりしない私ですが、ポカリを買い仕事中飲みました。
    夜中クーラーをつけっぱなし(29度設定)で寝るなんてのも、人生初めての経験です。
     70才になったせいか、今年の夏は心も体もやられそうです!
タグ: 天皇陵

2018/7/20

35−1皇極天皇  天皇陵巡り
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 前回でも報告した第34代舒明天皇の父34−2押坂彦人大兄皇子のもう一人の息子茅渟王(チヌノオウキミ)が、少しだけ蘇我家の血が入った29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)と結婚して産まれたのが宝皇女(タカラノヒメミコ)(594?〜661)です。
宝皇女は高向王(タカムコノオウキミ)と結婚して漢皇子(アヤノミコ)という息子をもうけていましたが、何故か別れて?、おじにあたる舒明天皇の皇后になり、葛城皇子(カズラキノミコ)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)・大海人皇子(オオアマノミコ)を産みました。
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 夫である第34代舒明天皇が亡くなった時、その次の天皇は、夫の舒明と法堤郎女(ホホテノイラツメ)との子で蘇我蝦夷の甥になる古人大兄皇子か、舒明と自分との間の16歳と少し若いですが葛城皇子(中大兄皇子と書いた方がよく分かりますね)か、まだあきらめきれない山背大兄王か、と混乱しました。
「ややこしい時は女帝にしよう」ではないですが、皇后であった宝皇女が次の天皇ということで、第35代皇極天皇(コウギョク)となりました(在位642〜645)、50歳近くで即位した女性天皇です。
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 高校3年生の春に同級生と見学に行った思い出の飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)跡の写真です(私にとっては好きな娘が参加するから行っただけなのですが)。
 この地で即位した女帝でしたが、雨乞いの祈とうに成功するなど、次第に地位を確保はしていきました。
在位中の643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を討って聖徳太子一族を滅ぼしましたが、なんと言っても大化の改新虫五匹と記臆した(なんで645年の憶え方が虫五匹か知りませんが)、今で言う乙巳の変(イッシノヘン)が起こりました。
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 息子の中大兄皇子が中心になって藤原鎌足達と板蓋宮で蘇我入鹿を殺したと教えられてきた大化の改新(乙巳の変)、今は皇極天皇やその弟後の孝徳天皇の方がこのクーデターにより深く関与していたとの説があります。
まさかと思いますが、皇極天皇が入鹿の愛人説や、前夫高向王との子漢皇子が後の天武天皇ではないかとの説もあるようです。
 乙巳の変後、生前に天皇を辞める譲位をした日本で初の天皇になりました。
 陵印は後の斉明天皇とだけ彫ってあり、皇極天皇とは彫ってありませんでした。
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2018/7/17

祇園祭  京都
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 7月17日今日は祇園祭の巡行日、2週間前の夜にはまだ祇園ばやしのけいこ中。
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 その後大雨があって、今度は猛暑の毎日。
13日の金曜日、10年前に奈留島で総入れ歯にしてもらった私の入れ歯、順調すぎて良かったのですが、やっと1本欠けました。
友人の歯医者はもうリタイアしてて、その紹介で街中の歯医者に行き、1日で欠けた歯は元通りになりました。
帰りに通った長刀鉾の周りは、宵宵宵宵山なのに、もう人が並んでいました。
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 毎年、放下鉾の友人と、長刀鉾の友人の妹からちまきが届きます。
ちまきも今は高いですが、昔は鉾の真下で投げられたちまきを取れましたし、家の前を巡行の鉾が通るので、ちまきは沢山我が家の部屋の中に投げ入れてもらえました。
祇園祭が終わってしばらくは、三輪車に乗ってそこからちまきを投げる祇園祭ごっこをよくしていました。
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 昨日16日の宵山の昼、暑い暑いのにまた出かけて、菊水鉾の町内のお茶会に参加。
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 利休の師匠と言われてる武野紹鷗(タケノジョウオウ)の邸宅跡や、名水菊水の井戸があるためか、菊水鉾町内で毎年お茶会があります。
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 流れ作業のお茶会ですが、毎年この皿が貰えるので行きました。
今日は巡行の日、暑かったので鉾にいる囃子方や見物人も大変だったでしょうね、私は通勤は暑くつらかったですが、あとは家に居るより快適な冷房の部屋で涼しく仕事で終わりました。

    返事
花水木さん:そうです、やや不気味でした。
    夜だったら怖いと思います!
     せめて東海道を歩くかとも考えています。
    その時には沼津で5泊ぐらいしたいです。

2018/7/14

34−2押坂彦人大兄皇子  天皇陵巡り
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 1年間の全国靴下生産量6億足のうち約4割を生産する町、又竹取物語の舞台にもなってるそうで、可愛いのか美人なのか怖いのか、ちょっと迷ってしまうような大きなかぐや姫もそびえていた奈良県広陵町には、古墳もたくさん集まっています。
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 押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトノオオエノミコ)の墓は、一応宮内庁はここ広陵町にある新木山古墳(ニキヤマコフン)を三吉陵墓参考地(ミヨシ)として、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父の墓としています。
 しかし、新木山古墳は5世紀前半の築造なので、先ず当てはまらないようです。
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 ここまでの歴代天皇のうち父親が天皇ではない天皇は、当然の初代神武天皇は別として、日本武尊が父の第14代仲哀天皇、市辺押磐皇子が父の第24代仁賢天皇・第25代顕宗天皇、そして天皇まで5代遡らねばならない第26代継体天皇の4人だけでした。
前回の第34代舒明天皇は、5人目の父が天皇でない天皇です。
 写真の新木山古墳の入り口は、周濠が埋まって葦の森になってる向こうにありました。
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 第34代舒明天皇の父親は、第30代敏達天皇と息長真手王(オキナガマデノミコ)の娘30−2廣姫(滋賀県まで陵を探しに行って報告してます)との間に産まれた今回の押坂彦人大兄皇子です。
敏達天皇の第1皇子だったので、次の天皇候補ではあったのですが、母親の廣姫が早くに亡くなり、後妻に入ったのが蘇我家からの後の推古天皇だったので、結局天皇には成れませんでした。
  写真は新木山古墳の後円部を、石葺きに整えられた三吉石塚古墳(ミヨシイシヅカコフン)から眺めています。
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 押坂彦人大兄皇子は父敏達と推古の間に産まれた娘、すなわち異母妹2人を妃にしていますし、敏達と菟名子との間の娘糠手姫皇女も妃として(すなわち計3人の異母妹を妃に)、その間に産まれたのが田村皇子(舒明)です。
 また、漢王の妹大俣(オオマタノミコ)(女です)も妃として、茅渟王(チヌノオオキミ)を授かり、茅渟王が第29代欽明天皇の孫29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)(猿石があった墓で、祖母が堅塩媛なので少し蘇我の血が入ってる)と結婚して、後の皇極・斉明天皇と孝徳天皇を産んでいます。
 押坂彦人大兄皇子の本当の墓は、新木山古墳から15分ほど歩いた牧野古墳(バクヤコフン)であろうと言われています。
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 したがって少しややこしいですが、蘇我氏によって天皇になれなかった押坂彦人大兄皇子ですが、その子1人(舒明)と孫2人(皇極・斉明と孝徳)が天皇になりましたし、更にその子供と孫が(舒明と皇極)結婚して、孫のようなひ孫のような天智天皇と天武天皇をも生みだしたことになりました。
 写真は牧野古墳の横穴式石室が開口してる部分ですが、柵があって中までは入れません。
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 この牧野古墳は直径約55ⅿの円墳で、成相墓(ナライノハカ)と呼ばれて、昔から押坂彦人大兄皇子の墓だと言われていたようです。
 柵の間から覗いてみてもよく分かりませんが、写真に撮ると約10ⅿの羨道の向こうに玄室の石棺の一部が見えました。
石棺は2基あったようで、もう一人の埋葬者は誰なのか、糠手姫皇女は息子の舒明天皇と一緒に入っていましたので、他の妃か誰でしょうか。
写真をよく見てみると、棺に卒塔婆が立てかけられていて、柵がなかっても私は一人では入れなかったかもしれません。
じっと柵外から観てただけで、背中がぞくっとしてくる怖がりです。

    返事
花水木さん:いつの世も、大でも小でも、
    跡目争いは他人事なら面白いですね。
     そろそろ神話から歴史上の人物になってくるので、
    面白くしていきます。(予定です)
     ボケず体力が残ってる間に、
    自転車日本一周で毎日ブログ更新するのが夢なのですが、無理かな?
元商家の嫁さんさん1:宝くじでも当たったのですか!
    旦那のブログ相変わらずリッチですが。
元商家の嫁さんさん2:すし富・すし良、憶えておきます。
タグ: 天皇陵

2018/7/10

34−1舒明天皇  天皇陵巡り
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 第33代推古天皇は皇太子であった聖徳太子に先立たれ、次の皇太子に誰も立てませんでしたので、推古天皇没後次の天皇争いは混乱しました。
 勢力を伸ばしていた蘇我一族にとっては、蘇我家の血が濃い聖徳太子の息子山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)の方が、蘇我家の血が全く入ってない第30代敏達天皇の孫田村皇子(タムラノミコ)より良かったと思います。
しかし、蘇我一族内での主導権争いや、蘇我馬子の娘 法堤郎媛(ホテイノイラツメ)と田村皇子との間に古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)が産まれていたこともあって、蘇我蝦夷(エミシ)は田村皇子を推したようです。
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 第30代敏達天皇が30−2廣姫に産ました押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)と、同じく菟名子(ウナコ)に産ました糠手姫皇女(アラテヒメノヒメミコ)の、異母兄妹の結婚に依って産まれた田村皇子は、飛鳥岡本宮(アスカオカモトノミヤ)に即位し第34代舒明天皇(ジョメイ)(593〜641)(在位629〜641)になりました。
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 前述したように、舒明天皇は法堤郎女との間に古人大兄皇子をもうけていましたが、皇后になったのは宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)で、その間には葛城皇子(カズラキノミコ)(後の天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(後の孝徳天皇皇后)・大海皇子(オオアマノミコ)(後の天武天皇)のそうそうたる二男一女ができました。
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 こうして王統は蘇我家から離れて(宝皇女は女系ですが少し蘇我の血が入っていますが)、敏達・舒明系に収斂され、このまま現在の天皇家に繋がっていきます。
 舒明天皇の時代、歴史的には630年遣隋使の経験もある犬上御田鍬(イヌガミノミタスキ)をして第1回遣唐使が始まりました。
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 49歳で亡くなった舒明天皇の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)(奈良県桜井市)には、近鉄桜井駅から奈良らしい道を走って自転車で行きましたが、この陵には息子舒明よりはるかに長生きした母の糠手姫皇女も合葬されてるので、制札には敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女押坂墓(オサカノハカ)とも書いてありました。
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 正式名段ノ塚古墳(ダンノツカコフン)はわが国初と思われる八角墳であり、その後の天皇陵には八角墳が見られるようになりました。
 横の道を少し上ると、第29代欽明天皇の娘で29−3で紹介した大伴皇女の墓や、万葉歌人の鏡女王の墓もありました。
   いいとこです!

       返事
花水木さん:花水木さんはもうちょっと頑張って下さいよ、
    孫の世話は体力入りますし、
    私への追悼コメントも入れなければなりませんよ。
元商家の嫁さんさん:オリンピックとサッカーはあまり興味湧きませんが、
    ラグビーは楽しみにしています。
     小浜は昼しか行かないので、病院前の寿司屋の地元評はどうですか?
    美山の新座さんは覚えておきます。
     それはそうと、今気づきましたが、
    元が付いてる!なんで元が付いてるんですか?
タグ: 天皇陵


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