奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/9/12

38−2天智天皇皇后倭姫王  天皇陵巡り
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 そもそも蘇我家の血が入ってない第34代舒明天皇が天皇に成れたのは、蘇我蝦夷の妹法提郎媛と結婚していて、古人大兄皇子という第1皇子が二人の間にいたためのようです。
蘇我一族はこの古人大兄皇子を次の天皇に出来ると思ったので、舒明天皇を天皇にしたようです。
 滋賀県大津市北部の坂本にある、滋賀県を中心に多数の店舗を持つスーパー平和堂に車を停めて、積んでる自転車で、坂本の丘の上にある住宅地を目指しました。
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 しかしながら舒明天皇の皇后になったのは皇族の宝皇女で、二人の間には第2皇子として中大兄皇子(天智天皇)も産まれ、宝皇女自身も舒明天皇死後第35代皇極天皇になりました。
 そうしてる間に、乙巳の変で後見人である蘇我入鹿を目の前で殺された古人大兄皇子は、次の天皇になる道も閉ざされたと思い、出家してしまいました。
 木の岡丘陵のてっぺん近くに、やっと下坂本陵墓参考地(シモサカモトリョウボサンコウチ)の石柱を見つけました。
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 政権の中枢を牛耳った第2皇子の中大兄皇子は、出家してもやっぱり怖かったのか、謀反の疑いで、異母兄の第1皇子古人大兄皇子と一族を皆殺しにしますが、この時唯一幼い古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)は生かされました。
  そもそも倭姫王の墓ははっきりしません、宮内庁がこの陵墓参考地がそうだと言ってるだけで、木の岡古墳群の中の一番高い所にある丸山古墳、帆立貝式古墳がそれです。
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 そして何故か、倭姫王は自分の実家を滅ぼした叔父にあたる第38代天智天皇の皇后になりますが、子供は出来ていません。
 あまり整備されていない細い道を少し行って、やっと下坂本陵墓参考地の前に出てきましたが、あの有名な天智天皇の皇后の墓としては、ややみすぼらしかったです。
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 夫の天智天皇が娶った唯一の皇族出身者は、この倭姫王のみで、残る8人は皆臣下の娘であるのも不思議ですし、ここにも天智天皇と同母妹の間人皇女との禁断の恋が影を落としていた、と考えるのは思いすぎですかね。
 倭姫王との間に子がなかったのは、皇后であっても肉体関係はなく、倭姫王は巫女的な存在として皇后になり、それ故に天智天皇死後、次の第39代は弘文天皇ではなく、倭姫王が即位したという説が産まれてるのかもしれません。
  周囲には下坂本陵墓参考地の飛地として、宮内庁管理の円墳状の丘が何個かありました。
帰りは自転車で坂をかけ下り、平和堂での買い物が終わった家内と合流しました。

     返事
花水木さん:この頃数代の天皇陵は八角形の八角墳、
    中国思想の影響らしいです。
     権力は長く続くと絶対に腐敗します。
全共闘世代私の座右の銘;権力の座にある者、
             時として己の非を忘れ、
             相手のみ礼を求むるは、
             失政の因をなす!
        漫画’子連れ狼’からですが。
     次期天皇、つなぎなら愛子さまでいいですが、
    その次は男系で繋がるために、悠仁さんということに成るでしょうね
タグ: 天皇陵

2018/9/8

38−1天智天皇  天皇陵巡り
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 夫婦共に天皇になった舒明と皇極・斉明天皇の息子葛城皇子(カズラキノミコ)(中大兄皇子の名の方が有名)は、異母兄で乙巳の変後出家していた古人大兄皇子一家を謀反のかどで皆殺しにし、その時に唯一年端のいかなかった古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)だけ生かし、後に皇后としましたが、二人の間に子供は生れていません。
  写真は東海道沿いに建ってる天智天皇陵への石柱です。
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 その頃は皇女に適当な人がいなかったのか、中大兄皇子は倭姫王以外は臣下の娘とばかり結婚しています。
 蘇我入鹿を倒した乙巳の変(大化の改新)を起こす為、蘇我家の中に仲間を作る為もあってか、蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘(オチノイラツメ)との間に建王(タケルノミコ)(夭折)・大田皇女(オオタノヒメミコ)(後の天武妃)・鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)(後の天武皇后で持統天皇に)をもうけ、同じく蘇我倉山田石川麻呂のもう一人の娘姪娘(メイノイラツメ)との間には御名部皇女(ミナベノヒメミコ)と阿閉皇女(アヘノヒメミコ)(後の元明天皇)をもうけています。
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 中大兄皇子はこの3人以外にも、他に6人の女性に11人の子をもうけていますが、めんどくさくややこしいので後に繋がる重要な2人だけを紹介すると、後に第39代弘文天皇になった大友皇子の母宅子娘(ヤカコノイラツメ)と言う采女で伊賀の田舎娘と、最後なんとか今の天皇家に繋がった志(施)貴皇子(シキノミコ)(第39代光仁天皇の父)の母で女官の道君伊羅都売(ミチノキミイラツメ)です。
 計16人(娘12人)の中大兄皇子の子供のうち、4人が何故か一応叔父にあたる天武天皇に嫁いでいます。
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 小学生の時に、少年向きの天智天皇の冒険小説仕立てを読んでますので、中大兄皇子は藤原鎌足と蹴鞠を通じて知り合い、専横をほしいままにしていた蘇我入鹿を大化の改新で倒して、その後は庚午年籍(コウゴネンジャク)(670年)を作成したり、唐と戦ったりした後近江宮を開き、日本の発展に尽くしたと信じていました。
しかし、意外と政敵をだまし討ちしたり、醜い面も見せた人物だったようですね。
   写真の山科陵の参道は、立派でかなり長いです。
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 参道の最後には門まで見えてきました。
夜には閉まるようです。
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 父第34代舒明天皇が亡くなった時は、中大兄皇子はまだ16歳でしたので、母が第35代皇極天皇となり、乙巳の変の時は20才で、叔父が第36代孝徳天皇に成りました。
その次はもう他に有力候補もいなかったので、中大兄皇子で当然だったようですが、何故か母がもう一度天皇になってしまい第37代斉明天皇です。
 皆で九州に遠征中に、その斉明天皇が亡くなったのにもかかわらず、すぐには天皇に成らず、称制と称して7年間を過ごした後、やっと近江宮(滋賀県大津市)で即位し第38代天智天皇(テンジ)(626〜671)(在位668〜671)と成りました。
  写真は知名度で言うとトップクラスの天皇にふさわしい拝所の手前、実際に水が出ている手水鉢もありました。
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 天智天皇は30年近く政治の中枢にいたのですが、実際天皇の名で働いたのは3年間程です。
その間に忠臣の鎌足にも死なれ、やっぱり最後は息子を天皇にしようとしたのか、やや弱気を見せつつ亡くなり、この山科陵(ヤマシナノミササギ)(京都市山科区)に葬られました。
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 奈良でもなく、近江宮からも少し離れたこの京都山科に何故天智天皇陵は有るのか(山科の山の中で命を落としたという説有り)不明ですが、この八角墳である御廟山古墳(ゴビョウヤマコフン)に天智天皇が葬られてることはまず間違いないようです。
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 京都の町中にあった私の小学校は山科に校外学舎を持っていて、ここにはよく遠足で行くため、天智天皇陵の横はよく通っていました。
小さい時からよく知っていた天智天皇陵には、大きな石の日時計があったはずなのですが、今回京都市営地下鉄東西線の御陵駅(ミササギエキ)から歩いて5分ほどの山科陵に行ったのですが、どこにも日時計を見つけられませんでした?。

      返事
花水木さん:20世紀は戦争の世紀、
    21世紀は天災の世紀と言うそうですが、
    もう死ぬ世代の私でも、なんか不安ですね。
     結局東海大地震だけが起こらなかった、
    になれば良いのですが。
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2018/9/4

37-1斉明天皇  天皇陵巡り
  風が強い台風が過ぎ去りましたが、仕事もなんとか行って帰れましたし、家も大丈夫です。
 2Kmぐらいしか離れてない息子の家は昼からずっと停電らしいですが。

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 弟の第36代孝徳天皇が、皇太子の中大兄皇子などの仲間に離反されて寂しく亡くなった時、有馬皇子という孝徳天皇の息子は対立候補としていましたが、もう年齢的にも30歳になり、誰が考えても次の天皇は中大兄皇子(天智天皇)だと思う状況でした。
しかしながら、噂の?道ならぬ同母兄妹恋を世間が許さなかったかどうかは別にして、次の天皇はあっと驚く、以前譲位した天皇がもう一度天皇位に返り咲くという重祚(チョウソ)と言う手を使って、前第35代皇極天皇が第37代斉明天皇(サイメイ)(在位655〜661)として飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位しました。
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 2回目の天皇時代、斉明天皇は石造りの大規模造営を好んだようで、運河を掘ったり、大きな石を運んだりして、写真の飛鳥の酒船石遺跡(サカフネイシイセキ)も作っています。
 有馬皇子にこのような事業を批判するように仕向けた蘇我赤兄(ソガノアカエ)でしたが、彼の裏切りに依って、孝徳天皇の息子悲劇の有馬皇子(アリマノミコ)の謀反は失敗に終わり、殺されました。  
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 660年百済が滅亡すると、わずかに残った臣下が日本に救援を求めてきたので、661年斉明天皇(その時61歳?68歳?)自らが指揮をとり、子や孫の中大兄皇子・大海人皇子・大田皇女・鸕野讃良皇女などと共に九州へ進軍しました。(女性も含めて一家中で進軍したのは、飛鳥に残ってるのも危険だったのでしょうか?)
 しかし斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)(福岡県朝倉市)で崩御してしまったので、全軍は引き上げ、斉明天皇は越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)(奈良県高取町)に、同母兄妹恋で苦しんだ?娘の間人皇女と、禁断の恋で産まれたのかもしれない?最愛の孫の建王と共に葬られました。(前回36−2間人皇女参照)
 重祚してるので、陵印はてっきり皇極天皇・斉明天皇と彫ってあると思っていましたが、よく見ると斉明天皇・孝徳天皇皇后(間人皇女)でした。
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 この御陵には途中大田皇女の墓もあって、石段200段以上登ってたどり着きました。
御陵は車木ケンノウ古墳と言う円墳ですが、1周ぐるっと石柵で囲まれていて、1周回れるはずですが、このビニールシートに阻まれてしまいました。
土木工事の好きな女帝の陵なので、早く治してあげて下さい。

    返事
花水木さん:私の若い時は、
    世間でのイギリスの地位はもっと高かったように思いますが。
     久本さんの福江島は観ました。
    五島の海や湧水とか、行ったところばかりなので、
    私は本当に懐かしかったですよ。
    日村さんの夕方の食番組も観ました。
    奈留からも良く食べに行った望月のステーキも懐かしかったですが、
    私はあんなに高いのを食べず、もっと安いのを食べていましたが。
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2018/7/28

36−2孝徳天皇皇后間人皇女  天皇陵巡り
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 父第34代舒明天皇、母第35代・37代皇極・斉明天皇の間に生まれ、同母兄弟に第38代天智天皇と第40代天武天皇を持つ、貴人中の貴人間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(?〜665)は、母の同母弟の計算上は30歳以上も年の違う第36代孝徳天皇の皇后になりましたが、子供は産んでいません。
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 古代異母兄弟姉妹の結婚はたくさん有りましたし、親族で固めるためにも良かったのかもしれませんが、同母兄弟姉妹の恋は絶対に許されないようです。
以前第19代允恭天皇の息子木梨軽皇子(キナシカルノミコ)は同母妹と道ならぬ恋に落ちて、流罪(死刑とも)になっています。
 間人皇女と同母兄中大兄皇子(後の天智天皇)は、どうも同母兄妹恋をしてしまったみたいで(証拠はない話のようですが)、年の離れた叔父の孝徳天皇に嫁いだ間人皇女には子供は生れませんでした。
同母兄の中大兄皇子が皇太子として夫の孝徳天皇と対立した時は、同母妹の間人皇女と難波長柄豊崎宮を一緒に去っています。
又、中大兄皇子は何度も天皇に成れる機会がありましたが、成らなかったり成れなかったのは、この同母兄妹の道ならぬ恋が原因だったのかもしれませんし、間人皇女の死後やっと周りも納得して即位できたと推測してるのですが、単なる下ネタ好きの私の邪推ですかね。
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 間人皇女は母親の皇極・斉明天皇陵である越智崗上陵(オチノオカノウエノミササギ)に、孝徳天皇皇后間人皇女として合葬されています。
この陵には斉明天皇が愛したと言われてる孫、中大兄皇子の息子建王(タケルノミコ)も一緒に葬られ、建王墓の名も制札には書いてありました。
 祖母である皇極・斉明天皇が息子中大兄皇子と遠智娘(オチノイラツメ)との間の子建王(持統天皇とも姉弟になる)を、近くで愛せるほどかわいがることがその当時可能でしょうか。
実の娘の間人皇女の子供なら、近くで愛することも可能なのではないでしょうか。
この話すことも出来なかった8歳で夭折した建王は、自分の実の息子と娘の子、許されない中大兄皇子(天智天皇)と間人皇女の間の不幸な生まれの孫ということで、祖母の皇極・斉明天皇はよけいに可愛くて、この幸が少ない3人で一緒に墓に入ることを望んだのではないか・・・・。

   返事
花水木さん:私は昔から芸能界相関図とか好きでした。
     金平糖のたとえはおもしろい。
    歳を取ると人間丸くなるというのは、確かに嘘と思いますが、
    女の人の方が、金平糖になりやすい気はします。
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2018/7/25

36−1孝徳天皇  天皇陵巡り
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 軽皇子(カルノミコ)は第35代皇極天皇の同母弟なので、父は茅渟王で母は吉備姫王です。
王位とは無縁の三世王でしたが、姉の宝皇女が第34代舒明天皇の皇后になり、その後は第35代皇極天皇ともなったので、一世王に準じた地位に自動的に上がりました。
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 写真の板蓋宮で実行された乙巳の変(大化の改新)の主導者は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったという説もありますが、その変後、姉の皇極天皇が初の譲位をし、次の天皇に成るのを中大兄皇子は辞退し、古人大兄皇子は出家してしまったので、軽皇子が第36代孝徳天皇(コウトク)(596〜654)(在位645〜654)として即位しました。
 唐の属国ではないという証のためか、初めて元号をもうけ大化としました。
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 姉の皇極天皇の娘で中大兄皇子とは同母兄妹である若い間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を皇后としましたが、二人の間には子供はなく、左大臣の阿部内麻呂(アベノウチマロ)の娘小足媛(オタラシヒメ)を妃として、悲劇の主人公と言われてる有間皇子(アリマノミコ)をもうけていますし、右大臣になった乙巳の変の功労者蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダイシカワノマロ)の娘乳娘(チチノイラツメ)も妃としています。
 二上山山麓、竹内街道に沿ってある孝徳天皇陵には、車を道の駅に置いて、そこから自転車で太子町の他の御陵と一緒に廻りました。
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 中臣鎌子(ナカトミノカマコ)(藤原鎌足のことです)を内臣(ウチツオミ)にし、徐々に政権は中大兄皇子に集中していき、出家していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼし、蘇我山田石川麻呂も間違った情報で殺してしまった中大兄皇子の独裁が目立ってきました。
 石段を登った先の孝徳天皇陵拝所は、正面には廻れない配置になっていました。
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 外交政策でも中大兄皇子と対立し、自分の若い皇后間人皇女と同母兄妹の中大兄皇子との許されぬ恋もあったようですが、孝徳天皇の周りの皆が離反していき、難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)(大阪市北区)で一人寂しく亡くなり、ここ大阪磯長陵(オオサカシナガノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 この古墳は円墳の山田上ノ山古墳(ヤマダカミノヤマコフン)です。

      返事
花水木さん:元気ではないですよ。
    さすがに今年の夏は暑いですね!
    外では水分補給あまりしない私ですが、ポカリを買い仕事中飲みました。
    夜中クーラーをつけっぱなし(29度設定)で寝るなんてのも、人生初めての経験です。
     70才になったせいか、今年の夏は心も体もやられそうです!
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2018/7/20

35−1皇極天皇  天皇陵巡り
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 前回でも報告した第34代舒明天皇の父34−2押坂彦人大兄皇子のもう一人の息子茅渟王(チヌノオウキミ)が、少しだけ蘇我家の血が入った29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)と結婚して産まれたのが宝皇女(タカラノヒメミコ)(594?〜661)です。
宝皇女は高向王(タカムコノオウキミ)と結婚して漢皇子(アヤノミコ)という息子をもうけていましたが、何故か別れて?、おじにあたる舒明天皇の皇后になり、葛城皇子(カズラキノミコ)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)・大海人皇子(オオアマノミコ)を産みました。
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 夫である第34代舒明天皇が亡くなった時、その次の天皇は、夫の舒明と法堤郎女(ホホテノイラツメ)との子で蘇我蝦夷の甥になる古人大兄皇子か、舒明と自分との間の16歳と少し若いですが葛城皇子(中大兄皇子と書いた方がよく分かりますね)か、まだあきらめきれない山背大兄王か、と混乱しました。
「ややこしい時は女帝にしよう」ではないですが、皇后であった宝皇女が次の天皇ということで、第35代皇極天皇(コウギョク)となりました(在位642〜645)、50歳近くで即位した女性天皇です。
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 高校3年生の春に同級生と見学に行った思い出の飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)跡の写真です(私にとっては好きな娘が参加するから行っただけなのですが)。
 この地で即位した女帝でしたが、雨乞いの祈とうに成功するなど、次第に地位を確保はしていきました。
在位中の643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を討って聖徳太子一族を滅ぼしましたが、なんと言っても大化の改新虫五匹と記臆した(なんで645年の憶え方が虫五匹か知りませんが)、今で言う乙巳の変(イッシノヘン)が起こりました。
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 息子の中大兄皇子が中心になって藤原鎌足達と板蓋宮で蘇我入鹿を殺したと教えられてきた大化の改新(乙巳の変)、今は皇極天皇やその弟後の孝徳天皇の方がこのクーデターにより深く関与していたとの説があります。
まさかと思いますが、皇極天皇が入鹿の愛人説や、前夫高向王との子漢皇子が後の天武天皇ではないかとの説もあるようです。
 乙巳の変後、生前に天皇を辞める譲位をした日本で初の天皇になりました。
 陵印は後の斉明天皇とだけ彫ってあり、皇極天皇とは彫ってありませんでした。
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2018/7/14

34−2押坂彦人大兄皇子  天皇陵巡り
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 1年間の全国靴下生産量6億足のうち約4割を生産する町、又竹取物語の舞台にもなってるそうで、可愛いのか美人なのか怖いのか、ちょっと迷ってしまうような大きなかぐや姫もそびえていた奈良県広陵町には、古墳もたくさん集まっています。
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 押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトノオオエノミコ)の墓は、一応宮内庁はここ広陵町にある新木山古墳(ニキヤマコフン)を三吉陵墓参考地(ミヨシ)として、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父の墓としています。
 しかし、新木山古墳は5世紀前半の築造なので、先ず当てはまらないようです。
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 ここまでの歴代天皇のうち父親が天皇ではない天皇は、当然の初代神武天皇は別として、日本武尊が父の第14代仲哀天皇、市辺押磐皇子が父の第24代仁賢天皇・第25代顕宗天皇、そして天皇まで5代遡らねばならない第26代継体天皇の4人だけでした。
前回の第34代舒明天皇は、5人目の父が天皇でない天皇です。
 写真の新木山古墳の入り口は、周濠が埋まって葦の森になってる向こうにありました。
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 第34代舒明天皇の父親は、第30代敏達天皇と息長真手王(オキナガマデノミコ)の娘30−2廣姫(滋賀県まで陵を探しに行って報告してます)との間に産まれた今回の押坂彦人大兄皇子です。
敏達天皇の第1皇子だったので、次の天皇候補ではあったのですが、母親の廣姫が早くに亡くなり、後妻に入ったのが蘇我家からの後の推古天皇だったので、結局天皇には成れませんでした。
  写真は新木山古墳の後円部を、石葺きに整えられた三吉石塚古墳(ミヨシイシヅカコフン)から眺めています。
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 押坂彦人大兄皇子は父敏達と推古の間に産まれた娘、すなわち異母妹2人を妃にしていますし、敏達と菟名子との間の娘糠手姫皇女も妃として(すなわち計3人の異母妹を妃に)、その間に産まれたのが田村皇子(舒明)です。
 また、漢王の妹大俣(オオマタノミコ)(女です)も妃として、茅渟王(チヌノオオキミ)を授かり、茅渟王が第29代欽明天皇の孫29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)(猿石があった墓で、祖母が堅塩媛なので少し蘇我の血が入ってる)と結婚して、後の皇極・斉明天皇と孝徳天皇を産んでいます。
 押坂彦人大兄皇子の本当の墓は、新木山古墳から15分ほど歩いた牧野古墳(バクヤコフン)であろうと言われています。
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 したがって少しややこしいですが、蘇我氏によって天皇になれなかった押坂彦人大兄皇子ですが、その子1人(舒明)と孫2人(皇極・斉明と孝徳)が天皇になりましたし、更にその子供と孫が(舒明と皇極)結婚して、孫のようなひ孫のような天智天皇と天武天皇をも生みだしたことになりました。
 写真は牧野古墳の横穴式石室が開口してる部分ですが、柵があって中までは入れません。
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 この牧野古墳は直径約55ⅿの円墳で、成相墓(ナライノハカ)と呼ばれて、昔から押坂彦人大兄皇子の墓だと言われていたようです。
 柵の間から覗いてみてもよく分かりませんが、写真に撮ると約10ⅿの羨道の向こうに玄室の石棺の一部が見えました。
石棺は2基あったようで、もう一人の埋葬者は誰なのか、糠手姫皇女は息子の舒明天皇と一緒に入っていましたので、他の妃か誰でしょうか。
写真をよく見てみると、棺に卒塔婆が立てかけられていて、柵がなかっても私は一人では入れなかったかもしれません。
じっと柵外から観てただけで、背中がぞくっとしてくる怖がりです。

    返事
花水木さん:いつの世も、大でも小でも、
    跡目争いは他人事なら面白いですね。
     そろそろ神話から歴史上の人物になってくるので、
    面白くしていきます。(予定です)
     ボケず体力が残ってる間に、
    自転車日本一周で毎日ブログ更新するのが夢なのですが、無理かな?
元商家の嫁さんさん1:宝くじでも当たったのですか!
    旦那のブログ相変わらずリッチですが。
元商家の嫁さんさん2:すし富・すし良、憶えておきます。
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2018/7/10

34−1舒明天皇  天皇陵巡り
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 第33代推古天皇は皇太子であった聖徳太子に先立たれ、次の皇太子に誰も立てませんでしたので、推古天皇没後次の天皇争いは混乱しました。
 勢力を伸ばしていた蘇我一族にとっては、蘇我家の血が濃い聖徳太子の息子山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)の方が、蘇我家の血が全く入ってない第30代敏達天皇の孫田村皇子(タムラノミコ)より良かったと思います。
しかし、蘇我一族内での主導権争いや、蘇我馬子の娘 法堤郎媛(ホテイノイラツメ)と田村皇子との間に古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)が産まれていたこともあって、蘇我蝦夷(エミシ)は田村皇子を推したようです。
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 第30代敏達天皇が30−2廣姫に産ました押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)と、同じく菟名子(ウナコ)に産ました糠手姫皇女(アラテヒメノヒメミコ)の、異母兄妹の結婚に依って産まれた田村皇子は、飛鳥岡本宮(アスカオカモトノミヤ)に即位し第34代舒明天皇(ジョメイ)(593〜641)(在位629〜641)になりました。
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 前述したように、舒明天皇は法堤郎女との間に古人大兄皇子をもうけていましたが、皇后になったのは宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)で、その間には葛城皇子(カズラキノミコ)(後の天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(後の孝徳天皇皇后)・大海皇子(オオアマノミコ)(後の天武天皇)のそうそうたる二男一女ができました。
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 こうして王統は蘇我家から離れて(宝皇女は女系ですが少し蘇我の血が入っていますが)、敏達・舒明系に収斂され、このまま現在の天皇家に繋がっていきます。
 舒明天皇の時代、歴史的には630年遣隋使の経験もある犬上御田鍬(イヌガミノミタスキ)をして第1回遣唐使が始まりました。
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 49歳で亡くなった舒明天皇の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)(奈良県桜井市)には、近鉄桜井駅から奈良らしい道を走って自転車で行きましたが、この陵には息子舒明よりはるかに長生きした母の糠手姫皇女も合葬されてるので、制札には敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女押坂墓(オサカノハカ)とも書いてありました。
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 正式名段ノ塚古墳(ダンノツカコフン)はわが国初と思われる八角墳であり、その後の天皇陵には八角墳が見られるようになりました。
 横の道を少し上ると、第29代欽明天皇の娘で29−3で紹介した大伴皇女の墓や、万葉歌人の鏡女王の墓もありました。
   いいとこです!

       返事
花水木さん:花水木さんはもうちょっと頑張って下さいよ、
    孫の世話は体力入りますし、
    私への追悼コメントも入れなければなりませんよ。
元商家の嫁さんさん:オリンピックとサッカーはあまり興味湧きませんが、
    ラグビーは楽しみにしています。
     小浜は昼しか行かないので、病院前の寿司屋の地元評はどうですか?
    美山の新座さんは覚えておきます。
     それはそうと、今気づきましたが、
    元が付いてる!なんで元が付いてるんですか?
タグ: 天皇陵

2018/6/13

33-1推古天皇  天皇陵巡り
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 これまで福永武彦訳 現代語訳古事記(河出文庫)に頼って書いていた天皇陵巡り、古事記はこの推古天皇で終わりです。
 古事記の推古天皇の記述は、最後にしてはあっけなく、詳しくはもうじき出る日本書紀の方を読んでくれと言わんばかりに投げやりで、トヨミケカシキヤヒメノミコトは小治田宮(オワリダノミヤ)(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治め、科長(シナガ)の大陵(オオミササギ)(大阪府太子町)に葬られた、と書いてあるだけでした。
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)【豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)の方がなじみがあります】は、異母兄の第30代敏達天皇の皇后30−2廣姫(ヒロヒメ)の薨去後敏達の後妻として先ずは皇后になりました。
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 敏達天皇との間には、若死にしなければ天皇になった竹田皇子や、聖徳太子の妻になった菟道貝蛸皇女など2男5女をもうけ、母の堅塩媛と同じく多産で丈夫で長生きしました。
554〜628年(在位592〜628) 75歳で亡くなり、一番愛した息子の竹田皇子と共にこの磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)に合葬されました。
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 第32代崇峻天皇が暗殺された後に、群臣の要請(馬子の要請ですが)を受けて豊浦宮(トユラノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し、初の女帝第33代推古天皇(スイコ)になりました。
 自分の夫第30代敏達天皇は異母兄ですし、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟になりますので、推古天皇の父第29代欽明天皇の子供は4人も天皇になったことになります。
複数の我が子を天皇にした天皇は何人もいますが、欽明天皇のように4人の子を天皇にしたのは、この1000年後の第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)だけです。
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 推古天皇は皇太子に甥の聖徳太子をたて、603年冠位十二階・604年十七条憲法の制定や、607年小野妹子の遣隋使派遣や朝鮮半島の動乱に兵を送ったりして、長きにわたり天皇の位についてる間に、聖徳太子も蘇我馬子も死んでしまいました。
 推古天皇陵は、この写真のような、こんもりした高い堂々とした丘になっていました。
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 坂道になってる陵道から西の方、大阪方面を眺めると、花火でも有名なPL教団の塔が見えました。

    返事
花水木さん:私のブログにコメントがなく、
    他の人のブログに花水木さんのコメントを見つけると、
    思わず嫉妬してしまいます。
     ほんまにお忙しいようですが、忘れずにどうかよろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵

2018/6/10

32-1崇峻天皇  天皇陵巡り
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君との間に産まれた泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)は、欽明天皇の12番目の子供です。
その異母兄第31代用明天皇が早くに亡くなると、同母兄穴穂部皇子(アナホベノミコ)が物部守屋と謀って皇位を狙いましたが、蘇我馬子と豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)は穴穂部皇子を殺し、その勢いで物部氏も滅ぼしてしまいました。
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 こうして蘇我・物部の積年の対立にも終止符が打たれ、泊瀬部皇子が倉梯柴垣宮(クラハシノシバガキノミヤ)に即位し第32代崇峻天皇(スシュン)になりました。
 近鉄桜井駅で自転車をひらき、押坂の舒明天皇陵に寄ってからここに到りました。
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 崇峻天皇は大伴糠手(オオトモノムラジヌカテ)の娘小手子(コテコ)を妻として蜂子皇子(ハチノコノミコ)と錦代皇女(ニシキテノヒメミコ)をもうけ、また蘇我馬子の娘河上娘(カワカミノイラツメ)や物部守屋の妹も妻に迎えています。
 崇峻天皇陵の道標から坂を少し下ると、崇峻天皇陵の倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)が見えてきました。
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 蘇我馬子の後押しで、それほど皇位継承順位が高くない崇峻が天皇になったのですが、即位してからは二人の仲は離れて行き、猪を貰った崇峻天皇が思わず「この猪のように首をはねたい人がいる」というようなことをつぶやいたため、これを聞きつけた馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って崇峻天皇を殺してしまいました。
 天皇暗殺という一大事件は、正史である日本書紀にもはっきり書かれているのに、その後のことはうやむやになったぐらい、当時の蘇我馬子の力は強かったということでしょうか。
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 その後の話として、下手人の東漢直駒は崇峻天皇の妃馬子の娘河上娘を奪って妻にしたため馬子に殺され、なんかケネデイ暗殺後の話に似ています。
 また息子の蜂子皇子は聖徳太子に依って東北に逃がされ、羽黒三山の開祖になりました。(宮内庁治定の墓もあり)
その息子を追って錦代皇女と共に東北に向かった小手子は、途中娘の錦代皇女を亡くし、福島にとどまって当地で養蚕の技術を広めた後、入水自殺をしたという、小手姫伝説も福島には残ってるようです。
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 ちょっと悲劇的な感じがする崇峻天皇ですし、残すところ推古天皇だけになった古事記でもたった三行ぐらいしか記述されていませんが、その陵、円丘のようですが、水の流れる音が聞こえる周囲の様子や、陵自体のたたずまいから、私は好きな御陵です。
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 ただし、そこから自転車ですぐに行けたこの巨大な円丘の赤坂天王山古墳(アカサカテンノウザンコフン)が、江戸時代には崇峻天皇陵とされていて、築造年代もあってるようですし、有名な藤の木古墳も崇峻天皇陵であるとの説もあります。

    返事
コメント無く寂しい思いをしております、皆さまどうかよろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵


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