2017/5/23

低迷期の過ごし方  
コメント欄が賑わっている。これまでにも種々雑多な議論があったけれども、今回のような事案はめずらしいかもしれない。そしていつものことながら、こういう時のわたくしは一歩退いて静観するのが常である。

そういうわけで今日は顕正新聞第1405号を取り上げよう。

八面と九面には三月度班長会の代表決意が掲載されている。代表決意と称する登壇は文字通り決意発表を意味するわけだが、なんとそれは集会の最後を締め括る各部の部長の登壇においても同じなのである。総男子部長指導みたいな言い方はしないのだ。つまり、指導者は浅井先生一人であって、それ以下の人たちはすべて決意発表という扱いなのである。

それはともかく、中身を見ていこう。

・・・もう広宣流布は眼前との大確信が込み上げてまいります。

総男子部長の発言である。彼は次期会長の有力候補というか、ほぼそれが既定路線と考えられるわけだが、その意味からしても重大な発言である。例えば三十年後くらいを想定してみよう。その時も広宣流布は実現していない。それがわたくしの見通しである。問題はその時に彼がいったいどのような発言をするのかである。

三十年後と書いたのはわかりやすくするためである。実際には五年後でも十年後でもいいだろう。たぶん拙ブログは続いているはずなので、いわば定点観測的に彼の発言を追うことができる。五年後も眼前、十年後も眼前、もしそんな感じだったならば、それが一つの答えなのだろう。ようするに有名無実ということだ。

もっとも総男子部長の発言を見るまでもなく、過去の会長発言を拾っていけば、すでに言っていることの虚しさは十分に論証できるわけだが・・・

本格的一国諫暁・・・

副総男子部長の発言を拾った。これはアゲアシ取りの続きみたいなものだが、実は第七十隊長の発言と齟齬があるのだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2373.html

煩瑣になるので具体的な文章は省略するが、副総男子部長は平成十六年の一国諫暁を指して本格的と言っているのだ。対して第七十隊長は数年後に開始されるであろう一国諫暁を指して本格的と言っているのだ。

これまたイヤミながらもわたくしの見通しを書いておくと、数年後に始まる一国諫暁は不発に終わるだろう。不発の意味は、ゴールには到達できない、ということだ。

そこで仕切り直しをするのがこれまでのパターンである。

つまり、次なる目標を設定して、その時こそが本格的な一国諫暁であり、そこで勝負が決せられる。すなわちゴールに到達できるというシナリオなのである。

ただし、これまた見通しを言っておくと、もうムリなんじゃないか、というのがわたくしの感触である。

ようするに広宣流布の実現に向けてどのように進んで行くべきかを考えた時に、期限を決めてしまうことの難しさを感ずるわけである。今まで顕正会はそうしてきた。しかし、何度も期限を破ってきたのも事実である。その都度、仕切り直しが行なわれ、すなわち目標の再設定が行なわれ、新たな挑戦がなされてきた。けれども、もうムリなんじゃないかというのがわたくしの実感であり、おそらくは誰もが感ずるところのはずなのである。

では、どうするべきか?

残念ながら今の顕正会にはそれを考える余裕がないのだろう。もしくは考えたくないのだろう。悪く言えば、破綻するのを承知しつつも、ダラダラと惰性で続けているだけなのだ。

その象徴的な記事が次の第十八男子部長の登壇である。

浅井先生の顕正新聞特集号による連々たる諫暁が、今かかる諸天の働きを起こさしめた・・・

ようするに森友問題で安倍政権が揺らいでいることを仏法の視点から書いているわけなのだろうけれども、これはかなり手前ミソの解釈であり、必ずしも真実とは言えない。もしこれが真実であれば大いに結構である。先生について行けば間違いがないといちおうは言える。では、真実でなかったらどうなるのか、である。ようは諸天は動いてくれないのである。先生が何をどうしようが諸天は何もしてくれない。つまり、広宣流布は実現しないのである。

今度は昌子の発言を見てみよう。

ならば安倍首相がどんなに隠したいことがあろうとも、阿部日顕の悪心が「河辺メモ」で流出したごとく、諸天はすべてを暴き出す・・・

この直前の文章も興味深いのだが、煩瑣になるので省略しよう。簡単に要約すると、籠池理事長の怒りと阿部日顕の怒りが重なって映る、というような意味を書いているのだ。

先の第十八男子部長にしても昌子にしても、都合よく解釈し過ぎである。

まさに「建武の中興三年で崩壊」を彷彿とする大現証がついに現われ始めた・・・

同じく昌子であるが、これまた都合のいい発言である。

実はこの問題、過去にも取り上げたことがあるのだ。幸いなことに拙ブログはすべての記事がそのまま保存されているので、それを参照すれば昌子の言っていることの欺瞞もすべてが明らかとなる。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1950.html

 後醍醐天皇の「建武の中興」はわずか三年で亡んだが、安倍政権はもっと早いと私は思っております。

三年前の会長発言である。つまり、三年経っちゃった。森友問題が浮上して政権が揺らぎ始めたのは事実であるが、まだ政権が倒れたわけではない。ゆえに浅井先生の得意の予言はまたしても外れてしまったことになる。いわば昌子はそれに頬かむりして前掲のようなことを言っているわけである。

ただし、わたくしは何でもかんでも批判してやろうと思って書いているわけではない。ゆえに、仮定の話を少し書いておこうかと思う。

もし仮に今年中くらいに安倍政権が倒れたとしよう。だとすれば浅井先生の三年未満云々は外れたものの、じゃっかんの誤差はあったにせよ当たったという解釈もあながち間違いではないと思うのだ。そしてこのことが広宣流布についても言えるかもしれないのである。つまり、期限を切ってしまった手前、それが遅れ気味であることは事実であり、正直に認めなければいけないことである。しかし、その上で広宣流布の絶対を言い切ることは、逆の意味で可能になったと考えられるのである。ようするに、じゃっかんの誤差はあるものの必ず実現する、なぜならば安倍政権の先例があるからだ、という理屈である。これならばそこそこの説得力はあるように思う。

まあ、しかし、このまま安倍政権が続くとなると、今の話は無効なのだが・・・

今日の話はおおむねこれでオシマイだが、最後に女子部総務の記事から一つ拾っておきたいと思う。

身延山大学・仏教学部に通う学生の入信も叶っており・・・

興味深い話だ。一般の人でこの手の学部を選ぶ人がどれだけいるのか知らないが、普通に考えるとこの人は日蓮宗系の寺院の跡取り息子なのかもしれない。いや、記事には性別は記されていないので、厳密には息子か娘かはわからないのだが、まあ、しかし、寺院の相続者と考えるのが普通だろう。

さて、この場合、どういうことになるのだろうか?

もっとも今の段階でどうこう言っても仕方のない話である。なぜならば顕正会の場合、形だけの入信が横行しているからである。本人が登壇するようになれば面白いのだが、なかなか実現しないだろう。

2017/5/19

低迷期からの脱出方法  
マイケル氏のおっしゃる通り、広宣流布を実現するためにはさまざまの問題をクリアしなければならない。それを思えば、創価学会系の学者が正宗教学を批判することにも意味があるのだろう。ようは宗門がどれだけマトモな反論を構えられるかである。それこそ法主の権威みたいなものを振りかざしているだけで事足りると思っているようならば、もはや時代に取り残されてしまうだろう。顕正会も同じである。

いや、顕正会はもっと深刻かもしれない。カルケン氏のコメントを読めば、誰もがそう思うはずである。

送りつけ詐欺については、ともかく払わないことである。新聞が送られてくることは甘んじて受けてもいいが、さりとて購読料を払う必要はまったくない。どうしても払えと迫ってくるようならば、その時は断固たる態度に出るべきだろう。方法はいろいろあると思うが、わりと手っ取り早い方法としては、本部へ電話することである。本部職員は常識的な対応をするはずなので、それで問題は一気に解決するはずだ。すぐに新聞の郵送が停止されるか、もしくは高飛車だった幹部がおとなしくなるか、たぶんそのいずれかだろう。

幹部は何故、会館の中でしか威張れず、宗門の人から逃げ回るのでしょうか?

そうそう、マレには高飛車幹部が逆ギレして、ああだこうだと言ってくる場合もあるかもしれない。本部にチクったことを逆恨みするわけだ。これがいちばん厄介かもしれない。

しかし、お書きになっているように、顕正会の幹部の多くは法華講員に弱いので、それを味方につけるのも一つの手かもしれない。用心棒ということだ。ただし、その場合は正宗への移籍を勧められることになって、それはそれで厄介(?)なことかもしれないが・・・

さて、今日は顕正新聞第1405号の続きを取り上げよう。

「浅井先生に付いて間違いはなかった」

婦人部大宮支区班長の体験発表である。この度、夫が亡くなった。入信五十五年という古株であるが、銀座の一等地に店を構えたり、黄綬褒章をもらったりと、世法的にもなかなか立派な人物だったようだ。「江戸の名工」「現代の名工」などにも選ばれたそうだが、素人目には少し疑問に感じた。この人は料理人だったのだ。それを名工と呼ぶのは少しおかしな感じがするところである。

話を飛ばして、いきなり終わりのほうの文章を紹介しよう。

 さらに後日、浅井先生より
 「奥さんが長年にわたり御主人の信心を支えて来たこと、私は知っていましたよ」
 との勿体ないほどの労いのお言葉を頂き、ただただ感泣いたしました。


どうだろう、文章からは判然としないが、拙ブログの読者がどのように受け取るか、ひじょうに気になるところである。ようするに上掲のカギカッコは、浅井先生から直接聞いた言葉なのか、それとも組織を通じて伝言として聞いたものなのか、である。もし前者だとすれば、先生もなかなかやるじゃないか、と思う。しかし、もし後者であれば、ああ、先生も偉くなったものだ、ということになるだろう。

そして最初に掲げたカギカッコであるが、浅井先生に付いて間違いはなかった、というセリフは妙信講時代からの古株の発言だけに相当の説得力を持つ。

しかし、反証もまた、無数に存在すると考えられる。

直近の例は小峰勝彦氏である。あるいは十数年遡れば克衛の例もある。そして御遺命守護を戦ったであろう男子部の精鋭たちも相当数が離脱している。こうした事実を踏まえれば、はたして浅井先生に付いて間違いはなかったと言い切れるのかどうか、甚だ心許ないところである。

先生こそ正師

今度は隣の記事の見出しの一部をご覧に入れたわけだが、こちらは創価学会歴五十六年の女性が本年二月に入会してきたという話である。当然、見出しの意味は、池田大作氏を邪師・悪師とし、浅井先生を正師・善師と言っているわけなのだろう。しかし、法華講員に言わせれば、どっちもどっちである。もっとも今度は顕正会ないし創価学会側からの反撃があって、猊下のことをああでもないこうでもないとあげつらうわけだ。いわゆる泥仕合である。

ところで次の話はどうだろうか?

学会版本尊を返納する決意をすると、長男の動かなくなっていた右手が動くようになった・・・

この話も凄いがもう一つ、鼠径ヘルニアに苦しんでいる人のところに行ってお題目を唱えたら目の前で治ってしまった、という話も凄い。

そして下段には七十七歳になる男性婦人部員の記事があって、次の記述がひじょうに悩ましい。

酸素ボンベも外れ、喘息の薬も不要になり、大聖人様が下さった大良薬を実感する・・・

ちなみにこの記事には各所に小見出しが挟まれていて、上掲の一段にも次のような見出しがある。

 大聖人様の大良薬
      の有難さ


勤行をしている人は経文の中に良薬という言葉が出てくることを承知している。また御本尊そのものを良薬に譬えることも多い。しかし、上掲の場合はそれとは話が違うのだ。いわば医学上の薬と仏法上の譬喩としての薬を混同していて、あたかも医者も薬も不要であるかのような誤解を与えかねない文章なのである。ここは少し真面目に考えたほうがいいだろう。まさか編集部の人間までもが誤解して、医学と仏法との関係性がゴチャ混ぜになってしまっているのだろうか?

総班での語り合いも心が弾みます。

いまが一番幸せです。


七十七歳にしてそのように感じているとすれば、それは確かに幸せなことだろう。

2017/5/17

低迷期の独白  
種々のコメントが寄せられている。その中から気になったものをいくつか拾っておこう。

 須田さんは、御書を自分の都合のいい方面からしか拝せません。

これはお互いさまではあるまいか?

ともかく学者同士の論争ならば、我々のようなシモジモのズサンな議論とは訳が違うだろう。その意味で今後の推移を見守りたいと思う。


御宗門も同じじゃないんですか?

そしてこちらはまったくの別件である。ようするに顕正会には本尊複製疑惑があるわけだが、それは宗門も同じじゃないかというツッコミなのである。どのような意図でコメントしたのかがひじょうに気になるところだ。もし日蓮正宗批判のつもりならばおやめになったほうがよかろうと思う。わたくしの感触ではそういう人はロクな人生にならない。その意味であるが、これは宗門誹謗の罰である・・・などと言うつもりはまったくなくて、ようは時間のムダなのである。

つまり、わたくし自身の経験を言っているわけだ。

わたくしは十年以上もブログを続けている。しかし、結果的には時間の浪費に他ならないわけで、他にもっと有意義な過ごし方があったはずなのだ。
同様の意味で、法華講員だった人が離脱してから法華講のことをあれこれと書く、宗門のことを書く、当然ながら批判的なことを書くわけである。しかし、それは時間のムダであり、あまり有意義な人生とは言えないはずなのだ。

だったらオマエはさっさとブログをやめてしまえばいいではないか、と言いたい人もいるはずである。まったく反論の余地はないわけで、そう言われれば、確かにそうだと思う。

ただし、やりたいことをやる、というのも生き方の一つである。

つまり、客観的にはさして有意義な人生ではないにしても、本人がそれでいいと思っているのであれば、それはそれで一つの生き方なのである。わたくしはそのつもりで十数年にわたってブログを続けてきた。ただし、繰り返し言っておくが、決して有意義ではない。ゆえにこれを過大に評価するつもりはさらさらないのである。そんな自画自賛の自己評価に何の意味があるのか、何もありゃしない、というのが客観的な見方なのである。

話がかなり飛躍しているようだ。

宗門における本尊複製疑惑とは何を意味するのか、コメントを読む限りではわからない。そこで勝手に想像して書くわけだが、一つには戒壇の大御本尊の複製疑惑だろう。奉安堂に安置されているものは本物ではなく複製である、というウワサがある。もしそれが事実ならば、宗門が顕正会を責めるのはメクソハナクソだろう。しかし、そんなことはシモジモの法華講員が知る由もないことであり、確かめる術もないことである。ゆえにあくまでウワサのところで話が止まっているわけなのだろう。

そもそも熱心な法華講員がそのような疑いを持つことはないし、たとえ内心では思っていても恐れ多くて口には出せないのが普通だろう。逆に言えば、離脱者にはそうした足枷がないので、気楽に言えてしまうわけだ。

さらに深入りすると、戒壇の大御本尊の複製以前に、戒壇の大御本尊の真偽問題がある。これを言ったらそれこそ足掛け二十年とかの話ではなく、数百年来の疑惑ということになるのだ。

これまた法華講員にはベラボウに荷の重い話であり、逆に言えば離脱者だからこそ気軽に言及できる事案なのだろう。

そこで話が戻るのだ。

それを言ってどうするのかである。離脱者たちが正宗批判をする。その一つの事案として戒壇の大御本尊のことを云々する。先ほども言ったように、それが自分のやりたいことならば、それはそれで一つの生き方ではある。ただし、客観的には大したことではないのだ。ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎないわけであり、興味のない人から見れば、それがどうしたのか、というレベルの話なのである。

最初の学者同士の論争にしても同じである。学者だから多少は高尚な議論が行なわれているのかもしれないが、それとて興味のない人にとっては何の意味もない話なのである。

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

難しい漢字が並んでいて書けと言われても書けない。しかし、今はありがたいことにわりと簡単に入力できてしまう。あまりにも有名な言葉なので、入力ソフトのほうで勝手に変換してくれるのだ。

意味は説明不要だろう。問題は誰が燕雀で誰が鴻鵠なのかである。

大聖人の御書にも類似の御表現がたくさんある。わかりやすい例は師子王と狐兎の比較だろう。あるいは日月と蛍火の譬えもわかりやすい。

ただし、これも自画自賛は無意味である。

いくら師子王だと嘯いたところで、客観的には狐兎に過ぎないとしたら、それこそ嘲笑の的だろう。わたくしの勝手なイメージを言わせてもらえば、燕雀安んぞ云々は自ら口にしてはいけないと思う。ようは心に思うべきなのである。あるいは助け舟で使うのが望ましい。

助け舟?

説明が難しいので困っているのだが、ようは自分で自分に当てはめて言うのではなく、励ましの意味で言ってあげるのが好ましい使い方だということである。

ある政治家が崇高な政治理念を持っていて、その実現の一歩として具体的な政策を立案した。ところが一人の賛同者もいなかった。なぜなんだ、これほど素晴らしい政策もあるまいと思うのだが、誰も賛成してくれない、君はどう思うかね? と秘書に尋ねるのだ。秘書いわく、先生、これはまさしく燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやではないですか、そこらの小者の政治家には理解できなくて当然なのですよ、先生は信念を曲げずに貫いて下さい、私はどこまでも先生について行きますから、と。

うまい例だったかどうかわからないが、ともかく自分で言っちゃったらオシマイのような気がするわけで、誰かに言ってもらったほうが具合がよさそうである。

安孫子師の自殺・・・

これについては前にも書いたが、その後、他の人の文章を読んだりしてさらに思いを深くしたところがあるので、少し書いておこうと思う。

すなわち樋田ビデオである。

氏は創価学会ないし顕正会への痛烈な批判を続けている。氏の作成したチラシには創価学会員には自殺者が多いという意味の記述がある。あるいは動画の中で、顕正会の幹部が自殺してしまったという話が出てくる。ところがここに来て日蓮正宗の僧侶が自殺してしまったわけである。もはやこれでは何も言えないはずであるが、いかがだろうか?

樋田氏は仏法世法の両面にわたって充実しているのだろう。それが自信たっぷりの物言いにもよくあらわれているように感じられる。そこがまた周囲の嫉み妬みを生むのだろう。

それはさておき、である。樋田氏は今回の一件について、どのように言及しているのだろうか?

まさか都合の悪いことには頬かむりをするみたいな、そんな姑息なことはしない人だとは思うのだが、何しろ氏の動画は膨大なので、どのような発言をしているのか、細かくは知らない。もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいものである。

2017/5/14

五月病的独白  
法華講には良い人が多い。沖浦氏の発言である。ようするにネット上でああだこうだ言っている時はわからなかったが、彼らに実際に会ってみたら良い人たちだったという話である。その証拠写真も出している。すなわち生ビールのジョッキを前に、沖浦親子と法華講の諸氏が仲良く肩を並べているショットだ。そしてご存知のごとく、この頃を境にして沖浦氏はネット上の創価学会員から総スカンを食らうことになる。その状況は今も続いている。

それからもう一つ、動画のリンクを貼っているが、どうやら創価学会の御用学者(?)の発言らしい。これについては後日、気が向いたら書いてみようかと思う。

大沢氏の最初のコメントは難しいと思った。あえてその部分には触れず、ありきたりの部分を引用すれば、次のごとくである。

もはや学校当局は、本人を再評価しよう、目を向けようなどという気は更々なく、厄介者として距離を置いてただ卒業を待つことになるでしょう。

これは一般的に不良生徒への対処法である。ダメだこりゃと思えば、あとはひたすら卒業を待つのみなのだ。ようは卒業=厄介払いである。しかし、くだんの記事の場合、何しろ相手は生徒会長なのだから本当ならば不良生徒とは対極に位置する存在のはずなのである。すると顕正会の存在は、そんじょそこらの不良生徒など取るに足らないほどの厄介者ということになるだろうか?

まあ、かなりの偏見が含まれているとは思うものの、先日も書いたように顕正会がもたらす実害も否定はできない。その意味では、やはり高校生のうちは顕正会の活動を制限すべきなのだろう。当たり前ながらも、夜の集会には参加しなくてよいとか、折伏のノルマを課さないとか、である。

もっとも、今の顕正会にそれだけの精神的余裕があるとは思えないのだが・・・

そして大沢氏の最新のコメントは、まさしく顕正会の最新トレンドに関する話題である。いわゆる本尊複製疑惑だ。

この問題を年代順に分割すると、平成十年前後には下野正信氏がおそらくは初めてこの疑惑について書いたのだと思われる。そして平成二十年前後には顕正会是正協議会が動き、かつまた櫻川忠氏が『迷走する顕正会を斬る』というセンセーショナルなタイトルの本を出版して、この問題にメスを入れたのだった。さらにここに来て、すなわち平成三十年を目前にして法華講の樋田昌志氏が顕正会の本尊疑惑に斬り込んだ。おおむねこんな感じである。

つまり、顕正会は足掛け二十年にわたって、本尊複製の嫌疑を掛けられ続けているわけであり、法華講員などからの厳しい追求に悩まされ続けているのである。

とりわけ樋田氏は最強であり、顕正会の並の幹部にはとうてい太刀打ちできない。それは大幹部であっても同様であり、むしろプライドがあるので無残な姿を晒したくはない、それで逃げ回っているというのが実情のようだ。

また樋田氏は今回の本尊についての質問状の前にも、会長宛に公開法論の申し込みを行なっている。しかし、顕正会側はこの樋田氏からの再三の法論要請に対して、一度もマトモに返答したことがないようだ。いわゆる黙殺である。すると今回も無視することになるのだろう。それ以外の選択肢はなさそうである。

実に厳しい状況だ。

何が厳しいかは説明する必要もあるまい。今までの法論要請に対しては、いちおう回避するための口実があった。ようするにかつて顕正会側も日顕上人へ法論申し込みを行なったが先方が回避したという経緯があるので、それがいわば口実となるのだ。ゆえにおそらくは今でも同じことを言うのだろう、樋田などという小者(?)を相手にする必要はない、やるなら大将を呼んで来い、そうすればこちらも浅井先生に出ていただく、と。

浅井先生は半分くらいは本気なのだろう。しかし、残り半分は面倒臭いという気持ちなのだと思う。幹部たちに阿部日顕を呼べと言わせておけば、どうせ実現しないだろうからそれで話は終わると高を括っているわけだ。

そして、おそらくは日顕上人も面倒臭いと思っているはずである。第一、過去の経緯を考えれば、法論に応ずるつもりなど、さらさらないのだろう。

ゆえに樋田氏がどれほど息巻いたところで、この話はどうにもならないというのが現実である。

法論の実現は上述のごとくである。

しかし、本尊疑惑はかなり性質の異なる話である。

話は簡単だ。もう足掛け二十年も疑惑を持たれたままなのである。顕正会側は疑惑を解消できずに二十年の歳月を経てしまった。決定的な証拠がないのも事実である。刑法的には無罪だ。しかし、そういう問題ではないだろう。ようは説明責任がある。それにもかかわらず説明責任を放棄しているのが今の顕正会の姿なのである。

法論に応じろと迫っても埒が明かない。それどころか過去の経緯を持ち出して、むしろ逃げているのは宗門側であるなどと言ってくる。困ったものである。

しかし、法論に応じろではなく、質問に答えろと迫れば話が違ってくるだろう。

なかなかうまい言い訳が見つからない。

顕正会側が黙殺するのはほぼ間違いないことだ。しかし、それがいわば無言の回答という理解にも結びつくわけである。

今後、法華講員による顕正会員への折伏が勢いを増すとしたら、これが一つのキッカケとなるだろう。もはや難しい議論は必要ない。顕正会の本尊はニセ本尊である。そう言って責めれば話は簡単なのである。何だと? だったら証拠を出せ! こう言って反撃してくる顕正会員に対しては、樋田氏の内容証明郵便を引き合いに出せばいい。これがトドメの一撃である。

顕正会側に起死回生の手段はあるのか?

わたくしの答えはノーである。負け嫌いの浅井先生としては頑として認めたくないのだろうけれども、この件に関しては素直に間違いを認めるしかない、すなわち負けを認めるしかない、これがわたくしの結論である。

その上で御当代猊下に本尊を書いてもらえばいい。まさかそれをニセ本尊だと言う法華講員はおるまい。

いつも言っているように、そのためには宗門復帰が絶対条件である。まあ、これが最難関なのも事実であるが・・・

そこで子供じみた空想癖を発揮して書いておこう。

現状のままで御当代猊下が顕正会用特別御本尊を下付するのだ。現状とは文字通り、今のままである。いわく、顕正会は教義上の齟齬が解消されない限り復帰を認めない、しかしながら戒壇の大御本尊への渇仰恋慕の思いは嘘偽りのないものと認め、ここに特別御本尊を下付するものとする、と。超法規的措置ではあるものの、猊下の英断でやろうと思えばやれるはずである。

わたくしが言うと角が立つけれども、樋田氏はマレな存在であって必ずしも法華講の全体像をあらわしているわけではないだろう。つまり、法華講全体ないし日蓮正宗全体としては、閉塞感のようなものが漂っているのも一面の真理のはずなのだ。そこに風穴を開ける意味で、上述のような猊下の英断は必要なことかもしれない。

もっとも顕正会側がこれに飛びつくかどうかはこれまた微妙なところであり、ヘソマガリの浅井先生はこれを拒否するかもしれない。その辺が難しいところではあるが、しかし、いちおう宗門側からの最後の慈悲ということで、ぜひとも実現してほしい話である。

2017/5/10

顕正会の最新トレンド  
今日も第1405号の続きである。

高校校長 折伏を理由に「謹慎処分」下す
顕正会本部の抗議で撤回、「謝罪文」を構内に掲示


男子部第十二隊班長の記事に付された見出しである。先日は第一面のケッタイな文章を紹介した。再掲しよう。

先生が顧問弁護士に抗議せしめられる・・・

編集部の誰かが書いたのだろう。文法的な問題はさておき、一般人には違和感の拭えない言い回しだと思う。片や見出しのほうは見事な要約である。本文も紹介しておこう。

 時同じく、学校側の理不尽な怨嫉をお耳にされた浅井先生は勿体なくも、弁護士である藤村本部幹事に、教育委員会と学校への対応をご指示下さり・・・

なるほど、弁護士の威力は絶大である。おそらく普通の人ならばビビってしまうのが当然なのだろう。面倒臭いことになりそうだと思えば、さっさと謝罪撤回してしまったほうが得策ということだ。

ちなみに藤村氏の存在は、顕正新聞紙上ではすっかり鳴りを潜めてしまった感じだった。ゆえにずいぶん久しぶりのような気がする。

話を戻そう。前後するが、次の記述は重要である。

 私は県立高校に通い、生徒会長を努めておりますが・・・

これもなるほどの話である。ようするに彼はひじょうに影響力のある存在なのだ。ゆえに学校側としても看過できないと思ったのだろう。

ここで考えなければいけないことは、高校生はオトナかコドモか、である。もう十分にオトナだという意見もあるし、まだまだコドモだという意見もある。
前者の場合、入信するしないを判断するのもすべて自己責任ということになるだろう。後者の場合は親の判断というか許可を必要とする考え方である。
そしておそらく法律上は前者を支持するのだと考えられる。もちろんここでのオトナは成人年齢のことではない。たとえ未成年であろうとも入信するしないの判断は本人に委ねられているのだ。ゆえに校長先生も謝罪撤回を余儀なくされたわけだろう。

また、法律上の問題はさておき、現場の活動会員たちの意識としては、入信するにあたっては一切お金が掛からない、だったらコドモだろうが問題ないだろう、親が口出しするのはおかしなことだ、というような感じなのだと思う。早い話が実害がないのだから問題はないということだ。

しかし、どうだろう。次は隣の女子部第二百三十四区長の記事からの引用である。

それよりは自転車で片道一時間半もかけて水戸会館に参詣を重ねております。

ここでの登場人物は高校生ではないのだろうけれども、活動会員たちの行動パターンを知る意味で重要である。つまり、顕正会の組織は地域の偏在が激しく、最寄りの会館へ行くにも一苦労なのである。もし仮に集会があるとしよう。平日であれば夜に行なわれる。すると集会終了後、帰宅するのが深夜になってしまうことはザラにある話である。それが高校生だったらどうだろう。学校生活に影響するのではあるまいか?

顕正会の高校生は誰もが成績優秀でスポーツ万能。もしそうならば文句はない。しかし、現実は必ずしもそうではないだろう。逆に顕正会に熱心なあまり学業が疎かになったり、今まで頑張っていたクラブ活動を辞めてしまったり、というようなケースも少なくないはずなのである。

ようはこれも立派な実害ではないかということなのだ。

おそらく世のオトナたちは多かれ少なかれ若い頃のことで後悔していることがあるのだと思う。最大公約数的に言えば、もっと勉強しておけばよかった、という感じだろうか? 若い頃はわからないのである。後になってから気付くのだ。ゆえに、オトナたちは顕正会の活動が絶対悪だと言いたいわけではなく、その活動にのめり込むことによって勉強が疎かになることを恐れているわけである。

くだんの生徒会長が成績優秀・スポーツ万能だったとしよう。もうそれだけで他の高校生たちはどんどん入信してくるかもしれない。しかし、残念ながら入信者全員が成績優秀・スポーツ万能になれるわけではない。たぶん教師たちはそれがわかっているのだろう。だとすれば学校側には何のメリットもないわけで、ようは実害だけが残ることになるのである。

もっともここまで書くと、あたかも御本尊の功徳を全否定しているかのように感じられるかもしれないが、わたくしにそのつもりはない。

ずいぶん前に顕正会の教師が生徒を折伏する問題を書いたことがある。わたくしは卒業を待ってからにすべきと書いたと思う。それとは若干異なるものの、ほぼ同じことを言っておきたい。高校生が高校生を折伏するのは少し控えたほうがいいと思う。さすがに全面的に禁止せよとは言えないけれども、基本的には卒業を待ってからにすべきである。人生は長いのだ。

これも前にどこかに書いたかもしれないが、実は男子部も女子部も高校生の成果を相当に当てにしているのだ。事実、高校生の活動会員がいる組織は勢いがある。しかし、それは必ずしも好ましいものではない。なぜならば、オトナの幹部たちはその高校生を酷使しているのだ。成果のために無理をさせている。無理を強いている。特に高校生の場合、芋づる式に大量入信させることが比較的に簡単なので、幹部たちもそれに頼る傾向があるのだ。

この実態を知れば、さすがによくないことだと誰もが思うはずなのだ。ゆえに高校生の折伏は控えるべきだと書いたのである。

ちなみにくだんの生徒会長の記事には次のような記述もある。

 昨年の最終法戦は、思うように進まぬ戦いに一喜一憂した結果、一名の折伏の証拠も現わせないまま法戦を終えてしまいました。

正直な記述である。しかもわたくしが上述してきたことをすべて打ち消すような内容である。高校生は大量入信が期待できる・・・はずだったのだが、現実は上掲のごとくなのだ。

この答えはすでに出ている。

高校生の大量入信は、かつてはそうだった、だが、しかし、今はそうでもないらしい、ということなのである。その理由はインターネットの影響だろう。顕正会の情報が簡単に入手できる。しかもネット上の情報はその大半が顕正会にとってはマイナスの情報なのである。

そういうわけで、今は若い人の入信が少ない。よって、若い人材もあまり育っていない。そしてご存知のごとく、今は後期高齢の人たちや外国人の入信が多いのである。

顕正会の未来は暗いということだ。

2017/5/9

そうでもない活動家  
引き続き顕正新聞第1405号を見て行こう。まずは男子部総務だ。

先生の諫めに相呼応する諸天の働き・・・

何を言っておるのかと思えば、森友問題で安倍内閣の政権基盤が揺らぎ始めたことを諸天の働きだと言いたいらしいのだ。

次は第三十女子部長の発言である。

濁悪の日本国がまもなく白蓮華の花で覆われ・・・

これはいわゆる譬喩である。具体的には顕正会員で覆われると言いたいのだろう。それはさておき、次のくだりが問題である。

昭和二十年、正系門家の大不祥事により原爆投下の大罰を受けた広島こそ・・・

ひじょうに悩ましい記述である。ようするになぜに広島だったのかがわからないのだ。顕正会では何でもかんでも罰だの功徳だのと言うわけだが、その因果関係がまるで不明である。広島が罰を受けなければいけない理由は何か、それをちゃんと説明できるのだろうか?

沖縄こそ、眼前に迫る中国の侵略を迎え撃つ鉄壁の大陣列を急ぎ構築せねば・・・

別の男子部総務の発言である。まあ、譬喩だと考えればそれほどおかしくはないのかもしれないが、それにしてもどうかと思うところである。まさか本当の意味で中国軍の侵攻を顕正会の精鋭部隊が迎え撃つみたいな、そんなバカげたことを想像する人はいないとは思うものの、では顕正会員が増えると何がどのように変化するのか、そこがまったく見えて来ないのだ。もちろん、ここで諸天善神の力用を云々するのが、宗教的な意味では正しいのかもしれない。しかし、今現在、リアリティの上から国防を考えている人たちにとっては、論外の話である。この点、顕正会の主張は甚だ脆弱であり、説得力に欠ける。これが一般的な評価だろう。

真言祈祷僧池口恵観の影響受ける安倍首相
学会副支部長「学会員の半分は“顕正会が正しい”」


第十六男子部長の記事に付けられた見出しである。安倍首相が池口恵観の影響を受けている話はけっこう有名らしい。たぶん週刊誌などのネタなのだろう。けれども登壇者はそれを書いているわけではなく、厚労省の高官だった人物から直接聞いたということである。それによれば昨年末の日露首脳会談の前にも首相は池口の教示を受けているらしい。しかもである。池口はこの高官だった人物に対しても実務レベルのアイデアを授けているらしいのだ。

凄い話である。高官とは高級官僚のことであり、彼らは超エリート集団である。それが政治的にはシロウトのはずの僧侶からアイデアをもらうとは、ちょっと常識的には考えられないことである。すると池口という人物は「浅井先生のご見識」に負けないくらいの見識を持っていることになりそうだ。顕正会員的には、先生と池口を一緒にするとはケシカラン、ということになりそうだが、宗教的な正邪を抜きにすれば現時点では向こうのほうが上なのだから仕方がないことである。浅井先生の見識が認められて、国の要人たちが教えを請うような日が、はたして来るのだろうか?

 副支部長いわく
 「私の周囲の学会員の中には、顕正新聞を読んで『ウソだ!』と思う者が半分ぐらいいるが、顕正会が正しいと思っている者も半分ぐらいいる。しかし顕正会を正しいと思っている者は、そのことを仲間の学会員には絶対に言わない!」と。


得意のアゲアシ取りをさせていただこう。顕正会を正しいと思っている人はそのことを絶対に言わないわけなのだろう、だったらわからないじゃないか、ということである。

ゆえに上掲は副支部長の推論を交えた話と解するのが一般である。副支部長の感触では、半分くらいは顕正会が正しいのではと思っちゃっているのではないか、ということなのだろう。ゆえにそれが本当かどうかはわからない。

やや余談ながらも、いわゆる活動会員たちにも大きく分類すれば二種類いて、バリバリの活動家もいれば、いちおう活動家の範疇には属するものの消極的な活動家というのもいると思う。たぶん副支部長の感触というのも、ここから発しているのではないかと考えられる。バリバリの活動家は心配ない。けれども消極的な活動家はややもすれば離脱してしまいかねないわけで、組織を取りまとめる副支部長の立場としては心配なのである。こうした前提で推論すれば、半分くらいは顕正会が正しいと思ってしまっている、という心配も生じてくるわけである。

これは顕正会にも当てはまる話だ。

大雑把に二分すれば、バリバリの活動家とそうでもない活動家がいる。そうでもない活動家はバリバリの活動家に引っ張られて、それで何とか活動家として踏み留まっているのだ。ゆえにそういう人が法華講員に折伏されると、忽ちに気持ちが揺らいでしまう。実際、それで相当の人数が移籍していると考えられる。さらに言えば、バリバリの活動家だった人が移籍してしまう場合もあるわけで、この影響は甚大である。いわゆる大量脱会・大量移籍につながるわけだ。

学会の崩壊近し!

第十六男子部長の記事には前掲の見出しの他に、本文中にも小見出しが付いている。上掲である。

しかし、どうだろう? 創価学会が崩壊するかどうかは知らないが、それ以前に自分たちの心配をしなければならない。今はそういう状況に突入しているのではないかと思う。

2017/5/8

安全のための意識改革について  
顕正マン氏の礼儀正しさに感銘した。事故や病気には気をつけろとのことだが、これはまったくおっしゃる通りであり、何ら悪意を感じるものではなかった。拙ブログは個人のサイトとしては相当に長持ちだと思う。何しろ十年以上も続けているのだ。そのモチベーションもさることながら、こうして続けて来られたのは生活が安定しているからである。事故にも遭わなかったし、さしたる病気にも罹らなかった。ゆえにコンスタントに更新を続けられたのである。ごくマレに、丸一週間くらい更新が止まることがある。それを心配して問い合わせのコメントを下さる人もいたが、わたくしはその時に答えたものだった。今は不定期更新なので、一週間やそこらの空きがあっても驚いてはいけない、もし、丸々一ヶ月更新がなかったら、その時は何かあったのだろうと思っていただきたい、というような感じである。

さらに妙なことを書くと、当然、名目上ながらもわたくしを管轄している組織があって、担当の幹部がいる。今はもうすっかり諦められてしまったが、組織を離脱した当初はかなり熱心な説得を受けた。それは顕正マン氏が指摘するように、まさしく罰の恐怖を植え付けるような発言の数々だった。
そこでである。わたくしがそれにどのように対処したかを書いておくと、もちろん感情的に反論したりはしないで、相手の言うことを受け流してしまう。それが直接的な対処である。
そして日常的にはどうしたかと言うと、実は物凄く用心深くなったのだ。車を運転するにしても、絶対に事故を起こさないように安全運転を心掛けたし、また、貰い事故の危険も考慮して、ヤバそうな車が走っていれば絶対に近づかないみたいな、ようはあらゆる危険を想定して運転するようになったのである。

一事が万事、そのような行動を心掛けているのだ。あらゆる意味でトラブルを回避できているのはそのためだろう。

けれども担当幹部にこういうことを自慢げに言うと、反撃を食らうことになる。無間地獄が確定している人は罰が出ないのだと。イヤなことを言うものだが、まあ、それに対しても感情的にならずに、ああ、そうですか、と受け流す。当然、相手は思うだろう、ダメだこりゃ、と。そういうわけで今ではすっかり静かになって、滅多には連絡が来ない。

せっかくなので余談を続けよう。

わたくしは日常的に車を運転しているが、それと同時に、歩行者の立場でもある。例えばわりと狭い道を歩いているとしよう。いわゆる車道と歩道の区別がないところである。そこを歩いている時に背後から車の迫っている音が聞こえるとどうするか、である。
わたくしの場合、脇に避けるのだ。物凄く狭い道ならば、脇に避けて車が過ぎるのを待つ。そこそこのスペースがあれば歩き続けるが、それも壁にへばり付くくらいの感じで歩くのである。
当然、歩行者優先という考え方がある。しかし、だからと言って道の真中を堂々と歩く人はいないだろう。誰もが左右のどちらか寄りを歩いているはずだ。とは言え、わたくしのような行動を取る人は少ない。

何が言いたいか、わかるだろうか?

わたくしは権利や義務、あるいはどちらが優先かみたいな意識から、そのような行動を取っているわけではないのだ。絶対に事故に巻き込まれないためにはどうしたらよいか、というのがわたくしの行動原理なのである。

では逆に、わたくしが車を運転している立場の時はどうするのか、書いておこう。

正直なことを言うと、歩行者を轢き殺したくなる衝動に駆られることがある。物騒な話だが、本音を書いておいたほうがいいだろう。
上述のごとく、わたくしが歩行者の時は脇に避けるのだ。ところが避けない人が多いのも事実である。歩行者優先の意識が強いからなのか、あるいは轢かれることはないだろうと高を括っているのか、それはわからない。
しかし、わたくしの自己ルールからすると、歩行者の多くがルール違反を犯していることになるのだ。ゆえに腹が立つ。だから轢き殺したくなる。

けれども、わかり切った話だが、わたくしは絶対にそんなことはしない。ちなみに、クラクションを鳴らすこともしない。ひたすら徐行するのみである。それで歩行者に接触しないだけの目測が立てば、最徐行を心掛けつつ歩行者の横をすり抜けることになる。もしその幅すらなかったとしたら、ひたすら待つのみである。

エライ不公平な話である。わたくしばかりが一方的に損をしているようなアンバイである。しかし、それほど不満はない。

つまり、運転者の時も歩行者の時も一貫して、事故を起こさない・事故に巻き込まれない、という方針なのである。そして現実に、こうした心構えが奏効して無事でいられるわけだから、不満はないのである。

ただし、先ほども書いたように、時には轢き殺したいという衝動に駆られるのも事実で、実は狭い道路の時よりも問題なのが、大きな道路である。

特に早朝が多い。

片側二車線、両側で四車線という大きな道路があるとしよう。これを横断する歩行者の態度がよろしくないのだ。たぶん出勤途中なのだろう。朝はたいていの人が時間に追われている。ようは急いでいる。ゆえに横断歩道の信号が赤にもかかわらず、渡る人がいるのだ。とんでもない話である。もちろん横断歩道のないところを渡る人もいる。これも大きな道路では危険な行為だろう。

しかもである。その人たちの多くは、なぜかノンビリと歩いているのである。

この時がいちばんヤバイのだ。わたくしが車を運転していて、こうした場面に遭遇すると、それこそ轢き殺したくなるのだ。大きな道路であるから、それなりにスピードも出ている。ゆえに本当に轢いてしまえば死亡事故になるだろう。ましてやこうしてブログで本音を書いてしまっているわけだから、単なる致死罪ではなくて殺人罪になるかもしれない。実にヤバイ話だ。

わたくしの言い分は簡単である。

オマエは急いでいるのだろう。だから信号が赤でも渡るのだ。だから横断歩道でもないところを渡るのだ。だったら急いで渡るべきだろう。何をノンビリと渡っているのか。ふざけるのもいい加減にせよ。

う〜ん、余談とは断ったものの、今日のブログは相当に異色である。

ただし、拙ブログには固定客としておよそ二百人ほどの読者がいるわけで、その人たちへの啓蒙(?)にはなったのではないかと思う。もし今日の記述に該当する人がいて、ああ、そうか、気をつけないといけないな、というふうに少しでも思ってくれたならば、ムダではなかったことになるだろう。

2017/5/7

森友問題特集号を読んで  
顕正会へ戻れとのお誘いを受けた。まあ、しかし、わたくしにそのつもりはない。今さら戻ったところでどうなるものでもあるまい。また、甚だ生意気ながらも、今さら一兵卒として御奉公する気にはならない。拙ブログが示すように、独白が性に合っているという意味もある。よって、今後もこのスタイルで続けていくつもりである。

闘って腐っているスタッフ・・・

相変わらずのオッチョコチョイである。これは当然、闘って下さっているスタッフ、と書こうとしたのだろう。まったく失礼な話だ。

 根が腐ったら木は必ず枯れる。学会はすでに信心の根が腐っている。よって必ず亡びる。よくよく見るべきであります。

 学会が、まもなく音を立てて崩壊することは疑いない。


今日は予定通り三月度総幹部会の会長講演を取り上げる。話の流れとして上掲から始めるのがよさそうだ。

この話題も繰り返し書いてきたような気がする。ようするに浅井先生の言うことはいつも当たらない。地震の予言もそうだが、上掲のような創価学会崩壊の予言も当たったタメシがない。

「安倍一強政権」森友問題で揺らぐ

これもそうだ。浅井先生が言うと逆になる。皮肉な話だが、それが今までのパターンである。ゆえに今回もそうなる可能性が高い。

そうそう、そう言えばつい先日、日露首脳会談が行なわれた。これまた浅井先生の見通しとは真逆である。浅井先生は昨年末の首脳会談についてボロクソに言っていた。大失敗だったと。それで日露関係がおかしくなってしまえば、まさに浅井先生の面目躍如となるところだった。ところがつい先日、再び首脳会談が行なわれた。内実はともかくとして、表面的には両者の関係は良好と言えるだろう。つまりは浅井先生の見通しが外れたことになる。

さて、森友問題であるが、今回の会長講演ではかなり詳しく言及している。これはわたくしの予想通りである。浅井先生は二月度総幹部会でこれに言及しているわけだが、事態の推移を見るに、翌月の総幹部会までにはさらにさまざまの情報が出回ってもいることだろうから、いわばそれを格好のネタに講演するに違いないと睨んだわけである。

そして当該講演は一般人向けの意味において、そこそこの成功を収めているのではないかと思う。

というのはこの問題、メディアの報道が熾烈化すればするほど、逆に論点が散漫になってしまって、よほど注意力のある人でなければ、事の本質がわからなくなってしまうからである。その意味で浅井先生の講演は整理が行き届いており、森友問題のポイントを把握するのにひじょうに好都合なのである。活動会員たちが浅井先生のご見識などと持ち上げるのも、ある意味では当然のことなのだろう。上から目線で恐縮だが、一言で言えばよく書けているということだ。

森友問題の報道を見ていて感じたことは、意図的なのかどうか知らないが途中で論点が大きく変ってしまったことである。

つまり、当初は国有地払い下げ問題についての議論だった。これに安倍首相ないし首相夫人が関与しているのかどうかが問われていたはずなのだ。
ところがである。ある時期からそれが違う方向に走り出すのだ。すなわち森友学園理事長夫妻の特異なキャラクターばかりにスポットが当たって、しかもそこがワイドショーの悪癖なのか、同じ映像を繰り返し繰り返し流すのである。
ということで、問題の焦点がいつの間にか安倍夫妻から籠池夫妻へとスライドしてしまったのだ。

当然、観察眼の鋭い人たちは、籠池氏一人を悪者に仕立て上げることによって、それで幕引きを図ろうとしたと見るはずである。穿った見方をすれば現政権と大手メディアとが結託してのことだ。

あるいは新年度を迎えたあたりで、突如として北朝鮮問題が盛んに報じられるようになった。詳しく調べればわかるはずだが、北朝鮮の問題は今に始まったことではない。ミサイル問題にしても以前からの懸案だったはずである。それをことさら大騒ぎしたのは大手のメディアだった。穿った見方ながらも、これまた森友問題への婉曲な幕引きではなかったかと思うのだ。

連休明けが一つの目安となるだろう。国会においても野党がどれだけ攻勢を仕掛けられるかである。早い話が問題を再燃化させられるかどうかなのだ。どれほどのメディアコントロールがあるか知らないが、大手メディアだって大本営発表のようなことは許されない。つまり、森友問題でどうにも抜き差しならない新事実が出てくれば、それを報道しないわけには行かないはずなのだ。つまりは明日以降の動きに注目である。

 まさに、蟻の這い出る隙もないほど盤石な政権、恐るべき独裁政権がいま出現しつつあるのです。

会長講演である。しかし、言わんとしていることはこの逆である。

 しかし、この「安倍一強政権」が、いま大きく揺らいで来ましたね。思いもよらぬ問題が起きてきた。

つまり、森友学園騒動で盤石だったはずの安倍政権が揺らぎ始めたと言っているのだ。

これ諸天の誡め、罰であります。

しかし、最初のほうでも言ったように、浅井先生がこういう発言をすると逆になることが多い。皮肉な話だが今までの経験則からするとそうなのだ。ゆえに先ほども書いたように、連休明けの明日以降の動きが注目されるのである。このまま森友問題が再燃せず、安倍首相が逃げ切ってしまうとすれば、それは浅井先生の責任(?)である。

あとは各論的に気になったところを紹介しよう。

権謀術数により日本の政治史上空前絶後の大派閥を作り、軍部・政界・官界の頂点に立って権勢ををほしいままにした、第三代総理大臣・山県有朋・・・

へえ〜、そうなんだ。たぶん歴史の教科書に彼の名前はあるはずだ。しかし、上掲のような生々しい記述があるとは思えない。少なくともわたくしは習った記憶がない。

・・・安倍首相と籠池理事長は、こういう関係にあったのです。

当然、こういう関係の「こういう」は前の文脈を引き継ぐ意味なのだが、同時に「こうゆう関係」すなわち交友関係・交遊関係とも受け取れる文章である。ところが周知のごとく、メディアは籠池氏の特異なキャラクターにスポットを当て、いわばヘンなオッチャンの烙印を押して、安倍首相もまた、そんなヘンなヤツは知らん・無関係だ、と言わんばかりだった。

まさにトカゲの尻尾切りです。

 みな卑怯です。情勢不利と見るや、籠池ひとりに責任を押し付けて無関係を装っている。

浅井先生の言っている通りである。

 いいですか。考えてごらんなさい。この事件、いかにもおかしいでしょう。
 国有地の払い下げで口利きをした政治家がカネをもらったという話なら、よくある、よく聞く。
 しかしこの森友問題はその逆ですよ。いま安倍首相は一〇〇万円を森友学園に寄付したことを疑われているのです。
 本来なら、美談とも言われるであろう寄付行為を安倍首相は必死になって否定し、籠池は全力でこれを立証しようとしている。まことにおかしな話です(笑)。


これまた、なるほど、である。

ただし、この問題は日本人の性格的なものが災いしてか、すでにウンザリ感が漂っているのも事実である。ゆえにこのまま終わってしまう可能性も考えられる。もしそうなれば安倍政権のいっそうの盤石化が進み、超長期政権が現実化することにもなりかねないだろう。困ったことである。

 日本会議というのは、傘下の神社本庁と一体となって・・・

この意味がわからなかった。日本会議の傘下が神社本庁? 一般的な認識がどうなっているか知らないが、わたくしの感覚では逆のように思える。

横須賀・厚木は富士大石寺に近い。このことだけを、私は心配しております。

北朝鮮のミサイル問題を言っているのだ。もし米軍基地を狙われたら、当然、誤爆ということもあるわけで、浅井先生としてはまかり間違って大石寺に着弾したら一閻浮提第一の大事件であると、こう言いたいわけなのだろう。宗門関係者に読ませたいくだりである。

習近平がこれまでの国家主席から、いよいよ中国共産党主席に就任して・・・

これまたわたくしの不勉強に過ぎないのかもしれないが、国家主席よりも共産党主席のほうが上位概念というのが不思議な話である。

いずれにしても中国では集団指導体制が廃止され、独裁体制が敷かれるとのことである。

売僧

最後にご覧に入れるのは上掲である。浅井先生は日達上人ないし日顕上人を売僧と罵っているわけだ。浅井先生の上人批判は今に始まったことではないが、わたくしの記憶が確かならばこの表現はひじょうにめずらしいと思う。なぜならば、わたくしはこの漢字をすぐには読めなかった。顕正新聞にはルビが振ってあるので、助かった。もし先生がこれを頻繁に使っていれば、さすがのわたくしも読めないはずがないということである。

2017/5/6

ゴールデンウイーク合併号?  
いよいよ顕正新聞第1405号である。

「大悪大善」特集号

三月度総幹部会を報ずる当該号には上掲のような名称が付されている。しかし、わたくしの思うに、森友問題特集号とでも名付けたほうがよかった。今回の会長講演の目玉はそこにある。

いや、いわゆる仏法上は宗門・創価学会の御遺命破壊こそが重要事項であって、そちらにウエイトが置かれて当然のことではある。ゆえにその文脈においては上掲の名称が相応しいわけだが、しかし、一般人の耳目を集める意味においては森友問題のほうが遥かに重要だろう。実際、当該講演は森友問題に助けられている意味が少なくない。なぜならば、もしそうした時事問題が挿入されていなければ、いつもの浅井先生の主張の繰り返しに過ぎず、早い話がツマラナイからである。

会長講演に入る前に、第一面の記述にイチャモンを付けておこう。

学会組織を離れたが・・・学会内で噂になっていた「基礎教学書」を読んで・・・入会。

かなり乱暴な引用ながらも、わたくしの言いたいことは一目瞭然のはずだ。組織を離れた人がなぜに組織内のウワサを知っているのか、である。もちろん説明の仕方はいろいろあるだろう。組織を離れたのでほとんど情報は入ってこなかったが、それでも漏れ伝わるほどに基礎教学書の出来は衝撃的だった・・・みたいな感じが一例である。

しかし、一事が万事、顕正会は誇張が過ぎる。わたくしの感触では、顕正会の動向を気にしている創価学会員はほとんどいないだろう。ゆえに当該記事もウソではないにせよ、かなりの誇張が感じられるところである。

この一件をお耳にされた先生が顧問弁護士に抗議せしめられると、校長は直ちに処分を撤回・・・

男子部班長の活動報告を報ずる文章だが、実にヘボである。意味はわかる。ようするに高校生の顕正会員が学校長から理不尽な処分を下された。これに対して顕正会側は弁護士を通して厳重なる抗議を行なった。すると校長はあっさりと処分を撤回した。こういう話である。

しかし、どうだろう?

先生が顧問弁護士に抗議せしめられる・・・

なんだ、このケッタイな言い回しは、と思う。

昔から言っているように、わたくしには文法的な難しい議論はわからない。ゆえに上掲が文法的に正しいのかどうかの判断はできない。けれども違和感の拭えない言い回しであることは、誰もが感ずるところではないかと思う。だったらもっと単純に、抗議させる、と書いたほうがよほどいいだろう。何を気取っておるものかと言いたいところだ。

そして第一面の報道で、実は物凄く地味ながらもけっこう重要な記事が、下段に掲載されている。すなわち女子部の人事である。

今回、一人の地方部長と二人の区長の人事が発表された。

物凄く地味である。なぜならば顕正会ではたいてい一月末に、期を画する大人事、みたいな謳い文句で大量の人事を発表するのが通例だからである。それに比べれば三人だけの人事発表は地味であり、目立たない。
しかし、委細に見れば、けっこう重要な意味が隠されている。まず言えることは法戦途中であることだ。二月から四月までが折伏法戦の単位である。ゆえに人事を行なうとしても四月末を待つのが筋である。顕正会にはいわゆる年度末という区切りはない。
そしてもう一つのポイントは人事の中身である。今回の第十九女子部長人事はなぜか第四十女子部長が兼任でこれを務めるとのことである。いったい前任者はどうなったのかが問題だ。上で説明したごとく、折伏法戦の途中なのであるから、よほどの事情があったのだろう。

そしてさらに地味ながらも重要な事実が隠されている。

今や区長レベルになると、誰が誰だかさっぱりわからない。もちろん、わたくしの場合は顕正会を離れて久しいのでわからなくて当然なのだが、おそらくは現役の会員たちにしても全体を把握するのが困難なのではないかと思われる。ようするに人数が多過ぎるからだ。区長だけで二百人を超えるのだ。

そうした中で今回の区長人事では、超大物女子部員が第九十六区長に任命されたのだ。

当該記事には何も書かれていない。もう一人の区長と同等の扱いで書かれているので、知らない人は素通りしてしまうだろう。しかし、彼女は超大物である。なぜならば、その肩書が凄いのだ。彼女は女子部の総務であり、おそらくは複数の地方部長を兼任しているはずである。それでいて区長まで掛け持ちするとは、まさしく八面六臂の大活躍である。

しかし、これはかなり深刻な事情を窺わせる話である。

繰り返しになるが、三月末は一般的には年度の区切りではあるものの、顕正会の場合は違うのだ。ゆえにこうした中途半端な時期に人事を行なう理由は、前任者がどうかしてしまって、組織を取りまとめるに適する人物が見当たらないので、止むを得ずの処置なのだろうと考えられる。しかし、これも委細に見れば、日常茶飯事である。ぶっちゃけ言えば、離脱者続出ということだろう。

実際、樋田ビデオのほうでも女子部の区長だったと思しき人の話が出てきたりもする。たぶんそれは氷山の一角であり、水面下ではもっとたくさんの人が移籍しているのだろうと想像される。もちろん正宗に行く人ばかりではなく、信仰そのものから外れてしまう人も少なくないのだろう。

顕正会側から見れば、会員の流出が止まらない、ということだ。

そうそう、それからもう一つ、当該号は合併号だということを書き忘れるところだった。これも深刻な問題である。なぜならば月三回の発行すら満足にできなくなってきたからである。これはもう末期症状と言わざるを得ないだろう。この点、本部首脳は自覚すべきである。

2017/5/5

顕正新聞第1404号読了  
わたくしの居住地域では春を過ぎ、今まさに初夏を迎えんとしている。一般的な認識はともかくとして、わたくしの実感は上述のごとくである。ところが沖浦氏は今朝もスキーの話題を書いている。不思議なものだ。

さて、今日こそは顕正新聞第1404号を片付けてしまおう。

自宅を改造して畳三十畳の仏間まで作るほど熱心な学会員・・・

男子部第四十九隊組長の体験発表である。普通は正義にめざめてのはずだが、なぜか体験発表となっている。それはともかく上掲は両親のことらしい。そして自身も兄との確執など、さまざまの悩みを抱えていたためだろう、次のように書いている。

密かに自宅に学会版本尊を安置し、お題目を毎日欠かさず唱えておりました。

なぜに密かになのかはわからないが、続きの文章がいかにも顕正会的である。

 御遺命に背く団体で守られるはずもなく・・・

わたくし的にはやや違和感がある。文脈的にどうかと思うのだ。たぶん法華講員も同意見だろう。簡単に言えば次のごとくだ。

学会版本尊=ニセ本尊、ニセ本尊を拝んでも功徳はない。

これが文脈的整合性である。ところが顕正会の場合は学会版本尊を云々していながら、なぜか続きの文章では御遺命の話に変化しているのである。極論すれば、本尊がホンモノかニセモノかは関係ない、御遺命に背いているかどうかが守られるかどうかのカギなのだ、と言っているようにも聞こえてしまうところである。
この件に関してはすでに多くの人が指摘しているように、ようは自分たちも顕正会版の本尊をこさえてしまっているものだから、創価学会版の本尊そのものを責めるのはひじょうに気が引けることなのだと考えられる。
ゆえにその本尊に功徳があるのかないのかにはまったく触れずに、御遺命に背いているかどうかという話にスライドさせているわけだ。いわゆる論点のスリカエである。

 宮崎会館の御本尊様の御前に初めて正座したときの感動は、今なお鮮明に焼き付いておりますが、これまでに味わったことがないほどの安堵感と御本尊様の鼓動を感じては涙が込み上げ・・・

入会時の感動を綴っているわけだが、わたくし的にはひじょうに悩ましいところである。

法華講員ならば創価学会版の本尊をニセ本尊だと断定した上で、日蓮正宗の正統なる御本尊の功徳を堂々と語れるわけである。ところが顕正会の場合はそれが言えない。ゆえに先ほど指摘したようにまずは論点のスリカエをして、御遺命に背いているから功徳がないなどという話を挿入しなければならないのである。その上で、いわばワンクッションを入れた上で、ようやくにして顕正会の本尊の正統性を云々できるという段取りなのである。しかも正統性ないし正当性を真正面から論ずるわけではなく、上掲のごとく情緒的な言葉を書き並べることで間接的に論ずることしかできないのだから、悲しいものである。それにしても御本尊の鼓動とは凄い表現だ。

次は女子部第四十二区班長の正義にめざめてである。

 二五歳のときに、見ず知らずの土地で仕事の顧客が増えればと思い、知人の紹介で、夫婦で創価学会に入信したのでした。

見ず知らずの土地で・・・

わたくしは外国人の入信を想起した。今の顕正会は外国人の入信が多い。その理由の一端が上掲にあらわれているのかもしれない。外国人は夢や希望を持って日本にやってくる。その夢や希望を実現するためにはある種の冒険心が必要だ。チャレンジ精神と言い換えてもいいだろう。いわば裸一貫でやってくるわけだから、失うものは何もない。ゆえに顕正会へ入信することも、疑り深い日本人に比べれば、ハードルが低いのだろう。

ちなみに上掲は創価学会へ入信する時の話である。つまり、宗教の正邪のような尺度はあまり関係がないわけで、外国人ならなおさらの話だろう。失礼ながら創価学会は世界中に信者がいるとは言うものの、大聖人の仏法をどこまで理解しているかはアヤシイということになりそうだ。もちろん顕正会も同じである。

仕事の顧客が増えれば・・・

同じ話題を続けるが、少し角度を変えて論ずるならば、どれだけメリットがあるかが問われているのだろう。これは宗教的な功徳ではなく、組織力に基づく即物的な現世利益のことである。
つまり、創価学会の場合はそのメリットが大きいのだ。例えば飲食店でも経営しようものならば、創価学会員が積極的に来店してくれるので、それだけで安定的な経営ができそうだ。もちろん創価学会を大嫌いという人もいて、そういう人たちは来てくれないだろうけれども、そのプラスマイナスを考えた時に、十分にメリットがあるわけなのだろう。
では、顕正会の場合はどうかであるが、何しろ会員の絶対数が少ないので、あまり期待はできない。しかもである。世間から嫌われるという意味では創価学会以上に嫌われる要素をたくさん持っているので、もはや致命的かもしれないのだ。つまりはデメリットのほうが大きい。

残念ながらこれが現実なのだろう。時おり、世間的に地位のある人物が、立場上を理由に入信を拒むという話が出てくるけれども、これもぶっちゃけ言えば顕正会に入ってもメリットがないどころかデメリットが大きいからなのだろう。それもこれも実働会員数がすべてなのだ。それこそ六千万人が顕正会の実働会員数だとすれば、もはや大半の政治家が顕正会になびかざるを得ないはずである。イヤラシイ話ではあるが、これが現実というものである。

婦人部京都支区組長の記事を紹介しよう。

 私は人前で話すことが苦手だったのですが、先日の座談会では、飼っていたメダカが水面に浮かんでいたので、思わずお題目を唱え続けると、メダカはピクッと動いたかと思うと泳ぎ出し、魚でさえも救って頂けることに大感激したことを、初めてみなの前で話すことができ、勇気が出ました。

失礼ながら子供じみた話である。実際、所属は婦人部だが、顔写真を見る限りは相当に若い。また、解離性同一性障害と統合失調症を併発したと書かれているので、偏見かもしれないがそうした病気の影響が思考にもあらわれているのかもしれないと思った。

たかがメダカの話である・・・などと言うつもりは毛頭ない。

けれども我々は日常的に肉や魚を食べているわけだろう。いわゆる殺生をしているわけだ。自分では手を下さないけれども、必ず誰かが殺生をしているわけである。それを食べることは同罪のはずだ。

もし彼女が菜食主義者であれば、この点はかなり緩和されることになるけれども、もし肉食をしているとすれば、相当の自己矛盾だろう。

この話は彼女を責めるのが目的ではなく、むしろ実はわたくし自身の深刻な未解決問題という意味で、取り上げさせていただいた次第である。

次は男子部第九十二隊組長の体験発表から、手術のくだりを抜粋した。

 さらに、主治医から「股間を幅一五センチ・深さ一〇センチも切る手術なので、本来なら大量出血の可能性があり、輸血の用意をしていたが、不思議にも出血が二〇ccしかなかった」と聞いたときには、御本尊様の御守護を実感し・・・

術後は二週間の入院予定だったが、わずか二日で退院できたそうだ。

わたくしは御本尊の御守護ではなく、執刀医の腕自慢のように聞こえた。今は低侵襲手術が流行りである。というよりも医療技術が進歩するに従って、自ずとその方向に進むのが当然の帰結ではあるのだろう。そして手術はいわば職人芸のようなもので、まさに術者の腕の良し悪しに左右される面が少なくない。俗に言う神の手とは、腕のいい執刀医への最大の褒め言葉なのだろう。

 私は昭和五十六年七月、教習所で知り合った方の縁で入信させて頂きました。

女子部第百八十二区総班長の記事である。全体の内容は省略させていただくとして、この冒頭の一節が目に留まった。顕正会はあらゆる機会を折伏のために利用している。昔からそうだったのだ。熱心ということだ。けれどもこの記事の場合、彼女を入信に導いた人の消息が不明である。たぶん離脱してしまったのだろう。これも日常茶飯事だ。逆に言えば、彼女が今も総班長として活躍していることが凄いわけなのだが・・・

最後に七十四歳になる男性女子部員の記事を紹介して終わろう。

一時間ほど歩いて千葉会館へ行き・・・

元気なものである。女子部員に会えるのが楽しいのかもしれない。

私は携帯電話を持っていませんが・・・

徒歩での参詣もそうだが、携帯を持っていないことから想像するに、この人は経済的に苦しいのかもしれない。わりと最近の言葉を使えば、下流老人となるだろうか?

何もわたくしは彼を貶めることが目的で取り上げたわけではない。実はこれ、まさしく現代日本の深刻な問題の一つと考えられるのだ。つまり、他人事ではない。自分を含めて、誰もが下流老人へ転落する可能性を秘めているのである。


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