2017/4/24

第1404号の五面を読んで  
マイケル氏はリンクを貼りつつ、その内容について的確な分析を行なっている。

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4990205510/ref=acr_search_hist_5?ie=UTF8&filterByStar=five_star&showViewpoints=0

レビュアーの評価が二極化していますから、顕正会の
会員さんが購入されているんだと思います。

星5つ→顕正会の会員さん
星1つ→アンチ

という構図が、見え隠れしてるって感じでしょうか。


まったくおっしゃる通りだと思う。

また、余計なことを言えば、構図が見え隠れしている、というのは格調高い表現だが、もっとエゲツナク表現すれば、構図がミエミエ、とか、構図がバレバレ、というのもありだろう。五つ星のほうは顕正会員による自作自演がその大半なのだと思われる。まさか組織的にやっているわけではないだろうが・・・

沖浦氏の今朝のコメントは二つあって、一つ目は最初の大石寺登山の話である。何となく今の状況からすると、都合の悪そうな話に思えるのだが、沖浦氏はあまり気にしていないようである。もう一つのコメントは白馬村をトレーニングのメッカにするという壮大なる計画を語るものであり、そのバイタリティには恐れ入るものである。いつまでも夢を持ち続けられることが素晴らしい。しかも単なる夢想ではなく、その実現に向けて前進しているわけだから、これは凄いことである。

ちなみに、この話は即是道場理論に裏打ちされているのだと思う。もし顕正会員で拙ブログをご覧になっている人がいるならば、ぜひとも思索してみるといいだろう。

白馬村という特定の場所に意味があるのではない。そこに沖浦氏という能動者がいて、トレーニングのメッカにするべく奔走していることに意味があるのだ。ゆえにこの場合、そこが白馬村でなければいけない理由はなく、極論すればどこでもいいのである。いわゆる依正不二の原理そのままなのだ。主体者たる沖浦氏が強い目的意識を持って行動することで、環境が変わっていくのである。それが今まさに、白馬村で実証されつつあるわけだ。

なるほど、沖浦氏が戒壇の建立についてあまり関心を示さないことも、あるいは特定の本尊への執着を持たないことも、いちおう筋が通っているようである。

顕正会員の皆さんはこれにどう反論するだろうか?

これはけっこう難しい問題であり、わたくし自身も明快な答えを持ち合わせているわけではない。だからと言って、こうした問題にフタをして一切考えないようでは、それこそ広宣流布も戒壇建立も画餅に過ぎないことになるだろう。今の顕正会に足りないのは、まさにこうした部分である。

さて、今日も顕正新聞第1404号の続きを見て行こう。

 また今回の決起集会には、二百名を超える未活動者が参加し・・・

第二十五・第二十六男子部長の記事である。先般、浅井先生が言っていた、未活動の人たちが続々と目覚めつつある、という話を彼は実感したと書いている。

しかし、その左隣の婦人部横浜支区組長の記事はもっと大胆である。

・・・二百万になれば未活動者がいなくなることを実感いたしました。

婦人部は確信があるのかハッタリなのか知らないが、先にも総合部長と副総合とが同じような発言をしている。浅井先生はあくまで未活動者がいなくなることを念願していると言っていたわけであり、いなくなるとは断言していないのだが・・・

 「稔ちゃんがそんなことを言ってるの?」

同じ人物の記事には上掲のようなセリフがある。どうやら彼女の総班では喫茶店で基礎教学書の読み合わせをやっているらしい。たまたま近くの席にいた七十四歳の男性がその内容を聞きつけたらしいのだ。創価学会会長原田稔云々の記述をである。彼は原田会長の幼なじみだという。彼も創価学会員だったが、もうかなり前に活動をやめてしまったようだ。それで組長たちに折伏されて、求めるように素直に入会したという。

右隣の記事に戻って、一つ引用しておきたい。

 さらに同じく六〇代の一班長も必死に戦うと、七七歳の後輩が、七年の長きあいだの逆縁の壁を打ち破り・・・

三名の入信を叶えたという。それにしても還暦過ぎの班長に喜寿の後輩という組み合わせも妙だし、先ほどの稔ちゃんの幼なじみも含めて、高齢者が多いなあ、というのが偽らざる実感である。

ただし、ここで話を終わると、悪意の印象操作との批判を受けかねない。なぜならば下段の記事はいずれも若い女性の登壇だからである。

右下の女子部第百十六区総班長は二十代半ばであり、すでに六年前から総班長として活躍しているくらいだから相当のツワモノだ。しかし、それが逆に問題でもあるのだろう。

長いあいだ失業中で金銭的に厳しい状況でしたが・・・

当然、この続きの文章には再就職が叶ったことが書かれてあり、それ自体は大いにけっこうなことである。しかし、なぜに長期間にわたって失業を余儀なくされていたのかを考えれば、総班長職がかなりの重責であり、極論すれば仕事をほっぽらかして活動していたから失業し、かつまた再就職もままならなかったというふうに想像されるわけである。

左下の婦人部黒石支区組長は所属こそ婦人部であるものの、現在はまだ未成年である。

小学校三年生の時から野球に熱中し、将来は女子プロ野球選手になりたいとの夢を持ち、高等学校女子選抜野球大会への出場が決まったとの記述もあるくらいだから、なかなかの人物である。おそらくは今春、高校を卒業したものと考えられるが、その後の進路についての記述は見当たらない。

 また私自身、自分は母の犠牲になっていると思っていた・・・

正直な記述である。かつては男子部女子部の若者たちが熱心なあまり親兄弟に迷惑を掛けていた。わたくしにはそんな印象があった。けれども昨今はそうした若者たちが父となり母となり、その子供たちが迷惑を蒙っているという状況に変ってきたようである。いわば彼女はその犠牲者なのだろう。もちろん続きの文章を読めば、それが今は逆に母親に感謝しているという意味の文脈になっているわけだが、それを承知しつつもあえて言うならば、今も犠牲になっていることに変わりはないだろう。

婦人部所属がそれである。

この問題も繰り返し書いてきた。つまり、筋から言えば女子部に編入させるべきなのである。それをしないで、いつまでも婦人部に置いているのは、まさに成果のためだろう。まったく何をやっておるものかと思う。

ということで、今日は五面の四本の記事を取り上げた。

2017/4/23

第1404号の四面を読んで  
前回は大ボケをかましてしまった。たぶん漫然と読んでいる人たちには何の話かわからないだろう。ようは晃氏のコメントに対して、わたくしは早とちりしてトンチンカンなことを書いてしまったのである。

甚だ煩瑣ではあるが、訂正の意味で拙文と晃氏のそれを並べておこう。

浅井先生としては不本意かもしれないが、世間的には大川隆法先生のほうが有名であるし、実際、そこそこ売れているようでもあるのだ。残念ながら、そこには教義上の勝劣だとか浅深のようなことが介在することはない。

2017/4/20 0:04
投稿者:晃
出世間が仏教なら、教義で勝劣を付けてしまっても問題ないでしょう
世間に迎合した売上は気にする必要はないのでは…

https://hokkevxage.wordpress.com/


わたくしはこれを沖浦氏への批判と勘違いしてしまった。しかし、よく読めば上掲の拙文と対応していることがわかるわけで、なぜにウッカリしたのかが問題である。その理由いかんによっては、それこそボケが始まったと言われても仕方がないだろう。

いちおう言い訳がましいことを書いておくと、沖浦氏は自身の商売がうまく行っていることだとかその他もろもろの功徳話を年がら年中書いていて、さらに世間出世間のことで言えば、仏弟子は出世間ではなく世間で勝負しなければいけないみたいなことも言っているわけで、ちょうど晃氏のコメントの前後を挟むような格好で沖浦氏のコメントがあったりもしたものだから、それで勘違いしてしまったわけである。

いずれにしても上掲が示すごとく、晃氏のそれは沖浦氏への批判ではなくわたくしへの批判だった。この点は関係者各位にお詫び申し上げるものである。

その上で、減らぬ口のようではあるが、晃氏へ申し上げておこう。

もしも晃氏が顕正会擁護のつもりで書いたのであれば、それはムナシイことである。たぶんそうではなく、晃氏のことだから顕正会を擁護するとか批判するとかではなくて、あくまで自分自身の意見を書いたまでのことなのだろう。とは言え、いちおうムナシイことの理由を説明しておきたい。

http://blog.goo.ne.jp/kensho_kai/e/b71c6b2120eb899edeca7a5b3e60564d

これが答えである。リンク先からあえて必要な部分だけを引用すれば、次のごとくである。

 「ネットは見るな!」 として来た顕正会だが、総幹部会で浅井会長自ら 「購読申込みが広告によって、アマゾンに続々とよせられている」(取意、7月度総幹部会)と述べたという。そして、各部集会での幹部の登壇では、「基礎教学書 注文が殺到」、「アマゾンで宗教部門第1位」、「広告を見て逆縁者が入信」 等と叫んでいる。

http://kensho-nostalgia.blog.jp/archives/5566312.html

こちらのリンク先もほぼ同意見と考えられる。

ようするにアマゾン一位を自慢している時点で終わっている話なのだ。いかにも俗っぽいというか、浅井先生が嫌いそうな言葉を使えば、名聞名利を欲している、ということになるだろう。
もっとも顕正会が本気で広宣流布を考えているのであれば、沖浦氏と同様に、やはり世間で勝負しなければいけないだろう。いわば同じ土俵に立って、そこで一位を獲得しないことには話にならないのだ。
教義上の勝劣にしても内輪で自画自賛していても仕方がない。ようは内弁慶では話にならない。まさに公の場において白黒ハッキリさせなければいけない。その意味でも今の顕正会がどこまでやれるのか、ひじょうにアヤシイところである。

以上、晃氏への返信としたい。

今朝の沖浦氏のコメントには聖教新聞を読むのが日課であると書いてあった。わたくしの場合は顕正新聞を読むのが日課となるだろうか?

しかし、委細に見れば沖浦氏のそれとわたくしのそれは大きく異る。

氏は創価学会員として創価学会を肯定する立場で聖教新聞を読んでいる。ところがわたくしの場合は顕正会を批判する目的で顕正新聞を読んでいるのだ。それが日課だとはずいぶんイヤラシイ人間ではないかと自分ながらに思うところである。

ただし、矛盾するようだが、顕正新聞から学ぶことは多い。先日も書いたように、わたくしにとっての生涯学習用教材が顕正新聞なのだ。その意味でも編集部には頑張ってもらわないといけない。

さて、今日も顕正新聞第1404号の続きである。

浅井先生の大忠誠のお姿が重なっては・・・

男子部総務の発言である。例のごとく、先生と誰かが重なって見えるというフレーズは枚挙に暇がないわけだが、その都度、相手が変わるという点が不思議である。今回の場合はどうやら熱原の法華講衆と先生が重なって見えるということらしい。

・・・今の腐敗堕落した宗門と、極限の大謗法を犯すに至った学会の姿と重なりました。

同じく男子部総務であるが、今度は何を言っているのかと思えば、宗門や創価学会の姿がかつての五老僧の姿と重なると言っているのである。今の創価学会の人たちがどのように思うかは微妙なところかもしれない。しかし、宗門の人たちは大反発するだろう。とりわけ法華講の元気のいい連中ならば、黙ってはいないはずだ。

さて、その隣には第十一婦人部幹事の記事があって、次はかなりアゲアシ取りの感じがしなくはないものの、いちおう気になる部分なので取り上げさせていただくことにした。

先生が待っておられる・・・

会長本仏論的である。これのどこがそうなのかと思う人は顕正会の事情に暗い人なのだろう。ようするに顕正会では、大聖人のお待ちあそばす大法戦場、というフレーズをよく使うのである。つまり、大聖人が待っている=浅井先生が待っている、ということにもなりかねないのだ。ゆえに会長本仏論的なのである。もちろん先ほども書いたように、これはかなり強引な解釈であり、まさか本気でそう思っている人もいないだろうから、その意味ではアゲアシ取りに過ぎないのだろう。

常識的には、先生は我々の成長を待ってくれている、だからモタモタしていてはいけない、という意味なのだろう。

右下の女子部第二百二十一区長の記事は簡単に終わりたい。

 かくして、昨年一月の区結成当初より三倍の結集を以て・・・

これは凄いことである。ぜんぶの組織が同じくらいの結集力を発揮すれば、顕正会は飛躍的に成長するだろう。現実は現状維持が精一杯であり、ややもすれば離脱者続出で組織崩壊が起きかねない、それが顕正会の実態だと思う。

左下の女子部第百二十七区長の記事は、まず見出しをご覧に入れたい。

撰時抄御真蹟の写真に胸いっぱい

ところが本文中では次のごとく書かれている。

御真筆写真

通常、御本尊は御真筆、御書は御真蹟と表記するのが慣習(?)だろう。だったら本文中も見出し同様にすればよかったと思うのだが、どうだろうか?

本文を尊重した上で、やんわりと訂正したということか?

しかし、わたくしにはわからないことがある。以下は煩瑣になるので大幅に省略することになるけれども、顕正新聞をお持ちの人にはぜひともご確認いただきたいと思う。

 ことに、核を用いて・・・

 さらに、アメリカの衰退により・・・

 経済崩壊した中国は・・・


三段に分かれている文章なのだが、わたくしには順番がデタラメのように感じられるのである。おそらくは冒頭の一段を最後に回すべきなのだろう。ことに、さらに、という言い回しからすると、話が順番に並んでいるように読めてしまう。しかし、内容的には核戦争が最後に来なければおかしいはずだ。

つまり、編集部はあまり真面目に読んでいないのである。彼らも毎号の編集にウンザリしていて、機械的に作業しているだけなのだろう。

以上、今日は第1404号の四面の記事を取り上げた。

2017/4/20

第1404号の二面三面を読んで  
沖浦氏の自慢はさまざまの分野にわたるが、今度は奥さんが七万円のコーヒーメーカーを購入した話である。わたくしの思うに、だったらもう少し高性能のカメラを買ったらどうか、先には逆光のショットを上げ、今度はピンボケのコーヒーメーカーを上げて、いったい何をしておるものかと言いたいところだ。どうせならばカメラマンでも雇って、その人が撮影した画像なり動画なりを上げたほうがよほどいいだろう。

また、今朝のコメントは意味不明である。いや、より正確に言うと、具体的な内容を伏せているものだから、何の話だかわからない。その点が読者には不満に感じるのである。いずれはすべて開示するつもりなのだろうか?

それから晃氏のコメントには少々驚いた。

文章そのものは沖浦氏への反論の意味と考えられるが、それはさておき、リンク先である。わたくしが驚いたのはそれなのだ。いったい何を言いたいのか、よくわからないサイトである。以前、法華講説と題するサイトがあったけれども、あるいはそれと関連があるのかもしれない。
しかし、物凄く舌足らずであることは否めない。もちろん拙ブログのようにやたらと説明が長いのも問題だが、その逆も問題だろう。先方にもコメントを残す機能が付けられている。さりとて、今の状況では誰もコメントしないだろう。

まずは自分の主張をしっかりと文章化することだ。

さて、そういうわけで、今日は顕正新聞第1404号の続きである。二面以降、ウンザリするほど登壇記事が並んでいる。まずは男子部総務の記事だ。

 全世界でただお一人、御聖意を如実に拝される先生の「御書講義」と心しては・・・

相変わらず凄いことを言うものである。そして次は第十二婦人部長である。

出世の本懐成就以前に、戒壇の大御本尊の御出現を明示されている重大さ・・・

これらは二月度総幹部会の会長講演を受けての発言である。同講演は前掲が示すごとく撰時抄の御書講義のような意味合いがある。しかし、撰時抄単独では戒壇の大御本尊の御出現を明示しているとはなかなか拝し得ないはずで、いちおう顕正会の幹部たちもその点は承知しておいたほうがいいだろう。つまり、これは日寛上人の御指南を浅井先生の講演を通して拝すると、そのように思えてしまうというマジックなのだ。

それゆえだろうか、第二十五婦人部長の発言では、あたかも日寛上人と浅井先生の姿が重なって見えるかのごとく言っているのだ。実際の文章は少し込み入っているので、ここでは省略したい。

こうした錚々たる大幹部に混じって、女子部第百五十九区総班長の登壇が三面の左下に載せられている。ある意味、彼女はモンゴルにおける最高幹部なので、役職的には総班長ではあるものの、実質的には引けを取らない立場なのかもしれない。

その彼女の発言もひじょうに注目である。

・・・先生と同じ時代に間に合って生まれ合わせた有難さを胸に、「順縁広宣流布までのわずかな間に、急ぎ使命を果たさん」との決意で一杯であります。

先日の、生まれさせて頂いた、というケッタイな言い回しに比べれば不自然さは感じられないものの、ともかく会長本仏論的な雰囲気が濃厚な文章である。しかも順縁広布まであとわずかであるかのように書いてしまっている点も見逃せない。

ところでイヤミだろうか?

わたくしがキーボードで順縁広布と入力しようとしたら、順延広布と変換されてしまった。今現在、物凄いスピードで人工知能が進化を遂げているそうだが、もしかしたらいずれは彼らもイヤミを解するようになるのかもしれない。今は単なる誤変換に過ぎないけれども、将来はイヤミを言うのかもしれない。顕正会のジュンエンコウフは順延広布であると。

 いま二百万・六千万と、あっという間に広宣流布の時が事実になることを感じては・・・

同じく彼女の文章である。いちおう名目会員数としての二百万達成は時間の問題だろう。けれども六千万は遠い遠い道のりである。あっという間に実現するとはとうてい思えない。

 されば、先生とのお約束を果たすべく、モンゴル会館建設をご決断を頂ける戦いを今こそなし、広宣流布を急がれる無二の師匠・浅井先生に、大折伏を以てお応えし、中部大会に馳せ参じてまいる決意であります。

最後の一段を丸々引用させていただいた。たぶん彼女は日本語を書けないはずで、おそらく当該記事は彼女の娘さんが翻訳したものなのだろうと思われる。娘さんは日本での生活が長いのだろうけれども、元々はモンゴルの人であるから文章に不備があっても仕方がないことではある。

わたくしの思うに、建設をご決断を頂ける戦いを、がひじょうに悩ましい。ある意味、韻を踏んでいると解釈すれば、名文なのかもしれないという気がしないでもないのだ。まあ、しかし、普通は重複が過ぎるのではないかと感じるところである。

そして中部大会である。

モンゴル在住の人がなぜに中部大会に参加するのだろうかと誰もが思うはずで、すでにこの欺瞞については繰り返し書いてきたことである。つまり、地域大会ないし地方大会というのは名目上のことであって、実質上は全国大会にほとんど等しいのである。もちろん消極的な会員は参加しないだろう。しかし、熱心な活動会員であれば、北海道や沖縄からも参加すると考えて間違いない。何しろモンゴルからも馳せ参ずるのである。もはや見え透いた言い訳は通用しないということだ。

2017/4/19

第1404号一面の記事を中心に  
沖浦氏のコメントに付されたリンクを開くと、一つは桜の満開を伝えるものであり、もう一つは食事風景の写真だった。カツサンドはいかにもうまそうだ。しかし、窓を背にして逆光になっている写真はいただけない。

さて、顕正新聞の最新号が届いた。三月度総幹部会の様子を伝えるものである。これについては後日取り上げたい。

今日はその一つ前の号、すなわち第1404号についてである。

成人式ビデオ放映、全国一斉に開催

これが第一面のトップ記事であり、他には新秋田会館の工事が始まったことを伝えるものと、紀伊國屋書店の新宿本店に基礎教学書が平積みにされている様子を伝える記事が並んでいる。そして二面以降は登壇記事ばかりが、なんと二十六本も並べられている。毎度毎度、同じことを言わせてもらうが、ウンザリだ。

成人式が悩ましい。本年は一月九日に行なわれた。ようはそのビデオ放映が三月度の行事として全国的に開催されたわけである。
しかし、これまたご存知の人も多いかと思うが、浅井先生は一月九日の本番に出席していないのである。平成二十五年度の成人式を最後に、先生は成人式に出席しなくなったのだ。
では、それ以降の成人式はどうしているかというと、その最後の成人式における会長講演をビデオで視聴するのである。

ゆえに三月に行なわれたビデオ放映は、ビデオのビデオ(?)ということになる。

顕正会ではこれを新成人に対する「永遠の指針」と謳っているけれども、それを全会員対象の本部行事として毎年行なうのはどうかと思う。新成人にとっては格別の思いを懐くことかもしれないが、それ以外の人たちはウンザリだろう。何か新しい企画を考えるべきである。

秋田会館の記事についても触れておこう。

建物の間口が通常会館の二倍近くある・・・

本文中には、秋田駅周辺は東北でも有数の市街地、との記述がある。そうした場所に立派な会館を建てられるのだから、顕正会も大したものである。

 なお、新秋田会館完成後は、現在の秋田会館は別館として多目的に活用される。

地図が掲載されていて、それを見ると新旧会館はわりと隣接した場所にあることがわかる。その意味でも活用されてしかるべきだが、それを踏まえたわたくしの率直な感想は、秋田の組織はけっこう盛んのようだ、ということになる。仄聞するに、閑古鳥が鳴いている会館もあるらしいが、どうやら秋田は当てはまらないようである。

基礎教学書の平積みの件は数年後に答えが出るのだと思う。

 これまでの頒布は、アマゾン等を介しての通販が主であったが、次第に一般書店でも取り扱う書店が増え、その中、日本有数の紀伊國屋書店新宿本店でも、いま平積みにされるにいたった。

顕正会のほうで熱心に営業しているのではないかと想像するが、どうだろうか?

そもそも紀伊國屋に平積みにされても大したことないだろう。ようするに大書店は売り場面積が大きい分、相対的に取扱量も多いわけだ。平たく言えば、置くスペースがあるわけである。ゆえにむしろ小さな書店に置かれているかどうかのほうが、尺度としては重要である。

余談を書けば、『迷走する顕正会を斬る』が好例だろう。これが出版された時、わたくしはあちこちの書店を巡って置いてあるかどうかを確認した。個人的には一冊買えば十分であるが、興味関心の意味で一般の書店にどれくらい出回っているかを調べてみたわけである。残念ながらその街のいちばん大きな書店に辛うじて置いてあるかどうか、というレベルの扱いだった。たぶん今はもうどこにも置いていないだろう。ようするに売れる見込みのない本をいつまでも置いておくわけがないのである。

これで数年後云々の意味がわかったと思う。

顕正会の青写真が正しければ、今後は広宣流布に向かって基礎教学書の販売も伸びていくはずである。いわゆるロングセラーとならなければいけないし、それもダラダラとしたロングセラーではなく、加速度的に売り上げが伸びていくようでなければおかしいのだ。

しかし、それはあくまで顕正会側の青写真であり、皮算用に過ぎないのである。

ごく単純に、売れなければ置いてもらえなくなるわけで、それは時間の問題だろう。つまり、半年ないし一年単位で見ていれば、いずれは答えが出る。本屋だって商売だから、売れない本をいつまでも置いておく義理はないはずだ。

浅井先生としては不本意かもしれないが、世間的には大川隆法先生のほうが有名であるし、実際、そこそこ売れているようでもあるのだ。残念ながら、そこには教義上の勝劣だとか浅深のようなことが介在することはない。

それが現実である。

2017/4/16

生涯学習用テキスト  
昨日、顕正新聞第1403号の残りを取り上げると言っておきながら、結局は一本で終わってしまった。そこで今日はざっと拾っていくような感じにしたい。

 「浅井先生は良いことを仰っている。自分もビデオを見てみたいが、立場上、行けない」

女子部第九十区総班長の記事に出てくるセリフである。これは千葉市長の発言なのだそうだ。なるほど、立場上云々はそうなのかもしれないと思う。法律上はどうなのか知らないが、特定の宗教団体と関係を結ぶことのリスクを考えれば、当然の判断だろう。ただし、こうした状況を打破しない限り、広宣流布は不可能である。ましてや国立戒壇はなおさらだ。

学会歴62年、教学部長も努めた父が入会

女子部第百七十五区班長の記事に付された見出しである。へえ〜、誰なんだろう?

後期高齢の我が班も基礎教学書で立つ!

婦人部八潮支区総班長の記事の見出しだ。

・・・七十八歳になったいまも、車を運転して御奉公に飛び回っております。

まあ、今は日本全体が高齢化しているので、その年齢で運転している人はザラにいるだろう。ともかく事故には気をつけたいものである。

92歳、ワクワクしながら広告配布

さすがにこちらの婦人部新座支区組長は運転していないだろうけれども、配布活動に精を出している様子がよくわかる記事である。大したものだと思う。

 私は九十二歳になります。
 先生は
 「日本に残された時間は少ない」
 と仰っておられますが、私にも残された時間は少ないです。


客観的にはまさにその通りだろう。

その隣には九十九歳の祖母が臨終を迎えたとの体験発表がある。男子部第百七隊組長の記事だ。

・・・横田儀礼室委員の丁寧かつ細やかな対応。

わたくしが注目したのはこのくだりである。儀礼室委員の個人名が記されるのはめずらしいと思った。横田氏は地味な存在ではあるものの、本部職員としては超ベテランであり、有能な実務者なのだろう。ヘンな話、小峰氏がいなくなったことで、彼の存在感が増したのかもしれない。

婦人部片瀬支区組長の記事も注目である。

「立正安国論謹講」
 大学病院の図書室に


これには驚いた。彼女は二十年前に入信したという。それもご覧の見出しのごとく、大学病院の図書室に浅井先生の本が置いてあって、それを読んで自ら顕正会本部に連絡して入信を願い出たというのだ。具体的にどこの大学病院なのか、それが気になるところである。

しかし、夫と舅から「客の葬儀に参列できないようなものはするな」と言われて、いわゆる未活動になってしまったらしい。

 そして昨年、三五年ぶりに連絡を取り合った大学の先輩が、妙信講時代からの顕正会員であり、信心の再開を勧められたのでした。

こうした妙信講時代からの人間がどれだけ残っているのか知らないが、遅かれ早かれいなくなってしまうのは確実である。そして宗門との関係も切れた状態で、はたして正しい信心を保ち続けることができるのかどうか、そこが今後の注目ポイントだろう。

先生と同じ時代に生まれさせて頂いたことが何よりも有難く・・・

何を言っておるものかと思う。しかも生まれさせて頂いたという言い回しが物凄くヘンである。実に困ったものだ。

ついでに別の記事からも拾っておこう。

日々、仏法の実否を噛みしめております。

女子部第二百三十四区班長の上掲の言い回しが少し気になった。実否がやや不適切のように感じるのだ。

完全奏功・・・

そして今度は女子部第九十三区班長の乳癌の記事である。こちらはわたくしの不勉強らしく、上掲は医学用語としてわりと汎用的に使われているもののようである。完全奏功ないし完全奏効。平たく言えば、癌が完全に消滅したということだろう。

思えばわたくしも近年はあまり読書をしなくなった。さりとてネットを活用して情報収集に努めているわけでもない。ボーッとしている時間が多いのだ。

そういうわけで、わたくしにとっては顕正新聞の通読が、案外に勉強になるのである。

2017/4/15

主たる目的  
日蓮正宗の御僧侶が自殺したという話が流れている。発信元はいわゆるフェイクであるからして、どこまで信用してよいものかはわからないが、自殺そのものは事実なのだろう。それが首吊り自殺だというから驚きだ。もしそれが本当ならばひじょうに困ったことである。わたくしはとっさに楊柳房のことを想起した。

日蓮正宗系は他宗に厳しい。例えば念仏系に対しては、念仏の害毒として自殺願望が強いだとか、実際に自殺者が多いだとか、言ったりするわけだ。しかし、それがどこまで本当かはわからない。そうした客観的なデータがあるわけではなく、おそらくは当てずっぽうで言っていることなのだろうと思われる。
しかもである。大聖人が仰せられている楊柳房の故事については、その信憑性に疑問があるとかないとか言われているらしく、正宗系の中でも賢い人たちはこの件に触れないようにしているらしいのだ。
となると、なおさらのことである。つまり、自殺願望が強いとか自殺者が多いとかは、もはやまったく言えないことになるのだ。

さらにここに来て日蓮正宗の御僧侶が自殺したとなると、もはや他宗の批判などできっこない道理である。いわゆるブーメラン状態だ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2269.html

いちおう昨夏の拙ブログをリンクしておこう。法華講の中にも問題意識を持っている人がいる。しかし、何も変わらない。宗門の根本的な問題は何も解決せず、いたずらに時間だけが過ぎていく。

もちろん顕正会も同じである。

ちなみに前回分のコメント欄では、へな氏のマイケル氏宛ての文章がひじょうによく書けており、顕正会問題の相当部分をえぐり出しているように感じた。しかしながら、ここでは具体的な文言を取り上げないので、各自で参照されたい。

さて、今日は顕正新聞第1403号の残りを取り上げる。

 最後、「遺命重し」の斉唱のときには率先して立ち上がり・・・

今でもわたくしを顕正会員だと思っている人がいるけれども、それは間違いである。あえて肩書をつけるとすれば、日蓮正宗系無所属信仰者、それがわたくしの立場である。

ということで、気がつけば顕正会を離脱してすでに十年以上が経過している。この間、わたくしは顕正新聞を通して顕正会の現状を見てきた。ゆえに内部の細かい事情にはまったく疎くなっていて、もしかしたらとんだ見当違いのことを書いているのかもしれないと思うことがある。また逆に、少し距離を置いていることで見えてくることもあるのだろうと思う。

ともかく上掲が新鮮だった。実はこの「遺命重し」をわたくしは知らない。おそらくはここ十年くらいの間に歌われるようになったのだろう。つまり、わたくしの在籍当時にはまだ存在しなかったのだ。当然、ネットで探せば音源があるのだろうけれども、わざわざ聴いてみたいとも思わない。

そこで話を戻して、上掲の文章のどこがどのように新鮮だったのかであるが、それは起立である。どうやら「遺命重し」斉唱の時には全員起立するらしいのである。

たぶんこれは近年行なわれている地方大会などの写真を確認すればわかることで、全員起立がことさら新鮮というわけではない。しかし、上掲は少し事情が違うのだ。実はこれ、ビデオ放映の時の話なのである。

ひじょうに悩ましい話だ。

あまり細かい説明は必要ないだろう。ともかく違和感がハンパない。大会当日の会場であれば何の違和感もないだろう。そうではなくて、後日、ビデオを通して視聴しているわけである。ビデオの中の人たちが全員起立するのと同時に、ビデオの前の人たちも全員起立するわけだ。う〜ん、どうなんだろうか、それが一般的にどのように受け取られるものなのか、そこがわたくしにはよくわからないところである。

ヘンな例で恐縮だが、何かのコンサートに行ったとしよう。目の前で演奏しているわけである。当然、聴衆の側にもマナーが求められる。それがロックのコンサートであれば、それこそ全員起立で盛り上がる場面なのかもしれない。また逆に、クラシックのコンサートなどであれば、それとはぜんぜん違ったマナーが必要となるだろう。
ではそれが自宅におけるビデオ視聴だったらどうかである。わたくしの思うに、それこそ自分勝手な聴き方で構わないだろう。ロックだろうがクラシックだろうが好きなように聴けばいいのだ。寝っ転がってもいいし、何か他のことをしながらでもいい。あるいは会場さながらの真剣な聴き方でもいいだろう。つまり、決められたルールだとかマナーがあるわけではないのだ。
それは顕正会のビデオでも同じはずなのである。もし自宅で視聴するのであれば、それが浅井先生の指導であろうとも、極論すれば寝ながらでも構わないのである。何の問題もない。黙っていればわかりゃしないのだ。

極論すれば上述の通りである。当然、ビデオ放映の会場ともなれば、そこには自ずとルールないしマナーがある。寝ながらはあり得ないことだ。しかし、では逆にビデオ放映であっても本会場の本番そのままのルールないしマナーが適用されるのかと言えば、わたくしは違うのではないかと思う。その辺の線引きはひじょうに難しいのだけれども、ともかく全員起立はどうかと思うし、それこそ一般人の感覚からすると、ドン引きではないかと思われるところである。

話が長くなった。

簡単にまとめると、もし仮にわたくしが顕正会に戻ったとして、ビデオ放映に参加するのである。そして「遺命重し」の全員起立の場面に遭遇するわけだ。何だこりゃ? 昔の顕正会はこんなことしてなかったぞ? 違和感がハンパない。やっぱり、やめよう。

ということで、即日離脱である。

冒頭の正宗僧侶の自殺について、今一度考えてみよう。フェイクの記述を信用すれば、やはり宗門にも過酷なノルマがあって、末寺の住職たちがけっこう苦しんでいるようである。このことをマクロの視点から見れば、ようは以前にも触れた僧侶オワコンないし宗教オワコンの時代が到来したということなのだろう。そうした時代の波には抗えない。いくら信徒倍増計画を打ち立てようが、時代の趨勢が宗教オワコンに向かいつつあるのだから、どうしようもないのである。職業として考えた時、僧侶はいわば斜陽化しているわけなのだろう。ならば転職するか新規ビジネスを考えるしかない。

そして自殺した人の年齢を考えると、これは僧侶だけに限った話ではないのだと思う。四十代半ばともなれば、一流企業であっても安閑としてはいられない。ボヤボヤしていればリストラの対象者になるかもしれないし、転職するにしてもそうそう好条件の仕事が見つかるものではない。それ以前に、情けない話ではあるが新しいことに挑戦するという意欲がなかなか湧いてこない、そういうオトシゴロなのである。

転職の話はともかく、そもそも僧侶は職業という側面とは別に宗教家としての側面を持っているわけで、本来的には人々を幸せに導くことが主たる目的のはずなのである。そういう人が自殺しちゃうんではまったくお話にならないだろう。

日蓮正宗の首脳部としてはなるべく触れたくない話題ではあるのだろうが、これを機会によく考えてほしいものである。

2017/4/11

崩壊の主原因  
今日のブログはあまり中身がないので、その点をあらかじめお断りしておきたい。

マイケル氏の質問はきわめて常識的であり、わたくしもそれに異論はない。ようするに崩壊する崩壊すると言っても、実際にはそう簡単に崩壊するものではないのだ。ゆえに顕正会も完全に消滅するわけではないのだろう。逆にマイケル氏の指摘するように、結束力が強まって躍進する可能性すらあると思う。そこでさらにイヤミなことを言うと、浅井先生はあまり有能な指導者ではなく、実は浅井先生が顕正会の足を引っ張っているのかもしれないという極論もあり得るかもしれない。つまり、浅井先生が引退して別の指導者が顕正会を統率すれば、その時こそ本当の大躍進が始まるかもしれないのだ。

では、なぜに崩壊が取り沙汰されているのか?

実はこれも一つの常識的な考えに基づく話なのだ。顕正会崩壊の主な原因はゴールを決めてしまっていることである。

人生の目的を知らないのは行き先のわからないバスに乗っているのと同じである。顕正会ではそのように教えている。そして途中を端折って結論だけを書けば、大聖人の仏法こそが凡夫を仏にする、すなわち成仏の唯一の方法であり、顕正会で活動することがいわば成仏行きのバスに乗る行為なのだという話なのである。
説明の仕方はさまざまあるものの、上述のことはあらゆる宗派で言っていることなのだと考えられる。例えば西方浄土を願う念仏宗はいわば西方浄土行きのバスを提供しているわけなのだろう。しかし、こうした話はおおむね死後の世界に属することなので、本当に此岸から彼岸へ渡ることができるのかどうかはわからない。
そこで顕正会に話を戻すと、顕正会の場合はそうした成仏不成仏の問題とは別に壮大なる目標を定めてしまっている。すなわち広宣流布・国立戒壇建立である。しかもケツを決めてしまっているのだ。ケツとは締め切りのことである。つまりはこれが大問題なのである。

短期的には今行なわれている折伏法戦の締め切りがある。四月下旬の何日までにノルマを達成せよというヤツだ。
中期的には二百万達成をいついつまでにという話があって、どうやら来年中には達成させるつもりのようだ。
そして長期的というか最終的な目標が広宣流布・国立戒壇建立なのである。

実はこの最終ゴールはアイマイになっている。現段階では具体的な日程が示されていないのだ。

しかし、先ほど書いたように、ケツを決めてしまっているというのも半面の事実である。矛盾するようだが、事実なのだ。

浅井先生は講演のたびに広宣流布が近いことを力説している。それを聴いている熱心な活動会員たちもそのように思い込んでいる。
そして現宗門では認めていないが、いわゆる天生原に戒壇が建立されて、そこへ戒壇の大御本尊が御遷座されるという話を、顕正会の中では繰り返し説いているのだ。いわゆる天生原までの四キロの道のりである。
つまり、広宣流布はもう限りなく近いのだと言い、その暁に建立される国立戒壇のロマンを語り合う、それが顕正会の熱心な活動会員たちの日常なのである。

これはもう崩壊の要素が打ち揃っているようなものだろう。

極論すれば、悪徳商法ないし詐欺商法と同じ結末を迎えることになると思って間違いあるまい。儲かります。絶対です。そう信じて投資した。ところが大損だった。こうなれば怒るだろう。しかも自分たちが損する換わりに誰かがボロ儲けしたとなれば、これはもうタダでは済まない話だ。

ここまで説明すれば、十分だと思う。

しかも顕正会の場合、前科(?)がある。いわゆる、あと◯◯年、というヤツだ。百万までをいついつまでにやると言っていたができなかった。あるいは一千万の誓いもわりと記憶に新しい。その後、三百万を云々していた時期もあった。そして今は二百万である。

この二百万は来年中に実現する。けれども、今ざっと説明したように前科に等しいような前言のホゴがある。そりゃ、多少のズレがあってもいいだろう。そこまで目くじら立てるつもりはない。けれども、多少のズレでは済まない。大幅なズレである。それについての説明責任を果たさず目標を再設定することが、どれほどの信義則違反に相当するかを考えないといけないのだ。

そうした浅井先生の頬かむり体質については、おそらくは大幹部の中にも不平不満が鬱積しているのだろうと想像する。それがマレには爆発して組織からの離脱という結果を生むわけである。活動会員の離脱は日常茶飯事であるが、大幹部クラスであっても相当数が離脱しているという現実がある。浅井先生がデカイことを言えば言うほど、それが離脱者を生む原因となるのだ。

顕正会のこうした悪しき体質は、浅井先生が存在する限り改善されることはない。そしてこうした実態は、遅かれ早かれ誰もが気づくことである。

そこでの選択肢は人それぞれであり、その人の資質であるとか取り巻く環境などによって、違ってくるのだと思う。

例えば法華講員から折伏されたとしよう。すでに顕正会の問題は誰よりもわかっている。浅井先生の大言壮語にはもう愛想が尽きている。このタイミングで法華講員から折伏されれば気持ちが動いて当然だろう。
けれどもその人の取り巻く環境によっては、なかなか容易には移籍できない場合もある。環境を別の言葉に直せば、シガラミということになるかもしれない。
あるいは顕正会がおかしいことは百も承知しつつも、宗門だっておかしいだろう、という考え方の人もいるかもしれない。

選択肢は人それぞれと書いた。

資質について説明すれば、俗に言う根性ということが当てはまるかもしれない。つまり、根性のある人は頑張っちゃうのだ。顕正会が問題だらけであり、絶望的であることを承知しつつも、そこで歯を食いしばって頑張るのである。何か深い考えがあると言うよりも、何も考えずに頑張っちゃうというタイプである。また、似たようなケースでネガティブな解釈をすれば、ようは現状に甘んじるというか、あるいは惰性的に生きているというようなことがあるかもしれない。

かく言う拙ブログも惰性の産物である。すでに十年以上も続けていて、何となく惰性的にやっているだけで、基本的には同じことの繰り返しなのでさしたる苦労もなく、ようはラクなのだ。

まあ、大抵の人がそんなものなのだろう。

話がずいぶんと惰性的になってしまったようだ。そこで元の話に戻すと、顕正会の崩壊である。

顕正会の中でダラダラと惰性的に生きてきた人は、顕正会がなくなると困ることになる。その意味では崩壊しないのだろう。残る人たちが一定数はいるわけだ。つまり、組織の飛躍的な発展は望めないにしても、今後もダラダラと惰性的に続いていくのである。

しかし、その場合も最低限度の総括は必要なのではないかと思う。

たぶん広宣流布も国立戒壇の建立も実現しないだろう。もちろん浅井先生の存命中にはである。それどころかこの先も当面は実現しないと考えるのが妥当である。

さて、その上で顕正会の活動方針をどのように設定するか、これが大きな課題となるはずだ。

今まで通りの折伏法戦を展開するのか、常にギリギリの戦いをするのか、つまりは会員たちに過酷なノルマを課し続けるのか、である。

わたくしは無理だと思う。ゆえに大きな方針転換が必要になる。そしてその場合、今までの活動方針については正直に問題点を抽出して広く公表すべきであり、責任者は反省の弁を述べるべきである。

いや、むしろそうすることによって、顕正会は復活するかもしれないと思う。それこそ未活動者が全員戻ってくるかもしれないのだ。

これでおわかりだろう。

今の顕正会はデカく見せるために、ひたすら策を弄している。ようは虚勢を張っているだけなのだ。活動会員たちに過酷なノルマを課せざるを得なくなるのはそのためであり、結果として離脱者を大量に生み出すという悪循環を繰り返しているのだ。

だったらもっと正直に、己の分をわきまえて、ゼロからやり直すくらいの気持ちでいれば、どれほどよいかと思う。

2017/4/8

顕正新聞第1403号を読んで  
沖浦氏はどこか別のところでの議論を拙ブログに持ち込んでいるらしい。それがために話の流れがつかめず、どう応じてよいものかがわからない。わたくしに意見を求めているのであれば、もう少し丁寧な説明をするべきだろう。あるいは議論をしている掲示板などのリンクを貼っていただければ、そこに行って話の流れを確認することもできる。いや、本当はそれもわたくし的には面倒臭いので、あまり積極的には関わりたくないのだが・・・

さて、そこで今日は顕正新聞第1403号の話題である。当該号は二月度班長会の特集号であり、いわば登壇記事のオンパレードである。たぶん現役の活動会員たちも、内心ではウンザリしていることだろう。

・・・目から鱗が落ちる思いになりました。

まずは総男子部長の登壇にイチャモンをつけよう。何を言っておるものかと思う。初心者でもない人が一々先生の指導を聞いて目からウロコを落としてどうするのかと言いたい。大幹部が使っちゃいけない表現だろう。せいぜい会員歴十年未満の人が使うべきだ。

 ここに強く思うことは、撰時抄の御予言を助けまいらせる先生の重きお立場であります。

何とも会長本仏論的である。

浅井先生の重きお立場にただひれ伏し・・・

なるほど、城衛は顕正会の代表役員らしいが、仏法上のお立場という意味では浅井先生の足元にも及ばないのだろう。目からウロコが落ちるのもそのためだ。

先生の戦いは大事に間に合うことを大確信・・・

不謹慎を承知で書くが、城衛は浅井先生亡き後の顕正会を背負って立つわけなのだろう。その人が上掲のごとく言うのは実に悩ましい話である。なぜならば彼にはまるで青写真が描けていないと考えられるからだ。もちろん彼だけではない。顕正会のすべての人がそうなのだ。先生がすべてであり、先生亡き後のビジョンなど、誰にも描けないのである。

しかし、客観的には間に合いそうにない。ゆえに巷間では顕正会の崩壊が囁かれているのである。

 中部の地で戦う長野・岐阜・静岡の同志は、「浅井先生をお迎えする大会は、今生これが最後」と心し、

これは女子部総務の記事であるが、先ほどの不謹慎話に関連する意味で重要である。やっぱり彼女だって浅井先生に残された時間が少ないことを承知しているわけなのだ。とりわけ「今生」が何よりの証明である。この一語があるのとないのとでは解釈が違ってくるのだ。

つまり、今生を入れない場合、広宣流布までに行なわれる大会としては最後、という意味にも受け取れるのだ。しかし、今生を入れると、これはもう広宣流布が達成しようがしまいが浅井先生の寿命からして、ナマの浅井先生にマミエルことができるのはこれが最後、という意味になる。

一々説明するまでもない話ではある。ともかく不謹慎ながらも事実は事実として書かせていただいた次第だ。

・・・富士の清流を継がれるただお一人のお方。

第二十四女子部長の記事から引用した。どうでもいいことから書くと、お一人のお方、が重複的で美ならずと思う。それはさておき、いつも言っているように、こんな調子では宗門との和解は無理である。何とかならないものだろうか?

進退

引用が不親切で恐縮である。わたくしにはこの意味がわからなかった。顕正新聞をお持ちでこの意味がわかる人がいれば、ぜひともご教示いただきたい。

 「二百万達成までには、世界の激動を眼前にする未活動の人々がみな目ざめ、勢ぞろいする」
 と伺えば、


今度は総合婦人部長である。と言っても上掲はカギカッコがついていることから、その元の発言者は浅井先生に他ならないことがわかるだろう。しかし、わたくしはあれれ? と思った。なぜならば、先生は二月度総幹部会で「勢ぞろいすることを念願しております」と言っているのだ。

浅井副総合も同じような引用の仕方をしており、わたくし的にはひじょうに気に食わない。

・・・二百万達成までにはみな目ざめ勢ぞろいする」
 とご確信を述べられましたが、


かなりニュアンスを捻じ曲げているような印象だ。もしくは拡大解釈と言うべきだろうか?

いずれにしても会長講演の該当部分は以前の拙稿で取り上げた。すなわち名目会員と実働会員の数の開きを限りなく縮めることが望まれるのは当然のことである。ただし、現実的にはほぼ不可能だろうと思われる。それを婦人部の最高幹部の二人がムリヤリに拡大解釈して、あたかも実現するかのように錯覚させる書き方をしていることが問題なのだ。

ついでに副総合の記事をもう少し拾ってみよう。

 かつて「開目抄」「撰時抄」等の重要講義を頂いた時と、こんなにも変わるものかと衝撃が走るほど・・・

これも偏に先生のご指導により、愚鈍の弟子が真の開目をさせて頂いているのだと・・・


もう一人の副総合婦人部長の発言も紹介しておこう。

 総幹部会において、浅井先生は「撰時抄の御意を拝したい」と、まるで御書講義のような圧巻の指導を下さいました・・・

城衛だけじゃなかった。大幹部のことごとくが同じなのである。

真の開目=目からウロコと考えれば、姉弟揃って似たようなことを言っていることがよくわかるだろう。それからもう一人の副総合の発言を意地悪く解釈すれば、先生はとうとう御書講義をやらなくなっちゃったね、という裏の意味が込められていることになりそうだ。

婦人部総務の発言も興味深い。

未活動者も勢揃いする二百万が日々近づくと思えば歓喜雀躍し・・・

先生が念願していると言っていたことを、彼女は早とちりしたものか、まるで確定事項のように書いてしまっている。

ひと月ごとにグンと伸びる竹の節を刻むがごとくの信心の熱誠・・・

しかし、彼女は表現力が豊かだ。顕正会の成長をご覧のように表現しているわけだ。

近き広宣流布を早めんとの決意・・・

褒めてばかりはいられない。上掲はいかがなものかと思う。語義的にどうこう言うよりも、欲張りだと言ってしまったほうがよさそうだ。近き広宣流布をさらに早めようと言っているのだから、それは欲張り過ぎもいいところである。何しろ客観的には近くはないし、遅々として進んでいないのだから、意気込みはけっこうだけれども、それと同時にもっと現実を見ろと言いたいところである。

そして大幹部の多くが共通して言っていることをここに記しておくと、それは「三月達成」である。四月末までのノルマを三月中に達成しようとの掛け声である。

さて、すでに四月を迎えているが、はたして達成率やいかに・・・

2017/4/4

第1402号精読  
沖浦氏に対して三項目の質問を投げ掛けたところ、さっそくの回答をたまわった。一読しての感想は、ガッカリである。また、三点目については質問の意味がわからないとのことだったが、これまたガッカリ以外の何物でもないだろう。

王舎城事には、

ある人のゆきあひて、理具の法門自賛しけるをさむざむにせめて候ひけると承り候。

とある。

正直なところ、わたくしにはよくわからない御文である。誰が理具の法門を自賛していたのか、誰がそれを責めたのか、判然としないのだ。けれども創価学会系のサイトに載る講義録によれば、名越の尼が理具の法門を自賛していたのを大聖人の弟子が破折したと書かれている。つまり、沖浦氏とわたくしとの対論はこの構図そのものではないか、ということなのである。

さて、話を変えよう。

久しく途絶えていた重大なる一国諫暁の戦いが開始される・・・

顕正新聞第1402号の続きである。男子部第七十隊長の発言には少し欺瞞がある。この文章の直前には日興上人・日目上人以来と書かれていて、あたかもそれ以降今日まで一国諫暁が行なわれなかったかのように読めてしまうところがマズイのだ。何しろ顕正会では平成九年と十六年に一国諫暁をしているからである。
つまり、顕正会の歴史そのものまでも捻じ曲げて、これより始まる一国諫暁に価値を持たせようとしているわけである。インチキにも程がある。
平成九年の頃には一千万の誓いをしていたのだし、百万達成の暁にはあたかも日本が動くみたいな雰囲気のことを言っていた。すなわち平成十六年の一国諫暁である。しかし、ご存知のごとく、空振りに終わったような印象が否めない。ならば今回も同じだろう。

二百万が成り、先生の本格的な一国諫暁が開始されれば、六千万は一気に成ることを確信・・・

同じく第七十隊長であるが、だからその確信がインチキなのである。だったら平成九年の諫暁は本格的ではなかったのか、平成十六年の諫暁も本格的ではなかったのか、ということになる。

さらに言えば、では今度の諫暁は今までとはまったく違う内容なのか、ということになるだろう。いわゆる諫暁書を作って配布するのであれば、やっていることは何も変わらないわけであり、世間の反応もそれほど変わりはしないだろう。さりとて、何か特別な秘策があるわけでもあるまい。ようは手詰まりということだ。

次は創価学会で五十五年もの長きにわたって活動していた人物の記事である。

 また昭和三十年代に学会へ入信した古参学会員は
 「顕正会は本門戒壇をどうやって実現しようとしているのか知りたい」
 と真面目に質問し・・・


ようするに登壇者はすでに顕正会へ移籍し熱心に活動しているわけだ。そうした中で現役の創価学会員から上掲のような質問を受けたのである。

しかし、古参とは言え、このような質問をする現役の創価学会員がいるとは驚きである。だったら自分たちはどうなのかと聞きたいところだ。おそらく今の創価学会には本門戒壇についての確たる理論など存在しないだろう。正本堂崩壊ですべてが終わってしまったのだ。

では顕正会はどうかであるが、いちおう理論的には過去から一貫不変のものを持ち続けているけれども、委細に見ればブレまくっているし、何よりも実現性の意味ではほぼゼロに等しい。

もしかしたらくだんの古参創価学会員は、そうした顕正会の現実を知悉していて上掲のような問いを発したのかもしれない。

 学会時代には、地獄のことなどは空想の世界としか思えず、まして諸天善神などは、とっくにこの謗法の国を捨て去り、存在しないものと思っておりました。

このくだりが悩ましい。

・地獄はもともと存在しない。単なる空想に過ぎない。
・諸天善神はもともと存在していた。しかし、謗法の日本を捨てて今は存在しない。


単純化すれば、地獄はウソであり、諸天善神は本当である、ということになるはずだ。ある意味、正しいのではないかと思う。
ようするに地獄という場所があるのではなく、地獄界という生命の苦悩の状態を譬喩的に場所として説明している、という解釈が上段である。そして下段のほうはいわゆる神天上の法門である。そんなには間違っていないだろう。
顕正会では創価学会の言っていることを何でもかんでも間違いだと決めつけたいらしいが、前掲の記述から受ける印象は必ずしも悪いものではない。もし後半の記述が、諸天善神はもともと存在しない、となっていたら真っ向から対立することになるけれども、そうは書かれていないのだから、そんなに極端におかしなことを言っているわけではないのだ。

よって、前掲はヘボな文章、というのが結論かもしれない。

群馬広布の草創期に入信した母
 54年間、一筋の信心貫き美事な臨終

講頭先生と浅井先生のご慈愛肌身に


これはいい話だ。顕正会は離脱者が後を絶たないという現実があるけれども、もちろん全員がそうではない。このような古参の妙信講員もいるのである。

 また南蛇井の相川宅で行われた小さな座談会に、初代講頭先生と浅井先生が出席して下さったときには・・・

小さな座談会に先生が出ることなど、今ではまったく想像もつかない。ある意味、こういう話が郷愁をそそるのだろう。

当時は東京での会合に参加すると、高崎駅に帰り着くのが午前一時半を過ぎ、そこから上信電鉄の始発まで、駅のベンチで毛布をかぶって仮眠し・・・

熱心なお母さんだったわけだ。そうそう、書き忘れるところだった。登壇者はこういう母親に育てられたことが大きいのだろう、現在は婦人部伊勢崎支区の総班長ということである。

群馬会館での集会の帰りに、浅井副総合婦人部長が施設に立ち寄って母を温かく励ましてくれ・・・

この辺は話が少し面倒臭いので省略させていただくが、ともかく浅井副総合の振る舞いには感心した。さらに浅井先生が弁護士を手配してくれたり、浅井理事長が手続きについて教えてくれたりして、母親を無事に自宅に連れて帰ることができたという話は、物凄く感動モノである。

そして本年元旦、九十三歳で亡くなった。

隣には女子部第百六十区総班副長が九十九歳で亡くなった曽祖母のことを書いている。その細かい話は抜きにして、冒頭の一節だけ紹介しておこう。

 私は平成十五年、男子部で御奉公する父の縁で、郡山会館において入信させて頂きました。

父の縁というのがめずらしいと思った。

下段の記事も紹介しておこう。

肝臓癌で
 「余命2年」


男子部第四隊の平会員である。レベル2の肝臓癌がステージ3に悪化し、さらにステージ4まで進行したけど、なんと完治してしまったという話である。

単なる誤記なのか、それとも正しいのか、最初はレベルと書かれていたものが途中からステージに変っている。まあ、それはともかく、余命宣告がよくわからないところだ。前にも書いたことがあるけれども、余命二年だとか三年というのは一般的にどうかと思うところで、わたくしの感覚ではあり得ない話である。医者もしょせんは凡夫である。人間の寿命などわかるはずがないのだ。もちろん、経験的に三ヶ月だとか半年くらいが山だろうというようなことはあるのだと思う。しかし、一年以上ともなれば、それが経験的なものだとしても、あまり当てにはならないはずである。ゆえに普通の医者ならば、そんな安々とは宣告しないと思うのだが・・・

二度の元の襲来・・・

先生への尊敬の念・・・


最後に婦人部霧島支区組長の記事から特徴的な部分を抜き出してみた。彼女は小学校の先生をしているそうだ。それが理由だろうか、元の襲来は顕正会的にはめずらしいし、尊敬の念もそうである。蒙古の襲来、畏敬の念、これが顕正会のスタンダードである。

2017/4/2

三項目の質問  
沖浦氏の返信を拝見して、さすがだな、と思った。わたくしの意見とは違う。違うのだけれども、説明としてはいちおう完結している。その点がさすがだと思った。

ただし、委細に見れば欠陥がある。三点ほど、わたくしのほうから質問を発しておこう。

第一点、いわゆる四導師、あるいは上首唱導の師という表現がある。これは現代的に言ってしまえばリーダーだろう。一切衆生の全員がリーダーというのはおかしいのではないか?

第二点、上行菩薩=南無妙法蓮華経如来の直接的な文証はあるのか?

第三点、理具についての反論をお願いしたい。


一番目は道理を言っているわけである。以前、三徳者の議論をした時にも同様の指摘をした。ここで新たに文証を示せば、次のごとくである。

大論の九に云はく「十方恒河沙三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実には一の釈迦牟尼仏なり」文。

いわゆる仏はたくさん存在するが、その中で主・師・親の三徳を兼ね備えているのは釈尊一仏である。もちろん日蓮本仏論は度外視しての話だ。ともかく三つの徳を持っている。

そこで話を四菩薩に転ずるのだ。三つの徳のうちの師の徳に注目して、次の一節を拝してほしい。

爾の時に下方の大地より未見今見の四大菩薩を召し出だす。所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり。此の大菩薩に各々六万恒河沙の眷属を具足す。

つまり、四菩薩はリーダーなのだ。そのリーダーのところにたくさんの眷属が集まっている。この理屈からすると、上行菩薩が複数いるのはおかしな話だろう。

二番目は説明するまでもない。上行菩薩の本地が久遠の南無妙法蓮華経如来だとする具体的な文証を提示すればいいのだ。

三番目は知ってか知らずか、これまで一度たりとも沖浦氏がまともに答えた例のない問題である。まずは三大秘法抄を示そう。

底下の凡夫理性所具の一念三千

大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千


一念三千には二種あるとの御指南だ。沖浦氏はこの二種を混同しているフシがある。もし沖浦氏の言う一切衆生=南無妙法蓮華経如来を前者に当てはめるのであれば、それは当たり前の話であって何の問題もないことである。しかし、それがもし後者だとすると、これは大覚世尊一人を示すのであって、一切衆生の全員が当てはまるわけではないのは誰の目にも明らかなことである。

一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。

沖浦氏が好んで引用するこの御文も、実は理性所具を言っているのであって、実相証得を言っているわけではないのだ。その決定的な文証を次に示しておく。

仏と我等と総て一切衆生理性一にてへだてなきを平等大慧と云ふなり。

以上、三点にわたって質問させていただいた。


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