2009/11/7
顕正新聞論説委員の記事に思う
顕正新聞第1152号には、実に久しぶりのことであるが論説委員による記事が掲載されているので、それについて書いてみたい。
矢野裁判判決
新聞不掲載に思う
これがタイトルである。そして中央の見出しは次のごとくだ。
新聞社にとって学会は「日本一のお得意様」
広告収入を重視し圧力に屈する
もはや本文を読まなくても、タイトルと見出しだけでじゅうぶん話の内容がわかるのではないかと思う。ようするに、先般の矢野氏をめぐる裁判の結果を新聞各社が報道しなかったことを、創価学会の圧力に屈した結果であると言っているわけである。
この論説委員氏は、具体的な社名まではわからないが長年にわたって大手の新聞社に勤めていたらしく、今でもそれなりのコネクションがあるのだろう。というのは、今回の記事には「一新聞社の副編集長」であるとか、「ある政治担当デスク」とか、「ある営業局部員」、「ある社会面担当デスク」などの言葉が登場するからである。
単に外側から取材しただけならば、おそらくは広報などの部署が一括して回答するだけのはずだ。つまり、顕正新聞論説委員氏独自の人脈を活かした取材が、今回の記事によく反映されているようである。
実際、読んでいてけっこう面白かった。
だが、しかし、これを全面的に支持してよいものかどうか、反証もあり得るのではないか、とわたくしは思う。
その前に、いちおうは支持の方向性から書いてみよう。まず、上で紹介した「ある営業局部員」の言葉を以下にそっくり引用しておく。
政府広報や自動車関係、一般週刊誌、書籍などの広告などよりも、聖教、潮、第三文明などは2〜3割も単価が高いし掲載数が多いので、どのマスコミにとっても間違いなく日本一のスポンサーだ。だから編集紙面で反学会の記事が載らないのは仕方がない
単価が二三割も高いとは驚きだ。わたくしはこうした事情に疎いし確かめる方法もわからないが、このように具体的な数字を出してくる以上はそれなりの信憑性があることなのだろう。単価の真偽はさておいても掲載数が多いのは事実だろう。いつ頃からのことかわからないが、最近はラジオを聴いていると創価学会の宣伝がよく流れている。聖教新聞のコマーシャルもあるが、それとは別に創価学会そのものがラジオのスポンサーになっているような番組もあるほどなのだ。いわんや新聞をやであろう。
俗にお客様は神様という。実際、飲食店などに出掛けると、わたくしのような素浪人に対しても丁重に挨拶をする。いちおうはこちらがお客だからだ。マレには頑固を売り物にする店もあるが、たいていは接客に神経を使うものだと思う。それがお金を出すほうと受け取るほうの一般的な関係というものだ。
政治家への賄賂の場合はじゃっかん事情が異なるらしく、一般の関係とは逆になるようだ。それほどに政治権力とは大きいものなのだろう。しかし、民間人にもマレに超大物がいて、政治家よりも力がある場合もないわけではない。
もっとも、わたくしはそのような世界とは無縁の人生を送っているので、本当のところはよくわからないのだが・・・
ここで『迷走する顕正会を斬る』を引用する。唐突なようであるが、意外にも関連する文章が出ているのである。
島田氏の二点目の指摘は、創価学会批判についてである。いまや一部を除いて大手マスコミは創価学会に対し、批判を自主規制せざるを得ない。そうしたジャーナリズムの現状を踏まえて、顕正会は創価学会を批判する数少ない組織の一つだとしている。
わたくしは島田裕巳氏の著書を読んでいないので一種の孫引きみたいなものであるが、上掲のごとく、大手のマスコミは創価学会批判を自主規制せざるを得ないのが現状であるという。
この意味で、顕正新聞論説委員氏の書いていることは、いちおうは話の筋が通っていると言えるだろう。だが、しかし、全面的に正しいとは思えない。反証となる記事を紹介しておこう。
「ゅ党」公明 与党ではない、野党でもない 民主冷淡、自民不信…存在薄れる
紹介しておこうなどと偉そうに書いたが、創価王道からの孫引きである。どうやら十月三十一日の産経新聞に上掲の記事が掲載されているようである。
見出しだけでじゅうぶんだろう。ようするに、公明党は野党でもなければ与党でもない、中途半端な存在であるという意味だ。「ゆ党」は五十音の「やゆよ」になぞらえているわけだが、もはやその存在感の小ささからして「ゅ党」であるというのだ。これほど痛烈な揶揄もないだろう。
さて、もし顕正会に論客がいるとすれば、あるいは次のように言うかもしれない。
九月度総幹部会で浅井先生が言われたごとく、先般の公明党の歴史的大敗北は創価学会崩壊の号鐘であり、また今回の最高裁判決は池田大作滅亡の先兆である、いよいよその現証として、マスコミからも見放され始めたのだ。
いちおう、これはわたくしの想定問答なので現役会員から見れば、見当違いかもしれないことをお断りしておく。しかし、もし顕正会の論客が上述のごとく言うのであれば、七月二十日の産経新聞を読むべきである。
意外に深刻な公明党
またしても孫引きで恐縮であるが、まあ、原文は勝手に調べてみるといいだろう。当時、わたくしは都議会選挙で公明党が全員当選したのを見て、さすがに公明党は強いものだと感心していた。だが、すでにこの時点で産経新聞は、総選挙での公明党の敗北を予期していたのだ。もし、創価学会の目を気にしていたならば、このような記事は書けないだろう。こうして丹念に新聞を調べていくと、以前から批判的な記事はあるのだ。もちろん、創価学会そのものを直接的に批判する記事がないのはある意味では当然のことであって、それは信教の自由に基づくわけだろう。ごくマレに社会的不正を働いた教団に対して、集中的に記事が書かれることがあるが、その代表例がオウム真理教事件である。近年の創価学会はさすがにそこまで問題視されていない。ただそれだけの話である。
もし浅井先生の言う、創価学会崩壊・池田大作滅亡が事実であれば、くだんの論説委員氏の書いていることは、むしろ崩壊や滅亡にはほど遠いことの証明に等しいだろう。
そのチグハグさに気がつくべきだ。
矢野裁判判決
新聞不掲載に思う
これがタイトルである。そして中央の見出しは次のごとくだ。
新聞社にとって学会は「日本一のお得意様」
広告収入を重視し圧力に屈する
もはや本文を読まなくても、タイトルと見出しだけでじゅうぶん話の内容がわかるのではないかと思う。ようするに、先般の矢野氏をめぐる裁判の結果を新聞各社が報道しなかったことを、創価学会の圧力に屈した結果であると言っているわけである。
この論説委員氏は、具体的な社名まではわからないが長年にわたって大手の新聞社に勤めていたらしく、今でもそれなりのコネクションがあるのだろう。というのは、今回の記事には「一新聞社の副編集長」であるとか、「ある政治担当デスク」とか、「ある営業局部員」、「ある社会面担当デスク」などの言葉が登場するからである。
単に外側から取材しただけならば、おそらくは広報などの部署が一括して回答するだけのはずだ。つまり、顕正新聞論説委員氏独自の人脈を活かした取材が、今回の記事によく反映されているようである。
実際、読んでいてけっこう面白かった。
だが、しかし、これを全面的に支持してよいものかどうか、反証もあり得るのではないか、とわたくしは思う。
その前に、いちおうは支持の方向性から書いてみよう。まず、上で紹介した「ある営業局部員」の言葉を以下にそっくり引用しておく。
政府広報や自動車関係、一般週刊誌、書籍などの広告などよりも、聖教、潮、第三文明などは2〜3割も単価が高いし掲載数が多いので、どのマスコミにとっても間違いなく日本一のスポンサーだ。だから編集紙面で反学会の記事が載らないのは仕方がない
単価が二三割も高いとは驚きだ。わたくしはこうした事情に疎いし確かめる方法もわからないが、このように具体的な数字を出してくる以上はそれなりの信憑性があることなのだろう。単価の真偽はさておいても掲載数が多いのは事実だろう。いつ頃からのことかわからないが、最近はラジオを聴いていると創価学会の宣伝がよく流れている。聖教新聞のコマーシャルもあるが、それとは別に創価学会そのものがラジオのスポンサーになっているような番組もあるほどなのだ。いわんや新聞をやであろう。
俗にお客様は神様という。実際、飲食店などに出掛けると、わたくしのような素浪人に対しても丁重に挨拶をする。いちおうはこちらがお客だからだ。マレには頑固を売り物にする店もあるが、たいていは接客に神経を使うものだと思う。それがお金を出すほうと受け取るほうの一般的な関係というものだ。
政治家への賄賂の場合はじゃっかん事情が異なるらしく、一般の関係とは逆になるようだ。それほどに政治権力とは大きいものなのだろう。しかし、民間人にもマレに超大物がいて、政治家よりも力がある場合もないわけではない。
もっとも、わたくしはそのような世界とは無縁の人生を送っているので、本当のところはよくわからないのだが・・・
ここで『迷走する顕正会を斬る』を引用する。唐突なようであるが、意外にも関連する文章が出ているのである。
島田氏の二点目の指摘は、創価学会批判についてである。いまや一部を除いて大手マスコミは創価学会に対し、批判を自主規制せざるを得ない。そうしたジャーナリズムの現状を踏まえて、顕正会は創価学会を批判する数少ない組織の一つだとしている。
わたくしは島田裕巳氏の著書を読んでいないので一種の孫引きみたいなものであるが、上掲のごとく、大手のマスコミは創価学会批判を自主規制せざるを得ないのが現状であるという。
この意味で、顕正新聞論説委員氏の書いていることは、いちおうは話の筋が通っていると言えるだろう。だが、しかし、全面的に正しいとは思えない。反証となる記事を紹介しておこう。
「ゅ党」公明 与党ではない、野党でもない 民主冷淡、自民不信…存在薄れる
紹介しておこうなどと偉そうに書いたが、創価王道からの孫引きである。どうやら十月三十一日の産経新聞に上掲の記事が掲載されているようである。
見出しだけでじゅうぶんだろう。ようするに、公明党は野党でもなければ与党でもない、中途半端な存在であるという意味だ。「ゆ党」は五十音の「やゆよ」になぞらえているわけだが、もはやその存在感の小ささからして「ゅ党」であるというのだ。これほど痛烈な揶揄もないだろう。
さて、もし顕正会に論客がいるとすれば、あるいは次のように言うかもしれない。
九月度総幹部会で浅井先生が言われたごとく、先般の公明党の歴史的大敗北は創価学会崩壊の号鐘であり、また今回の最高裁判決は池田大作滅亡の先兆である、いよいよその現証として、マスコミからも見放され始めたのだ。
いちおう、これはわたくしの想定問答なので現役会員から見れば、見当違いかもしれないことをお断りしておく。しかし、もし顕正会の論客が上述のごとく言うのであれば、七月二十日の産経新聞を読むべきである。
意外に深刻な公明党
またしても孫引きで恐縮であるが、まあ、原文は勝手に調べてみるといいだろう。当時、わたくしは都議会選挙で公明党が全員当選したのを見て、さすがに公明党は強いものだと感心していた。だが、すでにこの時点で産経新聞は、総選挙での公明党の敗北を予期していたのだ。もし、創価学会の目を気にしていたならば、このような記事は書けないだろう。こうして丹念に新聞を調べていくと、以前から批判的な記事はあるのだ。もちろん、創価学会そのものを直接的に批判する記事がないのはある意味では当然のことであって、それは信教の自由に基づくわけだろう。ごくマレに社会的不正を働いた教団に対して、集中的に記事が書かれることがあるが、その代表例がオウム真理教事件である。近年の創価学会はさすがにそこまで問題視されていない。ただそれだけの話である。
もし浅井先生の言う、創価学会崩壊・池田大作滅亡が事実であれば、くだんの論説委員氏の書いていることは、むしろ崩壊や滅亡にはほど遠いことの証明に等しいだろう。
そのチグハグさに気がつくべきだ。
2009/11/2
誇張表現の限界
話が一ヶ月遅れであることをお断りしておく。九月度総幹部会の会長講演を受けて、班長会その他の集会において、幹部たちが先生の受け売りをしゃべっている。いつものパターンではあるが、そこに気になる文章を見つけたので、紹介したい。
以下は顕正新聞第1151号四面の記事である。
胡錦濤が三年以内に台湾併合を実現した次は、いよいよ日本への侵略が企てられる・・・
他の幹部も同様のことを言っているわけだが、これがいちばん顕著な例だと思われる。何が顕著なのかと言えば、会長講演を拡大解釈していることである。
上掲の言い様では、あたかも三年以内の台湾併合が確定事項のごとく読めてしまう。これはたいへんな事件であろう。もちろん、わたくしには将来のことを断言するだけの確信はないが、さすがに三年以内というのはあり得ないのではないかと思う。すると、またしても浅井先生の予言(?)が外れることになる。いや、そもそも先生が上掲のごとく言っているのかどうか、そこを確認しないといけないだろう。すでに上述したごとく、これは幹部による拡大解釈である。
では、九月度総幹部会の会長講演を確認してみよう。
胡錦濤の国家主席としての任期は、三年後の二〇一二年までです。彼はこの三年のうちに、中国建国以来の宿願である台湾併合を、自らの手で成しとげたいと思っているらしい。
もしこれが事実となったら、その次は、いよいよ日本への侵略が始まる。
思っているらしい・・・である。
それこそ人の心の内など、誰にもわかるものではない。ゆえに、本当に思っているかどうか、わかりやしないことである。当然ながら、断言できない。よって、「・・・らしい」という表現に落ち着いたのであろう。
ところが前掲のごとく、幹部の発言ではあたかも大地を的とするかのような言い様になっている。ここが物凄く問題のところだ。
何が問題なのか・・・
これは広宣流布についての会員たちの意識に反映されている。簡単に説明すれば、活動会員の中でも熱心であればあるほど広宣流布の達成をあと十有余年などと思い込んでいたりするのである。浅井先生の言ってもいないことを勝手に思い込んでいるとしたら問題だろう。さらに、実は会員に意図的に思い込むように仕向けているとしたら、大問題だろう。
この辺はクチコミ指導の範疇であり、なかなか顕正新聞には出てこないが、マレにはあらわれる。
以下のリンク先には、あと十有余年で広宣流布が達成されると思い込んでいる会員たちの文章が載っている。
http://white.ap.teacup.com/ganko/614.html
http://white.ap.teacup.com/ganko/1274.html
さて、これらは今夏の「十二年後の三百万」との発表がなされる以前の記事であり、今は事情がじゃっかん変わってきている。
わたくしは現時点で、同じ人物がどのように認識しているのか、それがひじょうに気になる。
まさか先生の発表を拡大解釈して、十二年後に広宣流布が達成されるとでも思っているのだろうか?
ともかく今回の記事が象徴しているように、顕正会では会長講演がさらに誇張されて会員に伝達されるという実態がある。これは世の中の事象もそうであるが、何よりも浅井先生の存在そのものが誇張された形で伝えられて行く。その典型が無二の師匠というフレーズである。一事が万事、先生の偉大さばかりが強調されるのだ。ハタから見れば虚像に過ぎないが、会員たちにとってはそれが真実なのである。
こうした手法がいつまで続くものか、わたくしの心配はそこにある。
以下は顕正新聞第1151号四面の記事である。
胡錦濤が三年以内に台湾併合を実現した次は、いよいよ日本への侵略が企てられる・・・
他の幹部も同様のことを言っているわけだが、これがいちばん顕著な例だと思われる。何が顕著なのかと言えば、会長講演を拡大解釈していることである。
上掲の言い様では、あたかも三年以内の台湾併合が確定事項のごとく読めてしまう。これはたいへんな事件であろう。もちろん、わたくしには将来のことを断言するだけの確信はないが、さすがに三年以内というのはあり得ないのではないかと思う。すると、またしても浅井先生の予言(?)が外れることになる。いや、そもそも先生が上掲のごとく言っているのかどうか、そこを確認しないといけないだろう。すでに上述したごとく、これは幹部による拡大解釈である。
では、九月度総幹部会の会長講演を確認してみよう。
胡錦濤の国家主席としての任期は、三年後の二〇一二年までです。彼はこの三年のうちに、中国建国以来の宿願である台湾併合を、自らの手で成しとげたいと思っているらしい。
もしこれが事実となったら、その次は、いよいよ日本への侵略が始まる。
思っているらしい・・・である。
それこそ人の心の内など、誰にもわかるものではない。ゆえに、本当に思っているかどうか、わかりやしないことである。当然ながら、断言できない。よって、「・・・らしい」という表現に落ち着いたのであろう。
ところが前掲のごとく、幹部の発言ではあたかも大地を的とするかのような言い様になっている。ここが物凄く問題のところだ。
何が問題なのか・・・
これは広宣流布についての会員たちの意識に反映されている。簡単に説明すれば、活動会員の中でも熱心であればあるほど広宣流布の達成をあと十有余年などと思い込んでいたりするのである。浅井先生の言ってもいないことを勝手に思い込んでいるとしたら問題だろう。さらに、実は会員に意図的に思い込むように仕向けているとしたら、大問題だろう。
この辺はクチコミ指導の範疇であり、なかなか顕正新聞には出てこないが、マレにはあらわれる。
以下のリンク先には、あと十有余年で広宣流布が達成されると思い込んでいる会員たちの文章が載っている。
http://white.ap.teacup.com/ganko/614.html
http://white.ap.teacup.com/ganko/1274.html
さて、これらは今夏の「十二年後の三百万」との発表がなされる以前の記事であり、今は事情がじゃっかん変わってきている。
わたくしは現時点で、同じ人物がどのように認識しているのか、それがひじょうに気になる。
まさか先生の発表を拡大解釈して、十二年後に広宣流布が達成されるとでも思っているのだろうか?
ともかく今回の記事が象徴しているように、顕正会では会長講演がさらに誇張されて会員に伝達されるという実態がある。これは世の中の事象もそうであるが、何よりも浅井先生の存在そのものが誇張された形で伝えられて行く。その典型が無二の師匠というフレーズである。一事が万事、先生の偉大さばかりが強調されるのだ。ハタから見れば虚像に過ぎないが、会員たちにとってはそれが真実なのである。
こうした手法がいつまで続くものか、わたくしの心配はそこにある。
2009/11/1
執筆意欲減退の日々
nabe氏と沖浦氏は犬猿の仲であり、両者の間で応酬が始まると手がつけられなくなる。それがいわばパターンとなっているわけだが、わたくしはいつもそのまま放置している。それが拙ブログの方針なのだ。
それはさておき、前々回の拙稿に、文字化けがあるとの指摘を頂戴した。
祈禱抄
憍曇弥
記莂
どうやら、この三つがダメらしい。と言っても、わたくしの使用しているパソコンでは問題なく表示される。おそらくは携帯からの閲覧者なのだろう。そこでわたくしも携帯で確認してみたところ、上掲の三つがダメだった。
祈祷抄
喬曇弥
記別
さしあたって、代用表記にしてみたが、いかがだろうか?
今後、パソコンないし携帯の性能が上がれば文字化けの問題は解決されるのかもしれないが、当面は代用表記も有効であろう。そもそもが御真蹟を活字化する段階で、ある程度の代用表記が使われていると思われる。その意味で、どうしても文字化けしてしまう場合には、暫定的にでも何らかの措置を講じる必要があると思う。生意気を言うようであるが、それが御書を後世に伝えていく一つの手段となるだろう。
さて、山形会館での会長講演については、前回、それほど注意を惹かなかったと書いた。しかし、ちょっと面白いことが浮かび上がってきたので、それを書いてみたい。
師なりとも誤りある者をば捨つべし
今回の講演では御書の引用がたくさんある。上掲は曾谷殿御返事であるが、ようするに池田大作氏を間違った師匠であると言いたいらしい。しかし、おそらくは同じ理屈が浅井先生にも当てはまってしまうだろう。顕正会の中では無二の師匠などと言われているものの、外部からはまったく評価されていない。とりわけ敵対勢力からはボロクソに言われている。それが浅井先生だ。
さて、わたくしが書きたいのはそんなことではない。すでに浅井先生のことは今までたくさん書いてきたので、もうあまり執筆意欲が湧かなくなっているのだ。
たまたま最近公開された樋田ビデオを拝見していたら、上掲の御文について云々している場面に遭遇した。それがどうもわたくしには納得できないものだったので、それを書きたいと思う。
但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。
時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
どうやら最近は創価学会員が、この二つの御文をセットにして、宗門・法華講を責めているようである。ある意味、これは顕正会の専売特許みたいな論法だった。それを今は創価学会でも使っているらしいのだ。
わたくしは創価学会員の論じていることをつぶさには知らないが、いちおうは彼らの主張を正しいと思う。
だが、樋田氏はこれを間違いだと言っているのだ。
今回の動画では日興上人の御遺誡について言及がなかったのでそちらは不明だが、少なくとも曾谷殿御返事の創価学会員たちの読み方は間違いであり、それをかつては掲示板で数学的に論証したと、樋田氏はそう言っている。
樋田氏は、上掲における「但し師なりとも」云々の師は御法主上人を含まない、と言いたいらしい。それをかつては数学的に証明したとのことであるが、いったいどういう証明なのか興味深いところだ。動画で拝見した限りでは、かなり強引な論法のようである。
たとえば、この直前には「必ず」とのキーワードがある。大聖人が必ずと仰せられたならば、それは百バーセントなのだ云々と。ようするに、直後に仰せられる「誤りある者」には該当しない、大聖人はもとより、その血脈を受けられた歴代の猊下もしかり・・・端折ってしまえば、そういう意味のことを言っているわけである。
ゆえに、ここでの師は仏法のそれではなく、世間における諸々の師匠を意味するのだとして、もし仏法の本義に照らしてそれがとんでも間違いであれば、そのような師匠は捨てなければいけないし、別にさしたる問題がなければ捨てるに及ばない、それは世間仏法の道理に照らして判断しなさい、ということらしい。
わたくしの思うに、合っている部分もあれば、間違っている部分もある。
捨てるべきか否かは世間仏法の道理に照らして判断すべきというのは正解だと思う。ただし、ここには猊下を含めるべきだし、恐れ多いながらも大聖人をも含めるべきである。これが公平な判断の仕方であろう。ハナッから大聖人を別格とし、さらには歴代上人も同様に扱うのは、心情的にはわかるが決して理性的とは言えないし、御書の意にも違うものだとわたくしは思う。
法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。
一般論として論ずるならば師に例外を設けるべきではない。それがまず第一に言えることである。
さらに当該御文の前後を踏まえて論ずるならば、根源の師とは上行菩薩であり、文脈上、ここでの大聖人は一僧侶の立場と拝するべきが正解である。つまり、大聖人対その他の僧侶という構図をつかんでおくと御文がよく理解できるはずなのだ。
われわれは大聖人の御書を御本仏の御教えとして絶対視する。それはそれでけっこうなことだが、そうするとウッカリ誤読する場合がある。つまり、大聖人(一僧侶)対その他の僧侶という関係においては、「根源の師」というキーワード一つ取っても説得力がないのである。おわかりだろうか、大日如来は一切の本初であるという、それがただちには説得力を持たないのと同様である。
仏法と申すは道理なり。
智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。
前掲、師なりとも誤りある者をば捨つべし、の意味は大聖人が邪宗の僧等に対して、もし師に誤りがあるのならば捨てるのが道理である、いったいどこがどう間違っているのか言ってみろ、と迫っている場面である。その後に、捨てざる義もあると仰せられるのは、まさに邪智の者への予防線の意味に他ならない。つまり、悪知恵の長けている者は些細なことを針小棒大に取り上げてくる。ゆえに、世間ないし仏法の道理に照らして、捨てるべきか否か判断せよ、ということを仰せになっているのだ。
たとえば、仮に今の猊下が車の運転をされるとして、もし交通違反を犯したとすれば、創価学会あたりが大騒ぎするかもしれない。しかし、その違反がきわめて軽微なものであれば、別にそれで猊座を退く必要もないだろうし、逆にもしそれを誇大宣伝する者がいるとすれば、そちらのほうが世間からはおかしく見えることだろう。まさにそれは世間仏法の道理に照らして判断すべきことである。
末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。
再掲であるが、まさに大聖人対邪宗の僧等の構図が明瞭である。
あえて単純化するならば、根源の師・・・但し師なりとも・・・師をいやしみ、この三つの師をすべて上行菩薩と拝しても構わないだろう。
末法の始めの五百年には上行菩薩が出現する。経文に明々赫々である。それこそが根源の師である。ただし、もし仏法の道理に照らしてそれが間違いであれば、捨てるにやぶさかではない。ところがどっこい、末世の愚癡の法師たちは仏法の道理がまったくわからず、ただ単に感情的に反発しているだけなのだ。
かなりの意訳であるが、真面目に御文を拝していけば自ずと見えてくるだろう。
それはさておき、前々回の拙稿に、文字化けがあるとの指摘を頂戴した。
祈禱抄
憍曇弥
記莂
どうやら、この三つがダメらしい。と言っても、わたくしの使用しているパソコンでは問題なく表示される。おそらくは携帯からの閲覧者なのだろう。そこでわたくしも携帯で確認してみたところ、上掲の三つがダメだった。
祈祷抄
喬曇弥
記別
さしあたって、代用表記にしてみたが、いかがだろうか?
今後、パソコンないし携帯の性能が上がれば文字化けの問題は解決されるのかもしれないが、当面は代用表記も有効であろう。そもそもが御真蹟を活字化する段階で、ある程度の代用表記が使われていると思われる。その意味で、どうしても文字化けしてしまう場合には、暫定的にでも何らかの措置を講じる必要があると思う。生意気を言うようであるが、それが御書を後世に伝えていく一つの手段となるだろう。
さて、山形会館での会長講演については、前回、それほど注意を惹かなかったと書いた。しかし、ちょっと面白いことが浮かび上がってきたので、それを書いてみたい。
師なりとも誤りある者をば捨つべし
今回の講演では御書の引用がたくさんある。上掲は曾谷殿御返事であるが、ようするに池田大作氏を間違った師匠であると言いたいらしい。しかし、おそらくは同じ理屈が浅井先生にも当てはまってしまうだろう。顕正会の中では無二の師匠などと言われているものの、外部からはまったく評価されていない。とりわけ敵対勢力からはボロクソに言われている。それが浅井先生だ。
さて、わたくしが書きたいのはそんなことではない。すでに浅井先生のことは今までたくさん書いてきたので、もうあまり執筆意欲が湧かなくなっているのだ。
たまたま最近公開された樋田ビデオを拝見していたら、上掲の御文について云々している場面に遭遇した。それがどうもわたくしには納得できないものだったので、それを書きたいと思う。
但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。
時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
どうやら最近は創価学会員が、この二つの御文をセットにして、宗門・法華講を責めているようである。ある意味、これは顕正会の専売特許みたいな論法だった。それを今は創価学会でも使っているらしいのだ。
わたくしは創価学会員の論じていることをつぶさには知らないが、いちおうは彼らの主張を正しいと思う。
だが、樋田氏はこれを間違いだと言っているのだ。
今回の動画では日興上人の御遺誡について言及がなかったのでそちらは不明だが、少なくとも曾谷殿御返事の創価学会員たちの読み方は間違いであり、それをかつては掲示板で数学的に論証したと、樋田氏はそう言っている。
樋田氏は、上掲における「但し師なりとも」云々の師は御法主上人を含まない、と言いたいらしい。それをかつては数学的に証明したとのことであるが、いったいどういう証明なのか興味深いところだ。動画で拝見した限りでは、かなり強引な論法のようである。
たとえば、この直前には「必ず」とのキーワードがある。大聖人が必ずと仰せられたならば、それは百バーセントなのだ云々と。ようするに、直後に仰せられる「誤りある者」には該当しない、大聖人はもとより、その血脈を受けられた歴代の猊下もしかり・・・端折ってしまえば、そういう意味のことを言っているわけである。
ゆえに、ここでの師は仏法のそれではなく、世間における諸々の師匠を意味するのだとして、もし仏法の本義に照らしてそれがとんでも間違いであれば、そのような師匠は捨てなければいけないし、別にさしたる問題がなければ捨てるに及ばない、それは世間仏法の道理に照らして判断しなさい、ということらしい。
わたくしの思うに、合っている部分もあれば、間違っている部分もある。
捨てるべきか否かは世間仏法の道理に照らして判断すべきというのは正解だと思う。ただし、ここには猊下を含めるべきだし、恐れ多いながらも大聖人をも含めるべきである。これが公平な判断の仕方であろう。ハナッから大聖人を別格とし、さらには歴代上人も同様に扱うのは、心情的にはわかるが決して理性的とは言えないし、御書の意にも違うものだとわたくしは思う。
法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。
一般論として論ずるならば師に例外を設けるべきではない。それがまず第一に言えることである。
さらに当該御文の前後を踏まえて論ずるならば、根源の師とは上行菩薩であり、文脈上、ここでの大聖人は一僧侶の立場と拝するべきが正解である。つまり、大聖人対その他の僧侶という構図をつかんでおくと御文がよく理解できるはずなのだ。
われわれは大聖人の御書を御本仏の御教えとして絶対視する。それはそれでけっこうなことだが、そうするとウッカリ誤読する場合がある。つまり、大聖人(一僧侶)対その他の僧侶という関係においては、「根源の師」というキーワード一つ取っても説得力がないのである。おわかりだろうか、大日如来は一切の本初であるという、それがただちには説得力を持たないのと同様である。
仏法と申すは道理なり。
智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。
前掲、師なりとも誤りある者をば捨つべし、の意味は大聖人が邪宗の僧等に対して、もし師に誤りがあるのならば捨てるのが道理である、いったいどこがどう間違っているのか言ってみろ、と迫っている場面である。その後に、捨てざる義もあると仰せられるのは、まさに邪智の者への予防線の意味に他ならない。つまり、悪知恵の長けている者は些細なことを針小棒大に取り上げてくる。ゆえに、世間ないし仏法の道理に照らして、捨てるべきか否か判断せよ、ということを仰せになっているのだ。
たとえば、仮に今の猊下が車の運転をされるとして、もし交通違反を犯したとすれば、創価学会あたりが大騒ぎするかもしれない。しかし、その違反がきわめて軽微なものであれば、別にそれで猊座を退く必要もないだろうし、逆にもしそれを誇大宣伝する者がいるとすれば、そちらのほうが世間からはおかしく見えることだろう。まさにそれは世間仏法の道理に照らして判断すべきことである。
末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。
再掲であるが、まさに大聖人対邪宗の僧等の構図が明瞭である。
あえて単純化するならば、根源の師・・・但し師なりとも・・・師をいやしみ、この三つの師をすべて上行菩薩と拝しても構わないだろう。
末法の始めの五百年には上行菩薩が出現する。経文に明々赫々である。それこそが根源の師である。ただし、もし仏法の道理に照らしてそれが間違いであれば、捨てるにやぶさかではない。ところがどっこい、末世の愚癡の法師たちは仏法の道理がまったくわからず、ただ単に感情的に反発しているだけなのだ。
かなりの意訳であるが、真面目に御文を拝していけば自ずと見えてくるだろう。
2009/10/25
色相荘厳否定の理想と現実
沖浦氏にはわざわざ北海道から返信をたまわった。竜女の件であるが、なるほど、氏の捉え方は達意的というか、ひじょうに現実的であり、それなりに説得力を感じさせるものがある。今、わたくしなりに敷衍するならば、いわゆる竜は伝説上の存在であるから、それをそっくりそのまま理解するのではなく、いったい何を示しているのか、その本質を見抜くべきなのだろう。おそらく無難なところでは、人界所具の畜生界として理解することである。人間は平等といえども、現実にはそれぞれの境界がある。畜生界のみならず、餓鬼界であるとか地獄界、あとは修羅界などが相場であろうか、多くは六道のどこかに位置するわけだ。おそらく大聖人の仏法では、このカテゴリーを一段ずつクリアしていくのではなく、ストレートに登りつめることができるのだろう。今、自分が地獄界にいるとすれば、仏界は遥か彼方にあるかに見えるが、そうではないのだ。
おおむねこんなところでどうか?
ただし、昨日の拙稿で書いたように、動物はそのままで成仏できるはずである。まあ、しかし、それをここで沖浦氏とトコトン議論しても仕方がないだろう。さしあたって、我々は人界に生を受けたのだから、そこに基準を置くのは当然のことなのだ。新池御書はそうした角度からの御指南なのだろう。
自画自賛して言えば、わたくしは話のまとめ方がうまい。いつまでも不毛の議論をしているのをしばしば見掛けるが、ハッキリ言ってアホだと思う。
それはさておき、顕正新聞の第1151号が届いた。
今号は山形会館の特集記事であるが、一通り読んでそれほど注意を惹かなかった。強いて言えば、会長講演はそれなりに面白い。たとえば、話のマクラの部分で税務署のことを云々して聴衆を笑わせている。
隣の税務署の看板を見て、歓喜の心をおこす人はない(爆笑)。
これは地元会員の心理をうまく捉えていると思う。
だいたい、若い顕正会員にとっては税務署が何をする場所なのか、よくわかっていないだろう。ある程度の年齢を重ねて、収入が増えてくるとわかる。とりわけ商売をしている人がいちばんよくわかっている。なるほど、税務署の看板を見て嬉しい気持ちになる人は、滅多にいるものではない。
ようするに、山形会館が完成して、そこには「冨士大石寺顕正会」の立派な看板が立っている。地元会員ならば、それを歓喜の気持ちで見つめることだろう。隣の税務署など眼中にない。先生はこの会員の心理を巧みにくすぐっているわけだ。
まあ、一々こんなことを取り上げていたらキリがないので、もう一つだけ書いて終わりにしたい。顕正新聞に聖教新聞が載っている。九月二十七日と二十八日の聖教新聞であるが、なんと池田大作氏は二百六十もの名誉称号をもらっているそうである。凄いことだ。当然ながら顕正会ではこれを揶揄する意味で紹介しているわけである。わたくしは聖教新聞九月二十七日号二面の見出しが面白かった。
人類史上 並び得ない壮挙
とっさに思い出したのが、久遠元初以来の壮挙、である。
沖浦氏には失礼ながら、こうした美辞麗句もまた色相荘厳に異ならないのではないかと思う。
おおむねこんなところでどうか?
ただし、昨日の拙稿で書いたように、動物はそのままで成仏できるはずである。まあ、しかし、それをここで沖浦氏とトコトン議論しても仕方がないだろう。さしあたって、我々は人界に生を受けたのだから、そこに基準を置くのは当然のことなのだ。新池御書はそうした角度からの御指南なのだろう。
自画自賛して言えば、わたくしは話のまとめ方がうまい。いつまでも不毛の議論をしているのをしばしば見掛けるが、ハッキリ言ってアホだと思う。
それはさておき、顕正新聞の第1151号が届いた。
今号は山形会館の特集記事であるが、一通り読んでそれほど注意を惹かなかった。強いて言えば、会長講演はそれなりに面白い。たとえば、話のマクラの部分で税務署のことを云々して聴衆を笑わせている。
隣の税務署の看板を見て、歓喜の心をおこす人はない(爆笑)。
これは地元会員の心理をうまく捉えていると思う。
だいたい、若い顕正会員にとっては税務署が何をする場所なのか、よくわかっていないだろう。ある程度の年齢を重ねて、収入が増えてくるとわかる。とりわけ商売をしている人がいちばんよくわかっている。なるほど、税務署の看板を見て嬉しい気持ちになる人は、滅多にいるものではない。
ようするに、山形会館が完成して、そこには「冨士大石寺顕正会」の立派な看板が立っている。地元会員ならば、それを歓喜の気持ちで見つめることだろう。隣の税務署など眼中にない。先生はこの会員の心理を巧みにくすぐっているわけだ。
まあ、一々こんなことを取り上げていたらキリがないので、もう一つだけ書いて終わりにしたい。顕正新聞に聖教新聞が載っている。九月二十七日と二十八日の聖教新聞であるが、なんと池田大作氏は二百六十もの名誉称号をもらっているそうである。凄いことだ。当然ながら顕正会ではこれを揶揄する意味で紹介しているわけである。わたくしは聖教新聞九月二十七日号二面の見出しが面白かった。
人類史上 並び得ない壮挙
とっさに思い出したのが、久遠元初以来の壮挙、である。
沖浦氏には失礼ながら、こうした美辞麗句もまた色相荘厳に異ならないのではないかと思う。
2009/10/24
秋の法門談義
再び赤木氏よりコメントをたまわったが、この件は別の機会に譲らせてもらって、今日は沖浦氏との法門談義と行きたい。
一切衆生を仏性がある。
その通りですが、人しか仏の条件は満たせません。
犬は次に生まれて人間になって仏になれます。
御書に有ります。
『一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、』
(新池御書)
一切衆生が仏になれる条件で、先ず人間界に生まれる。と書かれてあります。
『千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、』
(松野殿後家尼御前御返事)
ここにも同じ意味のご指南があります。
ですので、一切衆生はそのままでは仏にはなれません。
人と言う媒体が不可欠です。
いちおう全文を紹介させてもらった。
沖浦氏の主張はきわめて常識的な解釈であり、おそらくは多くの人の支持を得られるのではないかと思う。わたくし自身もそれほど意見に相違があるわけではない。何しろ前回、人間に生まれることが仏道修行の最短コース、とわたくしは書いているのだから、必ずしも真っ向から意見が対立しているわけではないのである。
だが、しかし、たとえば犬が仏になるためには一度人間に生まれ変わる必要があるかと言えば、わたくしは違うのではないかと思っている。これは竜女の成仏をどのように理解するかが争点になるだろう。まずは、開目抄から引用しよう。
竜女が成仏、此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
ここで大聖人はいわゆる女人成仏を論じているわけだが、初期の女人成仏抄を拝見すると、より詳しいことがわかる。
八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し・・・女人成仏の路をふみわけ候。
蛇身を改めずが重要である。同抄にはさらに次のごとくある。
然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。
竜女は畜生道の衆生なのだ。
竜畜下賎の身
竜畜下賎の即身成仏
祈禱抄と教行証御書である。まさに類文繁多であるが、たとえば撰時抄の一文などもひじょうに簡明である。
五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。
最後に建治元年の上野殿御消息を引用したい。
法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の竜女成仏し、仏の姨母憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。
畜生にもあらず、蛇身にもあらず、との仰せが凄まじい。つまり、法華経は畜生でさえ即身成仏する経なのだ、いわんや人間の女性が成仏しないわけがないではないか、という意味に他ならない。
以上、種々の御指南を紹介したが、これらを踏まえると沖浦氏の所論はいまだ不完全のようにも感じられるところである。ややもすれば、爾前経の範疇を脱していないとも思えるのだが、いかがであろうか?
しかし、一見すると矛盾するようであるが、沖浦氏の引用した新池御書や松野殿後家尼御前御返事の御意もあながち否定できるものではないので、やはり人間に生まれることが仏道修行の上では有利であり、最短コースであろうことは間違いないのだろう。あとは真面目に修行するかどうかの問題だ。
一切衆生を仏性がある。
その通りですが、人しか仏の条件は満たせません。
犬は次に生まれて人間になって仏になれます。
御書に有ります。
『一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、』
(新池御書)
一切衆生が仏になれる条件で、先ず人間界に生まれる。と書かれてあります。
『千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、』
(松野殿後家尼御前御返事)
ここにも同じ意味のご指南があります。
ですので、一切衆生はそのままでは仏にはなれません。
人と言う媒体が不可欠です。
いちおう全文を紹介させてもらった。
沖浦氏の主張はきわめて常識的な解釈であり、おそらくは多くの人の支持を得られるのではないかと思う。わたくし自身もそれほど意見に相違があるわけではない。何しろ前回、人間に生まれることが仏道修行の最短コース、とわたくしは書いているのだから、必ずしも真っ向から意見が対立しているわけではないのである。
だが、しかし、たとえば犬が仏になるためには一度人間に生まれ変わる必要があるかと言えば、わたくしは違うのではないかと思っている。これは竜女の成仏をどのように理解するかが争点になるだろう。まずは、開目抄から引用しよう。
竜女が成仏、此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
ここで大聖人はいわゆる女人成仏を論じているわけだが、初期の女人成仏抄を拝見すると、より詳しいことがわかる。
八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し・・・女人成仏の路をふみわけ候。
蛇身を改めずが重要である。同抄にはさらに次のごとくある。
然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。
竜女は畜生道の衆生なのだ。
竜畜下賎の身
竜畜下賎の即身成仏
祈禱抄と教行証御書である。まさに類文繁多であるが、たとえば撰時抄の一文などもひじょうに簡明である。
五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。
最後に建治元年の上野殿御消息を引用したい。
法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の竜女成仏し、仏の姨母憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。
畜生にもあらず、蛇身にもあらず、との仰せが凄まじい。つまり、法華経は畜生でさえ即身成仏する経なのだ、いわんや人間の女性が成仏しないわけがないではないか、という意味に他ならない。
以上、種々の御指南を紹介したが、これらを踏まえると沖浦氏の所論はいまだ不完全のようにも感じられるところである。ややもすれば、爾前経の範疇を脱していないとも思えるのだが、いかがであろうか?
しかし、一見すると矛盾するようであるが、沖浦氏の引用した新池御書や松野殿後家尼御前御返事の御意もあながち否定できるものではないので、やはり人間に生まれることが仏道修行の上では有利であり、最短コースであろうことは間違いないのだろう。あとは真面目に修行するかどうかの問題だ。
2009/10/23
秋の深まり
赤木氏より十七日分の拙稿にコメントを頂戴した。
数と内容が両立していないと組織はよくならない。(以下省略)
おっしゃるとおりである。数と内容が両立していないことを世間では粉飾決算と呼ぶ。あるいは大本営発表とも言う。これはよくならないどころか、かえって組織の崩壊をもたらす。
しかし、顕正会の場合は、だからと言って正直に内情を打ち明ければ、ますます疲弊することになる。もう、どうしようもないのである。
よく機械類などに使われる表現として、どうも調子がよくないけど騙し騙し使っている・・・というのがある。ようは修理するには金が掛かるし、買い換えるともっと金が掛かる、だから今のまま使い続けるしかない、壊れたらそれまでだ、というような一種の開き直りである。
まさに今の顕正会がそれなのではないかという気がしてならない。
しかし、これは問題だ。
機械の場合は騙し騙しでもいいが、顕正会の場合は人間が相手なのである。会員を騙し騙し使っているとしたら大問題である。これはいわば倫理的問題であるが、宗教者に対して倫理を問うのは一種のパラドクスである。これが末法濁悪の姿なのだろう。
さて、昨夜の沖浦氏からのコメントであるが、これは氏の持ち味が十二分に発揮された文章だと思う。そこで今回は反論ではなく、補足意見のような形で書いてみたい。
狼に育てられた子供がいて、十数歳で救出されました。
この子は一生言葉を喋れず、直立歩行も困難でした。
然しながらやはり人間です。
言葉も喋れず、直立歩行も困難だとしたら、人間のテイをなしていないことになる。ゆえに氏はこの後、人間が人間の環境で育つという条件を付している。わたくしはこれをひじょうに示唆的であると思う。
ようするに、仏道修行においても同様であって、ちゃんとした環境下で修行をしないことには成就しないわけだろう。また、そのタイミングみたいなものも重要になってくる。
ちゃんとした環境下というのは、何も過保護を意味するわけではない。修行なのだから厳しいのは当然である。しかし、狼の話が示すように、もし狼を師匠にしたならばとんでもないことになる。もちろん、この場合は邪師という意味に相当する。また、タイミングというのは時機のことである。くだんの話は、狼という邪師に十数年間も付き従っていたために、もはや回復不能になってしまったという事例なのだ。ゆえに、なるべく早い段階で正師に出会い、修行を開始するのが望ましいのだろう。
チンパンジーは人間の環境で飼育しても、人にはなりません。
それはそうだ。
沖浦氏はあえて煩瑣を避けて省略したのだろうが、ひじょうに重要な点が省かれている。
チンパンジーは人間にはなれない、だが、仏にはなれるのだ。
前回、平等観について少し触れたが、大聖人の仏法では一切衆生に悉く仏性があると説く。この一切衆生とは人間の意味ではない。ありとあらゆる物が含まれるのだ。通常、生きとし生けるものなどと表現するが、大聖人は次のごとく仰せられる。
一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか(有情非情)。
草木はまだしもである。瓦礫ともなれば、凡夫の思慮を超える。
あるいは二乗作仏について、十界互具であるから自分たちの己心にも二乗界が存在する、ゆえに二乗が不成仏なら自分も含めて全員が不成仏である、と大聖人は仰せである。おそらくチンパンジーは畜生界だと思われるが、やはり同じことが言えるのだ。
まあ、しかし、当然ながら人間に生まれることが仏道修行の最短コースなのだろう。さすがにチンパンジーの姿では修行がしづらいだろうし、草木ないし瓦礫ともなれば、積極的には修行できない。
ところがどっこい、人間に生まれると誰もが油断してしまって、仏道修行を怠けてしまう。この辺の事情は新池御書に詳しいが、さしあたって今は一文だけ紹介しておこう。かく言うわたくし自身が、いちばん肝に銘じなければいけない御指南である。
たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯火は消えやすし。
ことに顕正会の場合、熱心な活動会員ともなれば、いちおうは仏道修行の火が燃え盛っていると言えるかもしれないが、これはいわゆる火の信心であって長続きしない。一種の燃え尽き症候群みたいになってしまい、組織を去る人が後を絶たないのが現実である。
数と内容が両立していないと組織はよくならない。(以下省略)
おっしゃるとおりである。数と内容が両立していないことを世間では粉飾決算と呼ぶ。あるいは大本営発表とも言う。これはよくならないどころか、かえって組織の崩壊をもたらす。
しかし、顕正会の場合は、だからと言って正直に内情を打ち明ければ、ますます疲弊することになる。もう、どうしようもないのである。
よく機械類などに使われる表現として、どうも調子がよくないけど騙し騙し使っている・・・というのがある。ようは修理するには金が掛かるし、買い換えるともっと金が掛かる、だから今のまま使い続けるしかない、壊れたらそれまでだ、というような一種の開き直りである。
まさに今の顕正会がそれなのではないかという気がしてならない。
しかし、これは問題だ。
機械の場合は騙し騙しでもいいが、顕正会の場合は人間が相手なのである。会員を騙し騙し使っているとしたら大問題である。これはいわば倫理的問題であるが、宗教者に対して倫理を問うのは一種のパラドクスである。これが末法濁悪の姿なのだろう。
さて、昨夜の沖浦氏からのコメントであるが、これは氏の持ち味が十二分に発揮された文章だと思う。そこで今回は反論ではなく、補足意見のような形で書いてみたい。
狼に育てられた子供がいて、十数歳で救出されました。
この子は一生言葉を喋れず、直立歩行も困難でした。
然しながらやはり人間です。
言葉も喋れず、直立歩行も困難だとしたら、人間のテイをなしていないことになる。ゆえに氏はこの後、人間が人間の環境で育つという条件を付している。わたくしはこれをひじょうに示唆的であると思う。
ようするに、仏道修行においても同様であって、ちゃんとした環境下で修行をしないことには成就しないわけだろう。また、そのタイミングみたいなものも重要になってくる。
ちゃんとした環境下というのは、何も過保護を意味するわけではない。修行なのだから厳しいのは当然である。しかし、狼の話が示すように、もし狼を師匠にしたならばとんでもないことになる。もちろん、この場合は邪師という意味に相当する。また、タイミングというのは時機のことである。くだんの話は、狼という邪師に十数年間も付き従っていたために、もはや回復不能になってしまったという事例なのだ。ゆえに、なるべく早い段階で正師に出会い、修行を開始するのが望ましいのだろう。
チンパンジーは人間の環境で飼育しても、人にはなりません。
それはそうだ。
沖浦氏はあえて煩瑣を避けて省略したのだろうが、ひじょうに重要な点が省かれている。
チンパンジーは人間にはなれない、だが、仏にはなれるのだ。
前回、平等観について少し触れたが、大聖人の仏法では一切衆生に悉く仏性があると説く。この一切衆生とは人間の意味ではない。ありとあらゆる物が含まれるのだ。通常、生きとし生けるものなどと表現するが、大聖人は次のごとく仰せられる。
一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか(有情非情)。
草木はまだしもである。瓦礫ともなれば、凡夫の思慮を超える。
あるいは二乗作仏について、十界互具であるから自分たちの己心にも二乗界が存在する、ゆえに二乗が不成仏なら自分も含めて全員が不成仏である、と大聖人は仰せである。おそらくチンパンジーは畜生界だと思われるが、やはり同じことが言えるのだ。
まあ、しかし、当然ながら人間に生まれることが仏道修行の最短コースなのだろう。さすがにチンパンジーの姿では修行がしづらいだろうし、草木ないし瓦礫ともなれば、積極的には修行できない。
ところがどっこい、人間に生まれると誰もが油断してしまって、仏道修行を怠けてしまう。この辺の事情は新池御書に詳しいが、さしあたって今は一文だけ紹介しておこう。かく言うわたくし自身が、いちばん肝に銘じなければいけない御指南である。
たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯火は消えやすし。
ことに顕正会の場合、熱心な活動会員ともなれば、いちおうは仏道修行の火が燃え盛っていると言えるかもしれないが、これはいわゆる火の信心であって長続きしない。一種の燃え尽き症候群みたいになってしまい、組織を去る人が後を絶たないのが現実である。
2009/10/22
公式見解と私的見解の狭間
沖浦氏からさっそくのコメントを頂戴した。日寛上人の邪義・・・御書にはまったくない・・・云々と。
どうやら昨日の拙稿を理解してもらえなかったようだ。
御書には説かれなかった御法門もある。とりわけ戒壇の大御本尊は秘仏にてましますから、そこに記載がなくても不思議ではないし、むしろ当然のことである。
大聖人の御真筆御本尊は現存するだけでも百数十幅を数える。そのすべてが御書に出てくるわけではない。むしろ御本尊の授与に関する御記述は少ないくらいなのである。
いわんや戒壇の大御本尊は秘仏にてまします。弟子檀那に対する御手紙に大っぴらに書かれていたらおかしいだろう。
此の事は余が第一の秘事なり。委細には向かって問ふべし。
当該御文は撰時抄における羅什三蔵の故事を説かれる段であるが、こうした事例を拝するにつけ、いわゆる口伝相承のようなものが存在したと考えざるを得ないと思う。
しかし、何もわたくしは、無条件に口伝相承を受け入れるべきだと言っているのではない。それなりの蓋然性がなければいけないだろう。日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も云々とある。これについて宗門ではいろいろな会通をしているが、おそらくはごく普通に読めば、誰もが同じように理解するはずである。やはり貫首にも間違いはある。そこはしっかりと見極めなければいけない。
たとえ口伝相承であっても、それが御書と正反対であれば、疑問に思うのが普通である。極端な話、時の猊下に第六天の魔王が入って、おかしなことを言わせるかもしれないのだ。ゆえに、その場合は貫首の言葉を用いてはいけないのである。
問題は御書に説かれていない御法門である。この場合は判断の仕方が難しい。さて、どうするべきであろうか?
昨日はその答えを書いたつもりだった。わたくしは直接的な御指南が存在しない場合でも、必ずどこかにヒントがあるはずだと思っている。もしそうでなければ、それこそ上述のごとく第六天の魔王の好き放題のことが可能になってしまい、仏法はたちまちに壊乱してしまうことだろう。
大聖人の仏法は三大秘法である。そこには本門の戒壇という重要な御法門が含まれている。ところが本尊と題目に比して、戒壇についてはどうも理解が深まらない傾向にある。しかし、三大秘法である以上は、戒壇についてもきわめて重要な意味があると考えなければならないだろう。
残念ながら、わたくしは未だによくわかっていない。それが正直なところだ。
ところが大石寺に伝わるところの戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置し奉るための御本尊であるという。そして顕正会では、これを日本ないし一閻浮提を仏国と化す秘術であると主張している。まさに顕正会の公式見解である。おそらくは宗門も同様というか、そもそもは宗門の見解なのだと思う。
この意味においては、まさに特別な御本尊ということになる。
問題は御書に出てこないという点であるが、すでに書いたごとく必ずどこかにヒントがあるということ、そして少なくとも御書と矛盾しないというか、矛盾があれば信じるに足らないわけだから、ようは整合性があるかどうかが問題なのだと思う。
貴方も私も、南無妙法蓮華経如来の当体なんです。
沖浦氏のコメントから一文だけ抜き出させてもらったが、これについてはずいぶん前に耕治氏からご教示をたまわっていて、わたくしなりの見解を書かせてもらったことがある。
http://white.ap.teacup.com/ganko/966.html
煩瑣になるので省略するが、ともかく最初から仏だったら仏道修行の必要はないことになる。この辺が問題だろう。
近・現代における画期は、人間は平等であるという思想であろう。現代人には当たり前のようなことが昔は違ったのである。仏法はかなり早い段階から平等観のようなものが底流にあって、とりわけ大聖人の仏法ではそれが明確である。沖浦氏はこの点を力説しているのだと思う。
しかし、現代においても現実社会には不平等が存在する。今や格差社会が流行語のごとくになっている。
こうして見ると、沖浦氏の書いていることがすべて間違いであるとは言わないが、しかし、単なるキレイゴトのようにしか感じられない部分もなきにしもあらずである。
実際の沖浦氏は行動の人であり、人一倍の努力家であることは間違いない。ただし、人に対する処方としては、いかがなものかという気がしないでもない。つまり、氏のコメントは単なる理を説いているだけであって、現実的な処方とは言えないと思う。
大聖人の御法門を事の一念三千というのは、まさに末代幼稚のために御本尊をあらわして下さったからに他ならないであろう。これが現実的処方というものだ。単に理を説いただけでは救えない、それが末法の衆生だからである。
わたくしにとって大曼荼羅御本尊の存在意義、とりわけ戒壇の大御本尊の存在意義は御書の意に照らして矛盾しない。我ながら説明不足は否めないが、おおむねこんなところだ。
どうやら昨日の拙稿を理解してもらえなかったようだ。
御書には説かれなかった御法門もある。とりわけ戒壇の大御本尊は秘仏にてましますから、そこに記載がなくても不思議ではないし、むしろ当然のことである。
大聖人の御真筆御本尊は現存するだけでも百数十幅を数える。そのすべてが御書に出てくるわけではない。むしろ御本尊の授与に関する御記述は少ないくらいなのである。
いわんや戒壇の大御本尊は秘仏にてまします。弟子檀那に対する御手紙に大っぴらに書かれていたらおかしいだろう。
此の事は余が第一の秘事なり。委細には向かって問ふべし。
当該御文は撰時抄における羅什三蔵の故事を説かれる段であるが、こうした事例を拝するにつけ、いわゆる口伝相承のようなものが存在したと考えざるを得ないと思う。
しかし、何もわたくしは、無条件に口伝相承を受け入れるべきだと言っているのではない。それなりの蓋然性がなければいけないだろう。日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も云々とある。これについて宗門ではいろいろな会通をしているが、おそらくはごく普通に読めば、誰もが同じように理解するはずである。やはり貫首にも間違いはある。そこはしっかりと見極めなければいけない。
たとえ口伝相承であっても、それが御書と正反対であれば、疑問に思うのが普通である。極端な話、時の猊下に第六天の魔王が入って、おかしなことを言わせるかもしれないのだ。ゆえに、その場合は貫首の言葉を用いてはいけないのである。
問題は御書に説かれていない御法門である。この場合は判断の仕方が難しい。さて、どうするべきであろうか?
昨日はその答えを書いたつもりだった。わたくしは直接的な御指南が存在しない場合でも、必ずどこかにヒントがあるはずだと思っている。もしそうでなければ、それこそ上述のごとく第六天の魔王の好き放題のことが可能になってしまい、仏法はたちまちに壊乱してしまうことだろう。
大聖人の仏法は三大秘法である。そこには本門の戒壇という重要な御法門が含まれている。ところが本尊と題目に比して、戒壇についてはどうも理解が深まらない傾向にある。しかし、三大秘法である以上は、戒壇についてもきわめて重要な意味があると考えなければならないだろう。
残念ながら、わたくしは未だによくわかっていない。それが正直なところだ。
ところが大石寺に伝わるところの戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置し奉るための御本尊であるという。そして顕正会では、これを日本ないし一閻浮提を仏国と化す秘術であると主張している。まさに顕正会の公式見解である。おそらくは宗門も同様というか、そもそもは宗門の見解なのだと思う。
この意味においては、まさに特別な御本尊ということになる。
問題は御書に出てこないという点であるが、すでに書いたごとく必ずどこかにヒントがあるということ、そして少なくとも御書と矛盾しないというか、矛盾があれば信じるに足らないわけだから、ようは整合性があるかどうかが問題なのだと思う。
貴方も私も、南無妙法蓮華経如来の当体なんです。
沖浦氏のコメントから一文だけ抜き出させてもらったが、これについてはずいぶん前に耕治氏からご教示をたまわっていて、わたくしなりの見解を書かせてもらったことがある。
http://white.ap.teacup.com/ganko/966.html
煩瑣になるので省略するが、ともかく最初から仏だったら仏道修行の必要はないことになる。この辺が問題だろう。
近・現代における画期は、人間は平等であるという思想であろう。現代人には当たり前のようなことが昔は違ったのである。仏法はかなり早い段階から平等観のようなものが底流にあって、とりわけ大聖人の仏法ではそれが明確である。沖浦氏はこの点を力説しているのだと思う。
しかし、現代においても現実社会には不平等が存在する。今や格差社会が流行語のごとくになっている。
こうして見ると、沖浦氏の書いていることがすべて間違いであるとは言わないが、しかし、単なるキレイゴトのようにしか感じられない部分もなきにしもあらずである。
実際の沖浦氏は行動の人であり、人一倍の努力家であることは間違いない。ただし、人に対する処方としては、いかがなものかという気がしないでもない。つまり、氏のコメントは単なる理を説いているだけであって、現実的な処方とは言えないと思う。
大聖人の御法門を事の一念三千というのは、まさに末代幼稚のために御本尊をあらわして下さったからに他ならないであろう。これが現実的処方というものだ。単に理を説いただけでは救えない、それが末法の衆生だからである。
わたくしにとって大曼荼羅御本尊の存在意義、とりわけ戒壇の大御本尊の存在意義は御書の意に照らして矛盾しない。我ながら説明不足は否めないが、おおむねこんなところだ。
2009/10/21
公式見解原理主義者のブログ
国分ひろし氏のコメントに感情論とある。沖浦克治氏のコメントには、ああ言う若者が何十万人と出てこなければ世界広布などは夢物語、とある。わたくしの思うに、さしあたって感情は情熱という言葉に置き換えられるのではないか、であれば沖浦氏の言うようにそうした若者がたくさん出てくることが広宣流布につながるのだろう。もちろん、法門の正邪を論ずることが最重要課題であるが、それ以前に人材がいるかどうかが問われるのだと思う。ゆえに前回、いわゆる二世・三世の創価学会離れに言及したわけである。その実情は外部の人間のあずかり知らぬところであるから、ここでこれ以上書いても仕方がない。
貴方が御書を引用し、戒壇様が一大秘法であり、それ以外に一大秘法はありえないとの証明をなさい。
今日は他人の議論に首を突っ込んでみようと思う。
基本的に、戒壇の大御本尊は秘仏とされているわけであるから、御書をもって証明することは不可能のはずである。もし御書に明記されているとすれば、秘仏とは言えなくなってしまうからだ。
ゆえに、しばしば引用されるところの聖人御難事における「二十七年」は、いわゆる出世の本懐を示唆あそばす御文ではあるけれども、直接的には何が出世の本懐であるかはわからないようになっている。これまさしく大聖人の深き思し召しであろう。秘仏たるゆえんである。
余談ではあるが、善光寺の阿弥陀仏は七年に一度開帳されるという。しかし、なんとそれは御前立本尊と呼ばれるものであって、さらにその奥に別の本尊がある。どうやら、それこそが正真正銘の御本尊らしい。では、これはいつ開帳されるのかというと、なんと驚くべきことにこちらは絶対の秘仏であり、永遠に開帳されることはないのだそうである。
戒壇の大御本尊は信徒に限り内拝が許される。また、本門戒壇が建立されれば・・・その時の具体的な姿はわからないけれども、ともかく多くの人々が拝することになるだろう。
つまり、大御本尊は戒壇建立の暁までの時限的秘仏とも言い得ると思う。
もちろん同時に、三大秘法抄に仰せのごとく、寿量品に建立する所の本尊は如来秘密神通之力の文に係るところであるから、その意味ではあくまで秘仏なのであろう。ぶっちゃけ言えば、凡夫の思慮の及ばない点において、秘であり密なのだ。そもそも三大秘法は三大秘密の法に他ならない。自ずと本門の本尊はそこに帰着するわけである。
三大秘法は申すまでもなく、本門の本尊と戒壇と題目の五字である。一大秘法は本門の本尊であり、別しては本門戒壇の大御本尊に他ならない。
在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にゝき。
わたくしはここにヒントがあると思う。
仏の在世にはいったいどのような戒壇が建てられていたのか、わたくしの思うに、おそらくは道場くらいの意味に解しても差し支えないと思う。仏道修行をするための道場である。釈尊は道場主ということになる。
提婆達多という人は、あらゆる面で釈尊に対抗心を持っていた。ゆえに提婆も道場を開いたのだ。しかし、提婆の道場は人気がなかった。そこで彼は実力行使に出た。釈尊の化導を妨害するという行動である。そうした過程で死者が出たのだろう。
釈尊の道場と提婆の道場、これを大聖人は戒壇と御表現あそばした。さしずめ提婆のほうはニセ戒壇となるだろうか?
大聖人の御在世においては身延こそが戒壇そのものだった。大聖人のましますところが即戒壇なのである。この意味において、近年の日蓮正宗において戒壇の大御本尊のましますところを根源の事の戒壇と定義していることは、そこそこ理に適っていると言えるだろう。もちろん御遺命の事の戒壇は別である。
大聖人の御遺命とは、本門戒壇の建立に他ならない。まさしく本門戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置するための御本尊である。大聖人の御真筆御本尊はたくさんあるけれども、戒壇安置の本尊は一つしかないという、この特殊性に注目すべきであろう。
つまり、一大秘法は本門の本尊であり、別しては戒壇の大御本尊である。それ以外にはあり得ない。上掲の報恩抄の一文が示唆しているのは、このことである。
貴方が御書を引用し、戒壇様が一大秘法であり、それ以外に一大秘法はありえないとの証明をなさい。
今日は他人の議論に首を突っ込んでみようと思う。
基本的に、戒壇の大御本尊は秘仏とされているわけであるから、御書をもって証明することは不可能のはずである。もし御書に明記されているとすれば、秘仏とは言えなくなってしまうからだ。
ゆえに、しばしば引用されるところの聖人御難事における「二十七年」は、いわゆる出世の本懐を示唆あそばす御文ではあるけれども、直接的には何が出世の本懐であるかはわからないようになっている。これまさしく大聖人の深き思し召しであろう。秘仏たるゆえんである。
余談ではあるが、善光寺の阿弥陀仏は七年に一度開帳されるという。しかし、なんとそれは御前立本尊と呼ばれるものであって、さらにその奥に別の本尊がある。どうやら、それこそが正真正銘の御本尊らしい。では、これはいつ開帳されるのかというと、なんと驚くべきことにこちらは絶対の秘仏であり、永遠に開帳されることはないのだそうである。
戒壇の大御本尊は信徒に限り内拝が許される。また、本門戒壇が建立されれば・・・その時の具体的な姿はわからないけれども、ともかく多くの人々が拝することになるだろう。
つまり、大御本尊は戒壇建立の暁までの時限的秘仏とも言い得ると思う。
もちろん同時に、三大秘法抄に仰せのごとく、寿量品に建立する所の本尊は如来秘密神通之力の文に係るところであるから、その意味ではあくまで秘仏なのであろう。ぶっちゃけ言えば、凡夫の思慮の及ばない点において、秘であり密なのだ。そもそも三大秘法は三大秘密の法に他ならない。自ずと本門の本尊はそこに帰着するわけである。
三大秘法は申すまでもなく、本門の本尊と戒壇と題目の五字である。一大秘法は本門の本尊であり、別しては本門戒壇の大御本尊に他ならない。
在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にゝき。
わたくしはここにヒントがあると思う。
仏の在世にはいったいどのような戒壇が建てられていたのか、わたくしの思うに、おそらくは道場くらいの意味に解しても差し支えないと思う。仏道修行をするための道場である。釈尊は道場主ということになる。
提婆達多という人は、あらゆる面で釈尊に対抗心を持っていた。ゆえに提婆も道場を開いたのだ。しかし、提婆の道場は人気がなかった。そこで彼は実力行使に出た。釈尊の化導を妨害するという行動である。そうした過程で死者が出たのだろう。
釈尊の道場と提婆の道場、これを大聖人は戒壇と御表現あそばした。さしずめ提婆のほうはニセ戒壇となるだろうか?
大聖人の御在世においては身延こそが戒壇そのものだった。大聖人のましますところが即戒壇なのである。この意味において、近年の日蓮正宗において戒壇の大御本尊のましますところを根源の事の戒壇と定義していることは、そこそこ理に適っていると言えるだろう。もちろん御遺命の事の戒壇は別である。
大聖人の御遺命とは、本門戒壇の建立に他ならない。まさしく本門戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置するための御本尊である。大聖人の御真筆御本尊はたくさんあるけれども、戒壇安置の本尊は一つしかないという、この特殊性に注目すべきであろう。
つまり、一大秘法は本門の本尊であり、別しては戒壇の大御本尊である。それ以外にはあり得ない。上掲の報恩抄の一文が示唆しているのは、このことである。
2009/10/18
アクキン大王とホタルの戦い
樋田氏と柳澤氏の法論を拝見した。
結論を言えば、あまり面白くなかった。おそらくはもう二度と視聴しないだろう。ただし、ある意味、それはわたくしの固定観念というか先入観のせいであろう。以前の樋田氏対創価学会員の法論を基準に考えるから、期待はずれになってしまうのだ。
柳澤氏は入会三年であるという。その意味では善戦だと思う。
樋田氏が御書をふんだんに引用して話を進めるのに対し、彼からはほとんど御書の引用がなかった。これが法論としては期待はずれの原因であるが、三年程度のキャリアでは致し方のないところだろう。
逆に、それが樋田氏にとっては難攻不落のような感じだったのかもしれず、氏にしてはめずらしくテコズッテいるような印象を受けた。実際、氏は映像の中で、今回は一般人を折伏しているみたいだ、という意味のことを言っていた。
柳澤氏は好青年である。わたくしはそう思った。けっこう頭の切れる人のようだ。ゆえに、研鑽を重ねて行けば、いずれは物凄い論客に成長するかもしれない。
ただし、彼の発言を聞いていると、どうも今の創価学会は仏法から離れつつあるのではないかと思えてしまうのである。脱日蓮正宗はおろか、ややもすれば大聖人の仏法からも脱却しようとしているのではないか、というふうに感じられるのである。
彼の発言には、「日蓮という人」が繰り返し出てくる。わたくしはこれを、あながちに不敬であるとは言わないが、しかし、どうも尊崇の度合いが低いように感じられてならないのである。たとえば、一般人に対して折伏する場合、為人悉檀の意味で使うならば、それはそれでいいだろう。しかし、相手は樋田氏である。つまり、今となっては宗派が別ではあるものの、大聖人を御本仏と仰ぐ意味では同じなのである。それにもかかわらず、くだんのような言い回しを連発しているわけだ。これはいかがなものかと思う。
あえて一つだけ得点を差し上げるならば、対話の重要性を謳っていたことである。言うのは簡単だが、現実はどうかという問題がある。しかし、彼は立派にクリアしている。なぜならば、樋田氏との対面法論を実現したからだ。
委細に見れば、他にもいろいろあるだろうが、再視聴してまで検証する気にはなれないので終わりにしたい。
今度は樋田氏と金本氏の法論を拝見した。
これはつい先ほど視聴したばかりであるが、面白いといえば面白かった。ビデオ法論というのだろうか、ようはテレビ電話の状態で法論をし、それを多くの人が同時に閲覧できるようなシステムがあるらしい。それがいつ行なわれたものか知らないが、樋田氏のサイトに掲載されたのでそれを閲覧したわけである。
何が面白かったか、説明しよう。この法論には司会者が登場するのであるが、なんとこれは金本氏の婚約者らしいのである。このオチが面白かった。わたくしは最初の段階から、なんだか胡散臭い司会者だなあ、と感じていた。おそらくは誰もがそう感じるだろう。それが視聴を続けていくと、ますます妙な具合なのである。それで最後まで見ると金本氏と司会者がグルであることが判明するのだ。それも自分たちで暴露したも同然の結果になっているのだから、まるでお笑いの世界である。
ある意味、ひじょうに出来過ぎていて、あるいは樋田氏も含めてこうしたオチを演出したのではないかと思えるくらいである。まさか、それはないだろうが、しかし、なんともオソマツな法論である。
法論そのものとしては、ほとんど中身のないものだったが、部分的には見どころがあった。金本氏はなかなか迫力のある人で、ところどころ意味不明の言説があったにせよ、樋田氏をカルト呼ばわりするところなどは圧巻だった。冷静に見れば、金本氏のほうが遥かにカルトっぽいのだが・・・
金本氏はいわゆる学会三世のようだ。
拙ブログではここ数回、ダイヤモンドという経済誌に宗教の特集記事が出ていたことを紹介したが、くだんの特集では創価学会についても相当の紙数を費やしている。その中に、いわゆる二世・三世の学会離れという現象を論じた部分があって、たとえば最近は非創価学会員と結婚する女子部員が増えていて、結婚を期に信心をやめてしまうケースが増えているそうである。
どうやら金本氏の婚約相手も非創価学会員らしい。それは誰が視聴しても感じるだろう。専門用語がまったくわかっていないからだ。
結局、そうすると彼女も信心をやめてしまうかもしれない。いわゆる二世・三世は自分の意志で信心を始めたわけではないので、そこが弱点なのだろう。もし自分の意志で入信した人ならば、自分の夫になる人を何とかして入信させるだろうし、少なくとも己れは信心を貫くはずである。
この辺が現在の創価学会に内在する大きな問題点だと思われる。
話はぜんぜん違うのであるが、富士宮ボーイでは「焼失」の意味について、ちょっとした議論が続いている。もはや結論は見えていると思う。蛍氏は道理を重んじる人であって、その言説はいつも理路整然としていて気持ちがいい。一方のアク禁大王と来たら・・・
結論を言えば、あまり面白くなかった。おそらくはもう二度と視聴しないだろう。ただし、ある意味、それはわたくしの固定観念というか先入観のせいであろう。以前の樋田氏対創価学会員の法論を基準に考えるから、期待はずれになってしまうのだ。
柳澤氏は入会三年であるという。その意味では善戦だと思う。
樋田氏が御書をふんだんに引用して話を進めるのに対し、彼からはほとんど御書の引用がなかった。これが法論としては期待はずれの原因であるが、三年程度のキャリアでは致し方のないところだろう。
逆に、それが樋田氏にとっては難攻不落のような感じだったのかもしれず、氏にしてはめずらしくテコズッテいるような印象を受けた。実際、氏は映像の中で、今回は一般人を折伏しているみたいだ、という意味のことを言っていた。
柳澤氏は好青年である。わたくしはそう思った。けっこう頭の切れる人のようだ。ゆえに、研鑽を重ねて行けば、いずれは物凄い論客に成長するかもしれない。
ただし、彼の発言を聞いていると、どうも今の創価学会は仏法から離れつつあるのではないかと思えてしまうのである。脱日蓮正宗はおろか、ややもすれば大聖人の仏法からも脱却しようとしているのではないか、というふうに感じられるのである。
彼の発言には、「日蓮という人」が繰り返し出てくる。わたくしはこれを、あながちに不敬であるとは言わないが、しかし、どうも尊崇の度合いが低いように感じられてならないのである。たとえば、一般人に対して折伏する場合、為人悉檀の意味で使うならば、それはそれでいいだろう。しかし、相手は樋田氏である。つまり、今となっては宗派が別ではあるものの、大聖人を御本仏と仰ぐ意味では同じなのである。それにもかかわらず、くだんのような言い回しを連発しているわけだ。これはいかがなものかと思う。
あえて一つだけ得点を差し上げるならば、対話の重要性を謳っていたことである。言うのは簡単だが、現実はどうかという問題がある。しかし、彼は立派にクリアしている。なぜならば、樋田氏との対面法論を実現したからだ。
委細に見れば、他にもいろいろあるだろうが、再視聴してまで検証する気にはなれないので終わりにしたい。
今度は樋田氏と金本氏の法論を拝見した。
これはつい先ほど視聴したばかりであるが、面白いといえば面白かった。ビデオ法論というのだろうか、ようはテレビ電話の状態で法論をし、それを多くの人が同時に閲覧できるようなシステムがあるらしい。それがいつ行なわれたものか知らないが、樋田氏のサイトに掲載されたのでそれを閲覧したわけである。
何が面白かったか、説明しよう。この法論には司会者が登場するのであるが、なんとこれは金本氏の婚約者らしいのである。このオチが面白かった。わたくしは最初の段階から、なんだか胡散臭い司会者だなあ、と感じていた。おそらくは誰もがそう感じるだろう。それが視聴を続けていくと、ますます妙な具合なのである。それで最後まで見ると金本氏と司会者がグルであることが判明するのだ。それも自分たちで暴露したも同然の結果になっているのだから、まるでお笑いの世界である。
ある意味、ひじょうに出来過ぎていて、あるいは樋田氏も含めてこうしたオチを演出したのではないかと思えるくらいである。まさか、それはないだろうが、しかし、なんともオソマツな法論である。
法論そのものとしては、ほとんど中身のないものだったが、部分的には見どころがあった。金本氏はなかなか迫力のある人で、ところどころ意味不明の言説があったにせよ、樋田氏をカルト呼ばわりするところなどは圧巻だった。冷静に見れば、金本氏のほうが遥かにカルトっぽいのだが・・・
金本氏はいわゆる学会三世のようだ。
拙ブログではここ数回、ダイヤモンドという経済誌に宗教の特集記事が出ていたことを紹介したが、くだんの特集では創価学会についても相当の紙数を費やしている。その中に、いわゆる二世・三世の学会離れという現象を論じた部分があって、たとえば最近は非創価学会員と結婚する女子部員が増えていて、結婚を期に信心をやめてしまうケースが増えているそうである。
どうやら金本氏の婚約相手も非創価学会員らしい。それは誰が視聴しても感じるだろう。専門用語がまったくわかっていないからだ。
結局、そうすると彼女も信心をやめてしまうかもしれない。いわゆる二世・三世は自分の意志で信心を始めたわけではないので、そこが弱点なのだろう。もし自分の意志で入信した人ならば、自分の夫になる人を何とかして入信させるだろうし、少なくとも己れは信心を貫くはずである。
この辺が現在の創価学会に内在する大きな問題点だと思われる。
話はぜんぜん違うのであるが、富士宮ボーイでは「焼失」の意味について、ちょっとした議論が続いている。もはや結論は見えていると思う。蛍氏は道理を重んじる人であって、その言説はいつも理路整然としていて気持ちがいい。一方のアク禁大王と来たら・・・
2009/10/17
隔世の感
だいぶ時間が空いてしまったが、ダイヤモンドの記事で思い出したことがあるので書いておこう。新興宗教の信者数の実態は、おおむね公称の三分の一から十分の一くらい、という意味のことが記事に出ていた。
三分の一が実数であれば、これはマシなほうというか、ある意味では優秀と見做してもいいくらいである。
では、顕正会はどうかというと、どう見積もっても十分の一以下であるから、これは最低の部類に入るだろう。もしかしたらワースト一位かもしれない。
これが日本国を独走している顕正会の実態である。
ずいぶん前の話であるが、浅井先生は創価学会の人数を五百万だと言っていた。
ダイヤモンドには八百万世帯と書かれている。これはいわゆる世帯数での表示なので、これを人数に直すとどうなるかがよくわからないけれども、ともかく浅井先生は五百万人だと言っていたのだから、これはけっこう優秀な数字であろう。
顕正会は公称人数こそ百三十五万であるものの、現実にはどう見積もっても十万以下である。以前、顕正新聞の発行部数が二十万部であることが判明したけれども、ご存知のごとく多重購読が問題になっており、それを考慮すれば十万以下であることがよくわかるはずである。
さらに厳密に計算すれば、今夏の男子部大会で三万人ということは、ここには実質的に壮年部も含まれているので、これに女子・婦人を加えても六万人がせいぜいのところとなる。しかし、これでもまだかなり甘い見積もりであり、おそらくは五万以下なのだろうというのが衆目の一致するところだと思う。
九月度総幹部会の活動報告に次のごとくある。
入信者は十五名以上いるものの全員戦列から離れており、組員を指導しても軽んじられたり罵声をあびせられることが続き、組員に対しまったく指導ができなくなっておりました。
これは男子部組長の記事であるが、おそらくはこれが顕正会員の平均的な姿なのだろう。
文中、全員が戦列から離れている、とある。これではあたかも以前は戦列に加わっていたと読めてしまうところであるが、現実は違うだろう。ようは入信勤行後、即退転というパターンがほとんどだと思われる。
つまり、今の顕正会は入信報告書の数ばかりを積み上げているだけであって、実質的な会員数は横ばい状態なのだ。
これは熱心な活動会員がいちばんよくわかっていることだ。
顕正会には一人で百名以上の折伏成果を上げているようなツワモノがたくさんいる。いや、わたくしは現実にそういう人をたくさん知っているわけではないが、おそらくはザラにいるだろう。このことは案外に、敵対勢力であるところの創価学会員にしても、あるいは法華講員にしても、認めていることではないかと思う。ようは、それほどに顕正会の折伏はデタラメであり、中身の伴なわないものだという意味なのである。
先ほど紹介した記事では、十五名が全滅状態だった。では、百名折伏を達成したツワモノたちの場合はどうなのか、である。百名のうち、いったい何人が残っているのか、それが問題である。
ダイヤモンドの記事には三分の一ないし十分の一という話が出ていた。これを当てはめるならば、百人のうち三十数名ないし十名程度が残っていることになるが、三十人も残っていたら大したものである。おそらくは十人がいいところであり、それ以下である可能性がきわめて高いと思われる。
まさか百名を入信させて、それが全滅するとは思えないが、かなり低い数字であることは間違いないだろう。
根拠は簡単である。すでに十五名全滅の記事がそれを証明しているわけであり、さらに大きく見れば、公称百三十五万の実態が数万程度であるというのが何よりの証左であろう。
しかし、実は話が逆なのである。
そういうデタラメな折伏をやっているから、いくら数字を積み上げても中身が伴なわないのである。くだんの男子部組長は十五名以上の成果を上げている。あるいは百名以上の成果を上げている人もザラにいると書いた。しかし、いずれも折伏のテイをなしていない、単なる勧誘行為に堕してしまっている。それが今日の顕正会を形成しているのだ。
以下は『迷走する顕正会を斬る』の記述である。
かつて、妙信講の三千達成奉告の総登山には、千五百余名が渇仰の思いで参加した。当初はまっとうな法華講として、組織の隅々まで血が通っていたのである。妙信講として最後となった第二十三回総会には、五万人の講員数で、一万人が武道館に参集した。
平成七年に横浜アリーナで開催された第二十六回総会は、会員数が二十数万人で参加者は三万名であった。これを最後に顕正会の総会は途絶え、現役活動会員で総会参加の経験を持つ者は数少ないだろう。
かつての妙信講は講員の過半数を結集できる力があったのだ。これは驚異的な数字である。
それが今の顕正会と来たら・・・もはや形容の言葉もないほどだ。
三分の一が実数であれば、これはマシなほうというか、ある意味では優秀と見做してもいいくらいである。
では、顕正会はどうかというと、どう見積もっても十分の一以下であるから、これは最低の部類に入るだろう。もしかしたらワースト一位かもしれない。
これが日本国を独走している顕正会の実態である。
ずいぶん前の話であるが、浅井先生は創価学会の人数を五百万だと言っていた。
ダイヤモンドには八百万世帯と書かれている。これはいわゆる世帯数での表示なので、これを人数に直すとどうなるかがよくわからないけれども、ともかく浅井先生は五百万人だと言っていたのだから、これはけっこう優秀な数字であろう。
顕正会は公称人数こそ百三十五万であるものの、現実にはどう見積もっても十万以下である。以前、顕正新聞の発行部数が二十万部であることが判明したけれども、ご存知のごとく多重購読が問題になっており、それを考慮すれば十万以下であることがよくわかるはずである。
さらに厳密に計算すれば、今夏の男子部大会で三万人ということは、ここには実質的に壮年部も含まれているので、これに女子・婦人を加えても六万人がせいぜいのところとなる。しかし、これでもまだかなり甘い見積もりであり、おそらくは五万以下なのだろうというのが衆目の一致するところだと思う。
九月度総幹部会の活動報告に次のごとくある。
入信者は十五名以上いるものの全員戦列から離れており、組員を指導しても軽んじられたり罵声をあびせられることが続き、組員に対しまったく指導ができなくなっておりました。
これは男子部組長の記事であるが、おそらくはこれが顕正会員の平均的な姿なのだろう。
文中、全員が戦列から離れている、とある。これではあたかも以前は戦列に加わっていたと読めてしまうところであるが、現実は違うだろう。ようは入信勤行後、即退転というパターンがほとんどだと思われる。
つまり、今の顕正会は入信報告書の数ばかりを積み上げているだけであって、実質的な会員数は横ばい状態なのだ。
これは熱心な活動会員がいちばんよくわかっていることだ。
顕正会には一人で百名以上の折伏成果を上げているようなツワモノがたくさんいる。いや、わたくしは現実にそういう人をたくさん知っているわけではないが、おそらくはザラにいるだろう。このことは案外に、敵対勢力であるところの創価学会員にしても、あるいは法華講員にしても、認めていることではないかと思う。ようは、それほどに顕正会の折伏はデタラメであり、中身の伴なわないものだという意味なのである。
先ほど紹介した記事では、十五名が全滅状態だった。では、百名折伏を達成したツワモノたちの場合はどうなのか、である。百名のうち、いったい何人が残っているのか、それが問題である。
ダイヤモンドの記事には三分の一ないし十分の一という話が出ていた。これを当てはめるならば、百人のうち三十数名ないし十名程度が残っていることになるが、三十人も残っていたら大したものである。おそらくは十人がいいところであり、それ以下である可能性がきわめて高いと思われる。
まさか百名を入信させて、それが全滅するとは思えないが、かなり低い数字であることは間違いないだろう。
根拠は簡単である。すでに十五名全滅の記事がそれを証明しているわけであり、さらに大きく見れば、公称百三十五万の実態が数万程度であるというのが何よりの証左であろう。
しかし、実は話が逆なのである。
そういうデタラメな折伏をやっているから、いくら数字を積み上げても中身が伴なわないのである。くだんの男子部組長は十五名以上の成果を上げている。あるいは百名以上の成果を上げている人もザラにいると書いた。しかし、いずれも折伏のテイをなしていない、単なる勧誘行為に堕してしまっている。それが今日の顕正会を形成しているのだ。
以下は『迷走する顕正会を斬る』の記述である。
かつて、妙信講の三千達成奉告の総登山には、千五百余名が渇仰の思いで参加した。当初はまっとうな法華講として、組織の隅々まで血が通っていたのである。妙信講として最後となった第二十三回総会には、五万人の講員数で、一万人が武道館に参集した。
平成七年に横浜アリーナで開催された第二十六回総会は、会員数が二十数万人で参加者は三万名であった。これを最後に顕正会の総会は途絶え、現役活動会員で総会参加の経験を持つ者は数少ないだろう。
かつての妙信講は講員の過半数を結集できる力があったのだ。これは驚異的な数字である。
それが今の顕正会と来たら・・・もはや形容の言葉もないほどだ。

