2017/10/16

コウレイカシャカイ  
コメント欄が賑わっている。少し前、沖浦氏が投稿を控えていた時にはわりと静かだったことを思うと、さしずめ沖浦氏は嵐を呼ぶ男(?)なのだろう。ようは人気者なのだ。

 普通は72歳になると、仕事なんかほとんどありませんし出来ません。
 それが多忙の日々を送っている。


これは凄いことである。過去にも繰り返し書いていることだが、今の超高齢化社会における最大の課題は高齢者の生き方であり、同時に死に方でもあるのだ。いわゆる介護問題にしても、ただ単に予算をたくさん組めばそれで済む話ではないだろう。こういうことを政治家が言うと大問題になるけれども、わたくしの立場ならば構わないだろう、早い話が将来性のない人のために莫大な予算を使って何のメリットがあるのか、である。ましてや今は医学の飛躍的な進歩で、昔ならばとっくに死んでいてもおかしくないような状態のまま、何年も生かされているようなケースも少なくないのだ。しかし、だからと言って生きている人間を意図的に死なせるわけには行かない。それは殺人である。

超高齢社会においては、いわばポンコツになった生産性のない人間がたくさんいて、その社会的負担がとてつもなく大きくて、ニッチもサッチも行かない状況にならざるを得ないのである。

ゆえにそうした中で、元気な老人はその存在自体が貴重であり、今後も末永く活躍されることが望まれる。まさに沖浦氏はそのお手本のような存在なのだ。

さて、今日は顕正新聞の続きである。

 宗門では年一回、「寺族同心会」と称して、僧侶とその妻が一堂に本山に集う会が開かれるのですが、身に着けるものはすべてが最高級品・ブランド物で、同伴する妻も必ず新調した着物を着ては妍を競います。

婦人部京都支区総班長の登壇記事である。彼女は若い頃、創価学会の総局と呼ばれるところで働いていたそうで、後に宗門の僧侶と結婚したという。その経験談ないし目撃談を語っているわけだ。

上掲について思うことは、年一回くらいならば許してやりたい、というきわめて主観的な感想である。当然ながら、僧侶にあるまじき、という意見もあるだろうし、まさに顕正会全体の意見がそれなのだろう。
おそらく今は宗門側にしても、顕正会のみならず創価学会でも目を光らせているわけだから、そういう意味では自粛というか是正の方向性で動いているのではないかと想像される。
ましてや近年は僧侶オワコンの時代になりつつあるわけで、世間一般の尺度からしても同様のことが言えるのではないかと思う。そりゃそうだろう、自分たちの供養が僧侶の身に着けるブランド品に化けるのだと知れば、これほどバカバカしい話もあるまい。

 私も正本堂に参詣しましたが、内部はすり鉢状の椅子席で、戒壇の大御本尊様を上から見下ろすようになっており、何とも恐れ多い限りでありました。

なるほど、御本尊を見下ろすのはどうかと思うところである。この反省もあってか、現在の奉安堂は見下ろすような構造にはなっていないはずである。

ちなみに椅子席についてはどうなのだろうか?

何となく顕正会の建てる国立戒壇は畳敷きのようなイメージがあるけれども、それはさすがに現実的ではないだろう。椅子席がダメということはないはずだ。現実に顕正会の会館でも確か青年会館などは椅子席になっているはずなので、おそらく国立戒壇もそれでいいのだろう。

・・・先生の諫暁のお叫びに、必ず宗門にも現証が現われ、目が覚め、清らかな富士門流の精神が蘇ること、大確信いたします。

現証とは何だろうか? 何か具体的な想定はあるのだろうか?

顕正会員が見えていない、気がついていないことを、わたくしは書いているつもりである。上掲の言い回しは、顕正会が全面的に正しくて宗門が全面的に間違っている、という雰囲気が濃厚である。これが和解の道を閉ざしているのだと思う。このテイタラクでは五十年後も百年後も和解は実現していないだろう。そして顕正会はいつまでも正本堂のことをあれやこれやと言っているのだ。今はまだ記憶を残しているものの、五十年後にすり鉢状の椅子席がどうのこうのと言ったところで、もはやどうにもならないだろう。もちろん教義上の問題は半永久的に残る。しかし、そこに正本堂というアイテムを介する時、正本堂が存在しない今は御遺命守護の歴史も朽ち果てていく運命にあるのだ。

さて、八面には新潟女子部集会の様子が報道されている。この時の総合女子部長の指導から引用しよう。

大石寺の堅き伝統が、解散処分を機に、浅井先生によって顕正会で守られている・・・

遥拝勤行のことを言っているのかと思える文章だが、実際は違うのである。

そして今『戒壇の大御本尊様は秘蔵厳護し奉らくてはいけない』との大石寺の堅き伝統が・・・

普通に読むと、理解不能である。宗門では堅き伝統が守られていないが、顕正会では守られている。では、どうやって守っているのか? わたくしにはさっぱりわからない。

とうとう総合女子部長もおかしくなってしまったのか、あるいはわたくしの理解力が乏しいだけなのか、何とも言えないところである。

前後するが、七面の左側の記事から引用する。

長行ができるお経本を手にしては嬉しさでいっぱいになり・・・

女性男子部員の「正義にめざめて」である。どうやら今の創価学会では長行を読まないらしい。長行が載っている経本は全廃されてしまったのだろうか?

2017/10/10

シリメツレツ  
沖浦氏の今朝のコメントを読んで思うことは、かく言う沖浦氏自身が実は折伏的な生き方を貫いているのではないかということである。これを自己矛盾と言うのだろう。

そう思っていたら、直後にひじょうに厳しいコメントが寄せられた。

・・・正気の沙汰と思えない。自語相違と支離滅裂も甚だしい。

巌虎よ、オマエがいちばん矛盾しているのだ。

こう言われているわけであるが、特に積極的に反論する気分にはならない。なぜならば、しょせん人間なんてものは自己矛盾のカタマリみたいなものだからである。

ただし、それが組織ともなれば、大勢の人を巻き込むことになるわけだから、リーダーには大きな責任が生じてくる。わたくしのようにたった一人であれば、アイツは頭が狂っている、まったくどうしようもないヤツだ、と言われても、それはわたくし一人に対する評価であって、それ以上でもそれ以下でもないわけだが、それが組織であれば話が違ってくる。ゆえにわたくしは顕正会の批判もすれば宗門の批判もするわけである。

しかし、顕正会員から見ると、わたくしは猊下に対しては相当に甘くて、逆に浅井先生に対しては相当に厳しい、と映るようである。

これは顕正会員による浅井先生絶対論の裏返しだと思っていただくしかないだろう。

浅井先生が絶対であるとする根拠はどこにもない。それにもかかわらず、顕正会員たちは先生は絶対だと言う。だったら猊下にも同じ理屈がつけられるだろう。ましてや猊下は唯授一人の血脈相承を受けし御方なのである。この点はとてつもなく大きい。

結局、創価学会もそうだったが顕正会も同様で、これに対抗する有力な方法論が見当たらないので、いわゆる御相承の断絶みたいなことを言い出す始末なのである。

わたくしはこれに大反対である。何をトチ狂っておるものかと思う。

猊下は猊下として奉った上で、己の主義主張を貫けばいいのである。かつて顕正会で細井管長・阿部管長と申し上げていた時分は、まだそうした節度が保たれていたと思う。しかし、後に呼び捨てにするようになってからは、まさにタガが外れてしまったごとくで、もはや後戻りができなくなってしまっているのだ。

この点をぜひともお考えいただきたいものである。

さて、今日も顕正新聞の続きを見ていくが、わたくしのやっていることもようは矛盾の追及である。問題は矛盾の度合いだろう。先ほども書いたように、しょせん人間なんてものは矛盾だらけである。問題はその矛盾が許容範囲なのか、それともどうしようもないほどの深刻なる自己矛盾なのか、である。

以前、語義矛盾として、安倍政権の悪政は必ず裏目に出る、というような文章にツッコミを入れたことがあった。悪政が裏返ったら善政になるのでは、と指摘したのだ。顕正新聞側としては、なるほど、と思ったのか、それ以降の紙面にはその手の表現が消えたのだった。わたくしとしては事前にアゲアシ取りであると断ってはいたわけだが、顕正新聞側としてはこれを真摯に受け取ったわけである。

実はこの問題はけっこう重要なことを教えてくれているのだと思う。

総じて人間は、わりと簡単なミスについては、あっさりと己の非を認めるものなのである。ああ、これは失礼しました。自分のうっかりミスです。
ところがである。重大なミスを犯してしまった時には、一種のフリーズ状態になってしまって、そこで対応が止まってしまうのである。あるいは意固地になって、もしくは逆ギレして、自己正当化を図ろうとする場合もある。
これはもう、誰もが経験上、知っている事象だろうと思う。自分自身がそうなってしまっている場合もあるし、身近にそうした振る舞いをする人物を目の当たりにしている場合もある。

わざわざこういうことを書くことの意味は、自分自身が何か重大なミスをした時に見苦しい行動を取らないようにしたいという、ようは自戒の意味である。

さて、話を戻そう。

 「今の学会員は池田先生を仏様としているから問題ない」

これは第五男子部長の記事に出てくる創価学会員のセリフである。彼は祖母の代からの創価学会員で、現在の年齢が二十歳、そして高校時代は高等部長として三百人の後輩を取りまとめていたそうである。凄い人物だ。

前後の脈絡は省略させていただくが、それにしても上掲のセリフが気になるところである。いわゆる会長本仏論が問題視されたのはけっこう昔のことである。その後、創価学会は会長本仏論を取り下げた。それが近年になって、復活したのだろうか?

 「成仏なんて初めて聞いた…」

これも前後の脈絡は省略する。実は同じページの下段に男子部第八十一隊班長の記事があって、そこには創価学会員のセリフとして次のようなものが紹介されているのである。

「学会に入会して御本尊を頂いたら即、成仏だ」

今日の矛盾はこれである。先ほどの創価学会員は成仏なんて初めて聞いたと言っていた。しかるに今度の創価学会員は上掲のごとく言っているのだ。もっとも前者は二十歳の若者であり、後者は詳細は不明ながらも高齢と思われるので、その世代間のギャップが理由かもしれない。つまり、今の創価学会では成仏を教えていないということになるだろう。

 学会では凡夫と仏様の境界の違いがわからず、「御本尊は自分の姿を映す鏡」などと大慢心の解釈がなされており・・・

沖浦氏が何か言ってきそうなところである。ちなみに、わたくし自身は上掲を大慢心の解釈だとは思っておらず、難信難解の仏法を平易に理解せしむるための一つの表現方法として、アリだと思う。まあ、これについてはまた別の機会にやりたい。

本年五月から自宅拠点をさせて頂いております・・・

わたくしは組織を離れて相当の年月が経つので記憶がアイマイであるが、確か自宅拠点は副長以上でないとできないルールだったはずである。この点、詳しい人がいれば、ぜひともご教示願いたいところである。

2017/10/9

カデンリカ  
沖浦氏は法門談義をご所望のようであるが、他の宿題がたくさん溜まっているので、しばらくお待ちいただくしかないだろう。物事には優先順位があるということだ。こう書けば、教義上の問題が最優先事項だろうと反論する人がいるかもしれないが、ともかく沖浦氏との法門談義はこれまでにも繰り返しやってきたことなので、今さら急ぐ必要もあるまい。

それよりも大沢氏からのコメントが重要である。直接は浅井先生へのヤンワリとした批判であるが、同時にわたくしの無知・無教養を指摘している意味もあるだろう。

ここでは具体的な文言を掲げないが、どうやら大学の設置基準がイヤラシイことになっているらしく、なぜか許認可を受ける前に校舎を建て始めなければいけないシステムなのだそうだ。その意味からすると、加計学園が認可前に建設工事を始めたことは何の問題もないことになるだろう。それを浅井先生は知らなかったのだと、大沢氏は言っているわけである。

しかし、ここは常識論ないし原理原則論で考えるべきところである。

認可を受ける前に工事をして、もし認可が下りなかったらどうするのか、という素朴な疑問がある。これについて一般的にはどのような回答が模範となるのか知らないが、常識的に考えれば事前に何らかの根回しが行なわれているだろうことは確実である。事前工作も何もしないで、莫大な費用を使って、それでもし認可されなかったら、大損である。そんなバカなことがあるわけがないのだ。
そしてこれまた常識論として、許認可制度そのものが贈収賄を生む温床となっている。もちろん許認可制度を撤廃することは難しいわけで、いわばそこが痛し痒しの構造的な問題ではあるのだろう。ともかく認可を受けるためにはさまざまの根回しが必要となる。ぶっちゃけ言えば、お上へ袖の下を握らせる必要があるわけだ。
こうした背景を踏まえれば、加計問題がどれほど深刻であるかがわかるだろう。何しろ加計孝太郎氏と安倍首相とは古くからの友人なのである。状況的には物凄くアヤシイと言わざるを得ないわけで、真実がどうであれ、まさに疑われても仕方がない、疑われても文句は言えない、という状況なのである。

瓜田李下という言葉がある。調べればすぐにわかるが、これこそが賢人の振る舞いだろう。

思えば政治家の不倫問題が取り沙汰されている。しばしば行為に及んだか否かみたいな下世話な話がワイドショーを賑わしているが、それもまさに瓜田李下という賢人の振る舞いを見習うべきであって、つまらぬ言い訳をするくらいならば、最初からそのような疑われる行動を取らなければいいだけの話なのである。

さて、顕正新聞第1418号である。

唯授一人の御相承の深意を垣間見させて頂いたかのような喜び・・・

第二十四婦人部長は凄いことを言うものである。浅井先生の指導を聞いてご覧のように言っているわけだが、しかし、先生の言っていることはそれほど真新しいことではなく、部長クラスであれば何度も聞いている話である。

 「密附とは密かなる付嘱ということ」

ツッコミを入れるとすれば、そのまんまじゃないか、ということになるだろう。

しかし、浅井先生も偉くなったものである。唯授一人の御相承は文字通り唯授一人なのだから、在家の一信徒に過ぎない浅井先生がその内容を知っているわけがないのである。それを顕正会員たちは、先生は何でもご存知なのだと錯覚しているわけである。

先生にとっての「師」とは日寛上人であり、先生は、日寛上人から時を超えて直々に御書の極理、大聖人様の深き御心を師伝されておるのだ・・・

同じく二十四部長であるが、先ほどの唯授一人とも関連して、ひじょうに興味深い記述である。

アゲアシ取りながらも、時空を超えて直々にと言うならば、いっそのこと大聖人の時代まで遡ってしまえばいいのに、と思う。そうすれば沖浦氏も文句は言わないだろう。

そして今度は逆に浅井先生を擁護することを書く。

浅井先生が日寛上人の御指南に精通しているのは事実である。そこらの不勉強の正宗僧侶よりも遥かに詳しいだろう。もちろん正宗僧侶の中にも勉強家はいる。
ならば、その人に問いたい。現宗門は、日寛上人の御指南を捻じ曲げてはいまいか、ということだ。
不勉強のわたくしが言うのもおこがましいが、宗門は正本堂問題以降、自分たちを正当化するために日寛上人の御指南を捻じ曲げてしまい、それを未だに修正せずにいる。もちろん戒壇論を中心にである。

たぶん正宗僧侶の中でも真面目に教学に取り組んでいる人はわかっているはずである。しかし、立場的な問題もあってか、それを大っぴらに言うことはない。だったら思い切って、御隠尊ないし御当代が言えばいいのだが、それも難しそうである。

実に困ったものである。

2017/10/7

キレアジバツグン  
時事ネタから書こう。前回の拙稿から数日経って、確かに潮目が変わってきたような印象がある。希望の党に対する評価がじゃっかん下がってきて、選挙情勢はひじょうに混沌としたものになってきた。大沢氏も書いているように、ここに来て小池氏の腹心的な存在だった都議二人が離脱するという動きもあって、かつまた首班指名をどうするかの問題もいまだに不透明のままなので、そのような党をどこまで信用してよいものか有権者も判断に迷うような状況である。そうした中、枝野氏を中心に立憲民主党が立ち上がった。そもそもつい一ヶ月前に民進党の代表選挙があって、前原氏と枝野氏が戦っていた。結果は前原氏が勝ったわけだが、それにしてもその民進党が解党され、新たな枠組みが出来つつあることが、まさに政局の急展開を物語っているわけだ。個人的な印象ながらも、今となっては前原氏は埋没ぎみであり、むしろ枝野氏のほうが存在感を示しているように感じられるところである。

柄ではないが、当たらぬ予言を書いておこう。

わたくしの感触では自民党は相当に議席を減らすと思う。希望の党については当初の期待値ほどではないにしても、新党としては格好がつくだけの議席数を獲得するだろう。共産党と立憲民主党もそこそこの議席を獲得するのではないかと思う。結果として安倍氏は辞任となる。問題はその後の構図である。何しろ希望の党が自民党との大連立をも視野に入れているような口ぶりなので、そうなると安倍さんを引きずり下ろしたのはいいものの、結局は元のモクアミみたいなことになりかねない。わたくしは自公を政権から完全に引き離さないといけないと思う。

「安倍政権崩壊特集号」

これは八月度総幹部会の記事を中心に組まれた顕正新聞第1418号に付けられた名前である。今頃になって八月の話題を云々するのもどうかしているが、まあ、そこはお許し願いたい。

 この政権は必ずまもなく崩壊する。

浅井発言である。今回の会長講演は安倍首相批判に終始している。ほぼ全編がそれなのである。

これはもう、ひじょうに明快になってきた。白か黒かの勝負である。わたくしはダラダラと任期いっぱいまで政権が続くものと思っていたが、なぜかここに来て安倍首相は解散カードを切ってきた。今月の下旬には結論が出る。十月度総幹部会の前だと思われるので、そこで浅井先生がどのような発言をするかがミモノである。先生の予言は外れることで有名なのだが、さて、今回はどのような結果になるか、ひじょうに興味深いところである。

国家破産はまもなく事実になります。

同じく浅井発言であるが、これまた興味深い事案である。なぜならば浅井先生は安倍首相云々に関わらず、それ以前から国家破産を予言していたからである。つまり、今度の選挙で政権の枠組みが大きく変わったところで、この問題は解消されないとするのが浅井説のはずなのである。その意味で、もし仮に自民党が負けて安倍さんが退陣しても、喜んでばかりはいられないだろう。それとも顕正会員たちは浅井先生の予言が当たったと言って狂喜するのだろうか?

 賭博は刑法で禁じられている。その賭博を国が行うのです。おかしいでしょう。
 賭博は人の心を狂わせ、家庭を壊わす。ところがこれを「成長戦略」などと称している政権は、頭が狂っているとしか言いようがない。


これはカジノ法案に対する批判である。なるほど、手順としてはまず刑法を改正しないといけないだろう。その上でカジノ法案をやるのであれば、いちおうは整合性が保たれる。しかし、そもそもなぜに刑法で禁止されているのかを考えれば、人の心を狂わせ家庭を壊すからなのだろう。浅井先生の言っていることは単純明快な正論である。

目を閉じて、8秒間も頭を下げた安倍首相

毎日新聞社から提供された写真に付された説明である。都議選で大敗を喫し、その後の内閣改造の時の記者会見での出来事だそうである。どうでもいい話かもしれないが、わたくしは八秒が気になった。これはマスコミ各社が報道していることなのか、顕正会が独自に計測して言っていることなのか、である。確かに八秒は長い。だが、しかし、それがどうした、とも思うところだ。

国家戦略特区が
 そもそも憲法違反


不勉強のわたくしはこれを知らなかった。そもそも今回の問題が大きく報道される以前から、このような指摘をする人がいたのかいなかったのかが気になるところである。ようするに「前々から」というヤツだ。前々から言っていた、言い続けてきた、こういう人がいれば、その人は本物の見識を備えた人物だろう。

・・・突然、在イタリア日本大使館に移動になってしまった。
 これは森友疑惑隠し、口封じのためです。疑惑はますます深まっております。


会長講演は有効な情報源である。上掲は森友問題の深層部分を知っていると思われる谷査恵子氏についてであるが、わたくしを含めてごく一般的な人々はそこまでの情報を知らない。

しかし彼は疑惑発覚後、四ヶ月も行方をくらましているのです。

こちらは加計問題の当事者である加計孝太郎氏のことである。これもなるほどである。森友問題では当事者である籠池夫妻の露出度がベラボウに高かった。ところが加計問題ではまさに雲隠れ状態であり、わたくし自身、一度たりとも加計氏を目撃していない。たぶん国民の大半が同様だろう。このこと自体がすでにして事のヤバさをあらわしているのだ。

現証は事前工事

現証がいかにも顕正会的であるが、言っていることはマトモである。もし認可を受ける前から工事をしているのが本当ならば、これはもう完全なる癒着を意味するものだ。平たく言えば、首相とオトモダチだからこそ、可能な芸当なのである。

以上、今回の会長講演はおおむね肯定的に読ませてもらった。浅井先生の切れ味が遺憾なく発揮されていると思う。

最後に一号遡って、第二十七婦人部長の記事を紹介しておきたい。

 また北野駅前で配布していると、自転車を停めてじっと聞いていた七十代の壮年がいたので、班長が特集号を手渡すと、先生のお写真を見て「浅井さんじゃない、甚兵衛さんだよね」と言ってきたので、「先生をご存知ですか?」と聞くと、かつての文京区音羽の先生のご自宅の裏に住んでいた人で、自ら「漬物屋の田口」と名乗ってきました。

興味深い話である。

2017/10/3

ヒサシブリ  
実はここ一週間あまり多忙を極めていて、自分のブログもろくに見ていない状況だった。ゆえに諸氏のコメントもよく読んでいないし、かつまた世間の動きにも疎い状況である。

そうした中、政局は急転換を見せている。

現時点では国民の野党側に対する期待もそれほど高くはないと思われる・・・

前回の拙稿である。九月二十三日午前の記述であるが、この時点の状況分析としてはそれほど間違ってはいないだろう。ところがである。この直後に急展開が起こるのだ。

小池百合子氏による新党立ち上げである。その名も希望の党という。

これにマスコミは色めき立った。その後の報道は希望の党を中心にした野党勢力の結集がどのように進展するかにスポットが当てられ、民進党の事実上の解党に始まってその他もろもろの細かい動きが今も続いている状況である。

先ほども書いたように、わたくし自身はまったくの別件で忙しかったものだから、この政治状況についてはまるで不案内である。今も当てずっぽうで書いているに過ぎないことをお断りしておきたい。

政権交代の目が出てきたことで、有権者たちも希望を持ち始めた。

わかり切ったことだが、人間は手が届かないと思っているものには手を出さないものである。空に浮かんでいる月を取らんとしても、取りようがない。どれほど手を伸ばしても届かないからだ。これまでの安倍一強政治も同様の意味があって、野党のだらしなさを見ればどうにもこうにも現状打破は不可能と見るのが一般だった。ゆえに有権者も消極的ながらも現政権を容認せざるを得なかった。

それが小池氏の登場で一気に変わり始めた。正直に凄いことだと思う。

この急展開は誰も予想しなかったでしょう、これこそが諸天の働きなんですよ・・・

上掲は誰の言葉でもなく、今思いつきで書いたものである。知る人ぞ知るパロディだ。いかにも浅井先生の言いそうなセリフではあるまいか?

かつての橋下徹氏にも通ずる話だが、一人の強烈なキャラクターによって全体が大きく動いていくという現象が今起こりつつあるのかもしれない。郵政選挙における小泉純一郎の成功例が思い起こされるところである。

ただし、素人目にも問題点が映る。

委細には小池氏の政治理念と一致するかどうかの踏み絵の問題があって、いわゆる左派と目される人たちは排除される運命にあって、今度はその人たちで新党を立ち上げるという話にもなっているようだ。あるいは総理経験者などの重鎮的な人たちも入れてもらえないらしい。一種の主導権争いなのだろう。希望の党と名乗ったところで、構成メンバーが旧来の野党の面々ということになれば、そのまま旧来の力関係が残ってしまう。それでは看板を掛け替えただけで何も変わらないことになるだろう。

その意味で、政治理念だとかその他もろもろの条件を付けて峻別していくことは理に適っていると思う。

しかし、素人目線からすれば、もっと単純明快な疑問があるのだ。

もし仮にである。希望の党を中心にした新政権が実現したとしても、そこでの首班指名をどうするのかが大問題なのである。

ゆえに小池氏が国政に戻るか否かが取り沙汰されてもいるわけだが、現時点では本人が否定している状況である。であれば彼女が総理大臣になることはあり得ない。では誰がなるのかである。すると残念ながら今のところは役不足の人ばかりであり、まったく総理候補が見えてこないのが正直なところだと思う。

以上は前回の拙稿からわずか十日ばかりの動きを雑駁に書いたものである。まだまだこの先も動きがあるだろうし、さらなる新展開もあるかもしれない。これについては今後も推移を見守っていくつもりだが、以下は関連する話題を書いておきたいと思う。

小池百合子氏はタレント議員のハシリである。

今さらこういうことを書くと𠮟られそうだが、上述は厳然たる事実だろう。そして最近で言えば、丸川珠代氏などもその典型的な人物だと思う。彼女はすでに大臣経験者なのだ。しかし、それは当然ながら実力ではなく人気によるところが大きいのだろう。もちろん小池氏も大臣経験がある。

ところがである。今の若い人は小池氏をよく知らないらしく、東京都知事になって大きく脚光を浴びるようになって、そこでようやく彼女の存在を知ったという人が多いようなのだ。

ウッカリしていてわたくし自身もあまり気がついていなかったことなのだが、そう言えば都知事以前の彼女はずいぶんと影が薄かった。自民党所属の国会議員だったわけだが、ひと頃は露出度がベラボウに低かった。安倍内閣では女性の活躍する社会がどうのこうのというスローガンを掲げており、多くの女性閣僚も輩出した。ところがそこに小池氏の姿はなかった。

実は小池氏と安倍首相は相当に険悪な関係らしく、それゆえに安倍内閣では小池氏の起用は行なわれなかった。ぶっちゃけ言えば干されていたわけなのだ。

結果として、それが彼女の奮起を促がしたのだろう。このまま埋没してしまうくらいならば一か八かの勝負に出よう、ということで都知事選に出たのだと考えられる。

わたくし自身はもうこれで十分だと思った。彼女の政治家人生は成功だった。このまま都知事の職を全うして、それで引退すれば文句はないだろうと思うのだ。
しかもである。先の都議会選挙では自民党を歴史的な大惨敗に追い込んでいるのだ。もう文句はあるまい。
と思いきや、第二弾を放ってきた。今度の新党立ち上げがそれである。もともと都民ファーストの国政版を模索していたのは周知のことであるが、今のこのタイミングで打ち出したのが強烈だった。変な話、だったら解散しなきゃよかった、という気分にもなるだろう。もちろん安倍さんがである。

選挙の結果がどうなるかはわからない。いちばん無難な答えは勝負は時の運であると言ってしまうことだ。

ゆえに結果はともかくとして、ここでわたくしが言いたいのは小池氏の生き様である。最初はタダのお飾りのタレント議員だったのかもしれないが、今は日本を動かすもっとも有力な政治家の一人である。正直、凄いことだと思う。

それからもう一つ、御用評論家について書いておきたい。

具体的な人物名は省略するものの、安倍首相の太鼓持ち的な評論家ないしコメンテーターが雲霞のごとく存在する。わたくしはこの人たちの挙動に注目したいと思っている。実はひと頃、一年に一回くらいの頻度で首相が交代していた時代があった。こういう時の評論家はある意味で気楽である。逆に今のように安倍体制が続いている時の彼らは大変なのだ。おわかりだろう、批判ばかりしている人たちは権力側から疎まれるし、ヘタすると仕事を失うことにもなりかねない。ゆえに自ずと太鼓持ちが増えてくるのだ。

これは本当に興味深いテーマだと思う。もし何百年も生きることができるならば、定点観測したいくらいである。

早い話が、こんなにもたくさんの太鼓持ち評論家がいた時代があっただろうかと思うほど、今はそういう人たちが跋扈しているのである。そして彼らは虎の威を借る狐の言葉どおり、野党側に対する批判を激しく展開している。けっこう過激な言葉を吐く人も少なくない。

面白いものが見られるかもしれない。立場が逆転した時、彼らがどのような言動をするかである。

2017/9/23

アキノイリグチ  
顕正新聞第1417号の続きを見ていこう。

安倍首相がひた隠す加計疑惑の深い闇も、阿部日顕の河辺メモ流出のごとく必ずや白日の下に晒される・・・

男子部第二十隊支隊長は正本堂崩壊の大現証もリアルタイムでは見ていないという、物凄く若い世代の人材であるが、漠然とした印象ながらも、この人の顕正新聞に登場する頻度はけっこう高いので、若手の有望株と言えるだろう。

過去六十年間、ひたすら大聖人様に忠誠を貫き、諸天を方人としてこられた先生のご発言に必ず諸天は動き、安倍独裁政権は退陣に追い込まれる・・・

このところ衆議院の解散がささやかれていたが、どうやら本当に解散・総選挙が行なわれるらしい。これは驚きだった。

そして今現在、わたくし自身は特にマスコミ等の情報を丹念に調べているわけではないが、これまた漠然とした印象だけで言わせてもらえば、どうも結果が不透明のようである。ゆえに当てずっぽうを言えば、もし現政権が勝てば安倍独裁体制がよりいっそう強化されて、超長期政権が実現することになるだろう。しかし、逆に負ければ、自爆解散だったという評価が下されることになる。今のところ、そのどちらが正解かはわからない。さらに言えば、現時点では国民の野党側に対する期待もそれほど高くはないと思われるので、自民党が先の都議選のような潰滅的な負け方をすることは考え難い。すると結果的にはどちらにも軍配を上げづらいような中途半端な状況になるかもしれず、まずます閉塞感が強まることにもなりかねない。だとすれば、いったい何のための選挙なのか、ということになる。

顕正会的にはわかりやすい。

現政権が勝てば、またしても浅井先生の予言が外れたことになる。野党が勝てば、これはめずらしく浅井先生の予言が的中したことになり、顕正会員的には万々歳だろうと思う。

ただし、だからどうした、それで広宣流布の加速度が増すのか、そんなことはあるまい、というのがわたくしの言い分である。

 先生の師子吼に即座に反応する諸天の働きを見ては・・・

隣の婦人部総務の記事から引用した。ようするに、浅井先生が安倍首相の退任を叫ばれてよりわずか三ヶ月で支持率がガタ落ちになり、都議選では歴史的大惨敗を喫した事実こそ、先生の師子吼に即座に反応する諸天の働きなのだ、と言っているわけである。

これも今度の選挙の結果次第だろう。そこでどうなるかを見てから再評価すべきだと思う。

先生は新しい本部会館の会長室で宣告書を読まれた・・・

相変わらず同じことを言っているが、こちらも言わせていただこう。なぜに妙信講の本部に会長室なるものが存在するのか、である。そんなバカな話はあるまい。

当時電話があった家庭は少なく・・・

婦人部総務の直上に男子部総務の記事があって、そこから引用したのが上掲である。昭和三十年代の通信事情を語っているわけだが、その本人にしても当時をリアルタイムで経験したわけではなさそうだ。まだ赤ん坊だったか、あるいは生まれる前の話だろう。

まあ、しかし、こうした話はけっこう貴重な情報というか、着眼点だと思う。

わたくしの幼少期はおおむね固定電話の普及が終わった時代だった。こう書くと年齢がバレそうだが、それはさておき、ごくマレに経済的な事情からか電話のない家があった。しかし、それはおそらく百軒に一軒くらいの割合だったろうと思う。
その後、ポケットベルが登場し、携帯電話も普及が始まった。しかし、当初はごく一部のお金持ちだとか、電話のやり取りを頻繁に行なうような職種の人だけが持っていた。今のように誰もが当たり前のように携帯を持つようになったのは、今世紀に入ってからだろう。わたくしもちょうどそのくらいの時期に携帯を持ったのだと思う。
そして今では固定電話そのものが減りつつあるらしい。若い人の場合、携帯があれば固定は必要ないという考えの人が一般であり、自ずと固定の新規契約は見込めない状況である。公衆電話も激減した。ある意味、必然的な流れではあるのだろう。

どうだろう。先ほどの正本堂崩壊をリアルタイムで知らないという若い支隊長などは、上述のような固定電話の普及が始まった時代だとか、携帯に移行する過渡期にいわばツナギ的な役割を果たしたポケベルの存在など、まるで知らないはずである。その意味で男子部総務の記事は貴重な情報ないし着眼点だと書いたわけである。

ちなみに総務の言わんとしていたことは、そのような時代の折伏は大変だったろう、ということだ。しかし、わたくしはそうでもないと思っている。ある意味では今の時代のほうが大変かもしれないし、もしかしたらいつの時代も大変なのかもしれない。

今日は何だか余談的な感じになってしまった。

2017/9/18

モッタイナクモ  
街頭折伏が解禁されたかどうかは微妙なところであり、じゃっかんの注釈が必要かと思う。

ようするに以前は繁華街で見ず知らずの人に声を掛けて、そのまま入信勤行に持ち込もうとしてトラブルを起こしていたわけである。しかも最初は趣味の話みたいな、まるで本題とは無関係の話題で相手を引き付けておいて、タイミングを見計らって本題を切り出すわけである。これはもう騙し討ちと言われても文句は言えないだろう。

ところが今はそうではなく、顕正新聞を片手に話をするわけだから、いちおうは旗幟鮮明なのである。これならば騙し討ちにはならないだろう。

もっとも大沢氏の証言によれば、安倍首相云々の特集号を配っている時にはあたかも宗教ではないかのような言いぶりだったらしいので、それは相当に問題だろう。まあ、しかし、それでも以前の騙し討ち折伏に比べれば、遥かにマシではあるわけだが・・・

せっかくなので『迷走する顕正会を斬る』から、勧誘トラブルの実態を論ずるくだりを一部紹介しよう。

 〈騙し入会〉…一部のことではあるが、当人に入会の意思がないのに「行くだけ行ってみよう」等と拠点に連れて行き、「せっかく来たんだから」と入信勤行に参加させてしまう。あるいは、宗教であることを隠して「運のよくなるお寺がある」と拠点に誘って形だけ入会させてしまう。「占い」などに関心が強い若者の心情に取り入っての入会偽装である。

顕正会側も反省したのだろう。こうした批判を受けてのことか、近年は目立って勧誘トラブルが少なくなった。先ほども書いたように、顕正新聞片手に折伏するわけだから、いちおうは正々堂々なのである。また、街頭折伏とは少し違う形態として、訪問折伏がある。これは平成十六年の諫暁書が出来して以降、地道に行なわれていることであり、当然、諫暁書を前面に押し出しての活動だから、騙し討ちなどの問題は生じ難い。

さて、顕正新聞の話題である。第1417号の続きを取り上げたい。

最終段階に・・・

まさに広布最終段階に・・・

広布最終段階こそ・・・


総合婦人部長の登壇である。彼女は最終段階がお好きなようで、ご覧のように同じフレーズを繰り返し使っている。はたして五年後、あるいは十年後、どのようなことを言っているだろうか?

次は第二十三女子部長の発言であるが、看過できない問題発言である。

 先生はこのたび勿体なくも、日淳上人が、前々から学会の強大な権力に諂う細井日達に憂いを懐かれていたことに言及されましたが・・・

ようするに浅井先生の発言を受けて書いているわけだから、これは彼女の失言ではなく、先生の失言である。ちなみに、わたくしの読み落としがなければ、顕正新聞掲載分の浅井発言には上掲に類するものはまったく見られない。おそらくは総幹部会の場で発言したのだろうけれども、新聞掲載時にはヤバイと思って削除したのだろう。それをわざわざ第二十三女子部長が暴露しているわけである。

過去にも繰り返し指摘していることだが、これは編集部の怠慢でもあるわけだ。わたくしは顕正新聞掲載分の情報しか持ち合わせていない。たぶんその気になれば浅井講演の音声データを入手することも可能だろう。しかし、そこまでする気はない。つまり、編集部がもっと頑張って編集作業をすれば、わたくしからのこうしたツッコミは受けなくて済むのである。

もはや説明する必要もないのだけれども、マレには道理のわからない人もいるだろうから、書いておこう。

ようするにくだんの発言は日淳上人をダメ法主だと言っているようなものなのである。何しろ前々から細井師の諂いぶりを知っていて、それを憂えていたわけなのだろう。それでいて細井師に御相承をあそばしたというのは、合点の行かない話である。つまりは日淳上人の言っていることとやっていることは支離滅裂ということになる。

御高徳の上人を冒涜するのも大概にせよと言いたい。

むしろ疑って掛かれば、この話は浅井先生が自分たちの主義主張を正当化するために都合よくでっち上げたホラ話だと、このように言われても仕方がないだろう。逆に言うと、そうした反論が予想されるので掲載しなかったと考えられるのだ。

思えば最近の創価学会はどうか知らないが、ひと頃は日顕上人をボロクソに言う代わりに、日達上人を物凄く持ち上げていた。これに対して法華講の諸氏が言っていたことが、まるで上述の話とウリフタツである。つまり、日顕上人を悪く言うのは間接的に日達上人をダメ法主だと言っているのと同じなのである。創価学会員にはこの道理がわからないのだろうか?

ただし、話を戻して、この件に関しては創価学会のほうがまだマシだろう。ようは顕正会が最悪なのだ。

前々から・・・

再掲である。これがいけないのだ。

前々からをどうやって証明するのか聞いてみたいところである。顕正会員たちは浅井先生をいわば神格化していて先生は何でもご存知だと錯覚しているフシがあるけれども、先生と言えども当時はまだ二十代の若造だったのだ。まさか日淳上人がそんな若造に細井師と創価学会の関係性みたいな話をするわけがないだろう。

そして今は日淳上人も日達上人もいらっしゃらない。ようは本人たちに反論の機会がないのである。それをいいことに好き勝手なことを言っているとしたら、とんでもないことである。

 先生はこのたび勿体なくも・・・

シツコイようだが、再掲である。この言い回しが凄まじい。いったい何が勿体ないのか、本人に聞いてみたいものである。

2017/9/16

ノルマトプレッシャー  
前回のコメント欄を見ると、投稿者こそ少ないものの、そのほぼすべてが拙稿に沿った内容になっているので、ひじょうにありがたいことだと思う。まあ、しかし、逆にプレッシャーを感じるのも事実である。

現場の会員が言う、お金の問題は、数珠や教本や書籍は幹部が買ってあげますよ的な意味が含まれているのではないでしょうか?

これは顕正会経験者でないと実感できない問題だろうと思う。

そこでわたくしの拙い経験を踏まえて書かせてもらうと、入信したばかりの人は先輩から訳もわからずに折伏をやらされる。もっとも本人は友人を引っ張ってくるだけであり、実際に折伏を行なうのは先輩である。それで最初のうちはイモヅル式に五人だとか十人が入信してくる。そのうち、訳もわからずにやっていた本人に自覚が芽生え、かつまた教学も身についてきて自力で折伏を行ずるようになる。もちろん、その頃には班長だとか副長になっていて、いわばノルマ的にやらざるを得ない状況になっているわけだ。

ところがである。皮肉にもその頃には折伏の対象者も尽きてきて、たった一名の成果を上げるのにも一苦労することになる。つまり、一回の折伏法戦で一名がやっとか、ヘタすると一年に一名が精一杯の状況になってしまうのだ。

これで上掲の意味が理解できたのではないかと思う。ようするに成果を上げるのに苦労している人たちにしてみれば、入信時の諸費用はぜんぶ出してあげるという気分なのである。

諸費用ゼロ云々はあらゆる業種に見られるセールストークである。本来、宗教とその他の商売はまったく別次元のはずであるが、こうしたところに近似ないし相似の部分があらわれていることが、何とも悲しいところである。

せっかくの浅井先生指導も些か機を逸したように感じました。

唐突の引用で恐縮であるが、いきなり本質的な結論に入りたいと思う。ようするに浅井先生は世間に対するアンテナを敏感に張り巡らせていて、そこでキャッチしたいわゆる時事ネタを講演に織り交ぜて聴衆を魅了する。これを何十年も続けてきたわけである。実際、それで功を奏してきたからこそ、顕正会は伸びてきたのだろう。

ただし、委細に見れば、失敗も多い。タイムリーを狙えば狙うほど、外した時の痛手も大きいのだ。

その一々の具体例というのは面倒臭い話なので省略しよう。ようするに上述のような仕組みというか、一種のカラクリがわかってしまうと、そこで浅井先生に対する絶対的な信用が崩れてしまう。それと同時に組織の実態、ダメさ加減というものも、どんどん見えてくるわけで、もはやそうなれば離脱も時間の問題だろう。ようはこの繰り返しなのである。

ゆえに今回の浅井先生のそれが凡打だったのか空振り三振だったのか、その辺の度合いは何とも正確にはわからないが、ともかくこのカラクリがわかってしまえば、あとは時間の問題なのである。

それでもなお、顕正会さんへ入信を希望する方が後を絶たないのは、厳虎さん的には一体何が原因だと思われますか?

同じような質問を前にも受けたような気がするが、その時にどのように答えたか今は憶えていない。別に一貫性を持たせる必要もあるまいと思うので、今回は今回で新たな視点からお答えしようと思う。

『迷走する顕正会を斬る』を再読されたし、である。

かく言うわたくしも最近はあまり読んでいないので偉そうなことは言えないが、まずは第八章の最後の一文を紹介しよう。

浅井昭衛氏の勧誘成果至上主義・会員拡大路線が破綻していることは、明らかであろう。

つまり、入信を希望する人が後を絶たないというのはウソである、いや、ウソは不適切かもしれないが、ここでは事実誤認である、もしくは事実を正確に認識していない、ということになるだろう。

では正しい認識とはどういうものか?

確かに今も相当数の入信者がいる。ようはコンスタントに相当の人数が入信している。これは事実である。しかし、いつも言っているように定着率がベラボウに悪い。名前だけの入信なのだ。この点を認識すべきだろう。

それから『迷走する〜』が指摘する問題点は、浅井先生がブチ上げた具体的目標との乖離である。昭和六十一年に行なわれた第二回武道館大総会で浅井先生は、なんと一億人の入信目標を掲げているのである。この大言壮語・大風呂敷を著者は痛烈に批判している。

そして同書には第四章に遡って注目すべき記述がある。少し長い引用になるが、次は昭和四十五年の出来事である。

 一月二十八日、創価学会は総務会で、折伏活動の中止を決定した。これは戸田会長が作り上げた教団モデルの根本的改変であり、この決定により創価学会の爆発的な大躍進は終焉した。中止の決定で成長がピタッと止まったということは、ノルマとプレッシャーをかけなければ教団組織の過剰な拡大がないことの、何よりの証明である。

ご覧のように引用文の後半部分には著者の見解が記されている。まさに慧眼だ。

これで今回の結論は見えたはずだ。顕正会は今もなお大風呂敷を広げ続けている。言葉を換えれば、会員たちにノルマとプレッシャーを掛け続けているのだ。ゆえに名目上は成果が上がり続けており、それが名目上の総会員数として公表されているわけである。今現在、二百万に届くところまで来た。

しかし、顕正会は無理に無理を重ねてきた、ゆえにいずれは無理が祟って崩壊する、今はその一歩手前まで来ているのではないか、というのがおおむね正しい現状認識なのではないかと思う。

2017/9/13

カドノキタイ  
もしマイケル氏が拙ブログを盛り立てるつもりでいろいろと腐心しておられるのならば、その気持ちはひじょうにありがたいことではあるけれども、そこまでしていただかなくても結構である。拙ブログは顕正会問題を中心に、書くべきことは書いてきた。ゆえに、まだ続けるつもりではあるものの、いつ終わりにしてもいいと思っているのだ。マイケル氏にはこの点をご理解いただければと思う。

次は素人氏のコメントだ。

O部長は浅井先生の次にボリュームがある人だと思うので、指定席から居なくなると、すぐわかってしまう…

これはどなたのことだろうか?

A部長の暴力疑いは、顔だけみれば激しく同意です。

顔で判断するのは失礼千万なことだとは思うが、まあ、しかし、誰が見ても同じような感想を懐くだろう。

さて、今朝の大沢氏のコメントである。

「私たち、宗教とは関係ないんですよ〜」
と断言してニコニコしている・・・


どこかの駅前で特集号を配布していたそうである。例の安倍首相に対する退陣要求号だ。確かに政治案件ではあるものの、さすがに宗教と無関係だと言うのはウソになるだろう。実際、浅井先生は他の政治運動との差別化を図る意味で、安倍首相の神道復活の目論見を謗法だと断じているのである。その意味からすれば、そこで活動していた顕正会員たちは浅井先生の顔に泥を塗っていることにもなりかねないだろう。ようは正々堂々かつ旗幟鮮明でなければいけないのだ。

そもそも宗教とは無関係と言ってしまったら、もはや入信勤行には持ち込めないだろう。

問い詰めると班長さんらしき男性が
「顕正会は入信して直ぐにお金はかかりませんから、宗教団体ではありません」
と回答。


大沢氏は彼らを問い詰めたそうである。その時の回答が上掲だ。何だろうね、これは・・・

お金が掛からないから宗教団体ではないというロジックは自分勝手な解釈に過ぎない。全体の流れを見れば、それがいかにも詐術的であることに気がつかないといけないわけだが、彼らはまったく気がついていないのだろうか?

ようするに政治案件の特集号を配っている段階では、いちおう宗教団体ではないという説明が可能と考えられる。しかし、ゆくゆくは入信勤行に持ち込もうとしているわけなのだろう。その時になると、今度はお金が掛からないから宗教団体ではないという説明に変化するわけである。こんな欺瞞が通用するとでも思っているのだろうか?

相手の立場になって考えれば、何となく騙されているような気持ちになるはずである。つまり、騙しているのだ。彼らには騙しているという自覚がないのだろうか?

わたくしの思うに、もうすでに駅前で配布活動をしている段階で彼らには相当の覚悟があるわけなのだ。ならば、そんな詐術的なロジックを使わないで、正々堂々とやればいいだろう。

顕正会員は「諸天が動いて安倍首相は退陣に追い込まれた」と言っていますが、誰の目から見てもすっかり窮地に追い込まれていた安倍首相、最新の世論調査で内閣支持率が増加しているようです。
浅井会長が余計な事をしなければそのまま退陣に追い込まれていたのではないでしょうか?

浅井会長には天災、戦争についてドンドン語って欲しいものです。


この部分はイヤミながらもけっこう核心に迫っていると思う。

拙ブログでも繰り返し言及してきたが、浅井先生の予言は当たらないというジンクス(?)があるのだ。それが皮肉にも今回もまた当てはまってしまったわけである。何しろ直近の顕正新聞では「安倍政権崩壊特集号」を謳っている。しかるに、その直後に当たる世論調査では、安倍内閣の支持率がかなり回復しているのだ。

ゆえに大沢氏は言うわけである。浅井先生には天災・戦争についてドンドン語ってほしいと。

わたくしの見通しを書いておくと、安倍政権は遅くとも一年後には終わるはずである。これは予言とかの話ではなく、今の自民党内の雰囲気からしても来年秋の総裁任期が一つの区切りになるとの見方が有力とされているのだ。一時期、三選も取り沙汰されていたが、さすがにもうそろそろ交代すべきだろう、新しい人にやってもらったほうがいいだろうという意見が強くなってきているのも事実である。そこで安倍首相自身も欲をかかずに引き際を間違えなければ、このままうまく引退できるかもしれない。モリカケ問題の重大なる疑惑が残るものの、良きにつけ悪しきにつけ日本人の習性として水に流すという考え方があるので、それでうまく収まるのではないかと思う。しかし、逆に安倍首相が続投を表明すれば、そこで内外から大反発が生じるだろう。予言でも何でもない、ただの常識的な見通しである。

問題は自民党政権そのものだろう。先日、民進党の代表選挙があって、人事が刷新されたけれども、現状ではとてもじゃないが政権交代を実現し得るだけの力を持っていない。他の野党もしかりである。つまり、安倍政権が終わっても自民党政権は終わらない、続くのだ。それでは日本を覆っている閉塞感を打破することは難しいに違いない。

わずかに期待するとしたら、先の都議選で大躍進した都民ファーストの国政版だろう。しかし、それも現時点ではまったくの未知数であり、過度の期待は禁物である。

2017/9/12

コウカクジンジ  
まず、降格人事については情報不足で何も言えないのが現状である。わたくしは顕正新聞掲載の情報しか持ち合わせていない。現時点では素人氏のおっしゃるような記事は見当たらない。ゆえに何も言えないのである。

マイケル氏のコメントはずいぶんと粗雑である。

まず、創価学会票がないと当選できない自民党議員がたくさんいるという話は、たぶんその通りなのだろう。ゆえに神道復活は相当に困難である。この点はなかなか的確な意見だと思う。

しかし、他のコメントがよくなかった。

どの宗教団体も「公称」に過ぎませんから、どっちが勝ったも負けたも、ないんじゃないですか?

そんなことはわかり切ったことである。ゆえに前回、夢想だと書いたのだ。しかし、夢想であり実現性が低いにしても、話の内容はかなり具体性のあるものだった。

まず、奉安堂の真横くらいのところに、奉安堂よりも巨大な会館を建てるのだ。収容人員を一万人にしよう。そこに毎日、一万人が参詣するのだ。いや、もっと欲張って午前と午後の二回、参詣が行なわれてもいい。すると毎日、二万人である。もしこれが実現すれば、誰の目にも勝敗は明らかだろう。そういう話を書いたのである。

あくまで、私見に過ぎない事をお断りしておきます。

1978年(昭和53年)9月14日に、宗教法人顕正寺顕正新聞社が設立されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A1%95%E6%AD%A3%E4%BC%9A

宗教法人顕正寺顕正新聞社が、何処にあったのかは存じ上げません。

宗教法人顕正寺顕正新聞社の会長は、浅井先生。

穿った見方になるかもしれませんが、「会長室」という言葉を使用されているんじゃないかな〜って僕は思っています。


何をトチ狂っておるものか・・・

すでに何度も書いているように、解散処分は昭和四十九年の出来事なのである。それにもかかわらず、なぜに昭和五十三年のことを引き合いに出してくるのか、である。よしんば、五十三年の段階では会長室が存在したとしても、それが四十九年段階での存在証明にならないことは、小学生にもわかる簡単な道理だろう。

いずれにしても顕正会を名乗るようになったのは昭和五十七年からなので、もしそれ以前に会長気取りでいたとしたら、それは池田大作氏への嫉妬心の反映だろうとも解釈され得るところである。

ご存知の人も多いはずだが、浅井先生は戸田城聖氏への憧れが物凄く強かったと言われている。それはたぶん事実なのだろう。では池田氏に対してはどうかである。まさにそれこそが嫉妬心であると言わざるを得ないのだ。つまりは自分も池田氏のような、あるいは池田氏をも凌駕するような、絶大なる権力を得たいとの願望である。その反映が会長室なのである。ようやく小さな小さな会館を一つ建てた段階にもかかわらず、さらにはまだ妙信講という法華講の一講中を名乗っていた時にもかかわらず、そこに会長室を設えて会長気取りになっているという姿を、いったいどう見るべきだろうか?

善意に解釈すれば、イメージトレーニングの大切さを教えているのかもしれない。実際、顕正会は当時に比べれば飛躍的に大きくなったわけだし、顕正会における浅井先生の立場は絶対的である。なるほど、イメージトレーニングの効果は絶大ということだ。

もっとも、それが広宣流布・国立戒壇建立という、最終目標の実現に結びつくかどうかは難しいところだが・・・

話を戻そう。

昭和五十三年に顕正新聞社の会長に就任したという話自体、わたくしには初耳のことであるが、それが事実だとしても昭和四十九年の証明にはならない。こんな簡単な道理をマイケル氏は理解できないのだろうか?


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