2017/3/24

固定観念の罠  
arc氏は正体不明の人物である。その立ち位置もよくわからない。それでずっと静観していたわけだが、ここに来てようやく本性をあらわしたようである。

弘安二年が究極中の究極であるなら
どうしてその後も相貌の違う文字曼荼羅を
書き続けたのか?


なかなか鋭い質問である。

わたくしがとっさに思い浮かんだのは涅槃経第一主義である。第一主義という表現は現代流のものであるが、古来より涅槃経第一を主張する宗派が存在したのは事実であり、かつまた新興宗教の中にもあるらしいのだ。

有名な樋田ビデオの中でもわりと最近だろうか、樋田氏がどこぞの新興宗教の幹部と対論している動画があるのだ。先方では涅槃経第一を唱えていた。その理由は単純明快、涅槃経がいちばん最後に説かれたからという。

arc氏の言わんとしていることを逆から捉えれば、まさに上述のことに通ずるわけである。すなわち弘安二年の大御本尊が究極の御本尊なのであれば、そこで打ち止めにすべきであり、それ以降は本尊を書くべきではなかったと。もしくは弘安二年が完成形なのであれば、それ以降はすべて同じ相貌でなければおかしいと。

なるほど、これは相当の説得力がある。

ただし、先ほども書いたように、法華経と涅槃経の関係を思えばそれほど矛盾はないことになる。つまり、もしも大聖人が涅槃経第一を主張しているのであれば話は違ってくるけれども、大聖人はあくまで法華経第一なのである。これまた有名な言葉を使えば、已今当説最為第一ということなのだ。

一般的な表現では空前絶後がそれに近いだろうか?

ある意味、これほど強引な説明もあるまいと思う。法華最勝の理論的説明としては久遠実成と二乗作仏がきわめて重要なキーワードとなるわけだが、已今当のそれは理論的というよりはほとんど頭ごなしの決めつけに近いものがあるわけだ。

とにもかくにもである。ここで言いたいことは、大聖人御図顕のあまたの御本尊の中で究極の御本尊が弘安二年であることにさしたる不都合はないということが、已今当のそれからわかるということである。

少し余談的に話を進めよう。

立正安国論 守護国家論

開目抄 観心本尊抄

報恩抄 撰時抄


これはわたくしがたった今、勝手に抽出したものである。大聖人の御化導における初期・中期・後期の代表的御書を二つずつ挙げたわけだ。もちろん異論があるかもしれないが、おそらく中期すなわち佐渡期の開目抄・本尊抄は異論がないだろう。また専門的な学者によっては、大聖人の御法門はこの二書に尽きる、という意味を述べている人もいるはずである。

もしそれが本当ならば、ここでも已今当の理屈が当てはまることになる。

ただし、上述は大間違いとは言えないまでも、必ずしも正解ではない。
そのいちばんわかりやすい例は三大秘法だろう。大聖人の仏法は三大秘法である。しかるに佐渡期においては未だ三大秘法の御法門は完全には開示されていない。ゆえに開目抄・本尊抄に尽きるというのは正解とは言えない。
さらに別の角度から言えば、大聖人の御法門はすべての御書を総合的に拝することによって、その全貌が見えてくるという面もあるので、重要御書だけを限定的に見ていても正解には至らない。ゆえにシツコイようだが、開目抄・本尊抄は物凄く重要な御書だけれども、それだけではダメなのである。

初期の二書はここでは省略しよう。問題は後期である。わたくしは報恩抄と撰時抄を挙げた。

後期はいわゆる身延期であるが、当該二書はいわゆる建治年間である。身延期を大きく前期後期に分ければ、建治年間はまさしく前期に当たるわけである。
ご存知のごとく、日蓮正宗では弘安年間こそが究竟ないし本懐と教えている。もっとも正宗の人でも勉強家であれば、それは御本尊のことであって御書は別の話だと承知していることだろう。まさにそのとおりなのだ。
わたくしも何の予備知識もなく虚心坦懐に御書を拝した時に、建治年間の御書群のベラボウな充実ぶりには驚く他ないと感じている一人である。その内容はもちろんのこと、膨大なる執筆量も驚異的である。

御書については以上である。

では御本尊はどうかであるが、わたくしは御本尊の相貌を云々するだけの知識もなければ、そうした鑑識眼もないので何も言えないというのが正直なところである。ただ単純に、これまでの説明でご理解いただけたかと思うのだが、弘安二年に究極の御本尊があらわされたということにさしたる矛盾はない、とは言えるのではないかと思う。ただそれだけの話である。

 釈迦の法華経も大聖人の文字曼荼羅もそれに至る手段です。
 目的は衆生の成仏です。


さて、最後に沖浦氏のコメントを少し拾っておこう。手段と目的、目的と手段。わたくしはこの言葉にワナが仕掛けられているような気がする。これを沖浦氏が意図的にやっているのか、それともさしたる深い考えもなくやっているのか、そこはわからないけれども、ここに初歩的かつ根本的な誤謬が潜んでいるのだと思う。

本懐=目的、曼荼羅=手段

沖浦氏の主張を単純化すれば上掲のようになるのだろう。しかし、どうしてそのように言えるのか、まずはそれを論証しないといけない。目的とか手段という語彙は現代人には当たり前のように使われているものの、おそらく大聖人の時代にはなかったものなのだろう。言葉そのものがなかっただけの話ではなく、そうした概念が存在しなかったかもしれないのだ。いやいや、そんなことはあるまい、と言うかもしれない。わたくしの思うに、そうした概念に近似のものは存在したかもしれないが、少なくとも現代ほどには整理整頓ができていなかったと考えるのが妥当である。

秘術

御書を検索すると、目的も手段も出てこない。わたくしはそれに代わる言葉を考えてみた。さしあたって思い浮かんだのが秘術である。
そしてわたくしの言語感覚が正しければ、秘術は手段に近いはずである。少なくとも目的と手段のいずれか一方を選択するとしたら、手段のほうに当てはめるしかないだろうと思う。
ここでは御書の一々を紹介しないけれども、先ほども少し触れた総合的に拝するという姿勢で結論を出すとすると、まさに曼荼羅図顕は秘術に相当するだろう。すなわち手段である。

さて、沖浦氏にはわたくしの説明が理解できただろうか?

ここで頭の悪い人は、曼荼羅図顕=秘術=手段と連想して、本懐=目的であるからして、曼荼羅図顕は手段であり目的ではない、すなわち本懐ではない、という結論を導き出すことだろう。これは大馬鹿者の結論である。

ようするにこれは現代人が培ってきた語彙ないしそれに伴う概念を基準に導き出した結論に過ぎないのであって、これがそのままイコールで大聖人の考えていらしたこととは言えないのだ。この道理が沖浦氏に理解できるかどうかである。

まあ、こんなところで終わりにしよう。かなり面倒臭い議論なので、すでにわけがわからなくなっている読者もいるかもしれないが、いわば教義論争とはそういうものなのである。

2017/3/23

第1401号まとめ  
コメント欄が少しばかり賑わっているようだが、いつものごとく独白に徹することにしよう。今日は第1401号掲載の幹部たちの発言を拾っていく。結論を書いてしまうと、今のテイタラクでは宗門との和解はムリ、ということになる。

先生のお姿と重なり・・・

ヤブカラボウに引用したわけだが、これは男子部総務の発言である。拙ブログの愛読者ならばすでに察しがついているだろう、ようするに日目上人と浅井先生が重なって見えると言っているのだ。

 正系門家の濁乱により、細井日達が「大事の御相承すら為し得なかった」という未曽有の大混乱をもたらすも、「本化国主」「一閻浮提の座主」ご出現になれば、正系門家の問題も忽ちに吹き払われる・・・

冒頭に記した結論の意味がよくわかったことだろう。まず、日達上人から日顕上人の相承を否定している時点でアウトである。さらに後半が問題である。考えても見よ、現代人の感覚として再誕という概念そのものが受け入れ難いというか、極論すればウサン臭いことなのである。つまり、誰がどのように認定するのか、である。自己申告で自分が日興上人ないし日目上人の再誕だと言ったところで、いったい誰が信用するだろうか? あるいは取り巻き連中がこの人こそが本化国主であられるとか一閻浮提の座主であられるなどと盛んに宣伝したところで、はたしてどれだけの説得力を持つだろうか? ということなのである。

第十九男子部長の発言も同様である。

先生のお姿が重なり・・・

総務とほぼ同文であるが、ただし、こちらはよく読めばそれほどおかしくはないのかもしれない。

・・・先生のお姿が重なり、まさに先生の戦いは、日目上人の大忠誠の延長線上にあることを大確信し、

つまり、彼は浅井先生こそが日目上人の再誕であられるなどと言うつもりは毛頭なく、日目上人の御精神をしっかりと受け継いでいるのが浅井先生なのだと言いたいわけなのだろう。

それにしても次の一節はどうかと思う。少し長いがぜひともご覧いただきたい。

 席上先生より日興上人の「唯仏与仏」の大境界を指導頂きましたが、大聖人御入滅後、五老僧が悉く師敵対に陥る中、大聖人様の仰せのままに後世に伝え、そしてそれが聊かも曲がらないということがいかなることか、胸に迫ったものであります。

ここまでは問題ない。宗門やかつての創価学会でも同じことを言っているはずである。しかし、この続きが問題なのだ。

 同時に、広布前夜、第六天の魔王の力により、学会・宗門が御遺命の大事を忘れ去ったとき、たったお一人、国立戒壇建立の一点を見つめて立たれた先生のお立場はいかばかりかと、震えるような大感動がこみ上げました。

思いっきり意訳をすれば、日興上人と浅井先生が重なって見える、ということだろう。これまた登壇者には再誕を云々するつもりはないのだろうけれども、意味的には日興上人と浅井先生は等値、浅井先生は日興上人と肩を並べるくらい偉大な存在なのだと、ほぼ言っているに等しいだろう。

次の記事も同様である。

 「もし日興上人がましまさなかったら、末代の我ら凡夫、どうして日蓮大聖人の大恩徳を知り、どうして三大秘法を正しく受持して一生成仏が叶う身となれたであろうか」
 と情感こめて指導下さいましたが、いま私たちも「浅井先生がいらっしゃらなければ…」との思いが込み上げ・・・


女子部第二百二十三区長と書くと、たくさんの区長の中の一人に過ぎないが、この人は少し前まで九州方面で婦人部の部長をやっていた人である。つまりは大幹部である。

もし日興上人がましまさなかったら・・・

もし浅井先生がいらっしゃらなければ・・・


当然、この人も先生を日興上人の再誕だと言っているのではなく、意味合いとしては日興上人に匹敵するくらいの偉大な人物、それが浅井先生なのだと言っているわけなのだろう。

浅井先生も偉くなり過ぎたものである。

ただし、取り巻き連中がどれほど賛嘆しようとも、客観的な事実としてはどうかと思う。例えば婦人部南部支区所属の男性平会員の次の発言がわかりやすい。

広宣流布までのあとわずかな時間・・・

彼は昨年九月の入信である。ゆえに深いことはあまりわかっていないのだろう。では、なぜに上掲の発言をなし得たのか? ようは婦人部の先輩たちがそのように言っているからなのだろう。あとわずかの具体的な年数は不明であるものの、本人にしても自分の目の黒いうちに広宣流布が実現すると思っているわけなのだ。

まさに言っているとおりになれば、浅井先生はその大功労者である。しかし、客観的にはほぼ絶望的だろう。つまり、結果は見えているのである。

最後に前回の拙稿との関連で婦人部総務の発言を拾っておこう。

 さらに世界各国に悪王ともいうべき者たちが現われている今・・・

実はここ一ヶ月ばかり、わたくしは森友問題に注目し続けている。盤石だった安倍政権もこれをキッカケに終焉を迎えるかもしれないと思って、ずっと注目してきたのだ。そうした中で自民党内では総裁任期の延長が決まった。超長期政権への布石である。つまり、安倍さんはやる気満々であり、同僚議員の多くも安倍さんに総理を続けてもらいたいと思っているようなのである。

浅井先生は安倍首相をずっと批判し続けてきた。痛烈な批判である。ボロクソと言ってもいいだろう。わたくしも浅井先生ほどではないが、安倍政権に対しては批判的な立場である。必ずしも長期政権を是とするものではない。

しかし、ある時ふと思った。まさに上掲が示唆的であり、そこから啓示を受けたような意味もある。

つまり、世界各国の猛者たちと対等に向き合うためには、経験豊富な政治家でなければいけない。すると幸か不幸か、今の日本には相応しい人物がいないのである。その結果として、仕方がないけれどもいつまでもダラダラと安倍さんにやってもらうしかない、という選択肢しかないようなのだ。それが有権者たちの判断でもあるのだろう。

天皇陛下ないし皇太子殿下を侮辱するつもりはないが、現状では世界各国の悪王たちを取りまとめるのは荷の重いことである。

2017/3/22

日蓮主義の残り香  
大沢氏によれば一昨日の午後二時半ごろに顕正会員と妙観講員が対論をしたそうである。コメント欄に書かれている内容だけでは判然としない部分が少なくないが、どうやら顕正会員の発言に問題があったらしい。極論すれば唯授一人の血脈相承を否定するような意味合いになるだろうか? まあ、しかし、これは顕正会側にも言い分があるだろうから、一方的に大沢氏のコメントだけを鵜呑みにするわけには行かない。現時点で言えることは、どうやら今もコンスタントに顕正会から妙観講に移籍する人がいるらしく、それをどうにか阻止したいという思いを懐いている人がいて、妙観講本部を偵察ないし監視していた、ということなのだろう。

さて、今日は顕正新聞第1401号の一面から二面にかけて掲載されている日興上人御報恩勤行会における会長講演を取り上げよう。

なかなか充実した内容である。これが全体の結論だ。

「富士大石寺」を冠し
    戦える有難さ


個別の問題に入ろう。まずは上掲の小見出しが気になった。ご覧のごとく、ここではウ冠になっている。ところが本文中ではワ冠になっているのだ。あるいは写真のキャプションもワ冠になっている。この辺の不統一が気になって仕方がない。

 ただ一回、こういうことが起こる。それが広宣流布前夜なのです。

日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も・・・という有名な一条がある。御法主上人は無謬であるなどとバカなことを言う人もいるが、まあ、御高徳の上人であってもマレには間違いを犯すものである。ゆえに日興上人も万一のことを慮られ、この一条を設けられたのだろう。堀上人も「常にはあるべきことではない」とおっしゃっているそうだ。

そこで浅井先生も、常には起きないが広布前夜にただ一回こういうことが起きる、という意味を述べているわけである。

しかし、古くからの会員ならば疑問に思うはずだ。あれ? 二回じゃなかったかしら? と。

すなわち以前の浅井先生は二回と言っていたのだ。一回はまさに昭和四十年代に起きたいわゆる正本堂問題である。そしてもう一回が日精上人の時代のことである。

すると浅井先生は見解を改めたのだろうか?

日精上人の問題について、わたくしはほとんど勉強したことがないので何も言えないのだが、どうやら近年に至って新しい学説(?)が出てきたらしいのである。日精上人は間違っていなかったと。これは当然ながら他宗他門が云々するような事案ではないので、宗門の中でのいわば新研究ということなのだろう。そうした意味から考えると、少しばかり手前ミソの論理が感じられなくもないところだが、先ほども言ったようにわたくしは詳しい内容をまったく知らないので、これ以上は何とも言えないところだ。

いずれにしても浅井先生はその新研究を参考にして見解を改めたのかもしれない。あるいは耄碌ゆえに日精上人の問題をすっかり忘れてしまっているという可能性もあるわけだが・・・

 こんなこと、いつまでも許してはいけない。顕正会の力で必ず・・・

これは御開扉問題である。今の宗門の御開扉は不敬であるから中止すべきというのが顕正会の主張であるが、しかし、わたくしにはチグハグ感が否めない。

当該講演では発言していないものの、ご存知のごとく、さまざまの場で言っていることがある。すなわち広宣流布は近いということだ。あるいは天生原までの四キロの道のりがどうのこうのとも言っている。だったら御開扉の中止を云々している場合ではないだろう。それこそ顕正会の力で広宣流布しちゃえばいいのだ。そして国立戒壇を建てちゃえばいい。そうすれば不敬の御開扉は自ずと解消されるのだ。

逆に言うと、上掲の発言の裏側には広宣流布はまだまだ遠い先であるとの意味が込められているのではないか、というようにも感じられるのである。浅井先生も虚勢を張って広宣流布は近いとは言うものの、内心ではまだ無理であることを承知しているのかもしれない。だから御開扉のことに文句を言うのである。穿った見方ではあるが、そんな感じがしてならないところである。

前生所持の大御本尊を

この一段は凄いの一語に尽きる。ヘタな説明をするよりも本文をそのまま引用したほうがよさそうだ。

 広宣流布の時には、日興上人の再誕たる本化国主が、前生所持の「本門戒壇の大御本尊」を必ず御尋ねになり、命かけて守護し奉るのです。

以下も文章が続くわけだが、長くなるでの省略しよう。たぶん初出だと思う。しかし、これは新見解というよりも、従来からの主張をいわば整理整頓した上で発表したものなのだと考えられる。(※追記参照)

全世界を統一

この一段も凄まじい。そしてここは現宗門において、少し異論のあるところかもしれない。明治期には天皇中心主義と呼ぶのだろうか、天皇を中心に世界統一を図るような考え方があった。そうした世論に影響されたかどうか、ここは微妙なところだとは思うが、日蓮正宗の中でもこの考え方に与するような人たちが少なからずいたようである。わたくしの漠然とした印象ではあるものの、浅井先生もそうした時代の影響を少なからず受けているのではないかという気がする。

本化国主が御出現になれば、日本国の統一はもちろん、全世界が統一され・・・

顕正会のタイムスケジュールが正確であれば、次の天皇陛下が世界を統一することになるのだろう。しかし、わたくしのような凡夫には想像を絶する話である。

しかもである。浅井先生は文証として本尊抄の次の一節を引くのである。

 「此の四菩薩 折伏を現ずる時は、賢王と成って愚王を誡責し」
 とあるのが、それです。


現行憲法において政治権力を有さない、それが天皇の立場である。国内においてすらかくのごとし、いわんや国外においてをやだろう。その天皇が賢王となって愚王を誡責するということのイメージがまったく湧いてこない。凡夫の浅知恵と言われればそれまでだが、しかし、ここは多くの人が疑問を感じるところだろうと思う。


三月二十三日追記:初出ではなかった。なんと昭和四十五年の諫暁書にほぼ同じ内容の記述が存するのである。過去の拙稿を参照されたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1130.html

2017/3/21

各氏のコメントに思うこと  
マイケル氏のおっしゃることはきわめて常識的である。すなわち少子高齢化の現代においてはどの宗派も信徒を増やすことが困難になっている。それどころか先日も触れたように葬儀に僧侶を呼ばないような人たちが増えているのが実情である。顕正会にしてもそうした日本社会の中に存在する以上は例外ではなく、なかなか信徒が増加しないというジレンマを抱えている。たとえ名目会員は増えても実働会員は現状維持が精一杯だ。

これに関連する意味で前々回のコメント欄に残された、へな氏の目撃談は貴重である。かつまた前回の現役活動会員A氏のコメントも実にタイムリーである。

折伏成果の大部分は外国人と病人と障害者。

A氏の証言だ。大部分の意味が難しい。低く見積もれば過半数という意味にもなるだろうが、文字通りに受け取れば十中八九ということになるかもしれない。つまり、一万人の入信者がいたとすると八千人から九千人が外国人か病人か障害者のいずれかに該当することになる。これはもう深刻である。

へな氏の教学試験についての目撃談も凄まじい限りで、合格率の低い理由を大きく二つにまとめている。

一つには勉強していないからである。それはそうだ。あの試験問題はすべて穴埋め式であり、そのテキストとなるのが基礎教学書である。ゆえにまずは同書を読まないことには始まらない。どれほど頭のいい人であっても、この本を読んでいなければ合格しないだろう。たぶん宗門や創価学会の人でも基礎教学書を読まずに受験すれば不合格になるに違いない。いわんや大聖人の仏法についてまるで素養のない一般人においてをやである。

二つ目の理由が凄まじい。すなわち日本語をほとんど理解していない外国人ということだ。

なるほど、自分がその立場になってみればよくわかる話だ。仮にどこかの外国に行くとしよう。そこでいきなり試験を受けるように言われるのだ。当然、試験問題はその国の言語で作られている。もはやお手上げである。わたくしは日本語だけはそこそこ使えるものの、その他の言語はまったく使えない。

ただし、ここからは話をひっくり返すようで恐縮だが、新たな可能性ということで顕正会に有利なことを書いておこう。

わたくしの思うに、日本に来ている外国人はおしなべて優秀である。そして根性がある。チャレンジ精神が旺盛だとも言えるだろう。彼らは単なる海外旅行ではないのだ。異国の地で何かしらの目的を持って生活している人たちなのである。ゆえに必死であるし、その覚悟もハンパないのだ。
その意味では病人や障害者と同列に扱うわけには行かないだろう。彼らの多くは母国では優秀な人材だったはずで、それぞれがそれぞれの夢を懐いて新天地を求めて渡航してきたわけである。
事実、その多くの人たちが瞬く間に日本語を習得して、日本全国で活躍しているのである。わたくしの身近でも中国系と思しき若者が何人も働いている。特にコンビニで働いている人が多い。何しろ基本的には日本人と顔が同じなので、名札を見ないとわからないくらいである。そう、彼らの中にはすでに日本語の微妙なイントネーションまでも習得していて、日常会話レベルにおいては何の不都合もない人もいるのである。

いかがだろう、こういう人たちがもし本気で大聖人の仏法を学んだならば、それこそ百点満点を取ってもおかしくないはずだ。

現実問題としてすでにその成果があらわれ始めている。第三十五女子部の登用試験合格者を見れば一目瞭然だ。

十八人中十一人

ぜんぶで十八人の合格者がいて、なんとその中には名前がカタカナ表記になっている人が十一人も含まれているのだ。その多くはモンゴル系の人たちだと思われる。

ただし、話がややこしくて恐縮だが、実は今回の登用試験では台湾とモンゴルにも試験会場が設けられたようである。はたしてそこでの試験問題が日本語だったのか現地語だったのかはわからないが、この話を都合よく解釈すれば世界広布の胎動みたいなことになるのだろう。

もっともこの件に関してはすでに何年も前から指摘しているように、一方で日本国内の組織の空洞化が進んでいるとすれば本末転倒である。

以上、いずれにしても登用試験の合格率の低下は厳然たる事実であり、何をどのように言おうとも数字がすべてを物語っているというのが結論である。

話は変わる。

 本尊図顕はそのためにある手段です。
 手段が本懐にはなりません。
 本懐とは目的そのものです。
 ですので、戒壇本尊本懐はあり得ないとわかります。


途中からの引用で恐縮だが、話は簡単である。沖浦氏は曼荼羅道具論を唱えている。道具は手段だから本懐にはならない。よって戒壇本尊本懐はあり得ない。これが氏の主張である。

しかし、これはまたしても氏のウッカリである。阿仏房御書を知らないわけではあるまい。

 あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。・・・出世の本懐とはこれなり。

以前の沖浦氏は当該御書を引用して戒壇本尊本懐を否定していた。たぶん今もその主張は同じなのだろう。けれども物の道理がわかっていない。
大聖人は本尊図顕を出世の本懐だとおっしゃっているのだ。ところが沖浦氏は本懐ではなく手段に過ぎないと言っているわけである。つまりは大聖人に逆らっているのである。
物には順序がある。ようするに沖浦氏は戒壇本尊本懐を云々する以前に大聖人の仰せに逆らってしまっているのだから、もはや論ずる資格なしということなのだ。

いちおう結論的なことを書いておくと、大聖人御図顕の御本尊はいずれも本懐の御本尊である。その中でもとりわけ戒壇の大御本尊こそが本懐中の本懐の御本尊であられる、ということになる。これならば何の矛盾もないはずだ。

 更に、一切衆生が等しく久遠からの南無妙法蓮華経如来なのですから、特別に唯受一人を設ける必要が無くなります。

これは面倒臭い議論である。単純に言えば総別の二義がわかっとらんということになるのだろう。

戒壇の大御本尊は日興上人一人が身に宛て給わるところの御本尊である。これは日興跡条々事に明白だ。ところがである。かつての創価学会では戒壇の大御本尊のことを一閻浮提総与の大御本尊と呼称していたという事実があるのだ。たぶん宗門ではこの呼称に文句を言っていないと思う。顕正会も文句はない。つまり、この一見すると二律背反と思しき事項は総別の二義がわかれば何の矛盾もないのである。

この際、創価学会は会長を廃止し幹部もすべて廃止して全員を平会員にしてしまえばよかろう。その上で唯授一人を批判すれば相当の説得力を持つはずだ。やや筋違いではあるものの、少しばかり皮肉を込めて書かせていただいた次第である。

2017/3/19

マイケル氏のご来臨をたまわって  
まず、沖浦氏の直近のコメントについて言えば、ずいぶん短絡的ではないか、ということだ。自身が南妙法蓮華経如来だとわかるとなぜに戒壇本尊本懐などがウソだとわかるのか、まるで説明ができていない。この点が沖浦氏はダメである。

マイケル氏には久々のご来臨をたまわった。

現状維持で手一杯なのかどうかについては、わたくしの立場からは正確なことが言えないことを、まずはご承知願いたいと思う。そこに奇しくも現役を名乗る人から崩壊寸前とのコメントが寄せられたので、それが一つの有力なヒントとなるだろうことは確実である。

今一度、前回の拙稿を繰り返せば、一万人以上の受験者がいて合格者が千人に満たないという現実がある。これはもう末期的な症状だろう。何しろカテゴリではいちばん下の試験なのである。これが最上級の試験であれば話は違ってくる。なるほど、顕正会の上級試験はレベルがベラボウに高い、ゆえに合格するのも一苦労、というような話になるはずだ。ところが登用試験はいわば初級試験なのである。その試験において合格率が四パーセント足らずではまったくお話にならないだろう。

ただし、それは教学試験を中心に考えた時の話であって、それのみで言えば顕正会はバカばっかりという結論になるわけだが、バカでも頭数が揃っていればそれなりの力を発揮するということは言えると思う。

つまり、実働会員数が増えているかどうかという問題である。

これがわたくしにはよくわからない。現状維持なのか、それとも衰退なのか、あるいは伸びているのか、である。たぶん、無難な解釈は現状維持なのだろう。そして悪意の解釈をすれば衰退なのだと思う。逆に善意に解釈すれば、さすがに大発展とは言えないまでも、微増くらいが妥当な表現なのではないかと考えられる。

というのは今もいちおうはコンスタントに会館の建設計画が推進されているからである。

もしもである。顕正会の実働会員数の伸びが完全に止まってしまっていたならば、もはや会館の建設は不可能だろう。ちょっとずつでも伸びているからこそ、建設が行なわれているのである。

けれども委細に見れば頭打ちの印象が強まりつつある。

顕正会は未だに全県に会館を建てていない。特に西日本が手薄であり、会館の建っていない県がいくつもある。逆に東日本はいちおうぜんぶの県に会館があり、活発な県では複数の会館が建っているくらいである。西高東低ならぬ東高西低が顕正会の現状ということだ。

顕正会では一年に三会館ずつ建設するのが通例となっている。だったら会館のない県に優先的に建設していけば数年以内に全県制覇が達成できるはずなのだが、そうはしない。近年は本部近隣に第二青年会館を建てたり顕正新聞の施設を建てたり、あるいは地方会館の増築だとか建て替えみたいなことを繰り返している。

つまり、いちおう伸びている地域は伸びている。しかし、それは主に東日本であり、西日本はそれほど伸びていないのだ。実際、会館を建てたものの、閑古鳥が鳴いているところもあるらしい。まさにこれが答えである。こうした現状を本部首脳もわかっているのだろう。ならば会館の建っていない県に無理して会館を建てることは愚の骨頂であり、その地域の真面目な活動会員たちを苦しめることにもなりかねない。それを考えれば建てたくても建てられないのが道理である。

以上のような理由から、会館建設を組織発展の目安とするならば、無会館県の解消が進まなくなった現状こそ、まさに頭打ちを物語るものなのだろう。

さて、実働会員が増えているかどうかについては会館建設の実情を見ればわかると書いた。その意味では会館の偏在という問題があるものの、いちおうは微増と言えるのではないかと思う。しかし、ややこしいようだが、ここで再び教学試験の問題に立ち戻って考えると、ややもすれば現状維持すらも難しくなっていることに気がつくだろう。

昨年末から本年初頭にかけての大ニュースは、小峰勝彦氏の離脱である。外部の人にはピンと来ない話だろうが、彼の離脱はいわば大事件なのだ。何しろ顕正会の首脳そのものだったからである。その理由であるとか、あるいは組織内部でどのような説明がなされているか、わたくしはまったく知らないけれども、活動会員たちにしてみれば心中穏やかならざるものが去来したはずである。彼はいわば代表例であって、実は相当の幹部たちが次々と離脱しているという現実がある。ゆえに前回のコメント欄に登場された現役活動会員A氏にしても、そろそろ身を引くべきかと悩んでいると語っているわけである。

つまり、顕正会は新陳代謝が激しい。

会長と一部の取巻き連中(?)は別にして、たいていの人が十年前後で去っていく。ゆえに頻繁な人事が行なわれる。極端な話、十年くらいすると顕正会の構成人員は総入れ替えになるのだ。

身体の新陳代謝は大事である。古い細胞から新しい細胞へとリフレッシュされる。人間そのものは変わらないけれども、細胞レベルでは常に生まれ変わっているのだ。それが健康体の秘訣だろう。
顕正会の組織の場合もそれに似ている。確かに腐った人材はいらない。そうした不要な人材を排除して、新しい人材を投入する。それで組織が活性化するという意味はある。
しかし、それはおかしいだろう。顕正会は人々を幸せにするのが目的のはずなのだ。ならば腐った人材はいらないという考え方はダメである。そもそも人材たちが次々に腐っていくという現状そのものが顕正会の根本的な問題であり、結論的には何かがおかしいし間違っているからこそ、そういう事態に陥っているわけなのだ。

いよいよ結論である。

いちおう人数的には現状維持か微増くらいには言えるのかもしれない。しかし、組織の場合、単なる身体における細胞レベルの新陳代謝とはわけが違うのだ。教学に秀でたベテランの会員たちがいなくなってしまい、教学に未熟なわけのわからない人たちばかりになってしまったら、いったいどうなることだろう。これでは人数が同じでもまったくダメである。もし仮に人数が増えていたとしても、微増くらいでは追っつかないはずだ。

以上、教学試験の結果がいかに深刻であるか、よくわかったのではないかと思う。

2017/3/16

教学試験崩壊  
沖浦氏が創価学会から顕正会へ移籍した人物について云々している。やめて愚痴を言う人は信用されないと。これは沖浦氏の常の所論であり、かつまた一般的にもそれが常識なのだろう。ただし顕正会側としては創価学会批判を目的としているので、移籍者に創価学会時代の悪しき思い出を語ってもらわないことには困るのである。その上でわたくしは、その発言に矛盾や自家撞着があればツッコミを入れるわけで、今回の場合は御書講義をキーワードとして考えた時に顕正会のほうこそ御書講義をやらなくなってしまったわけだから、他人の批判をしている場合ではないだろうと書いたのだった。

同じく沖浦氏のいわく、なぜに自ら研鑽しないのか、と。

これはもう仕方のないことだと思う。沖浦氏は自ら研鑽したわけなのだろう。だから言えるわけなのだ。しかし、それは誰もができることではない。もしかしたら百人に一人かもしれないし、千人に一人かもしれない。あるいはもっと少ないかもしれない。褒めるわけではないが、沖浦氏はそうしたマレなほうの人間なのだ。

そもそも沖浦氏の嫌いな日蓮正宗では血脈相承を立てる。他門では経巻相承を立てるところもあるが、正宗ではそれを徹底的に批判する。

難しいことは抜きにして簡単に言えば、独学というのは得てしてトンチンカンな方向に行ってしまうものなのだ。あるいはそれ以前に、どこをどのように進んで行ってよいものか、それすら判断できない人もいる。そういう人は一歩も進むことができない。逆に生半可に頭のよい人は、たぶんこれが正解だろうと判断して、そこを突き進んで行ってしまう。それが正解なら問題ないが、もし不正解なら大変なことになる。悪道に堕するのだ。

本当はもっと具体例を挙げて説明するといいのだが、なかなか好例が思い浮かばないのでこれで終わりにしよう。

さて、前置きはこれくらいにして、今日は教学試験の話題である。

沖浦氏はマレな存在だと書いた。平均的な人にとって独学はハードルの高い行為である。その意味でおそらくは宗門でも創価学会でも御書の勉強会のようなことをしているはずであり、かつまたその成果を確かめるために試験を行なったりもしているのだと思う。
顕正会もしかりである。残念ながら御書講義は完全に消滅してしまったし、御書の勉強会もない。ただし、基礎教学書をテキストとして勉強会に近いことはしている。そして同書を出題範囲として教学試験が恒例で行なわれている。
再び沖浦氏にご登場願えば、氏のようなマレな人物は試験があろうがあるまいが関係なしに、自ら進んで勉強するのだろう。しかし、一般的な人たちはなかなか勉強しないのである。ゆえに試験を行なうことは教学を学ぶキッカケとして、いちおうは効果的な手段と考えられるのだ。

ところがである。わたくしは顕正新聞第1401号に掲載されている登用試験の合格者一覧を見て、愕然とした。ダメだこりゃ、と思ったのだ。

登用試験 17398  638 3.7%
四級試験  6792 1402 20.6%
三級試験 10332 3702 35.8%


毎度のごとく、計算が間違っていたらゴメンナサイだ。前号前々号の情報を取り急ぎ集計すると、ご覧のごとくなるわけだが、この深刻さがわからない人はいないはずである。

 試験終了と同時に一斉に満面の笑みとなり、各地の会場で歓喜の拍手が巻き起こった。

 そして試験終了とともに大拍手が巻き起こった会場もあり・・・


前者は編集部の書いた文章、後者は城衛の発言である。拍手ないし大拍手・・・

わたくしは思う。オマエら、おかしいんじゃないの? と。

まあ、百歩譲って四級ないし三級の試験会場で拍手が起きたとしたら、それはそれでいいのかもしれない。しかし、登用試験の会場で拍手ないし大拍手が巻き起こったとしたら、もはや狂気の沙汰である。この際、一念信解だとか無解有信などの見え透いた言い訳はまったく無用である。だったら教学試験そのものを廃止してしまえばいいのだ。

毎年のように言っていると思うが、常識的には逆のはずである。すなわち下級試験のほうが合格率が高く、上に行くに従って合格率が下がる、それが普通なのだ。ところが顕正会の場合は登用試験が最難関であり、上に行けば行くほど合格しやすくなる。こんな世間の道理に反する話もめずらしい。

しかし、その理由はわりと簡単である。顕正会の実態を知れば、誰もが理解できるはずである。

顕正会には「空前」「過去最高」の呪縛がある。教学試験もその呪縛に縛られているのだ。ゆえに登用試験の受験者数を減らすわけには行かない。それで受けたくもない人たちまで、受けさせられているという実態がある。当然、そういう人たちは合格しない。ワザと白紙で出す人もいるかもしれない。
また、これは少しばかり失礼な話ではあるのだが、最近は後期高齢の人たちが多い。残念ながら彼らは新しいことを覚えるのが苦手である。ゆえに真面目に受験に取り組んでいたとしても合格のレベルに達しない場合もあるだろう。
もっと失礼なことを言うと、今はネットの情報が容易に得られる。すると顕正会の情報もすぐに入ってくる。賢明な人はその時点で顕正会から離れてしまう。残った人たちはバカばっかり、ということなのだ。

思いっきり失礼なことを書いた。しかし、これに文句を言ってはいけない。合格率の異常な低さがいけないのだ。つまり、自分たちに原因があるのだ。自分たちがバカであることを自ら証明している。数字が雄弁に物語っているということだ。

ある意味、本部首脳もバカである。

試験問題を精査した時に、はたして登用・四級・三級にどれほどの差があるのか、そこが疑問である。わたくしの感覚では大差ないのだ。すると顕正会に数年ないし十年以上も在籍し、真面目に活動しているであろう四級ないし三級の受験者たちがそれなりの合格率を示すのは当然であり、逆に入信間もない人たちが多く受験している登用試験の合格率が低くなるのはいちおう理屈としてはわかる。それにしてもケタ違いに低過ぎる。その理由はすでに述べたことだが、別の理由として考えられるのは登用の試験問題が難しいということだろう。つまりは試験を作った本部首脳の責任である。もっと合格しやすいように簡単にすべきなのだ。ところが先ほども言ったように、三級試験と登用試験とでは難易度にそれほどの差がないのだ。

これをさらに敷衍すれば、ウンザリということになるだろう。

登用試験に合格した人は、当然ながら次のステップに移るわけだ。五級? こればかりはわからないが、仮に五級があるとすれば五級、そして次は四級、その次は三級という具合にステップアップしていくわけだ。しかし、どうだろう。その試験問題がすべて似たり寄ったりなのである。もうウンザリである。新入信者が早々に離脱していくのは日常茶飯事であるが、中堅どころの幹部たちが離脱していくという現実も否定できない。その理由の一端がここにあるのかもしれない。

第三男子部 第七女子部 第二十七女子部 第十三婦人部

恐るべき実態である。上掲は合格者がたった一名という不名誉な組織だが、実はもっと驚愕すべき事実がある。

第十婦人部

合格者ゼロである。

あるいは何らかの事情で第十婦人部そのものが存在しないのだろうかとも思った。ならば仕方がないことだ。ところがである。三・四級試験の合格者を確認すると、しっかりと第十婦人部は存在しているのである。つまり、登用試験にしても受験した人はいるはずなのだ。けれども、一人も合格しなかった。

今回、合格者一覧を眺めていて、もう一つの事実に気がついた。これも以前から指摘していたことだが、それが物凄く顕著であるという意味で、取り上げておきたいと思う。

十三人中九人

登用試験、第六女子部の合格者を見ると、合格者は十三人いる。その内の九人が男性と思しき名前なのである。

上掲は一例である。他にも女子部の中に男性がたくさん混じっている。婦人部もしかりである。そして男子部のほうに目を転ずると、これまた女性がそれなりに混じっているのである。

おかしいだろう。

特に第六女子部がおかしい。十三人中九人が女性で残りの四人が男性ならばまだしもである。男性のほうが圧倒的に多いのである。これはもう女子部の看板を外さなければならない。

いずれにしてもである。一万人以上が受験して合格者が千人に満たないという現実はほとんど破局的であり、いかに人材が育っていないかを物語るものである。すると今いる活動会員たちの負担がますます増える。当然、その負担に耐えきれなくなって離脱していく人も出てくる。さらに残った人たちの負担が増える。まさに負のスパイラルである。

早く何とかしないと、手遅れになるだろう。

2017/3/14

第1400号拾い読み  
引き続き第1400号を見て行こう。まずは副総合男子部長の記事だが、これは改行がおかしい。文章の基本がわかっていない。その具体例は省略することにして、内容的に気になったところを次に紹介しよう。

試験に引っ張ってこられた未活動者たちが・・・

ああ、なるほど、これでは合格率が低くなるのも道理である。彼のつもりとしては、活動に消極的だった人たちが受験後には感激を口にするほど信心を一変させた・・・ということを強調したかったわけなのだが、批判者たちは見ているところが違うのである。今回の登用試験の惨憺たる結果は、まさに上掲が示すごとく、受けたくもない人たちを無理に引っ張ってきた結果なのである。そこを真摯に反省しない限り、状況はますます悪化するに違いない。

世界で唯一の重書

今度は男子部総務である。当然、基礎教学書のことを言っているわけだ。

一時たりとも休まれることなく広布の陣頭指揮を執られる・・・

同じく男子部総務の発言だが、当然、浅井先生のことを言っているわけだ。これらに関連する意味で、まずは総合女子部長の発言を引用しよう。

・・・基礎教学書こそ「広宣流布の礎」「国民の宝」との思いを、月々日々に強めております。

広宣流布の礎はまだしも、国民の宝はどうかと思う。前掲の、世界で唯一の重書も凄いが、国民の宝も相当である。基礎教学書を賛嘆することは、往いては大聖人を賛嘆することになるのかもしれないが、ハタから見れば浅井先生への賛嘆に他ならないだろう。何しろ一時たりとも休まれることなく広布の陣頭指揮を執られる人=浅井先生なのだから、ようは一から十まで浅井先生の賛嘆に終始するのが顕正会幹部の登壇なのである。

ここで翌号の婦人部小石川支区組長の記事を紹介しよう。

ときどき行われる御書講義と称する集まりは、幹部が本を棒読みするだけで、全く感激もなく・・・

創価学会時代の回想である。しかし、これは顕正会に対するけっこう辛辣な皮肉になっている。もちろん本人は気がついていないし、もしかしたらこの人の先輩たちも知らないのかもしれない。すなわち顕正会ではかつて月例行事として御書講義を行なっていたのである。

確かに幹部が本を棒読みするだけではつまらないし退屈かもしれない。その点、顕正会の御書講義は浅井先生が直々に行なうものであって、それをビデオを通して全顕正会員が視聴するわけであるから、棒読み云々に比べれば雲泥の差があるだろう。しかし、それはあくまで今も顕正会においてコンスタントに御書講義が行なわれていればの話である。残念ながら月例行事としての御書講義は完全消滅してしまった。ゆえに、この点に関しては創価学会の批判をしている場合ではない。無自覚ながらも彼女の発言は、顕正会を批判しているに等しいようなものなのである。

話が回りくどくなったが、これで男子部総務の二つ目の発言の虚しさがわかったのではないかと思う。つまり、浅井先生は休み過ぎ、サボり過ぎなのである。

いや、もちろん、同じ年齢の平均的な人たちと比較すれば遥かに活動的ではあるのだが・・・

尊き御身を削られ一人お立ちになられる先生に・・・

この女子部総務の発言もしかりである。普通の人よりは活発、さりとて往年の浅井先生に比べれば、相当にレベルダウンしていることは否めない。もし今もなお月例の御書講義を続けており、さらに不定期でもいいから六巻抄講義もやっていれば、これはもう誰も文句は言えないだろう。尊き御身を削られ云々はまさしくその通りである。しかし、繰り返しになるが、今の浅井先生は以前に比べれば相当に不活発であり、もはや年齢的にもおそらくは限界を迎えているのだろう。

う〜ん、なるほど、逆に考えれば幹部たちの言っていることもあながちウソではないのかもしれない。

つまり、もう年齢的には限界であり普通の老人であれば引退してもおかしくはない、それにもかかわらず浅井先生は戦い続けている、これは確かに凄まじいことかもしれない。

さて、話は変わる。

わずか八年で正本堂が崩壊した事実・・・

創価学会からの入会者である男子部第六十七隊組長の記事である。上掲は平成二年の諫暁書から起算してのことだ。浅井先生はこの書の中でハッキリと正本堂を撤去せよと言っている。わたくしは当時からの在籍者なのでよく憶えているが、正直なところさすがにそれは無理な相談だと思ったし、その後もずっと思い続けていた。ゆえに正本堂の撤去が事実となった時には驚いたものだった。ある意味、顕正会員の多くが大なり小なりわたくしと同じような思いを懐いていたのだろうし、浅井先生にしても発言はしたものの実現するかどうかはまったく見通しが立たなかったのだと思う。ゆえに顕正会ではこれが事実となった時には、不思議の還御と称して盛大に祝したのだった。

浅井先生のご発言と、それに応じる諸天の働きを実感・・・

まあ、しかし、この部分は疑問である。顕正会が正本堂崩壊に貢献したと考えるのは、それほどおかしくはない。あくまで一助ということであれば、である。ところが顕正会では自分たちが主役みたいに思ってしまっている。そこがおかしいのだ。単純化すれば、宗門と創価学会が全面戦争となって、その抜き差しならない状況から、ついに正本堂の撤去という結果に至るわけである。ゆえに、冷たいことを言えば、顕正会が存在しようがしまいが関係なかった、という見方をすることも可能であり、実際、そういう冷たい人たちも少なからずいるわけである。しかし、顕正会は妙信講時代から一貫して正本堂の意義について異議を唱え続けていた。この厳然たる事実を否定する人はいないだろう。その意味からすれば、結果論ながらも顕正会の主張が正しかったことになるわけだ。ましてや平成二年の諫暁書では正本堂の撤去を要求しているのだ。ゆえに主役か脇役かはともかくとして、正本堂問題に関しては顕正会が一枚噛んでいるのは厳然たる事実なのである。

さりとて浅井先生と諸天善神の関係性を云々するのはどうかと思うわけで、同一人物による次の発言などもやはり同じような考え方に基づくものなのだろう。

 「先生こそ、富士大石寺の正しい命脈を継がれている唯一のお方」

そりゃ唯一のお方の発言ともなれば、諸天善神も無視できないだろう。

さて、女子部第百四十三区長の体験発表は祖父の臨終を伝えるものであるが、細かいことは省略して次の一行をご覧いただきたい。

 また、初めて顕正会での葬儀に携わった葬儀社の人も・・・

以前にも似たようなことを書いた。すなわち彼らはプロである。遺体を頻繁に見ているし、見慣れている。ゆえに顕正会員のそれと他の人たちのそれとが明確に違うのであれば気がつくだろう。つまり、顕正会員の臨終の相が断然によいのであれば、逆に他の人たちのそれが物凄い悪相であれば、葬儀社の人たちこそ挙って入信するのではないかと思うのだ。

今回、もう少し突っ込んだことを書くと、では彼らは顕正会への入信後、仕事をどうするのかである。葬儀の大半はいわゆる邪宗であり謗法のはずなのだ。顕正会本部としてはこれについてどのように対処するつもりなのか、ぜひとも聞いてみたいものである。

2017/3/9

第1400号の第二面を読んで  
ようやくタイピングを覚えたと思ったら、スマホの時代になってしまった云々と。確かにそれはそうなのだが、多少は荷物になるものの、ノートパソコンという手もある。また、時間に余裕があればネットカフェにでも行けばいいわけで、今は日本全国どこに行ってもその手の店は存在するはずである。つまり、方法はいろいろあるわけだ。

しかし、かく言うわたくし自身がそうしたモバイル系にはまるで疎いので、外出先から拙ブログの更新を行なったことはただの一度もない。たぶん今後もないだろう。

そういうわけで一週間近くも更新ができなかったわけだが、今日は顕正新聞第1400号から話題を拾いたいと思う。

期を画する大人事

一面には日興上人会と教学試験のことが出ているが、これは後日に譲りたい。そして二面にはご覧の見出しのもと、大量の人事が報道されている。一月度総幹部会において、いわゆる隊長区長以上の人事が総勢八十八人という、文字通りの大人事が発表されたのだった。

既設区 19
新設区 12


女子部に注目すると、226〜237が連番になっているので、これは新たに設置された組織なのだろう。それよりも若い数字はバラバラになっている。つまり、それらの組織では何らかの理由で区長の交代が行なわれたことになる。

これは前にも指摘したことだ。

問題は前任者がどうなったかであるが、まあ、全員がそうだとは断定できないまでも、相当数の人たちが組織を離脱してしまったと考えるのが妥当である。
この根拠の一つは昨秋の折伏法戦の結果である。顕正会全体で誓願を大突破しているのだ。そして二百万が一年早まったとまで言っているくらいなのである。ならばそこまでの降格人事はあり得ないだろう。
新設区の意味を考えればなおさらである。新たに設置される区はどこからともなく自然に発生するわけではない。既設区の中でも弘通ないし結集が伸びているところを分割するわけである。であればその母体となる組織の区長は後輩を育てる意味でも相当の実力者である。降格する理由がない。
また、法華講員のブログの情報によれば、現役の区長が宗門に帰伏したという話もあるわけで、これがいわば氷山の一角だとすれば、今回の大量人事の意味もそれなりに見えてくるはずだ。
もちろん、宗門への移籍組だけではなく、無宗教への転向者(?)もそれなりに存在するだろうが・・・

これも前に指摘したことだが、いわゆる地方部長制を取るようになってからは、隊長区長の存在が軽くなったように感じられる。男子部で言えば、今の隊長は総支隊長レベルかもしれない。そして第一部長などのいわゆる地方部長がかつての隊長レベルかもしれないのだ。

なぜ、そのように言えるのか、少し説明しよう。

若い頃の記憶だが、たとえば先ほど示した総支隊長という役職がある。これは相当の大幹部なのだが、もちろん隊長よりは下位である。けれども、けっこう目立つ人もいた。各種の集会でしばしば登壇するし、折伏成果でも常にトップクラスを走っていた。それが何年間か続いて、ようやくその人は隊長に抜擢された。
ゆえに当時は男子部・女子部・壮年部・婦人部の四者に分かれていたが、おそらくは誰もがその人を知っていただろう。しかし、これはその人だけの話ではない。隊長区長クラスの人はたいていがそれ以前から注目されていて、いわば満を持して隊長区長に昇格するのである。彼らはいわば憧れの存在だったのだ。
ところがどうだろう。今の隊長区長はそれほどの存在感というか認知度がない。あまりにも人数が多いためでもあるが、失礼ながら前任者が突然離脱してしまったので仕方なく急遽抜擢されたような感じの、いわばニワカ感の漂う人が少なくないのである。
ヘタすると、地方部長クラスでも同じようなことが言えそうである。あれ? 誰だっけ? こんな人いたの? というようなケースがけっこうあるのだ。

もちろん顕正会的には、大地から涌き出るがごとく、次から次へと新しい人材が生まれてくるのだと、言いたいわけなのだろうけれども、次から次へと組織を去っていくという現実も否定はできないわけで、その補填人事を誤魔化すために無理してポストを増やしているような印象が拭えないのである。

さて、同じページには総男子部長の記事が載っているので、そこから二つほど拾いたい。

 これまで安倍政権の成長戦略の柱であり、かつ中国包囲網と目論んでいたTPPが、トランプ大統領により一夜にして打ち壊され・・・

実際、ここ数年にわたって、それこそ高頻度で報道されていた事案の一つがTPPだった。その意味で一夜にして云々はまさにピッタシの表現だろう。当該案件が今後どのように動くかはわからないが、わたくしはまったく別のことを思った。ああ、こういうのを急転直下と呼ぶのだろうと。我々は凡夫なるがゆえに未来のことはわからない。しかし、わからないなりに予想をする。あるいは現状を見て、こんなもんだろうと思ったりもする。ところがどっこい、まるで予想もしなかった展開を見せることも少なくないのだ。自分自身の人生もそうだし、世の中全体のこともだ。

先生の戦いは必ず間に合う・・・

これまた総男子部長の発言であるが、わたくしは無理だと思っている。間に合いっこない、間に合うわけがない、と思っているのだ。しかし、あるいはこれこそが凡夫の浅知恵であって、一見すると無理そうに見えるものが実は可能なのかもしれないということを、先ほどの例から考えたりもするわけである。

まあ、しかし、やっぱり無理なのだろう。

その理由は後日取り上げるであろう教学試験の結果などにも顕著にあらわれていることであって、ようはあらゆる意味でダメになりつつあるのが今の顕正会なのだ。まったく困ったものである。

2017/3/3

第1399号拾い読み  
沖浦氏は出張中らしく、コメントがずいぶんと雑である。わたくしもそうだが、おそらくは時代の最先端について行けていないのだろう。つまり、自宅のみならず、いつでもどこでも自由自在にネットを使いこなせるようでなければ、時代遅れということなのだ。

それはさておき、顕正新聞の続きである。

最後の決戦場に臨まれる先生のご雄姿を拝見して・・・

男子部総務の新任代表決意の中の一節である。わたくしには最後の決戦場の具体的ビジョンがまるで見えない。昨日は会長講演を取り上げたわけだが、そこにはすでに一国諫暁の戦いが始まっている旨の記述があった。具体的には新聞広告のことだ。では、最後の決戦場とは何か、具体的には何をどのようにするのか、ということが気になるところである。もしそこで平成九年や十六年の時のようなことをするのであれば、何のインパクトもないだろう。とは言え、浅井先生に秘策があるわけではない。結局は似たり寄ったりのことをして、お茶を濁すだけなのだと思う。

世界中を大聖人様の大きな衣で覆って頂いている有難さ・・・

新任の婦人部総務はなかなか斬新なことを言うものである。世の中のあらゆる事象はすべて仏法の範疇に収まる。それを法ではなく人の側面から表現すれば上掲のようになるのだろう。ただし、この場合はいわゆる一神教的な雰囲気が濃厚であり、そもそも日蓮本仏論とはそうした性質のものなのだろうかと、あるいはもともと法華経で説くところの久遠本仏そのものが一神教的なのだろうかといった具合に、いろいろと考えなければいけない場面である。

さらに話を発展させれば大聖人と歴代上人の関係性がどうなるのかという問題もあるわけだが、ここではあまり深入りしないで次に関連する記事を紹介したい。

先生のお姿を通して、広宣流布を見つめられる歴代先師上人の崇高なお振舞いを目の当たりに拝せる・・・

婦人部登米支区支区長の発言はベラボウに難しい。先ほど、大聖人と歴代上人の関係性には深入りしないと書いた。今度は歴代上人と浅井先生の関係性が問題となっているのだ。ご承知の通り、顕正会では現宗門を認めていない。日達上人以降の宗門を否定しているのだ。ましてや御相承の断絶を言っちゃったものだから、もはや御法主上人の権威はガタ落ちである。そこで登壇者の発言に戻れば、ようするに現宗門の擁する法主はニセ法主であり、日目上人が出現あそばすまではどこにも法主はいない、そうした中で浅井先生こそが事実上の法主であり、浅井先生の姿を通してこそ崇高なる歴代上人たちの姿を拝することができるのだ、というような意味にも受け取れるわけである。これはかなり強引な解釈だと承知した上で、あえて書かせていただいた次第だ。

次の男子部第二十隊支隊長は過日の成人式でも登壇した若手の有望株である。

いま顕正会が戒壇の大御本尊様にお目通り叶わずとも・・・

これは熱原の法華講衆との対比で語られている。すなわち熱原の人たちは大聖人に一度も御目通りが叶わなかった。けれども純粋熱烈なる信仰を貫いた。今の顕正会もまったく同じであると。

しかし、これも悩ましい話だ。先ほどの婦人部支区長の発言を振り返れば、その意味が見えてくるだろう。

彼女は浅井先生を通して歴代上人を拝すると言っていた。これまた牽強付会を承知で言えば、今の顕正会は浅井先生を通して戒壇の大御本尊を拝していることになるのだ。
しかし、委細に見れば、熱原の人たちとはまるで事情が違うことに気づくだろう。彼らは日興上人という大聖人の側近中の側近から御指導をたまわっていたのだ。あるいは在家の先輩格に当たる上野殿からも大聖人の話を伺っていたと考えられる。上野殿は身延へ何度も足を運び、大聖人の謦咳に接しているのだ。ゆえに熱原の人たちは大聖人に直接の御目通りをする機会はなかったにしても、日興上人や上野殿などを通して大聖人の御事を如実に拝していたのである。
では顕正会はどうかであるが、確かに浅井先生も若い頃は法華講のエリートみたいな存在で、猊下はもちろんのこと、その他の老僧たちからもいろいろと話を伺っていたようである。けれども昔の話である。今はもう完全に切れちゃっているのだ。

まあ、叱られるのを承知で書けば、いわゆる五老僧がいる。彼らも大聖人に直接仕えていたのだ。ゆえに彼らの指導を受けるのも相当のはずである。しかし、日蓮正宗系でそれを是とする人はいないだろう。ようは切れちゃっているのだ。いわゆる血脈がである。

つまり、今の浅井先生の立場は、表面的な意味で言っても宗門の人たちとはすでに関係が切れちゃっているわけであり、より深い意味から言えば血脈が切れちゃっているということになるのだ。ゆえに顕正会員の置かれている状況が熱原の人たちと酷似しているというのは、まったくのウソとは言えないにしても、かなりの欺瞞があると言わざるを得ないのである。

この際、指導教師の派遣を申請したらどうかと言いたいくらいだ。

異常な怨嫉、教室内で顕正会誹謗の動画
 怨嫉者たちに罰、中心者が謝ってくる


男子部第十二隊班長の活動報告である。彼は昨年四月に母親の縁で入信したというフレッシュな高校一年生である。顕正会は若い人が育っていないと思いきや、案外にそうでもないのかもしれない。ともかく高校生が折伏を実践すると必ず一悶着起こる。これは昔から一緒である。それが最近はネットの発達によって、上掲のごとく顕正会を批判するサイトがたくさんあり、その手の動画なども出回っているので、ある意味では昔よりも熾烈なのかもしれない。

わたくしが顕正会は若い人が育っていないと度々書いているのは、まさにこのためでもあるのだ。

それはともかく、次のくだりが問題である。

・・・自ら部活を辞めました。
 そして、御奉公に飛び回りたいとの思いから、アルバイトを始め・・・


部活をやめるのは本人の自由である。アルバイトをするのも同じ理屈だ。ゆえに何の問題もないと言えばそれまでである。しかし、広宣流布の戦いのために部活をやめるのはどうかと思う。だったら高校もやめちゃえばいいじゃないかと言いたい。もちろん極論ではあるが・・・

わたくしの思うに、顕正会は犠牲が多いのだ。

何かを成し遂げるためには何かを犠牲にしなければいけない。何事においても確かにそうした一面があるのは事実だろう。しかし、それを高校生に求めるのはどうかと思う。

何しろ仕事までやめちゃう人がいるのである。それで顕正会が面倒見てくれるのなら大いにけっこうだが、実際には無理な話である。本部職員になれるのはごく一部の人だけであるし、彼らにしたって決して厚遇されているわけではないのだ。

損得勘定だけで行動するのも浅ましいことだが、しかし、顕正会の場合は犠牲がデカイので、そこは大いに問題視すべきだろう。

2017/3/2

ボッコンリンリ  
今朝の大沢氏のコメントは、けっこう説得力がある。強いて言えば、日蓮正宗だけが別格みたいな結論に、じゃっかんの手前ミソを感じるけれども、それとて正宗の志の高さを意味するものであるし、氏の立場からして当然の発言である。ともかく宗教オワコン時代の今、日蓮正宗がどのようにして弘通を伸ばしていくか、注目したいところである。ヘンな話、今のところは創価学会や顕正会からのオコボレ(?)を頂戴しているような印象が否めない。ゆえに今後は、純然たる新規入信者をどうやって獲得していくかが一つの課題である。

さて、今日は顕正新聞第1399号を見て行こう。一月度総幹部会を伝える新聞である。

激動の時代

これは会長講演の最初の小見出しである。世界は激動の時代に突入したと、いきなり講演の冒頭で言及している。そして当該講演の後半、分量としては全体のおよそ半分が世界情勢についての言及である。とりわけアメリカ新大統領についての言及が多いのは、タイムリーな話題として当然ではあるのだろう。

彼の言動は最近の言葉でいえば、まさに「ゲスの極み」だ(大爆笑)。

浅井先生も流行語に敏感のようだ。トランプ大統領の過激な言動をご覧のように表現しているわけである。

 彼は選挙中に言ったことを実行するでしょう。選挙中の公約を実行しないのもいけないが、そのまま実行するのはもっと悪い(爆笑)。まさにイチャモンを実行しようとしているのです。

この前の一段では、TPPについて言及している。

 私はこのTPPについては、・・・前々から反対であった。

説明を端折って恐縮であるが、TPPに関する浅井発言には矛盾・自家撞着がある、という意味の批判をしている法華講員がいる。しかし、わたくしの感触ではそれほどでもないだろうと思うのだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1842.html

リンク先に明らかなごとく、浅井先生は四年前から明確にTPP反対を唱えていた。逆に自民党は野党時代に反対を言っていたにもかかわらず、与党になってからは百八十度の方向転換をした。ところがここに来て、トランプ大統領がTPP離脱を宣言したことで、結果的に自民党の方向転換が裏目に出てしまったことになるのだ。不羈奔放の新大統領に安倍首相が振り回されている。安倍批判を続けてきた浅井先生にとってはいい気味、言葉は悪いがそれが今の展開なのだろう。

一国諫暁の戦いは
 すでに始まっている


順番が逆になってしまった。講演の前半では教学試験のこと、そして開目抄のこと、それから基礎教学書の広告のことなどが語られている。申すまでもなく上掲の小見出しは広告についての言及である。この一月、全国の地方新聞に基礎教学書の広告を相次いで掲載したと。すなわちこれが一国諫暁の戦いなのだと。

 こんどの広告で、「新聞で読んだ」という申し込みが相次いでおります。以前とは反応が変わってきた。これも、時代が変って来たからだと私は思っております。

具体的にはどのくらいの部数が売れているのかである。高い広告費を払っているのだから、まったく効果がないということはないだろう。でなければ、誰も新聞広告など打たないはずである。

そしてもう一つ、なぜに全国紙に広告を打たないのか、である。相変わらず、どこかの組織が妨害しているのだろうか?

新聞広告は空中戦
 地上戦は広告コピー


いわゆる配布活動である。昨年十一月末ですでに六百万枚の配布がなされているという。活動会員たちの熱心さには驚くばかりだ。

二百万、一年早まる

浅井先生は広宣流布の決戦場を二千二十年代だと定め、それまでに二百万の大組織を築きたいと念願していた。それが予定よりも一年早まり、来年には達成できる見通しとなった。

・・・大聖人様の御守護により、一年早く、来年には、必ず二百万は達成できます。

しかし、ここには大いなる欺瞞がある。

直前に基礎教学書の話題があったので、そこから話をつなげてみよう。ご存知のごとく、基礎教学書の前身は折伏理論解説書である。平成十一年に出されたその改訂版には、一千万の誓いが記されている。もはやこれでオシマイである。一千万を誓っていたのだ。しかもそれを平成二十五年までに達成すると言っていたのだ。ところが周知のごとく、達成できなかった。それどころか、二百万にも満たないところで、ウロウロしているのである。こうした事実を覆い隠して、大聖人の御守護で二百万が一年早まったなどと言ったところで、過去の大言壮語の数々を知る者としては、もうそろそろいい加減にしたらどうか、と思わざるを得ないのである。

つまり、一年早まったというのはウソであって、事実は大幅に遅延しているのだ。

 誓願は二万五千

四月末までの目標である。わたくしは顕正会の内情を知らないので、この数字が妥当かどうかの判断はできないが、活動会員たちの立場になって考えれば大変なことである。しかも二百万が終わりではないのだ。そこはいわば通過点であって、その後も戦いは続くのである。離脱者が後を絶たないのも当然である。


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