奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/7/4

奈留島が世界遺産に  奈留島
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 やっとこさ!
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されました!!
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)もその中に含まれています。
 登録の名前が変わったり、私が奈留島に居る頃より登録されそうでされないと、紆余曲折で10年以上かかったと思いますが、先ずはおめでとうございます!!!
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 10年ぐらい前、私が奈留島にいた頃、大合併で奈留町から五島市に変わった為か、奈留島の道路案内看板がすべて新しくなりました。
撤去された古い看板は、廃屋寸前の家に住み空き缶回収などしていたお爺さんに引き取られました。
その庭にあった看板を、フークの散歩の途中に見つけた先見の明ある?私は、ちょっと知ってたのでお爺さんから無料でもらい受けました。(違反だったら目をつぶって下さい)
 わざわざ車に積んでフークと共に京都まで持って帰り、庭に置いて今日の日を待っていたのです。
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 奈留島で世界遺産登録されたのは、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)なので、私のゴミ箱霊場巡りの江上教会周辺のゴミ箱も、世界遺産になりました!!
 あの頃は天主堂とは呼ばずに、江上教会が普通でしたね。
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 長崎市内や天草の教会群も良いですが、ちょっと足をのばして、皆さまぜひ奈留島の教会も尋ねて下さい!
私も写ってる江上天主堂のポスターも、船着き場でお待ちしています。
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 30個ぐらいあった撤去看板の中から、もう一つだけ貰って帰ったのが、このユーミンの歌碑看板、病院に立っていました。
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 奈留島での2大名所は江上教会と、奈留高校の校歌になりかけたユーミンの「瞳を閉じて」、
この二つの貴重な案内看板、100万円で買ってくれる人がいたら、自宅までお届けいたします。

  返事
花水木さん
小野選手は北海道で選手だと思います。
    静岡県はサッカー王国ですよね

2018/6/30

小野妹子2  天皇陵巡り番外
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 小野妹子のついでに、息子小野毛人に続くその子孫について。
小野家の出は元々、滋賀県湖西の琵琶湖大橋の少し北、小野の郷らしいです。
近くには、小学校の水泳遠足で行った和爾浜水泳場があるので、小野家のもっと先祖になる和爾氏(ワニシ)ゆかりの地でもあるようです。
 家から車ですぐの小野毛人墓のある崇道神社の横を通って、八瀬大原を抜け、途中峠を越えると、小野妹子そのままの名前が付いてる道の駅まである、小野の郷までは30分ぐらいで着きます。
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 小野の郷の新興住宅地の真ん中に残った、小高い丘のような唐臼山古墳(カラウスヤマコフン)は、7世紀前半に造られたようですが、ここも小野妹子の墓だと言われています。
そこには鳥居をくぐって、急な石段を上がる、小野妹子神社もあります。
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 小さな小野妹子神社本殿の裏にある小山は、太子町磯長にある妹子墓や崇道神社奥の毛人墓になんとなくイメージが似ていました。
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 唐臼山古墳の展望台からは、住宅地の向こうに琵琶湖大橋や、湖東の三角形の近江富士も見渡せました。
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 小野妹子から5代後の小野篁(タカムラ)(802〜853)、参議篁として小倉百人一首の11番目の歌でも有名です。
妹子は遣隋使として2回も中国に渡っていますが、篁は遣唐使として派遣されるのを拒否して、嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐に流されています。
その後は許され、昼は朝廷に出廷し、夜は冥土へ通じる六道の井戸を通り、閻魔大王に使えていたという伝説もあります。
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 この篁と小野一族を祭神として祀る小野篁神社と小野神社、この本殿は、何故降格されたか知りませんが、誰かの怒りに触れたのか、旧国宝で現在は重要文化財でした。
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 小倉百人一首第9番小野小町も、篁より2代後の小野一族とも言われていますが、判りません。(奈留島百人一首のため島の官舎の部屋で撮ったカルタ写真、官舎の畳が懐かしい!)
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 小野神社境内には、小野小町の塔もありました。どんな由緒かはわかりません。
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 小野神社から梅雨前の暑い道を歩くと(家内にも付き合ってもらいました)、よく似た造りの小野道風神社にたどり着きました。
小野道風(トウフウ)(894〜967)も篁の2代後になりますので、妹子から数えると道風は7代後、妹子の仍孫(ジョウソン)(孫の孫の孫の子)になります。
この本殿も、旧国宝の今重文でした。
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 字の上手な三筆は、空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)、三蹟は、藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とこの小野道風です。(昔から何回憶えても覚えきれませんでした)
 花札の「柳に小野道風」の絵柄でも有名ですので、鳥居横にはこんな池もありました。
暑い中いくら待っても、蛙は柳に飛びつけませんでしたので、行動しなければなんの結果もかち得ないということを知りました。
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 小野家は、菓子の免許を与えることを許された家でもあったので、小野家は日本の華道・菓道両方の創生発展に寄与していたようです。
 帰り道、琵琶湖大橋のちょっと有名らしい店でランチしましたが、小野家の墓参りをしたおかげか、そのデザートは豪華で美味しかったですよ。

     返事
花水木さん:池坊はごたごたしていて、
    京都でも人気はもひとつのようです。
     珍しい名前と言えば、奈留島にいた大学柔道第3位になった
    熊埜御堂未来(クマノミドウミライ)さん、もうせっかくの苗字も変わってますかね。
タグ: 天皇陵巡り

2018/6/27

小野妹子1  天皇陵巡り番外
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 推古天皇の時代607年、第2回(第1回は600年か?)遣隋使として派遣され、隋の煬帝(ヨウダイ)(在位604〜618年)の返書を帰路になくしてしまったされる小野妹子(オノノイモコ)、日本史でも学んだ有名な人物ですよね。
 その時聖徳太子が書いたと言われる煬帝を怒らせた国書「日出処の天子、日没する処の天子に致す・・・・」の話も有名です。
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 その小野妹子の墓と伝えられているのは、聖徳太子や推古天皇の眠る大阪府太子町磯長の科長神社(シナガジンジャ)の横にありました。
写真は科長神社の鳥居、撮影立ち位置が小野妹子墓の階段下です。
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 階段を上って行くと、丸く石の柵に囲まれた円形の墓がありました。
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 中までも入れますが、中央は小山だけの円墳のようです。
まずまずきれいに整備されているのは、華道家元の池坊が管理されているからのようです。
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 何故池坊管理かと言うと、587年聖徳太子建立の京都六角堂の初代住職(専坊)となった妹子が、隋で学んだ仏前に花を供えるという行為を六角堂でも続けていたので、「華道の祖」となったようです。
京都のへそ石で有名な烏丸六角にある西国第18番札所六角堂の、この正面写真の奥のビルが池坊のビルです。
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 小野家は一応第30代敏達天皇から続く家系で、数々の有名人を輩出しています。
NHK大河「おんな城主直虎」で高橋一生が演じて名を上げた小野政次も小野家の子孫で、現在も小野家の子孫はいるようです。
 先ずは、私はこれまで全く知らなかった妹子の息子小野毛人(オノノエミシ)から。
小野毛人の墓は京都から八瀬大原を通る鯖街道の始まり、八瀬まで行く手前の崇道神社の奥に何故かありました。
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 677年に没したとされる小野毛人の墓が、その頃はまだ未開の地であった京都の比叡山の麓の山中にある理由はわかりませんが、今年の冬に飛鳥資料館で見た国宝(コピーですが)小野毛人墓誌が出てますので、まあ毛人の墓でしょう。
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 崇道神社から山道を登ってたどり着いた小野毛人墓は、なんとなく父の小野妹子墓をこじんまりとしたようで似ていました。
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 途中にはこんな警告書が貼られていて、この切株も熊がむしったようで、山の中ですが自宅から歩いて行けなくはない場所で、これはちょっと怖かったです。
大声で歌を歌いながら、急いで降りてきました。

    返事
花水木さん:夾纈(キョウケチ)、三大染色法の一つです。
     途絶えていたこの染色法を友人が再現しました。
タグ: 天皇陵巡り

2018/6/24

伊賀の創工会展  趣味
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 近鉄のようで近鉄でない伊賀鉄道の上野市駅前、昨秋もここに来ていますので、駅前の芭蕉像後ろ姿のみ。
芭蕉なんてお爺さんの代名詞のようにも思っていましたが、私は芭蕉より20年も長生きしてしまいました。
 伊賀上野、芭蕉の生誕地ですし、上野城や荒木又右エ門の鍵屋の辻の決斗でも有名ですが、今回は第30回記念工芸美術創工会展㏌伊賀2018が開かれていたので行ってきました。
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 伊勢津藩第10代藩主藤堂高兌(トウドウタカサワ)の建てた藩校の崇廣堂(スウコウドウ)が、4カ所ある会場の主会場になっています。
いつもは入館料がいるのに、今回は展覧会があるのに無料でした。
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 広い講堂にも2点だけ展示されていて、土曜日にはジャズの演奏会もあるようです。
友人の京都新聞社賞を獲った夾纈の作品もありました。
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 質素な造りですが殿様の控室になってた部屋には、創工会の一番偉い人たちの作品が並べられていました。
一番高いのは600万円の値が付いていましたが、監視人が誰もいないのがちょっと心配になりました。
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 作品の花器には伊賀の華道家が花をいけていました。
特に華道をしてない家内の意見ですが、伊賀上野のお花のレベルは高いと、申しておりました?。
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 次の会場武家屋敷赤井家住宅までは、歩いて15分ほど。
庭にも作品が並べられています。
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 ここには小さな喫茶スペースもあって、この抹茶セット300円と、京都に比べたらかなり安い。
ついでに、伊賀上野の案内人や駐車場の番人さんは、皆優しく穏やかです。
それに比べて京都の人は、なんであんなに上から目線なんですかね、京都の観光名所で道を聞いたりした時の応答に、ムッととすること多いですよ。
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 三つ目の会場まで歩いて5分、以前は料理旅館だった栄楽館、部屋の細かい細工が楽しい。
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 作品には全て値段がついているので、ついつい値段をみてしまいます。
最高額の100分の一にも満たないが1000分の一よりは高い作品を、記念に一つ買いました。
もう一つ買うのを家内は迷っていましたが、帰ってからは買えば良かったと。
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 最後四つ目の武家屋敷入交家住宅(イリマジリ)はすぐそこ。
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 どこの家も古いガラスが残ってるので、波打って庭が綺麗に見えます。
美術館で観るより、うまく作品が家に溶け込んで、いけてある花も作品をより良く見せて、遠くまで来たかいのある展覧会でした。
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 もちろん昼は、柔らかい伊賀牛を堪能して、帰りはやっぱり天皇陵巡りの一つ、和束墓にも寄って帰りました。

    返事
花水木さん1:地震など天災の時は、
    せめて知ってるとこにいたいです。
花水木さん2:孫の小学校の運動会見に行ったら、
    なんと今どきのコースはセパレートになっていました。
    私の狭い運動場での徒歩競走では、
    1コーナーにトップで入らないと、先ず勝てませんでしたのに。

    

2018/6/20

ごちそう  
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 私の育った家からも近い明倫小学校、私の通った龍池小学校に通学するのとほとんど同じくらいの距離にあったのですが、両小学校共に今は廃校になっています。
四条烏丸に近い旧明倫小学校は京都芸術センターなっていますが、その隣の染の展覧会に行ったついでに寄ってみました。
当時私の龍池小学校の校庭も、800人ぐらいの児童が遊ぶには狭すぎましたが、明倫小学校の校庭はこの様にそれよりも狭い。
運動会は大変でしたでしょうね。
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 この辺り、烏丸四条より西北は呉服屋さんの室町問屋街でしたが、今は町家を改築したような料理店が増えています。
その一軒で友達夫婦とちょっと贅沢なランチ。
綺麗な手の込んだ前菜から始まりました。
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 最後のデザートまで、しょうもないことをしゃべりながらゆっくり出来ました。
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 次の日は、銀閣寺近くの日本料理店で、また違う友達夫婦とランチにしては豪勢な昼会席。
料理の写真は撮ろうと思いながら、遠慮したりして忘れてしまいます。
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 鮎や鱧など初夏の料理の後は、冷やし飴を固めて笹の葉で包んだお菓子で終了。
 50〜60年以上昔からの知り合いとしゃべるのが、一番心が解放されますので、それが一番のご馳走ですよね。

     返事
花水木さん1:女子大生がグランドを使ってる時は、
    いやらしい老人と思われないよう、
    2階からはなるべく見ないようにしています。
     島にいる時は、
    小学生から高校生まで、子供の顔を見るのが嬉しかったですが、
    京都では、
    団体児童や生徒を見ると、ちょっと感じ方が違います。
花水木さん2:通勤の地下鉄、
    丁度駅に停まった時にぐらっときました。
    降りて2駅歩いただけの被害ですみました。
     そちらに東海地震が起こった時の方が心配です。
前回のじょんのび村長さん:西宮古墳のは、
    あとから村人などが穿った本物の盃状穴だと思いますよ。

2018/6/16

ベンチ  
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 家の2階からは、眼下に女子大のグランドが見えます。
ほとんど女子大生は見当たらず、コートを借りてテニスをする男女老人か、他校の大学のアメフト部やラクロス部が練習してる姿を見るぐらいです。
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 或る日、ベンチがグランド傍にぽつんと置かれていました。
私の少ない芸術心が刺激され、2階から写真を撮ってみましたが、なかなか難しい!
単なる何でもない写真になってしまいましたが、天皇陵巡りの陵印や拝所の写真よりは、花水木さんも喜んでもらえるかも・・・・。

     返事
花水木さん:天皇陵巡りの最初に陵印を出すのはやめます。
     そろそろ日本史で学ぶ時代に入るので、知ってる名前が出てくると思います。

2018/6/13

33-1推古天皇  天皇陵巡り
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 これまで福永武彦訳 現代語訳古事記(河出文庫)に頼って書いていた天皇陵巡り、古事記はこの推古天皇で終わりです。
 古事記の推古天皇の記述は、最後にしてはあっけなく、詳しくはもうじき出る日本書紀の方を読んでくれと言わんばかりに投げやりで、トヨミケカシキヤヒメノミコトは小治田宮(オワリダノミヤ)(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治め、科長(シナガ)の大陵(オオミササギ)(大阪府太子町)に葬られた、と書いてあるだけでした。
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)【豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)の方がなじみがあります】は、異母兄の第30代敏達天皇の皇后30−2廣姫(ヒロヒメ)の薨去後敏達の後妻として先ずは皇后になりました。
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 敏達天皇との間には、若死にしなければ天皇になった竹田皇子や、聖徳太子の妻になった菟道貝蛸皇女など2男5女をもうけ、母の堅塩媛と同じく多産で丈夫で長生きしました。
554〜628年(在位592〜628) 75歳で亡くなり、一番愛した息子の竹田皇子と共にこの磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)に合葬されました。
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 第32代崇峻天皇が暗殺された後に、群臣の要請(馬子の要請ですが)を受けて豊浦宮(トユラノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し、初の女帝第33代推古天皇(スイコ)になりました。
 自分の夫第30代敏達天皇は異母兄ですし、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟になりますので、推古天皇の父第29代欽明天皇の子供は4人も天皇になったことになります。
複数の我が子を天皇にした天皇は何人もいますが、欽明天皇のように4人の子を天皇にしたのは、この1000年後の第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)だけです。
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 推古天皇は皇太子に甥の聖徳太子をたて、603年冠位十二階・604年十七条憲法の制定や、607年小野妹子の遣隋使派遣や朝鮮半島の動乱に兵を送ったりして、長きにわたり天皇の位についてる間に、聖徳太子も蘇我馬子も死んでしまいました。
 推古天皇陵は、この写真のような、こんもりした高い堂々とした丘になっていました。
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 坂道になってる陵道から西の方、大阪方面を眺めると、花火でも有名なPL教団の塔が見えました。

    返事
花水木さん:私のブログにコメントがなく、
    他の人のブログに花水木さんのコメントを見つけると、
    思わず嫉妬してしまいます。
     ほんまにお忙しいようですが、忘れずにどうかよろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵

2018/6/10

32-1崇峻天皇  天皇陵巡り
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君との間に産まれた泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)は、欽明天皇の12番目の子供です。
その異母兄第31代用明天皇が早くに亡くなると、同母兄穴穂部皇子(アナホベノミコ)が物部守屋と謀って皇位を狙いましたが、蘇我馬子と豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)は穴穂部皇子を殺し、その勢いで物部氏も滅ぼしてしまいました。
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 こうして蘇我・物部の積年の対立にも終止符が打たれ、泊瀬部皇子が倉梯柴垣宮(クラハシノシバガキノミヤ)に即位し第32代崇峻天皇(スシュン)になりました。
 近鉄桜井駅で自転車をひらき、押坂の舒明天皇陵に寄ってからここに到りました。
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 崇峻天皇は大伴糠手(オオトモノムラジヌカテ)の娘小手子(コテコ)を妻として蜂子皇子(ハチノコノミコ)と錦代皇女(ニシキテノヒメミコ)をもうけ、また蘇我馬子の娘河上娘(カワカミノイラツメ)や物部守屋の妹も妻に迎えています。
 崇峻天皇陵の道標から坂を少し下ると、崇峻天皇陵の倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)が見えてきました。
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 蘇我馬子の後押しで、それほど皇位継承順位が高くない崇峻が天皇になったのですが、即位してからは二人の仲は離れて行き、猪を貰った崇峻天皇が思わず「この猪のように首をはねたい人がいる」というようなことをつぶやいたため、これを聞きつけた馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って崇峻天皇を殺してしまいました。
 天皇暗殺という一大事件は、正史である日本書紀にもはっきり書かれているのに、その後のことはうやむやになったぐらい、当時の蘇我馬子の力は強かったということでしょうか。
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 その後の話として、下手人の東漢直駒は崇峻天皇の妃馬子の娘河上娘を奪って妻にしたため馬子に殺され、なんかケネデイ暗殺後の話に似ています。
 また息子の蜂子皇子は聖徳太子に依って東北に逃がされ、羽黒三山の開祖になりました。(宮内庁治定の墓もあり)
その息子を追って錦代皇女と共に東北に向かった小手子は、途中娘の錦代皇女を亡くし、福島にとどまって当地で養蚕の技術を広めた後、入水自殺をしたという、小手姫伝説も福島には残ってるようです。
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 ちょっと悲劇的な感じがする崇峻天皇ですし、残すところ推古天皇だけになった古事記でもたった三行ぐらいしか記述されていませんが、その陵、円丘のようですが、水の流れる音が聞こえる周囲の様子や、陵自体のたたずまいから、私は好きな御陵です。
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 ただし、そこから自転車ですぐに行けたこの巨大な円丘の赤坂天王山古墳(アカサカテンノウザンコフン)が、江戸時代には崇峻天皇陵とされていて、築造年代もあってるようですし、有名な藤の木古墳も崇峻天皇陵であるとの説もあります。

    返事
コメント無く寂しい思いをしております、皆さまどうかよろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵

2018/6/6

伝山背大兄王墓の西宮古墳  天皇陵巡り番外
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 聖徳太子と蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に産まれた山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)、すなわち第31代用明天皇の孫にあたりますが、聖徳太子像としてよく紹介されているこの絵の向かって右の童子です。(この見慣れた聖徳太子像も、最近は別人の説もあります)
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 奈良県の北西部、生駒山系と矢田丘陵に挟まれるように、「ちはや振る神代もきかず竜田川・・・」の小倉百人一首でも有名な竜田川が流れる谷合に、平群町(ヘグリチョウ)があります。
町の案内看板には、平群の由来は、古代に都のあった奈良の桜井や飛鳥方面から見て、奈良盆地の北西の対角地域としての辺国(ヘグニ)がヘグリ(平群)になったと書いてありました。
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 平群には天皇陵巡りの長屋王墓などがあるので、今回は近鉄電車で平群まで行って、その辺を歩きました。
 平群中央公園にあるこの西宮古墳(ニシノミヤコフン)伝山背大兄王墓は、一辺36ⅿの方形墳で、7世紀中頃から後半の築造と考えられています。
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 石室は開いていて、その中にも入ることが出来るのです。
山背大兄王墓は、宮内庁によって斑鳩の法隆寺近くの富郷(トミサト)陵墓参考地(岡原古墳)が、そうであると定められていますが、そこは古墳時代中期の古墳のようなので、年代的にも間違いのようです。
そこにも行かなければならないのですが、わがままな私の都合でそこはやめて、年代的にも合致するこちら西宮古墳の方に足を運びました。
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 京都を山城の国と言いますが、これは山背(ヤマシロ)が山城になっただけで、元の意味は平城京から見て奈良山の後ろ(背)にある地域からその名が産まれています。
 聖徳太子一族が住んでいた奈良斑鳩から見たら、矢田丘陵の後ろ側にここ平群はありますので、平群の西宮古墳に葬られたから、逆に山背大兄王という名が付いたかもしれない。
そう思うと、西宮古墳の方が真陵の可能性がますます高くなるのではないでしょうか。
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 あまりこういう暗い狭い場所に入るのは苦手の方なのですが、石室の一番奥まで入って入口の方に向き直りました。
 くりぬき式の家形石棺の蓋はなくなっていますが、兵庫県産の竜山石(タツヤマイシ)(昔奈留高校の軟式野球部国体出場の応援に島から行った時に、寄った石の宝殿のあった辺りで採れる凝灰石)で出来てるそうで、なんかやけに綺麗で発泡スチロールで出来てるような感じさえしました。
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 石棺の縁に穿ってあった盃状穴(ハイジョウケツ)らしき窪みを見つけました。
私がよく読んてるブログ「晴徨雨読」で、ジョンノビさんが盃状穴のことを調べています。(これを書くのが分かってたように、じょんのびかあさんから前回コメントが入ったのには驚きです)
これを見つけたことで感激したこともあるし、次の天皇の有力候補であったのに、蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄王の墓の中にいるので、なんか霊気を感じたのか、怖くなってきて早々に石室から這い出てきました。

    返事
花水木さん:「ちりとてちん」出演の吉弥さん、
    上手なのと性格で、関西落語会では人気ものです。
     この苺パフェ、下はコ―ンフレークばかりなので、それほど美味しくはなかったです。
じょんのびかあさんさん:お元気ですか!
     またN君主催のミニ同窓会にも顔出してください、皆喜びますよ。
      丁度今回盃状穴なので、この写真じょんのびさんにメールで届いていましたか?
商家の嫁さんさん:これまたお久しぶりですね!
    ブログ「Blue〜」で隅に時々写ってるお姿は拝見?してますよ。
     小浜はかなり頻回に行くので、ぜひ美味しい店をメールなりこのコメントで教えて下さい。
タグ: 天皇陵巡り

2018/6/3

若狭へ2.  
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 前日予約で泊まったのは、小浜湾奥にあるうみんぴあ大飯のホテルうみんぴあ。
周囲には温泉や道の駅やエルガイアおおいなど、大飯原発の補助金?に依る豪華な箱ものがたくさん有ります。
昨年寄った時にはなかったDIYのナフコの店や食品スーパーまで出来ていました。
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 夕陽を見ながら、我々と同じぐらいの人ばかりの泊り客に混じって夕食、向こうに見えるのが若狭富士ですと、ボーイさんが説明してくれました。
 じゃらん夕食の良かったホテル部門で近畿第1位と書いてありましたので、まあまあの夕食ですが、第1位とまでは・・・・。
すぐ横に入りに行く温泉は綺麗で、眺めもよく良かったですが、夜早く終わるのと朝は入れないのが欠点です。
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 朝食前に海沿いを散歩、隣のこども家族館の前で、これまた朝の散歩をする地元一家にお会いしました。
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 立つ位置間違いました。
私はやっぱり、左のお爺さんの前に立つべきでした。
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 カバの親子にもバカにされてしまいました。
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 帰りは舞鶴を廻って帰りますが、舞鶴の五老ヶ岳公園にも寄りました。
ここから見る舞鶴のリアス式海岸は、朝のTVの「す・またん」(大阪地方ローカルの情報番組)のお天気カメラの映像が、これだと確認したかったからです。(先週のTVでも、ここだと言っていたので、先取りになりました)
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 50ⅿほどの五老スカイタワーにも昇り、もう少し上からの景色も確認、舞鶴湾なかなか綺麗ですよ。
近畿100景第1位選出らしいですが、これまた第1位とまでは・・・。
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 タワーの下にはスカイタワーの入場券(200円)で100円安くなる店があって、それにつられて本日15食限定のイチゴパッフェを食べてしまいました。
食べてる時に家内にメールが入り、ちょっとした用事が出来たため急遽帰ることになりました。
帰り道の京北町の道の駅で食べた鴨ステーキ丼(850円)、値段にしては美味しい。
で、若狭の旅は終わり。

     返事
花水木さん:さすが「ちりとてちん」は、
    息子さんが落語家になる前でも観ておられたのですね。


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