2017/8/15

リソウキョウジツゲン  
コメント欄は拙ブログと無関係の話題で盛り上がっているが、わたくしはいつものごとく顕正新聞の話題を書くことにしたい。第1414号だ。

当該号も諸天の働きを云々する記述がたくさんある。それをぜんぶ紹介していたらウンザリすることにもなるだろうから、今回はざっと数を拾っておきたいと思う。二面から七面まで登壇記事が二十二本ある。そのうち諸天のことを云々している記事は、なんと十二本もあるのだ。

そうした中、書店のことを云々している記事もある。ご存知、基礎教学書の話題だ。

しかし、どっちもどっちだろう。諸天の働きにしても顕正会員たちが大騒ぎしているだけであって、それほどの大現証が起きているとは思えない。そして基礎教学書の話題にしても、全国の書店に平積みになっているかのごとく言っていたけれども、現実には大したことはないようである。

いつも言っているように、顕正会は大袈裟なのである。誇大宣伝が過ぎるのだ。

大聖人様の御覚悟と浅井先生のご覚悟が重なり・・・

そういうわけで今日は少し目先を変えてみよう。上掲は原文通りではないことをお断りしておくが、男子部第百四十八隊支隊副長の記事から抽出したものである。会長本仏論の濃厚な文章だ。

そもそも浅井先生の発言に諸天が感応するということを幹部たちが口々に言っていること自体が、すでにして会長本仏論的なのである。それが当該号の場合、全記事中の過半数に及んでいるわけだから、凄まじいの一語に尽きる。この先、いったいどうなってしまうのか、まったく想像がつかないところだ。

ちなみに上掲の記事は祖母の臨終を伝えるものであり、本人はレントゲン技師なのだそうで、仕事で死因究明のために遺体をCT撮影する機会があるらしく、そうした数々の遺体と祖母のそれとを比較して、仏法の虚しからざることを実感した旨、書いている。こうした記述の信憑性ないし客観性がどこまで担保されるものか定かではないが、ともかく医療関係者の多くが同様の見解に立つようになれば広宣流布は加速度的に進むだろう。逆に言うと、失礼ながらも彼の記述は相当の部分で主観的なのだと思う。

山県有朋の末裔の壮年 特集号に感激

第四女子部長の記事に付された見出しである。よくわからないが、誰々の末裔だとか子孫だとか、そういう話がたまに出てくるけれども、あまり意味がないような気がする。例えば工藤さんとか上野さん、池上さんとか本間さん、こうした名前はそれほどめずらしいわけではなく、それが誰それの末裔だとしても、だからどうした、というのがわたくしの考えである。また、それが現代感覚でもあるだろう。

いや、もちろん、それを言っちゃいけないわけではないが・・・

永田町・霞が関で特集号を配布

男子部第六十七隊長の記事の見出しである。本文からも引用しておこう。

ここでは毎週、婦人部・女子部も配布をしているため・・・

どうせならばもっと効率的に各部で話し合って配布場所を変えたほうがいいだろう。

と思いきや、男子部第七十七隊支隊長の記事には次のような文章がある。

 また先日は靖国神社の前で、組織をあげて特集号の配布を行いました。

これは意外な場所だった。顕正会は謗法厳禁であるから、そうした施設には近づかない。とは言え、それでは折伏もできない。そこで神社の中ではなく、神社の外で配布をしたわけなのだ。

ところで次の男子部第七十隊長の記事が興味深い。

 タクシードライバーをしている班長が・・・

話が長いので省略するが、ようは自民党大物代議士の秘書を乗せたのだそうである。その秘書の傲慢さが延々と綴られている。ところがである。途中から急に態度が和らいだそうで、最後は一万三千円の料金のところ、二万円を出してお釣りを受け取らなかったそうである。

班長いわく、サンバイザーに差してあった顕正新聞が目に入ったに違いない、と。

さらにいわく、しかも『安倍首相辞任要求・特集号2』であったから、なおのこと恐れをなしたのではないか、と。

わたくしに言わせれば、まったくの勘違いである。秘書は急いでいた。ゆえに最初はそうした口調になっていた。しょせんは民間のタクシーだから交通ルールを無視してまで急がせることはできない。しかし、急がないといけない状況だった。そして結果的には間に合ったわけなのだろう。その時間的な見通しがついた段階で気持ちが和らいだと考えれば自然である。お釣りは間に合ったことの謝礼とも考えられるし、あるいはいつもそうしているのかもしれない。かく言うわたくしもタクシーではお釣りを差し上げる主義ないし習慣であるから、代議士の秘書ともなればなおさらのことだろうと想像する。

しかるに第七十隊長は次のごとく言うのだ。

先生のご発言が一国に影響を及ぼす段階に入りつつあることを感じ・・・

これが本当ならば凄いことだが、実際にはかなりアヤシイところであり、しょせんは顕正会員たちの願望に過ぎない。それが現実だろう。

最後に女子部第百九十三区長の記事をご覧に入れよう。

 実はこの真成寺の界隈は、地名も「真成寺町」と呼ばれ、周辺はみな檀家であり、小さな商店街が軒を連ね、毎年、真成寺の一行が商売繁盛を願って練り歩く行事が、恒例となっております。しかし今では、営業している店はわずか数店舗、閑散として活気を失った現在の光景は、異様に思えてなりません。

少し長い文章で恐縮である。しかしながらこれも前掲の記事と似たような意味があって、顕正会員の観察眼は相当のバイアスが掛かっていて、必ずしも事実を正確には把握していないと考えられるのだ。

日本国を独走

近年、浅井先生が繰り返し言っていることである。顕正会だけが日本国を独走しており、邪宗はことごとく衰退しつつあるのだと。

まさに上掲はこうした浅井先生の発言に沿った物の見方・考え方である。そして引用文には明らかでないが、他の部分を読めばくだんの寺院がいわゆる身延派日蓮宗であることがわかる。よって寺院は衰退、同時に門前町も衰退しているのだと、彼女は見ているわけである。

しかし、それは違うだろう。

確かに門前町の盛衰は寺院のそれに比例する。これは当然の理屈である。しかしながら今は全国的にどこもかしこも疲弊している。それが商店街の実情なのである。わたくしの居住地域でも同様の問題があって、今も通りの入口に立派な看板を掲げていて、交差点名も◯◯商店街入口となっているのだけれども、え? どこに商店街があるの? というようなところもあるのだ。ゆえに個々の商店街にはそれぞれ独自の事情があるのかもしれないが、総じて言えば商店街は全国的にオワコンの時代に入ったのだと、このように理解するのが一般だろう。

顕正会は仏国実現という高尚な目標を掲げている。もちろんそれはそれでいいだろう。ある意味、その基礎となるのが地域ごとの街づくりのはずである。遠大な目標もけっこうであるが、そうした身近なところでのアプローチも考えておくべきと思う。

2017/8/13

テンハケンジンヲステタマハヌ  
沖浦氏から諸天のことでコメントを頂戴した。おっしゃる通り、顕正会のそれはいわゆる神風的発想であり、別の言い方をすれば他力本願的であって、よくないと思う。さりとて沖浦氏の認識も十全とは言えないだろう。

ようするに諸天善神は基本的に天上界の衆生なのである。ゆえに人間に特化して論ずるのは誤解を生ずることにもなりかねない。

まず、基本は天上界であることをしっかりと認識しないといけない。その上で変化人という概念を知れば、すべては解決するはずである。

また、一般的にも化身という言葉・概念が存在する。今、手元の辞書を引けば、次のごとくである。

仏や菩薩が衆生を救うために人の姿となって現れたもの。

これが一つ目の説明であり、さらには三つほど説明が付加されている。それらは省くけれども、ともかく一つ目の説明が重要で、一般的にも変化人に近い考え方が定着していることの証左と言えるだろう。

かく言うと、仏・菩薩とは実は人間のことなのだ、と返してくるかもしれない。

沖浦氏らしい返し技というか、逆転の発想ないし再逆転の発想とでも言いたくなる魅力的な考え方である。また、そこが創価学会の面目躍如なのかもしれないと思う。

しかし、これは何も彼らの専売特許ではなく、もともと存在する概念なのである。

生仏一如 凡聖一如

これまた教養人であれば、知らない人がいないほど、巷間に流布された言葉である。

いずれにしてもである。

顕正会の主張する諸天の働きは、現代人の感覚からすると相当の乖離があって、俄には信じ難いところである。対する創価学会のそれは、そうした現代感覚を考慮してのことか、かなりアレンジされたもののようである。悪く言えば現代感覚に迎合しているのだろう。

人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。

改めて瑞相御書を拝すると、ここに帝釈の動とある。これを新鮮に感じるのはわたくしが不勉強だからだろう。当該御書には依正不二の原理が示されている。この依報をいわゆる環境と捉える時に、特に創価学会では盲点が生じているものと考えられる。つまり、依報を草木国土という非情のカテゴリに押し込めてしまって、いわば感情のない無機質な世界のように理解してしまっているフシがあるのだ。しかるに上掲の御文では、帝釈の動があると認められている。ここは現代感覚がどうであれ、大聖人の御認識はかくのごとしである。

よって、これを否定することは大聖人の仏法を否定することにもなりかねないわけで、この点を創価学会ではどのように考えるかが問われるのである。

まだまだ説明が足りないものの、これで諸天善神についての顕正会の認識がわりと大聖人の御指南に忠実であることがわかったのではないかと思う。一方の創価学会のそれは現代感覚に迎合するあまり、本来の諸天善神観から大幅に外れてしまっているように見えるのだ。

しかしながらわたくしは顕正会のそれを全面的に支持するものではなく、むしろ今の顕正会は諸天の働きを重視するものの、すべて自分たちの都合で解釈してしまっている点が問題なのだと、これまでにも繰り返し指摘してきたわけである。

天人相関説 災異説

これまた不勉強ながらも、これらは古くからある中国思想であり、大聖人の依正不二論はこの影響を多大に受けていると指摘する人もいるようだ。これについては特に言うことはない。どっちでもいいと思う。

問題はこれが現代科学の観点からして、どれほどの信憑性を持つかである。

つまり、現代人の中にはこれをまったくの迷信だとして一笑に付す人もいるし、あるいは無教養のゆえだろうか、こうしたことに無頓着の人もいる。

例えばずいぶん前にも書いたことだが、道路ないし道路脇にゴミが大量に投棄されているような場所がある。悪循環なことには、少しでもゴミがあると、それが増幅されていって、瞬く間にゴミだらけになってしまうのである。当然、公道であれば公費で清掃が行なわれる。つまりは我々の税金が使われるのである。だったら全員が自覚を持ってゴミを捨てないようにすれば、そうしたムダな公費が使われることもなくなるはずである。こんな簡単な道理がわからないものかと嘆息するばかりであるが、まったく改善される様子がない。

実は今、税金がどうのこうのと書いた。しかし、わたくしの本音はそこではない。そんなことは大したことではないと思っているのだ。

では何が大したことなのかを書こう。ズバリ、罰当たりではないか、ということなのである。

つまり、わたくし自身は罰当たりなことだと思っているので、絶対にしないのである。けれども実際に投棄している人たちは、罰が当たるとは思っていないわけなのだろう。ようはバレなきゃいいという考えなのである。わたくしはバレようがバレまいが、そのような行為をすれば必ず罰が当たると思っている。だからしないのである。

そろそろ結論を書きたい。

先ほど、天人相関説とか災異説のことに触れた。無教養の人はそんなことも知らずにゴミを捨てているのかもしれない。それはまだカワイイと言えるだろう。
問題は、天人相関なんか迷信に過ぎない、別にゴミを捨てようが捨てまいが罰なんて当たりっこない、という考えの人である。もしそれが本当ならば、わたくし自身はずいぶんと損な生き方をしていることになるだろう。つまらぬところで罰に怯えて生きているからだ。
しかし、その結論がどうであれ、わたくしは思うのだ。そういうヤツは物凄くイヤなヤツだと。つまり、もし迷信であるとしても、むしろわたくしのような考え方のほうが人間としては正しいのであって、その対極にいるそういう連中はまったくのダメ人間なのだと、わたくしは思っているのである。

うまく伝わっているかどうか心許ないが、今日のところはこれで終わりにしたい。

2017/8/12

テンコウフジュン  
顕正新聞第1413号の第八面を見ておこう。

必ず諸天が感応する・・・

先生のご発言の重さ、諸天の怒りの凄さ・・・

即座に呼応する諸天の厳たる働き・・・


相も変わらず、諸天の働きがどうのこうのと言っている。諸天善神の力用を否定するつもりはないが、しかし、顕正会のそれは異常である。これまでにも繰り返し言っているように、安倍首相の独裁ぶりがどうであれ、彼が永遠に首相の座に君臨し続けることはあり得ない。今の状況では来秋の自民党総裁選で三選を果たすことは無理だろう。つまり、遅くとも一年後には安倍政権も終わるのである。もちろん早まることはあり得ることだ。さりとて、それをもって諸天の働きを云々するのはどうかと思うわけで、しょせんは自分たちに都合のよい解釈をしているだけと見るのが一般だろう。

後日、配達地域を全戸訪問した・・・

青森県で最も発行部数が多い東奥日報に、広告カラーコピーの折り込み広告を依頼した旨を、男子部の支隊長が報告している。これを拡大解釈すると、青森県の全戸を訪問したことになるだろう。まあ、しかし、おそらくは東奥日報を扱っている一販売店というのが真相で、その販売店の配達地域一帯を全戸訪問したと考えるのが妥当である。

顕正会は何でもかんでも話を大きくするのが得意であり、上掲はその悪いクセが出ているように思う。そもそも諸天の働きを云々するくらいだから、万事がそうなのだろう。本人たちはそれに気がつかないのだろうか?

班長の縁で入信した曹洞宗(禅宗)の寺の住職の妻は、(中略)直ちに檀家の一壮年を折伏し、入信を叶えた・・・

しかし、この話はけっこうな大事件である。住職の妻が顕正会に入信したことだけでも事件であるが、さらには檀家までも折伏して顕正会に入信させているわけだから、これはもう大事件と言わざるを得ないところだろう。

そもそも寺の収入は檀家からの御布施で成り立っている。住職の妻もその恩恵に預かる立場のはずなのだ。それを自らぶち壊すような行為をしているわけだから、もはや尋常ではない。

もちろん顕正会側の言い分としては、今は広宣流布の前夜であって、広宣流布の実現を本気で考えているのであれば、邪宗の退治も当然のことなのだろう。具体的には謗法への施を止めることに尽きるわけで、その意味ではくだんの人物の行為は正しいことになるのだ。

しかし、そうは言っても現実的にはどうかと思うところで、一つの方法論としてはまず夫を折伏する、それが不首尾であった時には離縁を申し出る、その上で檀家でも何でも折伏すればいいだろうと思う。それが物の順序のはずだ。

いずれにしても第一線の活動会員たちは必死である。それが結果として常軌を逸した無分別な行動にあらわれる。

そして浅井先生もまた、必死なのかもしれない。

ようするに、ヤラされている感だとか徒労感を感じさせてしまったらオシマイなのである。それを感じさせないためには、自分もこうして頑張っているのだという姿を見せなければいけない。それが安倍首相へのアプローチなのだ。そして大幹部たちがそれを誇大宣伝する。先生は一国を相手に捨身で戦われているのだ、自分たちも先生の驥尾に付して戦おうではないか、と。

ただし、浅井先生の戦いは虚飾に満ちている。それが諸天の感応云々である。

最初にも書いたように、わたくしは諸天善神の力用を否定するものではない。とは言え、このところ顕正会が盛んに宣伝している諸天の働き云々はとうてい受容できるものではない。単に自分たちに都合のよいように解釈しているだけにしか見えないのだ。ゆえにこの先、ズルズルと支持率が下がって、やがては安倍首相も観念せざるを得ない時が来るにしても、それで浅井先生の戦いが成就したことにはならないだろう。

客観的なバロメーターとは言えないにしても、いちおうは総会員数を目安として論ずるのがよさそうである。

つまり、二百万のカウントダウンがどうのこうのと言っている時点で、え? まだ二百万なの? じゃあもう無理だよね、間に合わないよね、と考えるのが常識的なのである。それが彼らには見えないのだろうか?

2017/8/7

ワキメモフラズニ  
引き続き大沢氏からコメントを頂戴しているが、同じ話の繰り返しになるので、やめておきたい。今や顕正会問題はまったく別の次元に突入しており、過去の検証はあまり意味がないのではないかと思う。もちろん、まったくの無意味とは言わないが、おそらく客観的に見るならば、宗門側のバイアスの掛かった検証に何の意味があるのか、というような皮肉な見方も可能だろう。法華講の諸氏に必要なのは、そうした自覚ではないかと思う。

さて、顕正新聞第1413号の続きを見て行こう。

・・・会津若松市の婦人部員がごっそりと顕正会に移ったことを思い出しました。

唐突な引用で恐縮だが、創価学会歴五十六年の男性が本年、顕正会に移籍して、六月度総幹部会で登壇した。

以前、顕正会では支部制を敷いていた。新宿支部とか豊島支部、あるいは池袋支部とか早稲田支部、そのような名称だった。これらは今も支区として残っているかもしれない。ともかくわたくしの若い頃には上述のごとく、東京の地名ばかりが並んでいた。そうした中で最初に結成された地方組織が高知支部ではなかったかと思う。ようは正真正銘の地方支部である。確かそうした流れの中で、会津にも支部が結成されたような記憶がある。

お気づきの人もいるだろう。地方支部で急成長を遂げたようなところは、創価学会からの大量脱会組が含まれているのだ。

ちなみに当該記事における大量脱会は正本堂が解体された時のことらしい。わたくし的にはちょっと意外な印象を受けるところだが、どうなんだろう、今でも創価学会から団体様で移籍してくるようなケースがあるのだろうかと、そこが気になるところだ。

現状では顕正会から宗門へ移籍する人が後を絶たない。それがどの程度の規模なのか定かではないが、団体様で移籍するようなこともあるのかもしれない。一種の還著於本人だろうか? かつては創価学会からたくさんの人が顕正会に移ってきた。創価学会の立場で言えば、大事な人材を失ったわけである。そして今度は顕正会から宗門へたくさんの人が移っている。顕正会の立場で言えば、大事な人材をゴッソリと持って行かれてしまって、ひじょうに困った状態なのである。しかし、それも因果応報であって、かつて自分たちがやったことがそのまま跳ね返ってきているのだ。

さて、今のは男性女子部員の記事だった。次は女性男子部員の記事だ。

 私は先月二十三日、娘のたび重なる折伏により、創価学会から入会させて頂きました。

あれ? 娘の折伏なら女子部か婦人部だろう?

このように思われたとしたら、拙ブログをよくお読み下さっている証拠なので、ひじょうに嬉しいことである。話は簡単だ。ようはこの娘さんも女性男子部員なのである。ようは男子部所属のままで活動しているわけであり、当然、折伏の成果も男子部のほうにカウントされる。これが顕正会の実態である。

それはさておき、わたくしが驚いたのは彼女の創価学会歴である。なんと平成二十六年の四月に創価学会に入ったそうである。こういう人は教学的なこともよくわかっていないだろうし、そうすると顕正会と創価学会の違いもよく理解できないに違いない。

しかし、わたくしは次の記述に、またしても驚いたのだった。

幹部に言われるまま、お題目を二百万遍唱え、御書全集も繰り返し拝読するほど真面目に取り組んでいました。

これは凄いことだ。上掲の文章を普通に読めば、御書を最初から最後まで繰り返し読んだことになる。題目のほうはさておき、御書の通読は相当のことである。何しろ顕正会では御書そのものを持っていないのだから、まったくお話にならないのだ。

もちろん顕正会的には、創価学会でいくら頑張っても功徳はない、というような意味でこの話を紹介しているわけなのだが、しかし、もし上掲の記述が本当ならばベラボウにレベルが高いことになるだろう。つまり、客観的には創価学会の信心のほうが、遥かにレベルが高いのだ。

古参の創価学会員がである。かつての剣豪の修行を思わせる云々の古き良き伝統を堅く守って、今もなお地道に拝読を重ねているとするならば、話はわかる。ところが彼女はほんの数年前に入会したに過ぎないのである。重ね重ね言うが、実に凄いことである。

それにしてもである。この人の登壇にはよく読めば顕正会を暗に批判しているような記述が各所に出てくる。

「顕正会員は、最初は優しくて真面目な人だと思っていても、そのうち態度を変えてくる」

彼女は顕正会入会後、創価学会版の本尊を返納するために群馬文化会館に行ったそうである。そこで創価学会の幹部たちに二時間近くも責められた。その中のセリフの一つが上掲である。

いかがだろう、上掲は案外に正鵠を射ているのではないかと思う。もちろん、どの組織にもいろんなタイプの人がいるわけで、一概には言えないことではある。しかし、今やネット上には顕正会を脱会した人たちの声が無数にあって、そうした中には上掲のような声も少なくないのだ。

もっとも直前にも書いたように、それは創価学会の幹部も同じだし法華講の幹部も同じだろう。そうした人間関係の軋轢で組織を去っていくのは世の常である。

まあ、しかし、成果至上主義の顕正会ではそれが顕著なのかもしれない。

最後に婦人部港北支区部長の記事を紹介しよう。

 入信以前の私は、化粧品の販売代理店を経営し、将来の夢は自社ビルを建設することで、年間数千万円を売り上げておりました。

記事全体の趣旨からすると、この部分はさほど重要な部分ではないことをお断りしておきたい。主には夫の臨終を伝える記事なのである。けれどもわたくしは上掲に注目した。

前にも似たようなことを何度も書いているのだが、こういうセールスの上手な人が顕正会の中でも成果を上げて幹部に登用されていく傾向がある。これはもう御本尊の功徳とかの話ではなく、その人の資質そのものによるのではないか、というのがわたくしの考えなのである。

営業職の人に聞いたことがある。誰でもできる仕事なのか、それとも向き不向きがあるのか、と。

いわく、やっぱり向き不向きはある、明らかに営業には向いていないタイプの人もいる、と。

わたくしはそれが顕正会の活動にも当てはまるのではないかと思うのだ。いや、もちろん、随力弘通であるからして、その力に応じて実践すればいい。実際、幹部たちも皆が皆そのように言うはずである。

しかし、顕正会の実態が成果至上主義である以上、やはりどうしても先の営業職の話と同じことになるはずなのだ。

この点をどのようにしたら改善できるか、もし本部首脳に精神的な余裕があれば考えるのだろうけれども、もはや今の顕正会にはそんなことを考えている余裕はまったく存在しないのだろう。困ったことであるが、これが現実のようである。

2017/8/4

ジンソクナレスポンス  
今日は顕正新聞の続きを書くつもりだったが、その前に大沢氏からのコメントに応じておかなければならないだろう。

正本堂問題はあくまでもキッカケに過ぎず、年々影響力を増していた創価学会(池田名誉会長)への反発が浅井会長(妙信講)の行動となって顕れたといえるのではないでしょうか?

この部分は正解だろう。しかも活動会員であっても、そこそこリベラルな考え方の人であれば、おおむね賛同するのではないかと思う。それはごく単純な話で、試練と忍従の歴史を読めば浅井先生自身がいつかは立たなければいけない旨の決意を述べているからであって、すでに池田大作氏の専横ぶりはその頃から顕著だったのだ。

ただし、キッカケという表現にはイチャモンを付けるためのキッカケみたいな意味合いも感じられるので、そこは活動会員たちも反発するだろう。

わたくし自身は浅井先生のそうした本音の部分をどのように見るか明確な結論を持ってはいないが、それでも話はわりと単純であろうと思っている。ようするに巨大な創価学会に立ち向かうためには、それ相応の重要な問題でなければならなかった。それこそ瑣末な問題ばかりを取り上げてイチャモンを付けているとしたら、逆にお里が知れるというか、一種のチンピラみたいなものであり、それこそ相手にもされないだろう。大聖人の御遺命という教義上の再重要問題だからこそ、創価学会側も一笑に付すわけには行かなかったのだ。

別の言い方をすると、創価学会側に隙きがあった。

もしもである。当時、創価学会にそうした油断も隙もない状態だったとしたら、妙信講には何も為す術はなかっただろう。逆に今日の顕正会は存在しなかったかもしれない。未だに創価学会にとって顕正会が目の上のタンコブのような存在であるのは、いわば正本堂問題でのツマヅキをいつまでも引きずっているからである。

浅井会長も広宣流布前夜を強く意識していたことは間違いありません。

浅井会長も昭和40年当時から正本堂の意義を認識していたことになります。


ハッキリ言っておかなければいけないが、これは元顕正会・現法華講員の悪いクセである。

まず、昭和五十二年の浅井発言であるが、これはさほど不自然なことではないだろう。昭和四十年当時のことを回想しているくだりが後の試練と忍従の歴史における記述と矛盾するとの指摘は、確かに文章の上っ面だけを読めばそのように受け取れるのかもしれない。しかし、それは誤読である。

ようするに五十二年発言は過去の出来事をただ単に回想しているわけではなく、いわば解釈を加えているのである。誰もが人生経験としてあるだろう、その時は気がつかなかったけれども、ずっと後になってから気がつくことがあるということをである。

つまり、その線で読むならば、昭和四十年当時の認識は誑惑は顕著ではなかったということであり、日達上人の御説法も正本堂が御遺命の戒壇であると断定しているようには読めなかった、しかし、十有余年の歳月を経て振り返ってみると、上人の御説法は国立戒壇を否定する目的でなされたものだと、先生は解釈したわけなのだろう。

ただし、話がややこしくなることを承知で、もう少し説明したいと思う。

この浅井先生の解釈なるものは、必ずしも一定していないのだ。ゆえに会長発言を細かく拾っていくと、自語相違がたくさん出てくる。これもまた法華講員たちの格好のネタになるわけだが、しかし、それこそアゲアシ取りに過ぎないことを理解しなくてはいけない。

昭和四十年の日達上人の御説法について、浅井先生の認識ないし解釈は一定していないと書いた。本当は具体的な文証を提示しないと話にならないわけだが、今は調べるだけの気力がないので当てずっぽうに書かせていただくことをご承知願いたい。

日達上人は正本堂を御遺命の戒壇に当たるとは言っていない。創価学会が勝手にそのように宣伝しているだけなのだ。

日達上人は正本堂を御遺命の戒壇とは思っていらっしゃらなかったが、創価学会に頼まれてそのように発言された。

日達上人は創価学会の首脳と共謀して、正本堂を御遺命の戒壇と意義付けた。


おおむね三パターンにまとめた。

元顕正会・現法華講員ならば百も承知のはずである。昭和四十五年当時の御遺命守護の戦いは猊下の御立場を守りつつ、創価学会の非を強く責めた。すなわち第一パターンである。
そして二つ目のパターンはいわゆる御遺命守護の歴史を論ずるに当たって、わりと多用されてきたものだと思う。いわゆる主犯と共犯の関係で、宗門側は共犯の立場であるが、しかし、仏法上は最も重い責任を有する、という考え方である。
そして三番目は近年の顕正会の主張である。ご存知のごとく、今は日達上人とも細井管長とも呼ばず、あろうことか細井日達と呼び捨てにしている。もはやそうなると、三つ目のパターンに落ち着かざるを得ないことになる。

かくも浅井先生の発言は自語相違のオンパレードであり、突っ込まれても仕方がないわけなのだが、しかし、それとこれとはまったく別である。

ようするに法華講員たちはこうした浅井発言をあげつらって、いわばこのようなデタラメな人物なのだから、昭和四十年当時も同じなのだと言っているわけなのである。

しかし、別の解釈も成り立つ。

当時はきわめて真面目だった。けれども後年、道を違えてしまい、おかしくなってしまった。

これがわたくしの解釈である。ところが法華講員たちは浅井先生を全否定したいらしく、早い話が浅井なんぞは最初から間違っていたのだ、最初から性根が腐っていたのだ、それで宗門ないし創価学会の隙きを窺い、イチャモンを付け始めたのだ、と言わんばかりなのである。

最初のほうで、浅井先生の本音がどうであったかわたくしにはわからない、という意味を書いた。そして今、法華講員に仮託して性根という言葉を使った。ようするに浅井先生の性根がどうであるか、わからないというのがわたくしの結論である。
ところが法華講員たちはわかったようなことを書いている。いちおう文証を並べ立てて、そのように断定しているわけである。
では、客観的に見て、その判断が正しいのかどうかと問われれば、わたくしはぜんぜんダメだろうと言いたいのだ。

さて、今日の文章は相当にややこしいので、はたしてわたくしの言わんとしていることが伝わっているかどうかも心許ないところだが、おおむね書き尽くしたつもりである。

単なる文字面のアゲアシ取りではなく、相手の文章を十分に斟酌した上での批判を心掛けたい。

そういうオマエは顕正新聞のアゲアシ取りばかりしているではないかと言われそうで怖いのだが・・・

2017/7/30

オリコミズミノマンネリカ  
マイケル氏のお書きになっていることは、旧皇族出身の竹田恒泰氏あたりが主張していることだと思う。わたくし自身は今現在、どっち付かずの立場であるが、問題は国民の賛意を得られるかどうかだろう。今さら旧皇族がしゃしゃり出てきてどうするのか、というような冷たい意見も少なくない中で、はたしてどこまでの合意形成ができるか、ちょっと目には相当の困難が伴うように見える。もちろん、マイケル氏のおっしゃるように、選択肢の一つであることは間違いないのだろうけれども、それにしても難しい問題である。

前川氏の捨身の行動に大衝撃・大感動
 諸天の働きを確信 仏法は生きている!


男子部第百二十隊支隊副長は厚生労働省の職員だそうである。それを特集号の掲載記事として発表している彼は捨身の覚悟なのだろう。

しかし、前川氏の場合は少し事情が異なる。

例えば官僚出身で反安倍の急先鋒的存在の一人として、古賀茂明氏の名前が挙げられると思う。彼はすでに官僚時代から体制批判を行なっていたそうだが、今となってはもはや怖いものなしであり、何でも言いたい放題の状態である。

では、前川氏はどうなのかであるが、彼の場合は官僚を辞めてからである。その意味では捨身の行動とは言えないだろう。もし現役のトップ官僚の立場で今のようなことができたならば、それこそ捨身であり、あるいは部下たちも命懸けで支えたかもしれない。

この点、副長は少し誤解しているようである。

 これら一連の動きこそ、先生のご発言に呼応する諸天の働きと確信・・・

厚労省の上司に目をつけられないようにと祈るばかりである。もっとも、オマエには祈られたくないよ、と言われそうだが・・・

八丈島にも日蓮大聖人の大恩徳 輝く
 新聞販売店の好意で常識覆す折込み


基礎教学書の新聞広告の話である。くだんの広告は地方紙の多くが掲載に踏み切ったものの、全国紙は冷たい対応に終始しているらしい。そこで現場の活動会員たちは折込広告という新手の方法を編み出した。これならば新聞販売店の一存で決められるらしく、八丈島においてもそれが実行されたわけだ。しかも販売店の人がひじょうに親切で、効果が十分に発揮されるような折込方法を考案し、かつ実行してくれたという。

 「日蓮大聖人の仏法」との美しい標題と、立正安国論の御真蹟と、浅井先生のお写真を前面にした、二つ折りの広告カラーコピーの中に新聞が入っていて、すべての人が、広告文を見なければ新聞を開いて読むことができないという大胆な発想で(大笑)、まさに広告カラーコピーで新聞を挟んだ「折り込み新聞」となっていたのでした(爆笑)。

少し長い引用で恐縮だが、これは文字通りの逆転の発想である。ただし、これを新聞社が知ったならば、ただでは済まないだろう。あくまで新聞が主であり、広告は従だからである。

そうそう、登壇者のことを書いていなかった。

彼女は婦人部久喜支区組長であるが、なんと昭和三十九年からの妙信講員なのである。夫の仕事の関係で、八年前に八丈島に移住したという。

縁もゆかりもない八丈島で、入信よりお守りしている御本尊様を杖・柱として、御奉公に励んでおります。

興味本位で恐縮だが、わたくしはその御本尊をぜひとも拝見してみたいと思う。あるいは他の古参の妙信講員宅の御本尊もしかりである。

というのは近年、顕正会の会館安置の御本尊について、ニセモノであるとの指摘が喧しいからである。それも従来は日布上人の御本尊についてだったが、最近は日寛上人の御本尊についても疑惑が取り沙汰されているようなのである。

これはユユシキ問題だろう。

ただし、何の根拠もなく疑うのはよくない。ゆえに原本というか、もともと昭和三十年代に広く下附されていた本物の御本尊を拝見して、その上で今現在、顕正会で出回っている御本尊を見てどのように感じるかという順序を踏まないことには、話にならないと思うのだ。

いや、もちろん、今となっては検証の難しい問題であり、もはや不可能かもしれない。まさか妙信講員宅に見せて下さいと言いに行っても見せてはくれないだろうし、今のわたくしは会館に行くことも憚られる立場である。

そんなわけで、わたくしとしては今後も顕正新聞をベースにああだこうだと論じるしか選択肢がなく、その意味ではすでに相当のマンネリ化を来しているという現実も否定できないだろう。我ながら何をやっているのかと思う。

2017/7/29

ウラシマジョウタイ  
わずか四日ばかりの間に、たくさんのコメントが寄せられ、正直なところ読むのも億劫な状態だ。まるで浦島太郎の気分である。そういうわけでコメントのすべてをすっ飛ばして、顕正新聞の続きを読んで行きたい。

先生の仏法上のご発言に即座に呼応する諸天の働き・・・

拙ブログの愛読者ならば、お馴染みのフレーズだろう。今回も同様のセリフがたくさん出てくる。ご覧の発言者は第十八男子部長だ。

そして続きには四月度総幹部会の翌日、今村復興大臣が辞任に追い込まれたことを云々するくだりがある。あの発言は確かに失言ではあるが、わたくしの率直な印象を書くと、まあ、誰もが同じ発言をしそうなくらい、話の流れ的には自然だったと思う。比較検討は難しいにしても、もっと過激な発言をしていながらも、図々しくもその地位に居座るような人物も過去には存在した。また、ここに来て、防衛大臣の辞任が決まったようであるが、彼女などはとっくの昔に更迭されてもおかしくなかった。一種のエコヒイキのような感じで、今までその地位にいられたのだという印象が拭えないところだ。

 思えば、昭和四十九年、死罪に等しい解散処分が下された折・・・

この後がベラボウに長いので省略したが、ようするに解散処分の折に浅井先生が言っていたことは、当時は誰にも信じられなかったけれども後には事実になった、と言っているわけである。

すべて不可能を可能とされている・・・

ゆえに今までは宗門の中で起きたことだったが、これからは国家レベルで不可能を可能とする浅井先生の戦いが展開されるのだ、と彼は言いたいらしいのである。

コメント欄で誰かが指摘していたように、そもそも安倍首相に対する辞任要求は大聖人の御振る舞いとは異なるのではないか、大聖人は幕府の要人に対して辞任を要求するようなことはしていない、というのはなるほどである。

単純に言うと、帰依を求めるべきなのだろう。顕正会へ入信せよ、と迫るべきなのだ。しかし、現時点でそれは相当に困難なことである。それに比べて辞任要求はわりと簡単なことであるが、さりとて単に辞めただけでは何も変わらない。

翻って宗門の事例がそれをよくあらわしている。

つまり、顕正会は日顕上人に退座を求めた。それは結果的に実現した。けれどもその後の状況を考えると、結局は何も変わらないわけである。

第十八男子部長にはそれがわからないのだろうか?

先生の諫暁に即座に感応する諸天の働き・・・

今度は女子部総務だ。まったくどいつもこいつも同じことを言いやがって、と思う。けれども彼女の発言の中に、ちょっと懐かしい事例が含まれているので、紹介しておこう。

正本堂の崩壊、阿部日顕の退座、女系天皇問題の解消のごとく、先生のお命かけた諫暁の師子吼に諸天が動き、安倍政権も崩壊すると大確信し・・・

女系天皇問題の解消が懐かしい。

しかし、これもずいぶんと手前ミソの話である。女系天皇問題において浅井先生がどれだけの役割りを果たしたのだろうか?

しかもこの問題は完全に解消したわけではない。次世代の皇統を継ぐべき男子がたった一人しか存在しないという事実をどうするかである。誠に不謹慎な発言とは思うものの、その一人が万々一のこと事故や病気でどうにかなってしまったら、そこで皇統は断絶するのだ。

そういうわけで、女系天皇問題は一時的に保留となっているものの、いずれは再燃するだろうし、日本人にとっては避けては通れない重要な問題である。

最後決着の時を迎えての歴史の必然・・・

同じく女子部総務の発言から拾った。これは神の国問題を言っているわけだが、しかし、これまた手前ミソというか自分勝手な結論に過ぎない。

以前、国立戒壇を建てるか建てないかで国論を二分する時が来る、という意味のことが言われていた。それこそが最後決着の時だろう。それが今は神の国とするか仏の国とするかの議論にスライドしているわけだが、それにしても現状では国論を二分するほどの大きな議論が起きているとはとうてい言えない。それで最後決着の時を云々するのはどうかと思う。

つまり、言っていることの内容・方向性は、確かに大筋では一貫しているのだろうけれども、しかし、現実を踏まえて考えた時には、まるで当てはまらないのだ。

女子部総務にはその自覚がないのだろうか?

今日は次で終わりにしよう。

「森友騒動の渦中より正義にめざめて」

籠池前理事長の次男だそうである。彼は昨年五月、日本会議の講演会の会場で女子部の総班長と知り合い、入信した。ようするに男性女子部員である。ゆえに顕正会での役職はない。

ちなみに顕正会の女子部員が日本会議の講演会に行くのは、おそらくは折伏の対象者を求めてのことだろう。原発事故後には各地の反原発運動の講演会にも女子部員が潜入していたという前例がある。しかし、そうして入信した籠池さんもすぐに未活動になってしまったようだ。

それがここに来て、顕正会の総幹部会で登壇するとは、大変貌である。

しかし、ある意味では自然な流れなのかもしれないと思う。

ようするに、いつも言っているように浅井先生の講演はわかりやすいのだ。ゆえにここ一連の特集号を読めば、森友問題のことがよくわかる。しかも浅井先生は籠池前理事長に同情的である。次男は両親と不和だったようだが、さりとて今の状況からすればどうにかして両親を守りたいと思うのが自然の感情だろう。その意味からしても、浅井先生の講演は心強いものがあるのだ。

そういうわけで、ここに来て未活動から一気に活動家へと変貌した。

わたくしは面白いと思う。この先、もし籠池さんの両親が顕正会に入信して、それこそ総幹部会で登壇でもしようものならば、あらゆる意味で変ってくるだろう。あるいは加計問題における文科省の前事務次官が顕正会に入信すれば、これも凄いことだろう。少なくとも顕正会員的には願ってもない展開である。

ただし、しょせんは取らぬ狸の皮算用である。

当面は籠池さんが男性女子部員を脱皮できるかである。すなわち男子部への移籍である。そこでようやく組長になれるのだ。さらに班長になり、副長になり、支隊長になる。そこまで行けば御の字だろう。

しかし、幸か不幸か、そういうちょっとした目玉的な人物も、顕正会ではたいていが途中で消えて行く運命にある。悲しいながらもそれが現実なのである。

それからもう一つ、タイトルに正義にめざめてと書かれているのがちょっとした注目点である。

主には日蓮正宗ないし創価学会から、そしてマレには一般の日蓮宗系からの移籍者、つまり、大聖人の仏法を正しく実践しているのは顕正会だけという意味から、日蓮関係の他の組織から移籍してくる場合のタイトルが「正義にめざめて」なのである。ゆえに今回のタイトルは異例中の異例だろう。

2017/7/24

サンドメノショウジキ  
沖浦氏が登場すると、コメント欄が賑やかになる。相変わらずの人気者だ。そうした中で、わたくしはあくまでマイペースを貫く。今回は顕正新聞第1413号に参ろう。

「安倍独裁政権退陣要求・特集号3」

六月度総幹部会の特集号にはご覧のようなタイトルが付けられている。あえてアゲアシ取りをするならば、これには第一弾と第二弾が存在するはずなのだが、存在しない。つまり、普通は同一タイトルに対して数字を1、2、3と振るはずなのだ。ところが実際はそうなっていない。参考までに1と2に該当するであろう号のタイトルを掲げておこう。

「安倍首相辞任要求」特集号

「安倍首相辞任要求・特集号」2


これもよく見ればカギカッコの括り方が統一されていない。何だろうね、この行き当たりばったりは・・・

いや、もちろん、最初に書いたようにこれはアゲアシ取りであって、まあ、誰が読んでもこれら三号分がシリーズ化されているのは一目瞭然だ。

そして浅井先生の主張も一貫性があって、しかも一般人が読んでもよくわかる内容なので、確かに特集号としての価値はあると思う。

 安倍首相が頼みとしてきた内閣支持率も大きく下がって来ましたね。

当該講演は六月二十六日に行なわれたものである。その段階で三十パーセント台から四十パーセント台、もう少し詳しく書くと毎日新聞が三十六パーセントで最低、最高は読売新聞の四十九パーセントだった。

そして一ヶ月後の最新調査では、なんと毎日新聞が二十六%という数字を出している。これはもう、かなり厳しい数字である。

イヤミな書き方だが、めずらしく浅井先生的には願ったり叶ったりの状況になりつつあるようだ。そしてわたくしの勝手な想像を言えば、もはや支持率の回復は望めない。いわゆるレームダック状態になりつつあるのだろう。昔から盛者必衰の理という言葉もあるくらいだから、別に不思議なことではないのである。

 この加計学園には、今治市の獣医学部新設以前にも、千葉県銚子市に同学園系列の「千葉科学大学」を開設する際、何と440億円にものぼる巨額の血税が注ぎ込まれているのです。

これはあまり報道されていないような気がするのだが、ただ単にわたくしのアンテナの張り方が足りないだけなのだろうか?

こういうところに特集号の価値があると思う。一般人の多くはただ漫然とニュース報道を眺めているだけである。しかも情報洪水の中にいると何が重要な報道なのかわからなくなる。ゆえにそのまま見過ごされてしまう情報も少なくないのである。その意味で上掲のような記述はひじょうに価値がある。

 「文科省文書の再調査は不要」と言い張る菅官房長官に対して、東京新聞の望月衣塑子記者が記者会見で食い下がった。

・・・まさに東京新聞・望月衣塑子記者の手柄です。


興味深い記述である。昔ならばオンナダテラに云々かんぬんという言い方もあったが、今はまったく関係ないだろう。しかもネットの時代であるからして、昔ならばなかなか表面化しない記者会見での応酬が手に取るようにわかるわけだ。

それにしても浅井先生が他人をここまで持ち上げるのはめずらしい。

ちなみに七年前の今頃だろうか、浅井先生は反原発の立場を旗幟鮮明に掲げた。そしてご存知の人も多いかと思うが、東京新聞は一貫して反原発の論陣を張っている。その意味で両者は親和性が高いとも言えるだろう。

さらに余談を続けると、かつての浅井先生は産経新聞と近しい関係と思われていた。うろ覚えながらも、何かの折に産経新聞を高く評価するような発言をしていたこともあったはずである。ところがである。これには明確なターニングポイントがあって、いつぞやの逮捕事件の時に産経新聞は顕正会のことをけっこうボロクソに書いたらしいのである。先生いわく、見損なった、と。このセリフもうろ覚えで書いているのでそこはご容赦願いたいが、ともかくこれを契機に浅井先生は産経新聞を快く思わなくなったのである。

その後、福島原発事故が起こり、浅井先生は反原発の方向性に進むわけだが、今日の激烈なる安倍政権批判と相俟って、傍目には右翼から左翼に転じたかのように思える。実際、そのように言う人もいるようだ。

しかし、わたくし自身はそういう見方をしていない。

いわゆる右翼だとか左翼、右傾化・左傾化の議論は、確かにわかりやすい話ではある。しかし、それはようするにレッテル貼りによるわかりやすさであって、実際にはそんな単純な話ではないだろう、安易なレッテル貼りは真実を見誤る危険がある、というのがわたくしの意見である。

たぶん浅井先生がこの場で意見を言うとしたら、自分は右でも左でもない、ど真ん中だ、ということになるだろう。実際、歴史認識の問題にしても、右の人と左の人では意見が異なるわけだが、浅井先生自身はどちらにも与しない、いわゆる独自の仏法史観に基づくわけである。

問題はそれが世間一般の人にどれほどの説得力を持つかだろう。なかなか難しいものがある。

條件

唐突な引用で恐縮だが、本文中の表記が気になったので、ここに掲げさせていただいた。何だろうね、この表記は? 普通に条件と書いちゃダメだったのだろうか?

二悪鼻を並べている・・・

今日はこれで終わりにするが、この表現は平成十六年の時にもよく使われていた。もちろん今とは内容が異なる。まあ、しかし、それを矛盾だとか自語相違だとか言うのは筋違いなのだろう。ようするに大枠で捉えれば同じことを言っているのである。今回は面倒臭いので具体的な文言の比較をしないけれども、基本的には同じことを言っていると見て差し支えないだろう。

2017/7/23

モチハモチヤ  
マイケル氏ご紹介のリンク先には、第八位に氷川神社と書かれている。これは顕正会本部の近くにあって、実はかつて浅井先生も言及したことがあるのだ。確か今の本部が建ってから、初めての元旦勤行を迎える時だった。神社に初詣に来る人たちとのトラブルを避けるためだろうか、顕正会員は最寄りの大宮公園駅ではなく、大宮駅から歩いて来るようにとのことだった。こうしてみると、浅井先生もずいぶん常識人のように思えるが、なぜか二年目からは特にそのようなお達しもなかったように記憶している。

2017/7/21 12:43
投稿者:素人
聖徳太子は居なかった、大聖人は御本仏ではない、御書は偽書だ、…という人にはどうすればいいでしょうか?


素人は素人らしく、わかりませんと答えればいい。このように書くと素人氏を冷たくあしらっているように感じる人もいるかもしれないが、かく言うわたくし自身がわからないことはわからないと正直に答えることにしているので、それ以上は返答のしようがないわけである。

ただし、上掲のような議論を吹っ掛けてくる人にしても、その大半がニワカ勉強であって、一から十まですべてを熟知しているわけではない。ゆえに、あまり深刻に考えることもないだろう。

さて、今日は顕正新聞第1412号の残りをやっつけてしまおう。

社会科の恩師、承久の乱の謎が解けた!
 「私も成仏したい」と大歓喜の入信


女子部第六十九区班長の記事に付けられた見出しである。そして次が本文中に出てくる恩師のセリフである。

 「臨終の話と、まさか『承久の乱』の話が聞けるなんて!私の専攻は社会だけど、謎が解き明かされた。浅井先生のご指導は本当に凄いね!有難う!」

ビデオ放映参加後の感想である。どうやら中部大会のビデオ放映らしいが、しかし、社会科の先生が浅井先生の講演を聴いて謎が解けたと思うものなのか、そこがちょっと腑に落ちないところである。今、中部大会の会長講演を確認して見たけれども、講演の全体的な分量からすればあくまでサワリを述べたに過ぎない。はたしてその程度で謎が解けてしまうものなのだろうか?

原発不要、ガスコンバインドサイクルで充分

男子部第八十五隊支隊長の記事の見出しである。彼は本年、大学を卒業し、就職した。具体的な社名は明かされていないが、どうやら発電関係の仕事のようである。それもこれも浅井先生の影響らしく、本文中には次のようなくだりがある。

 まさに次世代の妙法のエネルギーと実感しては、先生の卓抜のご見識に、圧倒されるばかりであります。

しかし、これはどうかと思う。なぜならば次世代エネルギーは何だかんだ太陽光や風力などではないかと思うからだ。ガス発電は次世代ではなく、むしろ現時点における主要な発電方法として、その立場を確立している。あとはどれだけ効率化を図れるかだろう。あたかも自動車の燃費向上のようなものである。しかし、効率化には限界がある。そこでまったく違った発電方法が模索されるわけなのだ。自然エネルギーは自然の気紛れで発電にムラがあって、そこが懸案の一つなのだが、今は発電の技術と同時に蓄電の技術も相当に進んでいる。おそらく蓄電の技術が飛躍的に進歩すれば、今の電力事情も革命的に変わるに違いない。

婦人部中予支区組長の記事を紹介しよう。

 そのとき先生より頂いた国家破産についての指導は、ニュースを見るよりも大へんわかり易く・・・

これについては肯定的に捉えたい。失礼ながら世の中には政治オンチ・経済オンチのご婦人も少なくない。そうしたレベルの人たちにとって、浅井先生の指導はわかり易さに定評があると言えるだろう。

翻って前掲の男子部員は、先生の古い常識に囚われてはいけないだろう。原発不要論そのものは大きく間違ってはいないものの、次世代の妙法のエネルギー云々がいかにも古臭いのだ。

36トンのクレーン車に轢かれ、生死彷徨う
 僅か十ヶ月で退院、示談金にも御守護


女子部第百九十区総班長は助かったこと自体が御守護である。ただし、わずか十ヶ月で退院というのがやや疑問で、わたくしの感覚からするとベラボウに長い入院期間に思えるところである。もっともそれほどの大事故だったということなのだろうが・・・

チェーンソーで左腕切断寸前の事故

この男子部第九十二隊支隊副長の記事も大事故は大事故なのだろうけれども、わたくしは本人に対して少し文句を言いたいところである。

 と申しますのは、私の作業はチェーンソーで木を切っていくという比較的簡単な作業でしたが・・・

オマエ、ナメてんのかよ、と言いたいところだ。

彼は水道関係の仕事をしているそうで、上掲の森林伐採の作業は何かの折にボランティアで行なったことらしいのだ。たぶん彼は配管屋なのだろう。水道管を繋いでいく工事業者であり、いわゆる職人さんである。水道管だとかガス管は水漏れやガス漏れがあったら困るので、それなりのスキルが要求される。当然、職人さんには自負がある。自分の仕事に自信を持っているわけだ。

その彼の目からすれば、木の伐採などはそれほど難しい仕事には思えなかったのだろう。それがナメているということなのだ。いわゆる餅は餅屋である。

結局、彼は事故の原因を信心を疎かにしたことだと思い、惰性の信心を改めたという。それで手術も成功し、驚異的な回復を見せるわけだが、それを功徳だとか御守護だとか言うのはわたくしの関知するところではない。

繰り返しになるが、問題は森林伐採の仕事を簡単な仕事だとする誤った認識である。これはもうナメているとしか言い様のないことで、彼の配管屋としてのスキルがどの程度であれ、職人としては未熟であることに気がつかないといけないのだ。ようするに自分の職人としての矜持と同時に、他職への敬意という一面を併せ持つ必要があることを知らなくてはいけない。実はこれ、案外に何年経っても何十年経ってもわからない人が多いという現実があるわけで、その意味では何も彼だけが未熟なわけではなく、早い話が皆んなが皆んな五十歩百歩なのである。

2017/7/19

キョコウトゲンソウ  
素人氏より重ねて質問を頂戴しているが、ちょっと意味の取れない部分もあるので、今日のところは割愛させていただくことにしたい。ともかく拙ブログは今後もずっと続けるつもりなので、別の機会を見つけてお答えできればと思う。

マイケル氏の質問は厄介である。結論は、わからない、である。

http://white.ap.teacup.com/ganko/130.html

リンク先はわりと短いので、ぜひともご覧になられたい。十年以上も前の拙稿であるが、今も結論は同じである。ようはさっぱりわからないのだ。

そもそもわたくしごときが十年やそこらで結論が出せるものならば、誰も苦労はしないだろう。むしろこの答えを知っている人がいるのであれば、ぜひとも教えていただきたいものである。

さて、顕正新聞の話題である。

共産党議員、宣伝車で先生の指導叫ぶ
 特集号と内容も順番も全く同じ!


第1412号であるが、まずは男子部第四十九隊長の記事の見出しをご覧いただいている。ようはどこぞの市会議員が浅井先生の講演をパクッて、宣伝カーの中から叫んでいたそうなのである。この辺の事実関係というか、事の真相はわからない。確かに顕正新聞は全国三万箇所に送付されていることだし、かつまた記事中には支隊副長が特集号を共産党市議に手渡したと書かれているので、それを参考にして街宣をしていた可能性は否定できない。しかし、そもそも浅井先生の講演にしても、各種のマスコミ情報を参考にしているわけだから、何とも言えないところではある。

それはともかく、わたくしは次の婦人部越谷支区班長の記事が気になった。

 「警視庁の前で新聞を配っていますよね?あの新聞に書いてある『基礎教学書』がほしいのですが、書店に問い合わせても置いてないので、一冊用意してもらえませんか」

よくわからんが、婦人部の中には官庁街での配布活動に熱心な組織があるらしい。彼女は二年前から毎週のように官庁街での配布を続けているらしく、いわば上掲はその成果の一つなのだろう。

しかし、おかしな話だ。なぜならば同新聞には上掲とは真逆の記事がいくつも存在するからである。

全国の書店も続々と平積みで基礎教学書を並べ・・・

女子部総務の発言である。他にも同様の記事が複数あるし、さらに別の号を調べれば、もっとたくさん存在するだろう。これは顕正会の欺瞞を象徴する典型的な例なのだ。

ちなみにこれについては一ヶ月以上も前に瑠璃堂氏が独自の調査を発表している。

http://kensho-nostalgia.blog.jp/archives/18153900.html

それほど難しい話ではない。実際に本屋に行ってみたが、平積みにはなっていなかった、という話なのである。

つまり、彼女の実地調査と前掲記事とが図らずも一致しているわけで、ようは平積み云々がウソっぱちであることがこれで証明されたわけである。

このテイタラクを知れば、顕正会の中でどれほど盛り上がっていようが、それがすべて幻想であることがよくわかるだろう。広宣流布が眼前であるかのように言っていても、確かに内部ではそのように信じ込まされていたにしても、現実的にはまったくの虚構なのである。

今日は暑いのでこんなところで終わりにしよう。


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