2009/11/1

執筆意欲減退の日々  
nabe氏と沖浦氏は犬猿の仲であり、両者の間で応酬が始まると手がつけられなくなる。それがいわばパターンとなっているわけだが、わたくしはいつもそのまま放置している。それが拙ブログの方針なのだ。

それはさておき、前々回の拙稿に、文字化けがあるとの指摘を頂戴した。

祈禱抄

憍曇弥

記莂


どうやら、この三つがダメらしい。と言っても、わたくしの使用しているパソコンでは問題なく表示される。おそらくは携帯からの閲覧者なのだろう。そこでわたくしも携帯で確認してみたところ、上掲の三つがダメだった。

祈祷抄

喬曇弥

記別


さしあたって、代用表記にしてみたが、いかがだろうか?

今後、パソコンないし携帯の性能が上がれば文字化けの問題は解決されるのかもしれないが、当面は代用表記も有効であろう。そもそもが御真蹟を活字化する段階で、ある程度の代用表記が使われていると思われる。その意味で、どうしても文字化けしてしまう場合には、暫定的にでも何らかの措置を講じる必要があると思う。生意気を言うようであるが、それが御書を後世に伝えていく一つの手段となるだろう。

さて、山形会館での会長講演については、前回、それほど注意を惹かなかったと書いた。しかし、ちょっと面白いことが浮かび上がってきたので、それを書いてみたい。

師なりとも誤りある者をば捨つべし

今回の講演では御書の引用がたくさんある。上掲は曾谷殿御返事であるが、ようするに池田大作氏を間違った師匠であると言いたいらしい。しかし、おそらくは同じ理屈が浅井先生にも当てはまってしまうだろう。顕正会の中では無二の師匠などと言われているものの、外部からはまったく評価されていない。とりわけ敵対勢力からはボロクソに言われている。それが浅井先生だ。

さて、わたくしが書きたいのはそんなことではない。すでに浅井先生のことは今までたくさん書いてきたので、もうあまり執筆意欲が湧かなくなっているのだ。

たまたま最近公開された樋田ビデオを拝見していたら、上掲の御文について云々している場面に遭遇した。それがどうもわたくしには納得できないものだったので、それを書きたいと思う。

但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。

時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。


どうやら最近は創価学会員が、この二つの御文をセットにして、宗門・法華講を責めているようである。ある意味、これは顕正会の専売特許みたいな論法だった。それを今は創価学会でも使っているらしいのだ。
わたくしは創価学会員の論じていることをつぶさには知らないが、いちおうは彼らの主張を正しいと思う。
だが、樋田氏はこれを間違いだと言っているのだ。

今回の動画では日興上人の御遺誡について言及がなかったのでそちらは不明だが、少なくとも曾谷殿御返事の創価学会員たちの読み方は間違いであり、それをかつては掲示板で数学的に論証したと、樋田氏はそう言っている。

樋田氏は、上掲における「但し師なりとも」云々の師は御法主上人を含まない、と言いたいらしい。それをかつては数学的に証明したとのことであるが、いったいどういう証明なのか興味深いところだ。動画で拝見した限りでは、かなり強引な論法のようである。
たとえば、この直前には「必ず」とのキーワードがある。大聖人が必ずと仰せられたならば、それは百バーセントなのだ云々と。ようするに、直後に仰せられる「誤りある者」には該当しない、大聖人はもとより、その血脈を受けられた歴代の猊下もしかり・・・端折ってしまえば、そういう意味のことを言っているわけである。
ゆえに、ここでの師は仏法のそれではなく、世間における諸々の師匠を意味するのだとして、もし仏法の本義に照らしてそれがとんでも間違いであれば、そのような師匠は捨てなければいけないし、別にさしたる問題がなければ捨てるに及ばない、それは世間仏法の道理に照らして判断しなさい、ということらしい。

わたくしの思うに、合っている部分もあれば、間違っている部分もある。

捨てるべきか否かは世間仏法の道理に照らして判断すべきというのは正解だと思う。ただし、ここには猊下を含めるべきだし、恐れ多いながらも大聖人をも含めるべきである。これが公平な判断の仕方であろう。ハナッから大聖人を別格とし、さらには歴代上人も同様に扱うのは、心情的にはわかるが決して理性的とは言えないし、御書の意にも違うものだとわたくしは思う。

法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。

一般論として論ずるならば師に例外を設けるべきではない。それがまず第一に言えることである。
さらに当該御文の前後を踏まえて論ずるならば、根源の師とは上行菩薩であり、文脈上、ここでの大聖人は一僧侶の立場と拝するべきが正解である。つまり、大聖人対その他の僧侶という構図をつかんでおくと御文がよく理解できるはずなのだ。
われわれは大聖人の御書を御本仏の御教えとして絶対視する。それはそれでけっこうなことだが、そうするとウッカリ誤読する場合がある。つまり、大聖人(一僧侶)対その他の僧侶という関係においては、「根源の師」というキーワード一つ取っても説得力がないのである。おわかりだろうか、大日如来は一切の本初であるという、それがただちには説得力を持たないのと同様である。

仏法と申すは道理なり。

智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。


前掲、師なりとも誤りある者をば捨つべし、の意味は大聖人が邪宗の僧等に対して、もし師に誤りがあるのならば捨てるのが道理である、いったいどこがどう間違っているのか言ってみろ、と迫っている場面である。その後に、捨てざる義もあると仰せられるのは、まさに邪智の者への予防線の意味に他ならない。つまり、悪知恵の長けている者は些細なことを針小棒大に取り上げてくる。ゆえに、世間ないし仏法の道理に照らして、捨てるべきか否か判断せよ、ということを仰せになっているのだ。
たとえば、仮に今の猊下が車の運転をされるとして、もし交通違反を犯したとすれば、創価学会あたりが大騒ぎするかもしれない。しかし、その違反がきわめて軽微なものであれば、別にそれで猊座を退く必要もないだろうし、逆にもしそれを誇大宣伝する者がいるとすれば、そちらのほうが世間からはおかしく見えることだろう。まさにそれは世間仏法の道理に照らして判断すべきことである。

末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。

再掲であるが、まさに大聖人対邪宗の僧等の構図が明瞭である。

あえて単純化するならば、根源の師・・・但し師なりとも・・・師をいやしみ、この三つの師をすべて上行菩薩と拝しても構わないだろう。

末法の始めの五百年には上行菩薩が出現する。経文に明々赫々である。それこそが根源の師である。ただし、もし仏法の道理に照らしてそれが間違いであれば、捨てるにやぶさかではない。ところがどっこい、末世の愚癡の法師たちは仏法の道理がまったくわからず、ただ単に感情的に反発しているだけなのだ。

かなりの意訳であるが、真面目に御文を拝していけば自ずと見えてくるだろう。


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