¥28,000だった。
横浜に来て最初に住んだアパートの家賃。
風呂なし、トイレあり。
202号室、と言えば聞こえはいいが、
むき出しになった階段をカンカンと音を立てて登って2つ目のベニヤ板を開けると入れる部屋、ということである。
当時、軽く見積もっても築20年はイッてただろう。
ベニヤ板を引いて入ると左手に台所、そこには窓があり、そこから家に訪れる人間の姿が見えるというセキュリティー完備のナイスな構造だ。
奥に六畳間、夜電気を消すと柱の隙間から隣の灯りが微かに洩れる、都会的な雰囲気だ。
部屋のメインとなっているのはレコードとそれを再生するステレオ、そしてこっちに来て買ったばかりのテレキャスターを含むギター数本。
風呂が無いのはキツかったが、奇跡的に歩いて30秒の所に銭湯があり、しかも奇跡が重なり、そこは夜中1時位までやってた。
酔っ払って遅く帰ってもギリギリ間に合ってた。
だから、飲みに行くと電車の時間より「バス」の時間を気にしてた。
それでもたまには乗り遅れることもあり、そんなときにはガスレンジでお湯を沸かし、洗面器に水とブレンドしてぬるま湯を次々に作り、頭、顔、その他主要部位を台所で洗ってた。
今年の夏のある夜、たまたまその近辺を通ったら例の銭湯が立派なビルに生まれ変わってた。
が、よく見ると1階部分は銭湯になってる。
おお、画期的なアイデア。
時計を見ると夜中の12時を過ぎてる。
この時間でもまだ営業中のようだ。
建物はモダンになっても魂はあの当時のままだな、と的外れな感想を抱き、ついでにあのアパートがどうなってるのか寄ってみよう、と脇道へ入った。
まぁ、建て替えられてるだろう。
今、軽く見積もると築40年になるはずだ。
まぁ、建て替えられてるだろう…
そのままだった。
大体、こうやって書いている時点でそのままだったという展開、読んでいる人には予想がつくというものだ。
建て替えられてたらわざわざ書く訳ないじゃないか、ということだ。
ただ、その時の俺には全くの予想外であった。
俺は例のむき出しになった階段を登っていった。
街灯が一つ、辺りは静まりかえっている。
カンカンと音を立てないように慎重に登っていった。
202号室。
相変わらずどこにも「202」とは書いてないが、2階の2番目の部屋、おそらく今も202号室と呼んでいるのだろう、住人は。
相変わらずのベニヤ板。
ん?
台所の窓が拳一つ分開いている。
これではセキュリティー完備が仇となってるではないか。
まぁ仕方ない、蒸し暑くて眠れないのだろう。
相変わらず冷房が無いらしい。
開いてるから見てるだけ、覗いてるのではない、と自ら言い聞かせて中を覗いた。
真っ暗である。
もしかしたら誰も住んでいないのではないか。
目が次第に慣れてくる。
襖は全開にしているらしく、奥の六畳間が微かに見えた。
…目が合った。
彼は身体を起こし、ゆっくりこっちに歩いてきた。
台所の窓越しに目線を合わせたまま、彼は近づいてきた。
次第に彼の姿が見えてきた。
肩までまくり上げたTシャツに短パン、
ん?見覚えのある短パンだな…
彼は「俺」だった。
その刹那、
「夢は叶わない」
何故か俺が喋っていた。
それを聞いて、彼は襖の辺りで立ち止まった。
いったい何を言い出したのか、俺は。
暫し、沈黙。
この状態から逃れるために、見計らって彼から目線をほんの僅かに外した瞬間だった。
彼の背後にテレキャスターのヘッドの影が見えた。
突然、何かが弾けた。
俺は目線を彼に戻し、続けざまに、無意識にまくしたてていた。
「夢ね…叶わないんだよ。オマエが熱中しているモノが必要な人間は思ってるより遥かに少なかったんだよ。皆が必要としないモノを夢見ても、まぁダメだわな。みんな風呂付きの所に住んじゃうとさ、銭湯は要らなくなるんだよ。まだ銭湯はある。でもそれは『懐かしいね、たまには行ってみようか』という銭湯だ。必要から、ではないんだよ。娯楽としてあるんだよ。もう役割が変わってしまってるんだよ。それに見合ったやり方をしている銭湯が生き残ってるだけなんだよ。今オマエが毎日行ってる銭湯じゃなくなるんだよ。同じように、オマエの熱中しているモノは、大人のたしなみに成り下がってしまうんだよ。『懐かしいね、たまには、ね』だ。糞食らえ。でも糞食らうのはこっちの方なんだよ。ミジンコ・マニアのヤツが『皆ミジンコに関心が無さ過ぎる』なんて吠えてたって、戯言にしか聞こえない。そんなこと言われる筋合いなんてない。こっちにはこっちの関心や生活があるってもんだ。黙ってミジンコいじってろ、だ。でも、オマエもミジンコ・マニアと同じ立場になるんだよ。「大人のたしなみ」をしている奴等からは、そうにしか見えないんだよ。そしてオマエは自分の状況をじっと黙って受け入れるしかなくなるんだよ。オマエの夢は叶わない。最も致命的なことに…
オマエの音楽を必要としている人間は…
いなかったんだよ」
ふと、あることが頭をよぎり、言い直さなくてはならない、と思った。
「いや、『ほとんど』ね、ほとんどいなかったんだよ」
この期に及んでさえも妙な意地を張っていた。
どうしても彼に話す隙を与えたくなかった。
なんでもいいから、と目線を彼から離し見回すと、またテレキャスターの影が目に入った。
「ジョージが死ぬ。ジョンの次はジョージが死ぬんだ」
彼が一瞬ひるんだ、ように見えた。
「あ…」彼が初めて声を発した。
それをきっかけに俺は身体の向きを変え、ゆっくりと階段を降り始めた。
本当は早く逃げ出したかった。
だが、ここで急いだら、俺の姿が救いようのない程惨めに映るだろうと思い、耐えた。
俺にできることはこうして虚勢を張ることだけなのかもしれない。
喋り続け、彼に話す隙を与えなかったのは、こう訊かれるのが怖かったのだ。
「それで、何故まだ生きてるんだ?」
階段は途轍もなく長く続いた。
(おわり)

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