奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/6/13

33-1推古天皇  天皇陵巡り
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 これまで福永武彦訳 現代語訳古事記(河出文庫)に頼って書いていた天皇陵巡り、古事記はこの推古天皇で終わりです。
 古事記の推古天皇の記述は、最後にしてはあっけなく、詳しくはもうじき出る日本書紀の方を読んでくれと言わんばかりに投げやりで、トヨミケカシキヤヒメノミコトは小治田宮(オワリダノミヤ)(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治め、科長(シナガ)の大陵(オオミササギ)(大阪府太子町)に葬られた、と書いてあるだけでした。
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)【豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)の方がなじみがあります】は、異母兄の第30代敏達天皇の皇后30−2廣姫(ヒロヒメ)の薨去後敏達の後妻として先ずは皇后になりました。
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 敏達天皇との間には、若死にしなければ天皇になった竹田皇子や、聖徳太子の妻になった菟道貝蛸皇女など2男5女をもうけ、母の堅塩媛と同じく多産で丈夫で長生きしました。
554〜628年(在位592〜628) 75歳で亡くなり、一番愛した息子の竹田皇子と共にこの磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)に合葬されました。
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 第32代崇峻天皇が暗殺された後に、群臣の要請(馬子の要請ですが)を受けて豊浦宮(トユラノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し、初の女帝第33代推古天皇(スイコ)になりました。
 自分の夫第30代敏達天皇は異母兄ですし、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟になりますので、推古天皇の父第29代欽明天皇の子供は4人も天皇になったことになります。
複数の我が子を天皇にした天皇は何人もいますが、欽明天皇のように4人の子を天皇にしたのは、この1000年後の第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)だけです。
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 推古天皇は皇太子に甥の聖徳太子をたて、603年冠位十二階・604年十七条憲法の制定や、607年小野妹子の遣隋使派遣や朝鮮半島の動乱に兵を送ったりして、長きにわたり天皇の位についてる間に、聖徳太子も蘇我馬子も死んでしまいました。
 推古天皇陵は、この写真のような、こんもりした高い堂々とした丘になっていました。
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 坂道になってる陵道から西の方、大阪方面を眺めると、花火でも有名なPL教団の塔が見えました。

    返事
花水木さん:私のブログにコメントがなく、
    他の人のブログに花水木さんのコメントを見つけると、
    思わず嫉妬してしまいます。
     ほんまにお忙しいようですが、忘れずにどうかよろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵

2018/6/10

32-1崇峻天皇  天皇陵巡り
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君との間に産まれた泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)は、欽明天皇の12番目の子供です。
その異母兄第31代用明天皇が早くに亡くなると、同母兄穴穂部皇子(アナホベノミコ)が物部守屋と謀って皇位を狙いましたが、蘇我馬子と豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)は穴穂部皇子を殺し、その勢いで物部氏も滅ぼしてしまいました。
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 こうして蘇我・物部の積年の対立にも終止符が打たれ、泊瀬部皇子が倉梯柴垣宮(クラハシノシバガキノミヤ)に即位し第32代崇峻天皇(スシュン)になりました。
 近鉄桜井駅で自転車をひらき、押坂の舒明天皇陵に寄ってからここに到りました。
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 崇峻天皇は大伴糠手(オオトモノムラジヌカテ)の娘小手子(コテコ)を妻として蜂子皇子(ハチノコノミコ)と錦代皇女(ニシキテノヒメミコ)をもうけ、また蘇我馬子の娘河上娘(カワカミノイラツメ)や物部守屋の妹も妻に迎えています。
 崇峻天皇陵の道標から坂を少し下ると、崇峻天皇陵の倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)が見えてきました。
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 蘇我馬子の後押しで、それほど皇位継承順位が高くない崇峻が天皇になったのですが、即位してからは二人の仲は離れて行き、猪を貰った崇峻天皇が思わず「この猪のように首をはねたい人がいる」というようなことをつぶやいたため、これを聞きつけた馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って崇峻天皇を殺してしまいました。
 天皇暗殺という一大事件は、正史である日本書紀にもはっきり書かれているのに、その後のことはうやむやになったぐらい、当時の蘇我馬子の力は強かったということでしょうか。
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 その後の話として、下手人の東漢直駒は崇峻天皇の妃馬子の娘河上娘を奪って妻にしたため馬子に殺され、なんかケネデイ暗殺後の話に似ています。
 また息子の蜂子皇子は聖徳太子に依って東北に逃がされ、羽黒三山の開祖になりました。(宮内庁治定の墓もあり)
その息子を追って錦代皇女と共に東北に向かった小手子は、途中娘の錦代皇女を亡くし、福島にとどまって当地で養蚕の技術を広めた後、入水自殺をしたという、小手姫伝説も福島には残ってるようです。
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 ちょっと悲劇的な感じがする崇峻天皇ですし、残すところ推古天皇だけになった古事記でもたった三行ぐらいしか記述されていませんが、その陵、円丘のようですが、水の流れる音が聞こえる周囲の様子や、陵自体のたたずまいから、私は好きな御陵です。
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 ただし、そこから自転車ですぐに行けたこの巨大な円丘の赤坂天王山古墳(アカサカテンノウザンコフン)が、江戸時代には崇峻天皇陵とされていて、築造年代もあってるようですし、有名な藤の木古墳も崇峻天皇陵であるとの説もあります。

    返事
コメント無く寂しい思いをしております、皆さまどうかよろしくお願いいたします。
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2018/5/19

31-3用明天皇皇后穴穂部間人皇女  天皇陵巡り
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 前回書いたように、聖徳太子が祀られている磯長墓は、聖徳太子本人と太子の母である穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)と太子の妃膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)が埋葬され三骨一廟と呼ばれていますが、宮内庁の制札には太子の名前しかありません。
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘 小姉君(オアネノキミ)との間に産まれた6人の子供の一人穴穂部間人皇女は、同母弟に叔父の馬子に殺された第32代崇峻天皇がいます。
また、第30代敏達天皇が亡くなった時殯宮(ヒンキュウ)に押し入って、その皇后である異母妹の炊屋姫(カシキヤヒメ)を犯すことによって次の天皇を狙ったが失敗し、叔父の蘇我馬子に後日殺された穴穂部(間人)皇子(アナホベノミコ)も同母弟ですし、この時一緒に殺された宅部皇子(ヤカベノミコ)も弟とも言われています。
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 穴穂部間人皇女は異母兄の第31代用明天皇の皇后になって、聖徳太子他4人の息子を産んでますが、夫の用明天皇が亡くなった後は、夫用明の先妻であり自分の伯母でもある蘇我石木名(イシキナ)の息子、すなわち亡き夫の先妻の子(第1皇子です)田目皇子(タメノミコ)と結婚し佐富女王(サトミノヒメミコ)を産んでいます。
もっとややこしいことに、我子の聖徳太子と膳部菩岐々美郎女との子である長谷王(ハツセノオオキミ)(孫になります)が、自分の再婚して出来た娘佐富女王と結婚してるので、もうわけが判りません。
 故に、制札には単に推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いていないこの廟には、用明天皇皇后穴穂部間人皇女磯長陵とも書かなくてはいけないはずです。
穴穂部間人皇女から見たら、自分の子(聖徳太子)と、その嫁でもあり自分の子(佐富女王)の姑でもある人(膳部菩岐々美郎女)と一緒の墓に入っているので、3人ともなかなか安らかには眠れてはいない気もします。
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 京都府の北、丹後半島に間人(タイザ)という村があって(今はブランド蟹で有名)、京都の人は海水浴に泊りがけで行くところです。
ここに一度この穴穂部間人皇女は逃れていて、再び宮に戻る時に、自分の名間人(ハシヒト)を世話になったこの地に贈ったそうですが、村人たちはそれは畏れ多いと、皇后が退座(タイザ)したということで、間人をタイザと読むことにしたと言う伝説があります。

    返事
花水木さん:ブログ上の私は、
    読者が作り上げた架空の人物にならないように、
    なるべく失敗を書くようにしていきます。
     (何を言いたいのか判らない返事になってしまいました)
タグ: 天皇陵

2018/5/13

31⁻2用明天皇皇子聖徳太子  天皇陵巡り
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 私の天皇陵巡りで一番有名と思われる、誰もが知ってる聖徳太子の順番まで来ました。
聖徳太子は皇太子止まりで天皇にもなっていず、その子供も滅ぼされた為に、今の天皇家とは繋がっていません。
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 父第31代用明天皇とその異母妹(異母妹と言っても母同士は姉妹ですのでかなり血の濃い)穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)との間に産まれた4人の子の一人、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)が聖徳太子その人です。
 キリスト伝説と同じく、厩の前で産まれたのでその名があると言われていますし、10人の話をちゃんと聞き分けたということで 豊聡耳(トヨトミミ)の別名もあります。
血が濃いことが良い方に出た天才という例でしょうね。
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 第30代敏達天皇と第33代推古天皇との間に産まれた菟道貝蛸皇女(ウジノカイタコノヒメミコ)を娶りましたが、二人の間には子供はなく、蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)他4人を、膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)との間に8人の子供を、また菟道貝蛸皇女の弟である尾張皇子の娘橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)との間には2人の子供をもうけました。
 48歳で亡くなって、叡福寺北古墳(エイフクジキタコフン)と言うこの磯長墓(シナガノハカ)(大阪府太子町)に葬られました。
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 この磯長墓は叡福寺と言うお寺の中にあって、拝所には賽銭箱もありますし、線香を立てるつぼもあったり、門には菊の御紋も付いていますし、石室入り口であるこの正面には御霊屋(オタマヤ)と言われる覆屋まで建っています。
又、制札には、推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いてありませんが、母であり第31代用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女と、妃であって本人の1日前に死んだ膳部菩岐々美郎女との3人で入ってる三骨一廟の可能性が高いと推定されています。
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 直径54ⅿ高さ7.2ⅿの円墳であるこの磯長墓の周りには、2重にずっと結界石と言う梵字(ボンジ)が刻まれた石柱が並べられています。
その内側の石柱は空海の寄進と伝えられてるそうです。
 ある先生の説によると、蘇我氏系の墓は方墳で、反蘇我氏系の墓は円墳と言われてますが、どう考えても蘇我氏系の聖徳太子の墓が円墳と言うのはこの説に合わず、これがこの説の欠点だそうです。
でも、山背大兄王など聖徳太子の次の世代は、その蘇我氏に滅ぼされているので、この磯長墓の形はこのことを暗示してるのかもしれません。
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 父第31代用明天皇が薨去した時はまだ14歳で若すぎましたし、蘇我馬子と共に物部氏を滅ぼし、第32代崇峻天皇が暗殺された時も20才で、叔母の第33代推古天皇(592年即位)の下で皇太子として摂政をしたのみです。
594年;仏教(三宝)興隆の詔(ミコトノリ)
603年;人材登用をはかる冠位十二階を定める
604年;有名な17条憲法制定
  太子町のマンホールの蓋にも「和を以って貴し・・・」
607年;小野妹子などを遣隋使に
 などなど、歴史で学んだり、お札でありがたがったりした聖徳太子ですが、最近はその実在さえ否定する説もあるようです。

    返事
花水木さん:真陵;本当に名前の本人が眠ってる御陵と理解してますが、
    違うかも?
タグ: 天皇陵

2018/5/9

31-1用明天皇  天皇陵巡り
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 古事記の記載最後の天皇まであと3人となってきて、この第31代用明天皇も、古事記では宮と妻子と陵を記述してるだけでした。
 でも、今までの30代の天皇の陵には、実在したかどうかも含めて、本人が入ってるかどうかさえも全て疑問が持たれているようで、ここ用明にいたって初めて、ほぼ間違いなく本人が入ってる真陵とのことらしいです。
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 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘 堅塩媛(キタシヒメ)との間に産まれた13人の男女のうち、最初の子 橘豊日天皇(タチバナノトヨヒノスメラミコト)は、異母兄の第30代敏達天皇が亡くなった後、磐余池辺双槻宮(イワレノイケベノナミツキノミヤ)(奈良県桜井市)で即位し第31代用明天皇(ヨウメイ)と成りました。
 ここから3代43年に及ぶ蘇我氏外戚の天皇が続き、蘇我家全盛の時代が始まります。
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 第31代用明天皇は蘇我稲目の娘 蘇我石木名(イシキナ)(すなわち実母の妹)との間に田目皇子(タメノミコ)を、葛城直磐村(カツラギノアタイイワムラ)の娘 広子(ヒロコ)との間にも1男1女をもうけますが、皇后は母 堅塩媛の妹 小姉君(オアネノキミ)の娘で異母妹にあたる穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)です。
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 用明天皇と異母妹の皇后 穴穂部間人皇女との間には、かの有名な聖徳太子である厩戸皇子(ウマヤドノミコ)や来目皇子(クメノミコ)・殖栗皇子(エクリノミコ)・茨田皇子(マンタノミコ)の4人の皇子が産まれています。
 この頃から皇后は天皇の娘である皇女が多く、すなわちかなり血の濃い結婚ですので、うまくいけば聖徳太子のような子供も産まれますが、病弱な子も多かったと思います。
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 用明天皇の治世の間は、蘇我馬子と物部守屋との対立が激しかった時代ですが、用明天皇は初めて仏教を受け入れる意思を示しました。
 しかしながら、即位2年目に48歳で病死(暗殺説もあるようですが)しました。587年のことです。
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 陵は最初は磐余池上陵(イワレノイケノエノミササギ)でしたが、後にここ河内磯長原陵(カワチシナガハラノミササギ)(大阪府太子町)に移されました。
ここは東西65ⅿ南北60ⅿの立派な方墳、春日向山古墳です。

    返事
花水木さん:写真隅の一輪挿しがなかなかのものらしいです。
    巣立つ前のひな鳥のまだ肢が曲がってる状態から、「すだち(巣立ち)」と言う銘。
     この子の額には3本皺があるので、まだ猿に近いですよ。
タグ: 天皇陵

2018/4/25

30−2敏達天皇皇后廣姫  天皇陵巡り
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 滋賀県の関ケ原から長浜へ向かう道、昔の北国𦚰往還(ホッコクワキオウカン)を車で走っていると、米原辺りでこの石柱が目に入りました。
 日本古代豪族の息長氏(オキナガウジ)は、この辺りを中心に栄えていたと言われる謎多き氏族らしいです。
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 第30代敏達天皇の最初の皇后が、この豪族息長氏出の息長氏真手王(オキナガノマデノミコ)の娘比呂比売命(ヒロヒメノミコト)、日本書紀では廣姫(ヒロヒメ)です。
 畑の横の陵道の向こうに、小さな円丘の陵が見えてきました。
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 第30代敏達天皇は廣姫との間に、押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)・逆登皇女(サカノボリノヒメミコ)・菟道磯津貝皇女(ウジノシツカイノヒメミコ)の3人をもうけています。
 ちょっとした家の庭の林、程度の陵です。
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 敏達天皇皇后廣姫息長陵(オキナガノミササギ)(滋賀県米原市)と、新しいですがワープロ文字で印刷された制札でした。
ここは村居田古墳(ムライダコフン)と言う、昔は前方後円墳であったようですが、廣姫の時代とは年代的には合わないようです。
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 裏から覗いてみると、中央が盛り土してある程度の小さな林にしか見えません。
近くにいる人に尋ねると、「横の古墳からなんか掘り出した物を、そこに埋め戻しただけの墓だよ」との答え、聞き流しましたが、そんなものなんですね。
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 陵の隣にあるお寺との境にあった小さな円墳横に、「息長陵付属地」や「息長広姫陵古墳群」の石柱も建っていましたので、ここから掘り出して陵のような形にしたのかもしれません。
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 元の道に出てみると、目の前には伊吹山がそびえていました。
 ほぼ日本列島の真ん中にある滋賀県と岐阜県の辺りに栄えていた豪族がいて、その娘が中央の大王の皇后にはなりましたが、早くに亡くなり、後妻の皇后はもっと強い豪族蘇我氏から、その後の天皇も蘇我氏系だったためか、中央の大和から離れた実家の地に、夫から離れて埋葬されたのですかね。
それでも、その孫が天皇になり(第34代舒明天皇)、今の天皇家ともつながったので、明治〜昭和になってから、新たに陵も整備された感じですかね。

    返事
花水木さん:私の母も兄弟姉妹多く、
    その兄姉のうち3組が同じ家の兄弟姉妹と結婚しています。
     丈夫な人はたくさん子を産んでいますが、
    つい最近まで、出産で親子死亡もたくさんあったようですね。
     娘も無事男の子を産んでくれてほっとはしています。
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2018/4/18

30−1敏達天皇  天皇陵巡り
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 桜も終わり、1ヶ月ぶりぐらいの、忘れられたかもしれない天皇陵巡りに戻ります。
 第29代欽明天皇は7人の妻に最大28人の子供を産ましていると書いて来ました。
その内皇后の石姫皇女(イシヒメノヒメミコ)は、箭田珠勝大兄皇子(ヤタノタマカツノオオエノミコ)・渟中倉太珠敷尊(ヌナクラノフトタマシキノミコト)・笠縫皇女(カサヌイノヒメミコ)の3人の子を産みました。
長男は夭折したので、第2皇子のヌナクラノフトタマシキノミコトが即位し、第30代敏達天皇(ビタツ)となりました。
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 敏達天皇は百済大井宮(奈良県桜井市・奈良県広陵町・大阪府河内長野市など諸説あり)に新しく宮を開き、在位14年48歳で亡くなり、河内磯長中尾陵(コウチノシナガノナカノオノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 陵は河内の、用明・推古・孝徳天皇や聖徳太子廟が集まっている近つ飛鳥にありましたが、判りにくい道を上って、峠にある作業所の横に、写真の参道を見つけました。
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 第30代敏達天皇の父方母方両祖父は親子である第26代継体天皇と第28代宣化天皇、両祖母は第24代仁賢天皇の娘同士の同母姉妹、故に父母はかなり血の濃い伯父と姪の関係になります。
この辺りから天皇家の血は、天皇の娘である皇女を妻にすることが多いので、濃すぎて混乱するぐらい判りにくくなっています。
 写真、丘の上の道という感じの陵道を、少し上って行きます。
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 この陵道を直角に曲がると、急に森の中の小道のようになって、鳥居が見えてきました。
 敏達天皇は最初の皇后である息長真手王(オキナガノマテノオオキミ)の娘廣姫(ヒロヒメ)との間に、押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)をもうけました。
皇后が薨去したため、次の皇后に後に推古天皇になる異母妹の額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)すなわち豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)を迎え、竹田皇子他8人の子供を、又老女子(オミナゴ)に4人、菟名子(ウナコ)に2人と、計4人の妻に17人の子を産ませました。
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 この子供達のうち、廣姫との間に産まれた押坂彦人大兄皇子と菟名子との間の糠手姫皇女(アラテヒメミコ)の異母兄妹が結婚して産まれた敏達天皇の孫が、後の第34代舒明天皇(ジョメイ)になっています。
 蘇我家の血をひく蘇我稲目の娘堅塩媛が産んだ豊御食炊屋姫は、敏達天皇との間に8人の子供をもうけていますが、その子供たちの家系は誰も天皇には成りませんでした。
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 第30代敏達天皇の母親は、第28代宣化天皇の皇女で第29代欽明天皇の皇后石姫皇女ですので、その墓はもちろん御陵で、以前29−2で紹介した磯長原陵、そこに息子の敏達天皇は追葬されて河内磯長中尾陵となり、親子でここに合葬されています。
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 500年中頃の敏達の時代は、大臣蘇我馬子(オオオミソガウマコ)と大連物部守屋(オオムラジモノノベノモリヤ)が仏教の受容をめぐって対立し始めた時代ですが、敏達天皇自身は仏教に好意的ではなかったようです。

    返事 
花水木さん:金の大吉、八坂神社だけではなく、
    他の神社にも有るようですよ。
大雪男さん:セは混戦で、どこが強いのかまだわかりませんね。
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2018/3/14

29−4欽明天皇皇孫吉備姫王  天皇陵巡り
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 前回の大伴皇女の項で、第29代欽明天皇と堅塩媛との間の子供、兄弟姉妹13人を列挙しましたが、その内の一人に桜井皇子(サクライノミコ)の名前がありましたね。
この六男桜井皇子が誰かと結婚して産まれたのが、今回の吉備姫王(キビヒメノオウキミ)ですので、欽明天皇の孫娘になり、蘇我稲目からの蘇我の血が入っています。
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 この吉備姫王が第30代敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)の息子茅渟王(チヌノオオキミ)と結婚して、宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)を生み、宝皇女が第34代舒明天皇(ジョメイ)と結婚して第38代天智天皇を産んでますので、女系としてですが、かろうじて蘇我の血が今上天皇に繋がってることになります。
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 吉備姫王の墓は、明日香にある欽明天皇陵の檜隈坂上陵のすぐ横にある檜隈墓(ヒノクマノハカ)と言う小さな墓ですが、その制札には祖父の欽明天皇の皇孫とではなく、父親桜井皇子の異母兄である敏達天皇の孫の嫁として、敏達天皇皇孫茅渟王妃吉備姫王と書いてありました。
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 この墓、石の柵で囲まれた単なる林のような雰囲気で、あまり古墳とは思えませんし、たぶんここは宮内庁が治定しただけのなんでもない所のようです。
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 石の柵の間から覗くと、有名な猿石が見えました。
文久の修陵以前に描かれた文久帝陵図によると、この猿石は欽明天皇陵内に有って、修陵の後は陵域の外に出されたようで、これが後にこの近くの水田で見つかって、明治になってこの吉備姫王墓の中に置かれたようです。
 4体ある猿石の、左が僧、右の恵比寿さんのような像が男らしいです。
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 残り2体のうち、左が女ですがトカゲのようで女に見えません。
でもなんとなく乳房があるようにも見えます。
右は山王権現、なんか判らない姿ですが、明らかに立派な男の性器が見えました。

   返事
大雪男さん:「心旅」のリクエストは、
    奈留島の「ゴジラの出る風景」にしましたので、名所ではないかも。
花水木さん:ブログの文は5行までですかね。
    石丸謙二郎さんのブログなんか、文も長いですが面白いので読んでしまいます。
    参考にしてるのですが、なかなかうまくいきませんが、頑張ります。
タグ: 天皇陵

2018/3/9

29−3欽明天皇皇女大伴皇女  天皇陵巡り
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 今後紹介予定の第34代舒明天皇(ジョメイ)の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)は、奈良県桜井市の南、忍阪街道(オツサカカイドウ)沿いにあります。
この辺りは、近江の豪族で天皇家とも深くつながっている息長氏(オキナガウジ)の大和での拠点だったと考えられています。
 この陵の手前より、右の方に続く道がありましたので、これを進みます。
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 ここは万葉の香り溢れる場所で、万葉ファンのレジェント犬養孝(イヌガイタカシ)さんの歌碑があったりしますが、私にとっては単なる畑のある山道でした。
鏡女王墓を通って山道を登っていくとすぐに、植林された木々の間から鳥居が見えてきました。
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 欽明天皇皇女大伴皇女(オオトモノヒメミコ)の押坂内墓(オサカノウチノハカ)です。
誰もいない里山の中にあるという感じで、「三方山囲み」の南面する地形に造られた終末期古墳の可能性があるという円墳です。
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 大伴皇女は特に何をしたと言う人でもなく、誰を産んだとも知れない、欽明天皇の最大28人もいた子供の中の一人にすぎません。
何故欽明天皇陵内のこの地に、立派に残された墓があるのか判りませんでした。
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 28人の子供のうちの13人を、大伴皇女の母親で蘇我稲目の娘である堅塩媛が産みましたので、名前が皆判ってるので列挙すると。
長男;第31代用明天皇(ヨウメイ)で聖徳太子の父親です。
長女;磐隈皇女(イワクマノヒメミコ)、伊勢神宮に仕えましたが、異母兄の茨城皇子(ウマラキノミコ)に犯されて解任されています。
二男;臘嘴皇子(アトリノミコ)
二女;第33代推古天皇(スイコ)で異母兄の第30代敏達天皇(ビタツ)の皇后でもあります。
三男;椀子皇子(マロコノミコ)
三女;大宅皇女(オオヤケノヒメミコ)
四男;石上部皇子(イソノカミベノミコ)
五男;山背皇子(ヤマシロノミコ)
四女;この大伴皇女になります。
六男;桜井皇子(サクライオウジ)、娘が吉備姫王(キビヒメノオウキミ)で姫の孫の第38代天智天皇に繋がって、かろうじて女系ですが蘇我の血が、今の天皇家に流れています。
五女;肩野皇女(カタノノヒメミコ)
七男;橘本稚皇子(タチバナノモトノワカミコ)
六女;舎人皇女(トネリノヒメミコ)
 以上七男六女の13人を11歳から40歳以上にかけて産み、その間夫の愛を繋ぎとめていた母親の堅塩媛の方が大伴皇女より偉いでしょうね。
 この第28代欽明天皇皇后堅塩媛は、蘇我家繁栄の絶頂期に死んで、夫の欽明天皇の墓に追葬されているようですが、蘇我家を歴史から消したかった勢力があったのかどうか、欽明天皇陵の制札にその名はありません。
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 大伴皇女の墓の前に立って周囲を見渡しました。
犬養孝さんはこの高見に立って、「こんにちの大和では珍しく、ただ一軒の家もなしに、・・・・」と書いていますが、そのこんにちからだいぶ経つ今日は、ゴミ焼却所らしき煙突が見えていました。

     返事
花水木さん:天邪鬼な私は、短いと言われたら、
    長い名前だけを列挙する文にしてしまいました。ごめんなさい。
     五島のTVを観ると、いつも涙も出ますが、
    「ちょっと違うぞ」と思う時も有ります。
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2018/3/5

29−2欽明天皇皇后石姫皇女  天皇陵巡り
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 石姫皇女(イシヒメノヒメミコ)の父は第26代継体天皇と目子媛(メノコヒメ)との間に産まれた第28代宣化天皇、母は第24代仁賢天皇と第21代雄略天皇の娘である春日大娘皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)との間に産まれた橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ)なので、女系繋がりでなんとか仁徳王朝の血をひいています。
 同母妹の3人と共に第29代欽明天皇に嫁ぎました。
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 欽明天皇との間に男2人・女1人をもうけました。
長男が夭折したので、次男が第30代敏達天皇になりました。
 自身も天皇の皇女であり身分も高く、次の天皇の母でもありましたが、夫の欽明天皇が蘇我家の娘二人とも結婚してるせいもあるのか、夫とは別にここ磯長原陵(シナガノハラノミササギ)(大阪府太子町)、遺跡名太子西山古墳に葬られています。
 後になって、息子の敏達天皇が同じ場所に追葬され、河内磯長原中尾陵(コウチノシナガノナカオノミササギ)ともなった合葬陵です。

    返事
花水木さん:蘇我稲目の娘二人、堅塩媛と小姉君が、
    計19人の天皇の子供を産んだ能力が、蘇我の4代ぐらいの繁栄の元になった、
    ということだと思います。
大雪男さん:死なずに13人産んだのは立派ですし、
    おばあさんになっても愛された能力もすごいと思います。
     巨人はいつも厄介ですが、
    阪神のロサリオの評判が良すぎるのも心配です。
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