2018/6/22

ウンカノゴトク  
トチロ〜氏はわたくしにメールを寄こせと言っているようだが、今のところは遠慮させていただくつもりである。というよりも、氏の人脈をたどって行けばわたくしとコンタクトを取ることはそれほど難しいことではないはずである。あるいはこちら側から連絡を取ろうとする、いわば積極的な姿勢を求めているのだろうか?

ともかくトオリスガリ系を含めてそれ相応の人数がわたくしの挙動に注目しているのは事実だろう。終わったみたいな捨てゼリフ的なコメントを残している人もいるが、善きにつけ悪しきにつけコメント欄が活性化することは拙ブログの存続を意味することになるのだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/2077.html

リンク先はかつての拙稿である。これを現役顕正会員反主流派氏は自語相違であると責めているわけだが、ひじょうにありがたいコメントだと思った。

言い訳しても仕方がないけれども、いくつか言っておきたい。

さらに話がややこしくなることを承知で書くと、宗門も問題だらけなのである。ゆえに現状では宗門復帰は最善策ではないという考え方もできるわけで、顕正会の立ち位置もそれなりに評価できるのかもしれない。

十日前の拙稿である。ようするに現実の世界はややこしいのだ。そんなに単純ではないのである。

以上、わたくし個人が宗門に復帰しようがしまいがどうでもいいことだが、以前に御遺命守護完結を宣言してしまった顕正会としては、この件に関してアイマイな態度は許されないはずなのである。

これも十日前の拙稿だが、すでに空氏に対して説明した通りであって、それで納得を得られないのであれば、もはや致し方のないところである。

平成十年以前の顕正会版の経本をご存知だろうか?

そこには御遺命守護の完結を祈念するくだりが存在するのだ。翌年、新たな経本が出来したが、そこには御遺命守護云々の文言は存在しない。
今でも顕正会では「勤行を申し上げる」というような表現を使っている。つまり、勤行とはそれほど尊く厳粛な行為なのである。顕正会員たちは毎日、それを行なっているのだ。
しかし、新たな経本では御遺命守護の完結を祈念しなくなった。これはもう最大の矛盾である。これに比べれば会長講演の自語相違などは大したことではない。

かなり強引なロジックとは承知するものの、会長講演の自語相違が大したことでないのであれば、独白ブログの自語相違など取るに足らない問題だろう。

繰り返しになるが、顕正会は正式に御遺命守護の完結を宣言してしまった。そして経本からもその祈念を削除してしまった。その状態で日々、勤行を申し上げているのである。

つまり、こうしたややこしい状態を作り出しているのは、ひとえに浅井先生の責任なのである。

そして八つ当たり気味に言えば、宗門の責任でもある。デタラメな教義を是正しないからだ。

以上、わたくしの自語相違について言い訳をすればこのようになる。ようするに現実はかくもややこしいわけだから、その状況に応じて発言すればさまざまの齟齬が生じても致し方がないのである。

さて、沖浦氏であるが、三十五億云々の話は控えたほうがいいだろう。

これはもう、普通の人たちの感覚からしてベラボウな金額であり、一見するとホラを吹いているように思えてしまう話なのである。そこを考慮しないといけないだろう。本当の話だとしてもなかなか信じてもらえない。そういう話は最初から出さないほうが得策である。

前にも書いたが、沖浦氏には敵が多い。ゆえに今の沖浦氏に対して、隙を窺っている者が無数にいるかもしれない。だとすれば用心するに越したことはないだろう。

今日はこんなところで終わりにしようかと思ったが、もう一つだけ書いておこう。

ここ数回の間にトオリスガリ系の人たちがウンカのごとく湧いてきた。その中には久しぶりに丁々発止のやり取りが見られて面白かったという意味のコメントもあった。

だったら自分がやればいいのだ。

ますます炎上することになるかもしれないが、まあ、それはそれでいいだろう。

おそらくインターネットの世界も日々に進化しているというか、むしろ流動的でありハヤリスタリがあるのだろう。掲示板全盛の時代は終わったのだ。特に日蓮正宗系の人たちはその多くが掲示板でのやり取りに限界を感じているか、もしくは徒労感を感じているのだろう。時間のムダであると。
わたくしの観察する範囲においては、往年の論客たちがほとんど消え失せてしまった。彼らは今、いったいどこで何をしているのだろうかと思うのだが、そうした消息もよくはわからない。
一つ言えることは、カネにならない。ゆえに時間を費やすだけムダであると思っているのだろう。書き込みそのものが楽しくて充実感を味わっていた時には、カネのことだとか時間のことなどは気にならなかった。しかし、飽きてきてしまえば、いったい何のためにやっているのだろうか、という自問自答に陥り、そこでようやくムダだったことに気づくわけだ。

では、わたくし自身はどうかであるが、とっくの昔に限界を迎えており、今は惰性で続けているだけなのである。ゆえに、これよりももっと価値的なものがあれば、そちらに移動することになるかもしれないとは思うものの、現実にはそうしたものは見つからず、結局はダラダラといつまでも続けているに過ぎないのだ。

ゆえに、オマエはもう終わっているのだ、という意味のコメントは案外に的を射ているのかもしれない。もっとも、そのコメントを書いている本人はどうなのか、という問題があるわけだが・・・

2018/6/21

ヘイソクカンダハ  
沖浦氏が復活するとの話である。これについてはご自由にと申し上げる以外にないが、当然、今まで以上に注目される存在のはずなので、発言の一つひとつに気を付けないといけないだろう。

その後、氏からのコメントはないが、代わりに別の人たちで賑わっているようである。さて、どうしたものか・・・

失礼ながら正体不明の人たちなので、その一々には応じないことにしよう。印象としてはわたくし寄りの人もいればその逆もいる。あるいはヤジウマ的な存在もいる。また、井の中の蛙云々の、いわば正宗系にとっての強敵もいる。

結局、それぞれが自分の意見がいちばんだと思い込んでいるだけの話であって、あくまでそれはその立場における最善なのだろう。ゆえに井の中の蛙であると言われてしまうと元も子もないのだ。

そこでわたくしの立場を明確にしておくと、しょせんは日蓮正宗系の小さな器の中で泳いでいるに過ぎない、そんなチッポケな存在である。

ゆえに井の中云々については除外させていただくことになる。

さて、そこで今度は宗門を取るのか顕正会を取るのかという二者択一の問題である。これについてはすでに明確であって、日蓮正宗系無所属信徒というのがわたくしの立場である。もちろん、現時点における立場だ。

いわば空氏が責めているのはこの点だろう。

しかし、簡単な話なのである。ようは個人の自由なのだ。わたくしが正宗に帰伏しないというか所属しないのは、あくまでわたくしの自由なのである。さりとて顕正会にも所属していない。名簿上は残っているものの、すでに十年以上、組織から離れているという事実がすべてを物語るはずである。そしてこのようなどっちつかずの態度がケシカランと指摘されれば、これについては積極的に反論するだけの用意は何もなくて、先ほども言ったように、わたくしの自由である、というような子供じみた返事をする以外にないのが正直なところである。

とは言え、自由なのは事実だろう。強制される筋合いの話ではないのだ。

ちなみに付言しておくと、この無所属信仰は物凄く困難である。たぶん誰もがマネのできることではない。ある意味、ヘソマガリであり、カワリモノだからこそ、可能なのだ。ゆえに普通の人はマネしないほうがいいだろうし、もともとマネをする人もそう多くはおるまいと思う。

顕正会の未活動者の復活がわかりやすい例である。

彼らにはさまざまの事情があるにせよ、多くは顕正会の実態を知り、いわば絶望したわけなのだろう。それで組織活動から離れたわけである。そういう人たちがなぜに復活するのだろうか? ようは孤独に耐えられなかったのだ。ちょうど孤独に苛まれている時、タイミングよく顕正会の人から声を掛けられれば、自ずとそこにすがってしまうという、単純明快な図式である。

人間は贅沢なもので、賑やかなところに居続けるとそれが時には鬱陶しくなり孤独を求めたりもする、ところが孤独になってみると今度はその逆を求めるのだ。

これはあくまで一例であって、ともかく無所属信仰は孤独の問題もさることながら、どうやって研鑽するのかを考えただけでも、普通の人には困難なことである。かく言うわたくし自身、近年は御書の拝読もかなり億劫になってきて、なかなかペースが上がらない状況である。

さて、ここでヤジウマ根性の人たちに朗報(?)である。

先ほどは、正宗に帰伏するかしないかはわたくしの自由である、と書いた。しかし、受け入れてくれるかどうかという問題がある。何しろ、わたくしは長年にわたって正宗を批判し続けてきたからである。宗門の戒壇論はデタラメであると。

ようするに、デタラメな教義を弘めている宗門にどうして帰伏しなければいけないのか、逆に言うと、宗門の教義はデタラメであると言い続けている人をそのままの状態で受け入れられるのか、ということなのである。

つまり、わたくしが日蓮正宗に帰伏するためには、もしくは、わたくしを日蓮正宗に帰伏させるためには、その前にやるべきことがあるのだ。

ここまで書けば十分だろう。

ヤジウマの皆さんが拙稿を拡散させることは自由である。はたして法華講員たちがどのような反応を示すか、静かに見守りたいと思う。

2018/6/16

テンサイ  
2018/6/15 22:12
投稿者:空  
厳虎さんから命名されたから、そのまま「空」と
名乗ることにしよう。

小生は両親共に顕正会員であった。しかし子供の頃
から顕正会の独善性や狂信性はわかっていた。無能
な宗門僧侶のバカさ加減もわかっていた。

成人後にある方(尊敬)に相談したところ、「宗門
はうんこ味のカレー。顕正会はカレー味のうんこ。
どちらも不毛の選択かもしれないが、創価学会並み
の本尊模刻の大謗法を犯すまでになった顕正会のカ
レー味のうんこを喰い続けていたら、身体に毒が廻
るだけだ。怠惰で傲慢で不勉強な宗門の坊主が作っ
ているうんこ味のカレーを、本来のカレー味のカレ
ーに変革していく事が我々の使命だ」と諭されて、
迷いが消えた。宗門の寺院で御授戒を受けた。その
後、御本尊の御下附を受けて、両親を折伏して、一
家全員、宗門の信徒となった。

ここに至るまでには、様々な問題や苦難を乗り越え
てきた。厳虎さんのような「会員・元会員の二枚舌」
や「ヤレヤレ詐欺」のようなヘタレとは違うのだ。

2018/6/15 22:20
投稿者:空  
>当然、だったら言っているオマエが率先して宗門復帰
>しなければおかしいではないか、ということになるだ
>ろう。これは再三言っているように、まったくその通
>りである。ただし、わたくしのところには一人の従業
>員もいない。ゆえに彼らを路頭に迷わせるようなこと
>にはならない。つまり、さしたる責任はないのである。

>さらに話がややこしくなることを承知で書くと、宗門
>も問題だらけなのである。ゆえに現状では宗門復帰は
>最善策ではないという考え方もできるわけで、顕正会
>の立ち位置もそれなりに評価できるのかもしれない。

厳虎流論法の『矛盾』と『欺瞞』の最たる例だ。

『会員・元会員』だけでなく、『宗門復帰』に関しても
論理的に完全に矛盾することを、平然と言ってのける神
経の太さは「いい根性してるな」の一言だ。

また、顕正会は公的存在・大企業だから許されないが、
厳虎さんは私的存在・零細企業だから許されるとする論
法は、「無責任」を超えて、「最低」だ。

2018/6/15 22:35
投稿者:空  
>過去十数年間にわたって継続してきたという実績は
>不動のものである。ゆえにわたくし自身はただの元
>会員に過ぎないけれども、今こうしてブログを続け
>ていること自体が他の追随を許さない不動の地位を
>作り上げているのだと思っている。

婚活サイト等で知り合った男性を、次々と練炭自殺に
見せかけた連続殺人を犯した女性が、現在、自ら早期
死刑執行を求めているそうだ。

事件の真偽や人間関係の真相はわからない。しかし、
一般的に「悪女の深情け」にいつまでも拘泥して、身
を滅ぼす不定見な「ダメ男」が、ある一定数存在する
のは、古今東西、変わりない。

もう、わかるだろう。「悪女」が浅井氏。心変わりし
た「悪女」に対して、いつまでも、「目を覚まして。
僕の許に、もう一度戻って来て。」と、十数年も未練
がましい手紙を何百通出し続けても、全く相手にされ
ない「ダメ男」が厳虎さん。

そういうことだ。

2018/6/15 22:51
投稿者:空  
厳虎さんのような「悪女の深情け」に振り回される
「ダメ男」が身を滅ぼそうが、どうなろうが、知っ
た事ではない。

しかし、このサイトの読者が「ダメ男」の「口先だ
けの二枚舌→会員・不会員、宗門の戒壇論への解釈、
宗門復帰のヤレヤレ詐欺」を見抜けずに、「カレー
味のうんこ」を喰い続けるような愚かさを、今すぐ
止めるべきだという信念で、この投稿をしている。

小生は、今、毎日、朝夕の勤行をして、寺院参詣を
して、登山をしている。宗門には、様々な問題が存
在することを、現実に肌身を以て知っている。
口先だけの二枚舌の「ヤレヤレ詐欺」をするような
ヘタレの「ダメ男」とは、そこが決定的に違うのだ。

また、末寺内からも評判の悪い妙観講に所属してい
る大沢氏のような「唖法を受けたる婆羅門の如し」
や「慈無くして偽り親しむは是彼が仇なり」の行為
は、厳虎さん同様に、「ダメ男」同士のシンパシー
なのだろう。

2018/6/14

タイマン  
顕正新聞第1440号を見ると、冒頭こそ立宗会の会長講演が掲載されているものの、残りは登壇記事の羅列であり、読むのがひじょうに億劫である。

会長講演も毎年のことなので、基本的には同じ内容の繰り返しである。そうした中で注目すべきは、開目抄の引用だろう。

 二辺の中にはいうべし、王難等出来の時は退転すべくば一度に思ひ止むべし。且くやすらいし程に、宝塔品の六難九易これなり。

御書を真面目に研鑽している人ならば、開目抄のどのあたりであるか、察しがつくだろう。さらに繰り返し拝読している人ならば、表記の異なりに気がつくかもしれない。

案の定、平成新編を確認してみたら違っていた。では、全集はどうかと確認してみたら、これまた違っていた。

いったい浅井先生は何を見て引用しているのだろうか?

一度に思ひ止むべしと且くやすらいし程に・・・

これが平成新編の表記である。全集の表記は省略するが、浅井先生の引用はどちらでもない。

重要なことは、「と」が抜けていることである。

この点、浅井先生ないし顕正会教学部は、見解を示さないといけないだろう。単なる誤植なのか、あるいはこれが正しい表記だと主張したいのか、その場合の根拠は何なのか、である。もはや顕正会版の御書を出す気はさらさらないのだろうとは思うが、こうした点をしっかりと煮詰めて行かないと御書の発刊は無理である。恥をかくだけだ。

ちなみに、以前にも同じ話を何度も書いているが、大聖人の時代には現代国語における句読点は存在しなかった。むしろ句読点はごくごく最近になって確立されたものだと考えられるのだ。なぜならば御書全集の表記そのものが、今現在の感覚からしてかなり違和感のあるものだからである。直截に言えば、句読点がデタラメなのだ。

そこで話を戻そう。

今回の場合は句読点が問題なのではない。「と」を入れるか入れないかの問題である。句読点はその時代の編者が適宜適切に加えたらいい。それで拝読しやすくなるのであれば、意味のあることである。しかし、ここで問題視しているのは御文字の欠損である。大聖人が「と」と認められたのであれば、その通りに表記すべきが筋である。そうでなければ改竄と見なされても文句は言えないだろう。

浅井先生は御遺命守護の歴史を語るにおいても改竄まがいのことをやってきた。そのように指摘する法華講員もいる。わたくし自身はそれを浅井先生らしい要約だと弁護してきたわけだが、今回の場合はそうした弁護もムナシイだろう。

そして近年、繰り返し言っているように、これは顕正新聞編集部の怠慢でもある。実は彼らも編集作業にウンザリしているのだ。ゆえに集中力に欠けており、こうしたミスが生まれるわけである。

それから一つ余談を挟んでおくと、全集も平成新編も同様の漢字ルビを振っている。「やすらいし」のところに「休」と振っているのだ。わたくしは特に異論があるわけではないのだが、あるいは「安」の可能性も考えられるのはないかと思ったりもしている。この点、詳しい人がいらっしゃれば、ぜひともご教示願いたいところである。

さて、続きを見ていこう。

 その罰を見てごらんなさい。東条景信はその直後、大苦悶・狂乱の中に悶絶して死んでいる。まさに現罰であります。

この出典を知りたいところである。

法華経を広める・・・

広めるは弘めるではなかったか?

ややこしい話だが、浅井先生は「始めて」を多用する。これをわたくしは繰り返し批判してきた。現代国語としては「初めて」のほうが適切なのではないかと。そして今度は逆のことが起きた。上掲がそれである。おそらく「弘める」は一般的にはあまり使われない表記だろう。「広める」のほうが一般的だということだ。この不整合ないし不統一は、どういうことだろうか?

これも編集部の責任である。

そのとき、中国の共産党も役目を了えて消滅する。

またしても浅井先生お得意の予言である。まあ、しかし、期限を示してはいない。今まで外しまくってきたので、少しは懲りたのかもしれない。

2018/6/12

ダラケ  
引き続きユタ氏からコメントが寄せられている。

 いえいえ、「ただの顕正会員」であれば、法華講側・顕正会側双方から圧力が掛かって結局潰されるのに、こちらのブログは無事に存続できている。

ゆえに、ただの顕正会員ではない、とおっしゃるわけだが、それは誤解だろう。

繰り返し書いてきたことがある。言論の世界は言っていることが正しいかどうかが重要なのだと。つまり、わたくしは自分の言っていることが正しいと確信していて、かつまた、それを他人にも伝わるようにと表現に工夫を凝らして、文章化しているわけである。よって、これに対抗するためにはそれ相応の論陣を張る必要があるわけで、それがけっこう面倒臭いことなのだ。

ゆえに多くの人は拙稿を読んだ段階で面倒臭そうな人物だと思うのだろう。そのような理由から真面目な顕正会員や法華講員は寄り付かない。失礼ながら拙ブログにコメントを下さる人たちは、たいていがカワリモノなのだと思う。

今一度、言っておこう。

拙ブログで顕正会の問題を書く。それがけっこう核心に迫るものであり、反論の余地がないものだとすれば、活動会員たちも黙らざるを得ないのである。
あるいは宗門の問題にしてもしかりである。言っていることが正しくて、反論しようにもできないとすれば、法華講員たちも黙らざるを得ないのである。
これがいわゆる道理ということなのだ。仏法は道理であるからして、道理を無視するようなデタラメな主張は通らない。しかもわたくしの言っていることは常に単純明快なので、たいていの人が理解できる。ゆえにゴリ押し理論は通用しないのだ。

そこで登場するのが空氏である。

氏は立場が不明である。ゆえに言いたいことが言える。そして先ほどの、言論の世界は言っていることが正しいかどうかが大事である、ということについても真っ向から反論を構えることができる。なぜならば、氏が顕正会員ないし法華講員であれば、拙ブログで指摘してきた数々の問題に向き合わなくてはいけないわけで、そうなれば自ずと劣勢を強いられることになる。しかし、立場が不明ゆえに、そのような足枷がなく、純粋にわたくしの問題点だけをあげつらうことができるのだ。

ここでは具体的な文言を省略しよう。結論だけ書いておくと、空氏の言っていることはかなりの部分で正しいと思う。前回も書いたように、わたくしは無理な自己正当化をするつもりはないのである。

その上で一点だけ言っておきたいことがある。大企業と零細企業の差ということだ。

顕正会は日本国を独走する仏弟子の大集団だと謳っている。ゆえに大企業になぞらえられるだろう。一方のわたくしは独白ブログの書き手であるからして、その意味では零細企業どころか、それ以下の存在に過ぎない。つまり、責任の大きさが違うのである。

ゆえに顕正会の責任者は会員たちが路頭に迷うことのないように、それなりの手を打たなければいけない。宗門復帰が最善策である。しかし、一人ひとりの会員がどのような選択をするかは自由なのである。民進党の分裂以降の例が示すように、議員の一人ひとりがどのような選択をするかは自由である。むしろ右に倣えではなく自分で考えて行動するくらいでないと、議員としては失格だろう。ひるがえって顕正会員の場合は一念信解路線の悪弊もあって、自分で判断する力のない人もいる。それゆえに責任ある立場の人が最善の方向性を示す必要があるわけなのだ。

わたくしが言っているのはそれだけのことである。

当然、だったら言っているオマエが率先して宗門復帰しなければおかしいではないか、ということになるだろう。これは再三言っているように、まったくその通りである。ただし、わたくしのところには一人の従業員もいない。ゆえに彼らを路頭に迷わせるようなことにはならない。つまり、さしたる責任はないのである。

さらに話がややこしくなることを承知で書くと、宗門も問題だらけなのである。ゆえに現状では宗門復帰は最善策ではないという考え方もできるわけで、顕正会の立ち位置もそれなりに評価できるのかもしれない。

ただし、これまた再三言ってきたことだが、今の顕正会は広宣流布のゴールが眼前であるかのように言ってしまっている。ゆえに、いくら何でもそれはおかしいだろう、だったらその前に宗門との関係改善がなければツジツマが合わないではないか、とわたくしは指摘し続けているのである。

以上、わたくし個人が宗門に復帰しようがしまいがどうでもいいことだが、以前に御遺命守護完結を宣言してしまった顕正会としては、この件に関してアイマイな態度は許されないはずなのである。

沖浦氏から半年ぶりくらいにコメントを頂戴した。

細かいことは省いて一言だけ申し上げよう。ご自身もよくわかっていると思うが、沖浦氏には敵が多い。ゆえに彼らも巻き返しのチャンスを窺っているかもしれない。この点、用心堅固でありたいものだ。

2018/6/10

クウラン  
拙ブログでは独白を看板に掲げているものの、各方面からのコメントにそれなりの頻度で返信してきた。ただし、トオリスガリ系のコメントには、ほとんど応じたことがない。前回のコメント欄に一人で三本もの書き込みをしている人物がいる。彼はいわゆるトオリスガリ系である。本人にどのような自覚があるのか不明だが、名前の部分を空欄にしている点がまさにそれである。

まあ、しかし、行き掛かり上とは言え、相手にしてしまったわたくしにも落ち度がある。そこでこの際だから名前を差し上げたい。空氏と呼ぼう。それが不満ならば自らそれ相応の名乗りをするべきだろう。

2018/6/6 22:24
投稿者:  
>>わたくしは無条件降伏しかないと思っている。

>まず厳虎さんご自身が無条件降伏したら?


上記を主張している厳虎さんがまず範を示して
顕正会を脱会して宗門の寺院で御授戒を受けて
正宗信徒になる責務があるんじゃないの?って
こと。「無条件降伏」とは、そういう文脈だろ。
でなければ、単なる無責任。単なる口舌の徒。


これは勝手読みの極致である。空氏はこの直前にもう一つのコメントを残している。いわく、誰も書き込む人がいなくて可哀想だから投稿してあげて、と。つまり、この文脈からすると、無条件降伏の意味は拙ブログそのものがオワコンになってしまったことで白旗を挙げざるを得ない状況を指し示しているとも受け取れるのだ。もちろん一年半前の拙稿に沿った意味では空氏の読み方が正しいわけだが、どちらを正解とするかは読み手次第ということになる。そして一般的傾向からすると、わざわざ昔の拙稿を隈なく読む人は少ないはずで、とりあえず目の前のコメントから意味を類推するのが普通だろう。以上が勝手読みの説明である。

それはさておき、相手の言い分を斟酌することも大事である。空氏はわたくしを無責任であると責めている。あるいは口舌の徒であると。この点については甘んじて受け止めたいと思う。ようは正当化するような見苦しいマネはしないということだ。

2018/6/9 21:49
投稿者:  
大沢さんは、厳虎さんと違った意味で

「無条件降伏」だな。

お二人とも、「情けねぇ〜」の一言。


まず、大沢氏は立派な人物であるからして、わたくしと同じ枠にはめ込んで情けないなどと蔑むことはやめたほうがいいだろう。かく言う空氏はどうなのかということだ。むしろトオリスガリ系の勝手気ままに言いたいことを言っているだけの情けない人物だと、そのように見られても文句は言えないだろう。

いずれにしても、いろいろと不平不満をお持ちのようである。それが拙ブログにコメントすることで解消されるのであれば、それはそれで結構なことかもしれない。

・・・弁護士をキチンと立てて他の幹部たちと連携し対抗することで戦況は動き、先日彼らの念願を果たしたようです。

彼はJPAの財務委員長、御子息が広報委員長に就任し意気揚々と世界戦に旅立っていったと聞いています・・・


これは貴重な情報である。沖浦氏が去ってから、わたくしは氏の消息をまったく知らずに過ごしてきた。なぜならばそうした媒体を持たないからである。わたくしと沖浦氏の関係はほぼ唯一、拙ブログのコメント欄だけだった。それから投稿はしないものの、氏の運営する掲示板を覗くのが日課ではあった。しかし、その掲示板も年度末で終了してしまった。ゆえに消息不明のままだったのだが、それが上掲の記述を読んで、氏の近況を知ることができたわけである。ああ、やっぱり彼は有言実行の人なのだ、と思った。

自虐ながら、わたくしを口舌の徒だと言うのは、なるほど沖浦氏と対比すればムベナルカナである。

100万達成から14年経つわけですがやっと200万、これで広宣流布は無いと思ってしまってから検索の日々を送っているわけです。

限りなくグレー氏の行動は常識的なことだと思う。かく言うわたくし自身も今世紀に入ったくらいにインターネットを導入し、かつまた時代的にもネットを利用しての情報収集が当たり前になりつつあった。そこで必然的に顕正会問題もそうした媒体によって誰もが容易に知ることができる時代になったわけである。
ゆえにこれらを見るなと言うのは無理な話であって、見るなと言われれば見たくなる人もいるわけで、おそらくは顕正会の活動会員たちの一定数が見てない振りをして見ているのではないかと思われるのだ。
よってグレー氏の行動は当然の帰結であって、情報収集そのものは謗法でも何でもないし、極論すればそれらの情報を幹部にぶつけるのも手である。それでどのような答えが返ってくるかに注目すべきである。その結果、ロクに答えもせずにとにかくネットは見ちゃいかんの一点張りだとすれば、いよいよ顕正会もオシマイだと言わざるを得ないだろう。

ところでグレー氏の会員歴はどのくらいなのだろうか? 差し支えなければ教えていただきたいと思う。

最後はユタ氏である。

 いえね、私にはどうしてもあなたが、「ただの顕正会化石者」には思えないんですよ。

まず、買い被ってもらっては困る。別に大した人間ではないし、むしろ実像を知ればガッカリすることになるだろう。

ただし、その上で自画自賛を書いておく。

わたくしは「ただの顕正会化石者」ではない。当たり前である。それはそうだろう。もうすぐ顕正会は二百万になる。その数字の意味は通算のカウント数である。ゆえにユタ氏もそうだし、大沢氏もそうだ。わたくしもその一人である。
ただし、顕正会問題を中心に取り扱ったブログがどれほど存在するか知らないが、それをわたくしは十年以上も継続しているのである。はたしてこのような人物が二百万人のうち何人いるだろうか?
つまり、拙ブログを十有余年にわたって継続してきたこと自体がそこらの化石会員とは一線を画するものであり、自画自賛ながらもすでにしてこの実績に肩を並べる者はほとんど存在しないのである。

ちなみに、話を少し脱線させると、『迷走する顕正会を斬る』という名著がある。浅井先生はこの本に少なからず衝撃を受けたものと思われる。たぶん活動会員たちには読ませたくないのだろう。ゆえにこの本の存在にはまったく触れないのだ。

しかし、わたくしはこの本があって幸せだと思った。浅井先生にとってである。

なぜならば御遺命守護の戦いの生き証人が書いた本だからである。

結局、今となっては浅井武勇伝と揶揄される顕正会の歴史だが、その理由は第三者による客観的な考察がまったく存在しないからである。顕正会の中でのみ宣伝されている自画自賛の歴史ということなのだ。
著者はもともと顕正会員だった。ゆえにそのままでは浅井武勇伝の礼賛者で終わっていたかもしれない。ところがゆえあって除名になってしまった。その後に書いた本が『迷走する顕正会を斬る』なのである。
よってこの本は痛烈なる批判本なのである。浅井先生も触れたくないほどの厳しさがある。その上で顕正会の歴史を書いているわけだから、相当の信憑性があると言えるだろう。

さらに書くと、浅井先生の著作には男子二千を云々するくだりがある。当時の男子部には二千人の精鋭がいた、という意味である。しかし、それは完全なるハッタリであって、実際にはその十分の一、いや二十分の一に満たなかったとの話である。つまり、男子部の主力メンバーは数十人レベルということだ。

しかもである。当時のメンバーはなぜかほとんど残っていない。

これで幸せの意味がわかったのではないかと思う。もし『迷走する顕正会を斬る』がなければ浅井武勇伝なるものはすべて虚構と見なされても仕方がなかった。それが幸運にもわずか数十人の中に貴重なる歴史の証言者が存在したのである。

話を戻そう。

拙ブログなどはかの名著に比すれば千万が一分にも及ばないけれども、過去十数年間にわたって継続してきたという実績は不動のものである。ゆえにわたくし自身はただの元会員に過ぎないけれども、今こうしてブログを続けていること自体が他の追随を許さない不動の地位を作り上げているのだと思っている。

2018/6/6

ツヨガリ  
一年半も前の拙稿にコメントが寄せられた。

浅井先生自身は本当に広宣流布が近いと思っていらっしゃるのか?

これは本人に聞いてみないとわからないことである。口で言っているだけであり、本気で思っているわけではない、という可能性もある。その場合、いったいどのような野望を懐いているのか、という話にもなってくるわけだが、ともかく他人の心の内のことなのでわからないとしか言い様がない。

ところで上掲は病気持ちの万年組長さんからのコメントであるが、これに附随して別の人からもコメントが寄せられている。それがひじょうにイヤミっぽい内容であり、どのように扱うべきか悩ましい。

沖浦さんでも誰でもいいから、このブログ
もうカキコム人いなくてかわいそうだから
投稿してあげてよ


これが一通目である。そして数分後には次のように書いている。

>わたくしは無条件降伏しかないと思っている。

まず厳虎さんご自身が無条件降伏したら?


先ほど、他人の心の内はわからない、と書いた。同様に、わたくしの心の内も読者にはわからないだろう。いろいろと韜晦した書き方ができるとは思うものの、この際だから正直に書いておく。

本年の初頭、沖浦氏が卒業した。ようは匿名でのネット活動から完全に卒業したわけである。ご自身はもとより実名で活動していたわけだが、同時に匿名で投稿できる掲示板を運営していた。この点を誰かから批判されたのかもしれない。それでその掲示板も年度末には閉じることにした。たぶん、それらの整合性の上から考えても、拙ブログに投稿を続けることは不自然だと思ったのだろう。ゆえに昨年末だったか本年に入ってからか、今は確認していないけれども、沖浦氏からのコメントが途絶えた。

もうこれで拙ブログのコメント欄も閑古鳥が鳴くようになるだろうと思っていた。

ところがである。その後もわりと高頻度で各方面からコメントが寄せられていた。その主力となっていたのがマイケル氏である。

ご存知のごとく、わたくしはコメント投稿者に媚びない。むしろ苦言を呈するくらいなのである。ゆえにマイケル氏に対してもけっこう厳しいことを言ったことがある。先ほど書いたように、彼は沖浦氏卒業後の主筆だった。しかし、失礼ながらあまりにも拙速なコメントが多かった。そこで、もっとよく考えてからコメントを書いたほうがいいのでは、という意味のことを言わせてもらったわけである。

直接的にはそれが理由ではないとは思うのだが、マイケル氏もひと月ほど前に別れの挨拶めいたコメントを残し、それ以降はまったく投稿しなくなった。それに連動して、他の人たちからのコメントもまったく寄せられなくなった。

ある意味、幸運だったかもしれない。

というのは沖浦氏がいなくなった途端にコメント欄が寂れてしまえば、なんだ、巌虎独白は沖浦氏がいたお陰で繁盛していたのか、というふうに思われてしまうわけであり、わたくしの精神的ショックも大きかったはずなのだ。ところが沖浦氏不在の状況でもコメント欄はそこそこ賑わっていた。ゆえに精神的にショックを受けることはなかった。

そして一ヶ月前になり、とうとう閑古鳥が鳴くようになった。

まさに幸運の意味はそれなのである。いきなり最期を迎えるのではなく、いわば最期を迎えるための猶予期間をいただくことができた。それゆえに精神的なショックが相当に緩和されたわけである。

以上がおおむね正直な告白である。そして以下はヤセガマンでありツヨガリである。

よし、これでいよいよ本当の独白の境地に入ることが可能になった、と。

思えば、拙ブログは幸運だった。先ほどの幸運の意味は精神的ショックを緩和できたことだが、それ以前の話としてたくさんの人に読んでもらってたくさんの人からコメントをいただいた、ということがどれほど幸運なことだったかと思うのだ。
いわゆるリアルの世界でも友達のたくさんいる人とその逆の人がいる。同様のことがネットの中においても言えるわけで、コメントがたくさん寄せられる人もいればその逆もいるのだ。
つまり、独白を看板に掲げている拙ブログに対して、各方面からたくさんのコメントが寄せられること自体が不思議なことであり、ひじょうにありがたいことだった。あるいは他人から羨ましく思われていたかもしれないとすら思うほどである。

そのような意味からすると、いよいよこれから独白の境地を極めていくというツヨガリも我ながら魅力的ではあるものの、もうそろそろシオドキかもしれないなあというブログ閉鎖の選択肢も考えなくはないわけである。

もちろん、その中間的な選択肢もあり得ることだ。

もうかなり昔の話になるのでお忘れの人も多いかと思うが、拙ブログは最初の三年間、なんと毎日投稿していたのである。一年目はブログの存在そのものが知られていなかったので静かなものだった。今の状況に似ているかもしれない。それが二年目くらいから知られるようになってコメントも爆発的に増え始めた。しかも毎日投稿していたものだから、その投稿頻度の高さが閲覧数の伸びにもつながったわけである。
三年を終えて、不定期投稿に切り替えた。わたくしにも生活がある。ブログで生計を立てているわけではないし、無理して毎日投稿する義務があるわけでもない。当然、そこで閲覧数も減少するはずだった。
ところがである。沖浦氏を中心に常連のような人たちがコメント欄に居座るようになった。拙稿とは関係のない議論が展開されることもしばしばだった。実にヘンな話だが、その議論に参戦する人たち、かつまた閲覧する人たちで賑わったのである。

話が脱線したようである。

ともかく不定期投稿に切り替えてから久しい。ようするに今は不定期投稿なのである。ゆえに極論すれば一ヶ月に一回でもいいし、一年に一回でもいい。無料サーバーなので、それで何の不都合もないのである。ゆえに有料化されたらそこで打ち切りにするかもしれないが、無料である以上はわたくし自身に負担は掛からないのでこのまま半永久的に続けることが可能である。

最初の話にもどそう。

浅井先生の野望の話である。これは顕正会が世間からもっと注目を浴びるようになった段階で、取り沙汰される問題だと思う。たしか池田大作の野望みたいなタイトルの本があったと思う。創価学会批判の本はそれこそ山ほどある。では顕正会の場合はどうかであるが、ほとんど存在しない。これが答えである。

ようするに今の状況では広宣流布など夢のまた夢であり、上述のごとく世間からの注目度の低さを考えても、それは一目瞭然の話なのである。ゆえに顕正会員の中で本気で広宣流布のゴールが近いと思っている人がいるとすれば、言葉は悪いが洗脳されちゃっているからに他ならないのだ。

たぶん今は注目度が低いので少ないとは思うが、いずれ顕正会の注目度が上がれば気骨のあるジャーナリストが挙って取材を申し込むようになるだろう。そこで顕正会側がどのようなリアクションを見せるかである。

答えになっていないかもしれないが、おおむねこんな感じで斟酌願いたいと思う。

2018/6/4

カンコウキブン  
続きを見ていこう。七面の上段には右側に末期ガンの患者が延命治療を断わった話が出てくる。今後どうなるかわからないが、今のところはガン患者とは思えないほど元気だそうである。その左側には臨終の記事がある。この辺が悩ましいところで、片や末期ガンからの生還、片や急死というアンバランスさをどう理解するべきなのかがわからない。美事な臨終とは書かれているものの、末期ガンの人が助かったことに比べるとどうかと思うところである。

学会で何度も登山、観光気分の参詣

下段の記事にはご覧のような見出しが付けられている。登壇者はかなり古くからの創価学会員だが、活動を停止していたらしく、昭和六十年頃から活動を再開、そこで何度も登山会に参加したという話である。その回数が気になるところだ。
なぜならば昭和六十五年すなわち平成二年には宗門と創価学会の間に亀裂が生まれ、それ以降は創価学会による登山会が行なわれなくなったからである。つまり、わずか五年か六年ほどの間に何回登山したかが問題なのである。そしてそれ以降は法華講にでも移籍しない限りは登山できないわけであり、もうそれからすでに四半世紀ほども経過しているのである。
何を言いたいかは一目瞭然だろう。登壇者の記憶として登山会のことがどれほど鮮明に残っているか定かではないが、そうした古い記憶を文章化できるのは顕正会で教わっていることの影響を受けて再記憶化がなされているからである。

ウソを書いているとは言わない。しかし、そこは顕正会に都合のいいように、うまく上書きされていると考えるのが妥当である。

もちろん、最初から最後までぜんぶがそうではなく、図らずも本音が語られているところもある。

 最初は御本尊様を返納して寂しい思いもありましたが・・・

これは返納しろと言われたわけなのだろう。まさか何も言われずに自主的に返納するとは思えないからである。そしてその御本尊は時期的に考えて正宗の寺院から下付されたものと考えられる。

八面の右下には古くからの創価学会員の記事があって、三年前に創価学会版の本尊を安置したと書かれている。これはちょっと腑に落ちない話で、なぜに古参の創価学会員がわざわざ三年前にそのようなことをしたのか、文章を読む限りは不明である。また、顕正会に入会後、返納したのかどうか不明であるが、おそらくは記述がないだけであって返納したのだろうと思われる。

それはともかく、当該記事で問題なのは次のくだりだろう。

 入会四日後、何も分からないまま登用試験を受けることになり・・・

こういうことをやっているから合格率が下がる一方なのである。

ちなみに、法華講員でも創価学会員でもあるいは正信会員でもいいのだが、それなりに教学を学んでいる人だと仮定しよう。しかし、顕正会には一度も縁をしたことがない。たぶん、このようなケースでは、登用試験を受けても合格するのは難しいと思われる。

これは顕正会の登用試験のレベルが高いからではない。ぶっちゃけ言えば、それは浅井流法門だからである。

これを浅井先生が読めば激昂するかもしれないが、事実だから仕方がないだろう。やや見当違いとは思いつつも、例えば創価学会の教学試験を浅井先生が受験してみればいいと思う。事前に何の対策もしないでいきなり受ければ落ちる可能性大である。

いわゆる富士門流であっても組織ごとにかなりの隔たりがある。いわんや他門をやであろう。はたして他門で教学試験を実施しているかどうか知らないが、もし仮に受験するとしたらわたくし自身もまったく自信がない。

話が脱線してしまった。

ともかく入会四日後に受験させるのはどうかという話であり、一年見送るくらいの余裕がなくてどうするのか、それができない今の顕正会の事情こそが深刻なのだと、わたくしは言いたいのである。

 また癲癇の薬を、朝夕それぞれ十七錠・・・

左の記事から引用した。一回に十七錠はキツイと思う。それが一日たった一錠で済むようになったそうである。功徳だろうか?

櫻井よしこのウソつき体質*セらかに

八面の上段には特別レポートが掲載されている。法務部次長の菅原克仁氏が書いたものらしい。

ちなみに前々回だったろうか、男子部第四十四隊支隊長の記事を引用したが、その時には触れなかったものの、その記事の中にも櫻井よしこ氏に関する話題が出てくる。いわく、極右の女神、と。

わたくし自身は右でも左でもなく、ど真ん中のつもりである。ゆえにそうした観点から書くが、当初、櫻井氏に対するわたくしのイメージはそれほど悪いものではなかった。近年、テレビなどでの露出が少ないように感じているのだが、その理由について、彼女は物静かな口調ながらも言っていることが鋭い、あまりにも鋭すぎるので相手がタジタジになってしまう、それがテレビ的にはうまくないので出演を遠慮してもらっているのではないか、などと思っていた。討論番組などでも過激な人は呼ばれない傾向にある。一見すると過激そうでいて、実は相手にも逃げ道を与えている。そういう人が好まれるのではないかと思われるのだ。

まあ、しかし、彼女が極右の女神だとすれば、なるほど、テレビに呼ばれなくても当然かもしれないと思った。基本、テレビは極右だとか極左を嫌うものだからである。ど真ん中はあり得ないにしてもいわゆる中庸が理想であり、それが無難でもあるわけなのだろう。

さて、法務部次長のレポートであるが、詳しい内容については省略しよう。ともかくプロの弁護士だけあって、文章は緻密である。これだけでも十分にマスコミへの牽制になるだろう。ようするに櫻井よしこ云々は婉曲ながらもマスコミ各社に対する牽制なのだ。つまり、顕正会の批判を書いたら許さんぞ、ということなのである。

2018/6/3

ハンセイキ  
四月度総幹部会の各種登壇を見ていこう。

諸天の動きとはなんと凄いのか、これ先生の諫暁に呼応した働きと・・・

第十八男子部長の発言である。前後の文章を省略しているために意味不明かもしれないが、細かい内容はどうでもいいのである。ようは浅井先生に呼応して諸天善神が力用を発揮するという構図がここ数年にわたって言われ続けている。この点に注目すべきなのだ。

男子部第四十四隊支隊長も次のごとく言っている。

厳然たる諸天の働きを目の当りにしては、・・・先生の重きご存在にひれ伏す思いになったものであります。

第二十五婦人部長の発言も拾っておこう。

諸天が感応する先生の重きお立場にひれ伏す思いになりました。

顕正新聞第1439号の五面にある四本の記事のうち、三本がご覧のごとくなのである。ちなみに、残りの第二十三男子部長の発言は次のごとくである。

先生の諫暁により安倍一強政権が瞬く間に崩壊せんとする様には度肝を抜かれ・・・

諸天の働きについては言及していないものの、あたかも浅井先生が倒閣の立役者みたいな言い様である。はたして世間一般の認識はどうか、そこが問題である。

それはさておき、わたくしが同記事で注目したのは別のところである。

 毎年の暮れに先生は、大石寺のそば近くまで詣でて大地に座して、戒壇の大御本尊を遥拝しておられますが、最後の御登山よりすでに半世紀・・・

半世紀? いや、まだそこまで経たないだろう。まあ、しかし、おおむね半世紀であり、今のままでは半世紀どころか永遠に参詣できない。顕正会はこの点のビジョンを明確にすべきである。広宣流布・国立戒壇建立よりも手前にあるはずの問題なのに、その解決のめどがまったく立たない。かつて御遺命守護の完結を宣言したものの、それも偽りだったことになるわけで、逆に言えば、そんなことで広宣流布ができる道理がないではないか、ということになるだろう。

元大学教授が「基礎教学書」に感嘆

男子部第百三十五隊支隊長の記事には、北海道大学で教授をやっていた人の話が出てくる。

 「この本はきちんと文章構成が整えられていて、たいへん解り易いです。とても二千円とは思えないほど立派な本です」

特に異論はない。まあ、しかし、この際だからひじょうにイジワルなことを提案しておこう。折伏理論書を併読してもらうのである。そこでどのような感想が語られるか、聞いてみたいものである。

婦人部京都支区班長の記事には葬儀社の人が入信した話が出てくる。

班長は五年前に夫を亡くした。顕正会儀礼室で葬儀を執り行なった。その時の葬儀社の担当者を思い出し、連絡を取って折伏したそうである。すると担当者は五年前のことをよく憶えていて、あのような厳粛な葬儀は後にも先にも経験したことがないと言い、素直に入信したのだった。

これはけっこう凄い話だと思う。

一人の担当者がどのくらいの頻度で葬儀に従事するのか知らないが、仮に週に一回、年間で五十回ほどだとしよう。すると五年間では二百五十回ほど葬儀を担当したことになる。そうした中で顕正会の葬儀が特に印象に残っていたとすると、そこには他とは違う何かがあったわけだろう。その点をもっと詳しく聞きたいものである。

あと余計なことを書けば、入信後の問題である。いわゆる邪宗の葬儀をどうするのかである。葬儀は喪主がいて、その家の宗派で葬儀を行なうのが普通である。葬儀社の人はそのお手伝いをするのが仕事なのだ。顕正会のガチガチの論理からすれば、そのような仕事は辞めるしか選択肢がないことになるだろう。あるいは顕正会専門の葬儀社を作って、そこに就職させるとかしないといけない。

最後に男子部五十五隊組長の記事を紹介しよう。

 いま思えば、学会員の目標は、会社で出世することや立派な家を建てること等、世間の地位や財産を得ることで・・・

ようするに元創価学会員の経験談である。しかし、どうかと思うところではある。何しろ顕正会だって体験発表を読めば同じような性質の話がたくさん出てくるわけで、とりあえず世間的に理解しやすい意味でもそうした体験内容は頭ごなしに否定されるものではないはずである。

この点、またしてもイジワルな見方を書いておくと、顕正会の場合は活動に熱心なあまり、世間的にはまったく成功していないような人がたくさんいるわけなのだろう。

2018/6/1

コロモガエ  
顕正新聞第1439号を見ていこう。当該号には次のような名称が付けられている。

「安倍政権断末魔」特集号2

四月度総幹部会での会長講演は、当然ながら政権批判に相当の紙数が費やされている。しかし、その前に語られている内容も、それなりに重要である。

過去最高・・・

いわゆる本年の初陣たる三ヶ月法戦は過去最高の成果を上げられたという。そして七月の二百万達成は確実であると。

ところがである。これはわたくしの漠然とした印象に過ぎないものの、活動会員たちは何となく成果そのものについて冷めた見方をしているような気がするのである。あまり喜んでいない。むしろシラケている。
この理由について思うことは、二百万までの残りが二万一千余という数字はけっこう厳しいものであり、号令を掛けるだけの人は楽でいいけれども活動会員たちにしてみれば苦労が絶えない、だからこそのシラケムードなのではないかということである。
また、それ以前の問題として、顕正会の公称会員数そのものがすでにして欺瞞の数字であることを活動会員たちもよく知っている。だからこそ盛り上がらないのではないかということなのである。

浅井先生もそれを気にしてのことだろうか、常に創価学会や宗門との対比を語るのである。ようは彼らに比べたら自分たちのほうが遥かに情熱的であり、大聖人の御意に適うものであると。

阿部信彰の
 恐怖の査問・追いつめ


この小見出しに続く本文には、平成二十年に起きた暴力事件のことが書かれている。今ごろになって言及する目的がわからない。どうせならば速報的に取り上げるべきだろう。

くだんの人物は日顕上人の御子息なので注目度が高い。創価学会系の謀略情報紙にもわりと高頻度で取り上げられているのではないかと思われるが、わたくし自身はまったく無関心であり、事件のことも知らなければ顔も知らなかったくらいである。今回の顕正新聞掲載の顔写真を見て、ああ、確かに御隠尊に似ているなあ、と思ったくらいでそれ以上の感想は特にない。

あえて穿った見方をすれば、近年は顕正会から宗門へ移籍する人が後を絶たない、その歯止めを掛ける意味でくだんの事件を持ち出してきたのではないか、ということになるだろう。

宗門に行ったらノルマで苦しむことになりそうだ。折伏ができないとぶん殴られるかもしれない。だったら顕正会にいたほうがマシだ。

いかがだろう、活動会員たちの心理をわたくしなりに分析してみたわけだが、どっちもダメなら無宗教に転じたほうが遥かにマシ、という選択肢もあり得るわけで、おそらくはそういう人も少なくないのだろう。

安倍政権の断末魔いよいよ凄まじ

今回の講演内容は過去との重複が激しい。ただし、大事な問題なので繰り返し書くという姿勢は間違っていないし、浅井先生らしい執念深さでもある。

もし全国民がこの改竄を知っていたら自民党は惨敗していた・・・

この点はおそらく世の評論家たちも指摘していることであるが、ひじょうに重要な論点である。

一票の格差問題というものがある。これを憲法違反だとして何度も裁判が起こされている。わたくしの思うに、こうした裁判はなかなか勝負がつかないことなので、もしくは勝ち目のない裁判なので、それに挑む人たちの気が知れない、というふうに考える人も少なくないだろう。損得勘定ではない、あくまで正義を貫くことに意義があるのだ、というのがその答えなのだろう。

ようするに一票の格差問題とは選挙そのものの公平性を問うものなのである。同様の視点から昨年の総選挙を見つめれば、その問題の深刻さが理解できるはずである。平たく言えば、権力者がインチキをして、そのインチキがまかり通ってしまうとするならば、もはや権力者の暴走は誰にも食い止められないことになる。恐るべき独裁者の出現である。

しかし、大方の予想では三選は無理だろうと見られている。つまり、どうにか今国会を乗り切ったとしても、秋の総裁選では敗れるのではないか、もしくは出馬せずに引退の方向に向かうのではないか、という見方である。党内からもそろそろ新しい人に交代したほうがいいのではないかという意見ないし動きが出始めており、マスコミもその動きに注目しつつあるのが最近の動向ではないかと思う。

もしそれが安倍続投となれば、つくづく日本はダメな国であり、その構成員たる自分自身も含めて日本人はダメな人間ばかりということになるだろう。

日本会議の中枢は
 谷口雅春の信奉者


今回の講演は重複が多いと書いた。しかし、このくだりは初出だろうと思われる。

谷口雅春は生長の家の教祖である。生長の家は新興宗教の一つであり、ひと頃はそれなりに隆盛を極めたのだと思う。しかし、わたくしの印象では今はさほど活発ではなく、事実、自分の周囲にはその手の人物は存在しないし、生長の家の施設みたいなものを見たこともない。

 また、安倍首相がどこまで知っているかはわからないが・・・

中途半端な引用で恐縮であるが、ようするに今では安倍総理と日本会議の関係を知らない人がいないくらい両者は親密である、では日本会議と生長の家の関係を知っている人がどれほどいるのか、いや、もしかしたら安倍総理も知らないかもしれない、というような深層部分の話を持ち出してきたわけである。

わたくしは上掲のくだりを、話の内容よりも、むしろ別の意味で重要だと思った。

いわゆる政治家の関与の問題である。何か問題が起こると、自分は知らなかった、秘書が勝手にやった、というような言い逃れをするのが政治家たちの常套手段である。結局、ここ一年有余、クスぶってきたモリカケ問題も同じことだろう。浅井先生はここでは図らずも安倍総理を弁護してしまっているのだ。つまり、安倍総理はまったく知らなかった、まったく関与してない、という可能性を示唆しているわけである。

いや、もちろん、そんなわけがあるまいというのが一般的な見方なのだが・・・

 一度は、欽明天皇の御代に仏法が初めて渡来したときです。

最後はお馴染みのアゲアシ取りである。ここで浅井先生は「初めて」を使用している。ところが何度も指摘してきたごとく、先生は「始めて」を好んで使う傾向にあるのだ。さて、今回の場合は理由があって初めてとしたのか、単なる誤植なのか、もしくは行き当たりばったりなのか、ぜひとも回答をお願いしたいものである。


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