2008/9/25
縁@ 光秀公記

縁〜第一話〜
天文二十二年卯月、ハラハラと桜の花びらが風に乗って春霞の空から降って来る。白く淡いそれは、まるで雪のようだと光秀は思った。
山に閉ざされた美濃の地の冬は長い。つい先日まで深い雪に覆われていたと思ったのに、今は桜の季節を迎え、儚くも美しい桜花で山は一面、白く染まっている。
春が来た。暖かく穏やかな日差しが瞳に優しい、花の季節が到来したのだ。
柔らかな春風が、真直ぐな光秀の髪を攫って行く。光秀の艶やかな長い黒髪に、悪戯に桜の花びらが絡む。武人にしては細くたおやかな指で、乱れ髪を横に払う光秀は桜の精も思わず赤面してしまうほど、美しかった。
白く透明感のある肌、すぅっと通った鼻梁、理知的な光を宿す奥二重の瞳は涼しげで、その上にある眉は細筆で刷いたように形が良い。光秀は武人と言うよりも役者か舞手のように雅やかで、優美な容姿をしている。
薄く色めいた唇が微かに開き、重い溜息が零れる。
「まったく姫君は、何を考えておいでなのか。私のような凡夫には、計りかねますね」
諦めにも似たような言葉を紡ぎつつも、口元はどこか楽しそうだ。
光秀は朱色の手綱を引き、白馬の脚を止めると太陽の光を浴びて輝く那(な)古野城(ごやじょう)の天主を見上げた。深い掘りをグルリと周囲に巡らせ、頑強な石垣の上に泰然と聳える城の偉観を、挑むように見つめる。
「尾張の大うつけ、どれほどの男かこの光秀がとくと見定めてご覧にいれましょう」
那古野城主織田上総介信長、光秀が大殿と仰ぐ斎藤道三が、愛娘濃姫の夫にと選んだ男。まだ見ぬ那古野の若殿様を想って、光秀は不敵な笑みを浮かべた。
尾張の大うつけ、その噂は隣国美濃の地にまで届いていた。上総介信長は、尾張領主織田信秀が三男で、母が正室であったことから二年前信秀が病で急逝すると、若干十七歳で家督を継いだ。
信秀存命の頃より、その奇抜さたるやきつねつきかはた又山野に潜む鬼のごとしと噂されていた信長は、十九歳になった今もその悪名留まるところを知らない。
服装もさることながらやる事もとにかく派手で、城の若い衆を率いて乱暴狼藉も目にあまり、織田家に仕える家老連中もほとほと手を焼いていると聞く。
そんな評判の男とは、できることならば関わり合いたくないと思うのが、世の人の常と言うものだが、光秀は少々厄介な事情を抱えていた。厄介な事情もとい、面倒な主君の命により光秀は尾張の大うつけの内偵調査に、美濃から山を越えてこの那古野城へ、出向いて来たのである。
光秀に娘婿、信長の素行調査を申しつけたのは美濃の雄、斉藤道三である。断崖に聳える孤城稲葉山城に光秀を呼びつけた道三は、天主の欄干から川向こう、尾張の地を睨みつけて光秀に命じた。
尾張の信長を探れ、噂通りのうつけ者ならば那古野の城から帰蝶を連れ出せと。
帰蝶と言うのは、道三の愛娘である濃姫のことだ。
女性にしておくのは惜しいほど、聡明で世の中を見る目に長けた彼女は、長年反目し合って来た美濃と尾張の和睦の使者として、当時十四歳だった信長のもとへ嫁いだ。
帰蝶の母である小見の方は、光秀の父光綱の妹にあたり、帰蝶と光秀とは従姉弟同士と言う関係だ。二人は幼馴染でもあり、互いに気心の知れた仲と言える。
もし帰蝶が男として生まれていたならば、美濃の蝮の子として父道三にも引けを取らぬその才をいかんなく発揮し、天下に覇を唱えるのもけして夢ではなかったであろうと、光秀はことあるごとに考えてしまう。しかし、それは詮無きことと心得ている。
帰蝶の才を評価しているのは光秀だけではない、父である道三も又然り。
信秀亡き後、大うつけ信長を領主に頂くことになった尾張は領民や家臣団の間で、先の見えない不安や不満が鬱積している。攻めるなら、今が好機と野心家道三が思うのも無理はない。
尾張を攻めるにあたり、那古野の城と心中させるには惜しいと、道三は理由をつけて美濃へ戻るよう帰蝶に再三に渡り文を送ったと言う。しかし父の目論みに気づいていながら、帰蝶は信長の元を離れようとしない。そこで困った道三は、光秀に白羽の矢を立てたのである。
帰蝶がそれほどまでに守ろうとする信長がいかばかりの男か、帰蝶に負けず劣らず見事な曲者ぶりよと道三も信頼を置く光秀に確かめてこさせようと言うのだ。
信長が噂通りの男だったとして、光秀ならば帰蝶を説得して美濃へ連れ帰ることも可能だろうと言う目算もあっての此度の命である。
敵地へ乗り込んでの隠密業、けして簡単な仕事ではない。しかし、自分にそれだけ主君道三が信頼を寄せてくれていることが、光秀は誇らしかった。主の期待に是非とも応えたい。いかに切れ者と言えど、光秀とて若干二十五歳の若者、その胸に青い想いを抱いてもなんら不思議はない。
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