2009/10/22

公式見解と私的見解の狭間  
沖浦氏からさっそくのコメントを頂戴した。日寛上人の邪義・・・御書にはまったくない・・・云々と。

どうやら昨日の拙稿を理解してもらえなかったようだ。

御書には説かれなかった御法門もある。とりわけ戒壇の大御本尊は秘仏にてましますから、そこに記載がなくても不思議ではないし、むしろ当然のことである。
大聖人の御真筆御本尊は現存するだけでも百数十幅を数える。そのすべてが御書に出てくるわけではない。むしろ御本尊の授与に関する御記述は少ないくらいなのである。
いわんや戒壇の大御本尊は秘仏にてまします。弟子檀那に対する御手紙に大っぴらに書かれていたらおかしいだろう。

此の事は余が第一の秘事なり。委細には向かって問ふべし。

当該御文は撰時抄における羅什三蔵の故事を説かれる段であるが、こうした事例を拝するにつけ、いわゆる口伝相承のようなものが存在したと考えざるを得ないと思う。

しかし、何もわたくしは、無条件に口伝相承を受け入れるべきだと言っているのではない。それなりの蓋然性がなければいけないだろう。日興上人の御遺誡に、時の貫首たりと雖も云々とある。これについて宗門ではいろいろな会通をしているが、おそらくはごく普通に読めば、誰もが同じように理解するはずである。やはり貫首にも間違いはある。そこはしっかりと見極めなければいけない。
たとえ口伝相承であっても、それが御書と正反対であれば、疑問に思うのが普通である。極端な話、時の猊下に第六天の魔王が入って、おかしなことを言わせるかもしれないのだ。ゆえに、その場合は貫首の言葉を用いてはいけないのである。
問題は御書に説かれていない御法門である。この場合は判断の仕方が難しい。さて、どうするべきであろうか?

昨日はその答えを書いたつもりだった。わたくしは直接的な御指南が存在しない場合でも、必ずどこかにヒントがあるはずだと思っている。もしそうでなければ、それこそ上述のごとく第六天の魔王の好き放題のことが可能になってしまい、仏法はたちまちに壊乱してしまうことだろう。

大聖人の仏法は三大秘法である。そこには本門の戒壇という重要な御法門が含まれている。ところが本尊と題目に比して、戒壇についてはどうも理解が深まらない傾向にある。しかし、三大秘法である以上は、戒壇についてもきわめて重要な意味があると考えなければならないだろう。
残念ながら、わたくしは未だによくわかっていない。それが正直なところだ。
ところが大石寺に伝わるところの戒壇の大御本尊は、本門戒壇に安置し奉るための御本尊であるという。そして顕正会では、これを日本ないし一閻浮提を仏国と化す秘術であると主張している。まさに顕正会の公式見解である。おそらくは宗門も同様というか、そもそもは宗門の見解なのだと思う。

この意味においては、まさに特別な御本尊ということになる。

問題は御書に出てこないという点であるが、すでに書いたごとく必ずどこかにヒントがあるということ、そして少なくとも御書と矛盾しないというか、矛盾があれば信じるに足らないわけだから、ようは整合性があるかどうかが問題なのだと思う。

貴方も私も、南無妙法蓮華経如来の当体なんです。

沖浦氏のコメントから一文だけ抜き出させてもらったが、これについてはずいぶん前に耕治氏からご教示をたまわっていて、わたくしなりの見解を書かせてもらったことがある。

http://white.ap.teacup.com/ganko/966.html

煩瑣になるので省略するが、ともかく最初から仏だったら仏道修行の必要はないことになる。この辺が問題だろう。
近・現代における画期は、人間は平等であるという思想であろう。現代人には当たり前のようなことが昔は違ったのである。仏法はかなり早い段階から平等観のようなものが底流にあって、とりわけ大聖人の仏法ではそれが明確である。沖浦氏はこの点を力説しているのだと思う。
しかし、現代においても現実社会には不平等が存在する。今や格差社会が流行語のごとくになっている。

こうして見ると、沖浦氏の書いていることがすべて間違いであるとは言わないが、しかし、単なるキレイゴトのようにしか感じられない部分もなきにしもあらずである。
実際の沖浦氏は行動の人であり、人一倍の努力家であることは間違いない。ただし、人に対する処方としては、いかがなものかという気がしないでもない。つまり、氏のコメントは単なる理を説いているだけであって、現実的な処方とは言えないと思う。
大聖人の御法門を事の一念三千というのは、まさに末代幼稚のために御本尊をあらわして下さったからに他ならないであろう。これが現実的処方というものだ。単に理を説いただけでは救えない、それが末法の衆生だからである。

わたくしにとって大曼荼羅御本尊の存在意義、とりわけ戒壇の大御本尊の存在意義は御書の意に照らして矛盾しない。我ながら説明不足は否めないが、おおむねこんなところだ。



2009/10/22  21:12

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん

>煩瑣になるので省略するが、ともかく最初から仏だったら仏道修行の必要はないことになる。この辺が問題だろう。

 人はオギャーと生まれた時から人です。
 この点は間違いないですね。
 狼に育てられた子供がいて、十数歳で救出されました。
 この子は一生言葉を喋れず、直立歩行も困難でした。
 然しながらやはり人間です。
 反対に、神戸の王子動物園で飼育係の亀井さんが、チンパンジーの赤ちゃんを事情があって生後直ぐ引き取って自宅で3歳程度まで育てました。
 この子は、シンチャンと呼ばれマスコミでも何度もとりあげられたので、見た方も多いでしょう。
 でも、人間にはならず、チンパンジーのまま一生を終えたのです。
 この二つの出来事が何を物語るか?
 人が若し仏でなかったら、どのような修業をしても仏にはなりません。
 人を人の環境で育てれば人間としての能力を発揮致します。
 然しながら、チンパンジーは人間の環境で飼育しても、人にはなりません。
 同じく、仏でない者は、どのように仏道修業をしても仏としての能力は獲得できません。
 人は生まれて、家庭、学校、社会などで薫陶を受け、長い年月をかけて人として完成された存在となります。
 仏は生まれて長い年月をかけて、仏道修行と言う一定の環境下で、仏としての能力を獲得致します。
 物凄く単純な理屈ですよ。

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