2009/10/24
秋の法門談義
再び赤木氏よりコメントをたまわったが、この件は別の機会に譲らせてもらって、今日は沖浦氏との法門談義と行きたい。
一切衆生を仏性がある。
その通りですが、人しか仏の条件は満たせません。
犬は次に生まれて人間になって仏になれます。
御書に有ります。
『一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、』
(新池御書)
一切衆生が仏になれる条件で、先ず人間界に生まれる。と書かれてあります。
『千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、』
(松野殿後家尼御前御返事)
ここにも同じ意味のご指南があります。
ですので、一切衆生はそのままでは仏にはなれません。
人と言う媒体が不可欠です。
いちおう全文を紹介させてもらった。
沖浦氏の主張はきわめて常識的な解釈であり、おそらくは多くの人の支持を得られるのではないかと思う。わたくし自身もそれほど意見に相違があるわけではない。何しろ前回、人間に生まれることが仏道修行の最短コース、とわたくしは書いているのだから、必ずしも真っ向から意見が対立しているわけではないのである。
だが、しかし、たとえば犬が仏になるためには一度人間に生まれ変わる必要があるかと言えば、わたくしは違うのではないかと思っている。これは竜女の成仏をどのように理解するかが争点になるだろう。まずは、開目抄から引用しよう。
竜女が成仏、此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
ここで大聖人はいわゆる女人成仏を論じているわけだが、初期の女人成仏抄を拝見すると、より詳しいことがわかる。
八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し・・・女人成仏の路をふみわけ候。
蛇身を改めずが重要である。同抄にはさらに次のごとくある。
然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。
竜女は畜生道の衆生なのだ。
竜畜下賎の身
竜畜下賎の即身成仏
祈禱抄と教行証御書である。まさに類文繁多であるが、たとえば撰時抄の一文などもひじょうに簡明である。
五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。
最後に建治元年の上野殿御消息を引用したい。
法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の竜女成仏し、仏の姨母憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。
畜生にもあらず、蛇身にもあらず、との仰せが凄まじい。つまり、法華経は畜生でさえ即身成仏する経なのだ、いわんや人間の女性が成仏しないわけがないではないか、という意味に他ならない。
以上、種々の御指南を紹介したが、これらを踏まえると沖浦氏の所論はいまだ不完全のようにも感じられるところである。ややもすれば、爾前経の範疇を脱していないとも思えるのだが、いかがであろうか?
しかし、一見すると矛盾するようであるが、沖浦氏の引用した新池御書や松野殿後家尼御前御返事の御意もあながち否定できるものではないので、やはり人間に生まれることが仏道修行の上では有利であり、最短コースであろうことは間違いないのだろう。あとは真面目に修行するかどうかの問題だ。
一切衆生を仏性がある。
その通りですが、人しか仏の条件は満たせません。
犬は次に生まれて人間になって仏になれます。
御書に有ります。
『一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、』
(新池御書)
一切衆生が仏になれる条件で、先ず人間界に生まれる。と書かれてあります。
『千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、』
(松野殿後家尼御前御返事)
ここにも同じ意味のご指南があります。
ですので、一切衆生はそのままでは仏にはなれません。
人と言う媒体が不可欠です。
いちおう全文を紹介させてもらった。
沖浦氏の主張はきわめて常識的な解釈であり、おそらくは多くの人の支持を得られるのではないかと思う。わたくし自身もそれほど意見に相違があるわけではない。何しろ前回、人間に生まれることが仏道修行の最短コース、とわたくしは書いているのだから、必ずしも真っ向から意見が対立しているわけではないのである。
だが、しかし、たとえば犬が仏になるためには一度人間に生まれ変わる必要があるかと言えば、わたくしは違うのではないかと思っている。これは竜女の成仏をどのように理解するかが争点になるだろう。まずは、開目抄から引用しよう。
竜女が成仏、此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
ここで大聖人はいわゆる女人成仏を論じているわけだが、初期の女人成仏抄を拝見すると、より詳しいことがわかる。
八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し・・・女人成仏の路をふみわけ候。
蛇身を改めずが重要である。同抄にはさらに次のごとくある。
然るに竜女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり。
竜女は畜生道の衆生なのだ。
竜畜下賎の身
竜畜下賎の即身成仏
祈禱抄と教行証御書である。まさに類文繁多であるが、たとえば撰時抄の一文などもひじょうに簡明である。
五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。
最後に建治元年の上野殿御消息を引用したい。
法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の竜女成仏し、仏の姨母憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。
畜生にもあらず、蛇身にもあらず、との仰せが凄まじい。つまり、法華経は畜生でさえ即身成仏する経なのだ、いわんや人間の女性が成仏しないわけがないではないか、という意味に他ならない。
以上、種々の御指南を紹介したが、これらを踏まえると沖浦氏の所論はいまだ不完全のようにも感じられるところである。ややもすれば、爾前経の範疇を脱していないとも思えるのだが、いかがであろうか?
しかし、一見すると矛盾するようであるが、沖浦氏の引用した新池御書や松野殿後家尼御前御返事の御意もあながち否定できるものではないので、やはり人間に生まれることが仏道修行の上では有利であり、最短コースであろうことは間違いないのだろう。あとは真面目に修行するかどうかの問題だ。
2009/10/26 23:35
投稿者:肝心
上野殿御消息もですね
2009/10/26 23:33
投稿者:肝心
祈祷抄の祷が、文字化けしてしまってますね。
2009/10/25 8:44
投稿者:沖浦克治
厳虎さん、おはようございます
今耕治と北海道におります。
まず、御書を読むときには、戸田先生の仰せのように、こうも読めると捉えます。
眺め人のように、こうでないといけないとはよみません。
その上でです。
竜女が形を改めないのは、色相荘厳否定だと思います。
人間革命です。
形が変わると改造です。
桜と梅の譬えがありますが、あれではないでしょうか。
今耕治と北海道におります。
まず、御書を読むときには、戸田先生の仰せのように、こうも読めると捉えます。
眺め人のように、こうでないといけないとはよみません。
その上でです。
竜女が形を改めないのは、色相荘厳否定だと思います。
人間革命です。
形が変わると改造です。
桜と梅の譬えがありますが、あれではないでしょうか。

