2009/11/11

啓蒙活動  
前回は七日に更新したわけだが、その直前にnabe氏と沖浦氏からコメントが入れられていたにもかかわらず、ウッカリ気がつかずにいた。

正直に書こう。nabe氏の指摘はまさにそのとおりであって、わたくしとしては弁解の余地がない。というか、ヘタな反論は墓穴を掘るだけなので、甘受するのみである。結論は日蓮正宗に帰伏する以外にない。それ以外の選択肢をnabe氏が許すわけがないのだ。つまり、正宗に帰伏しない間はいつまでも言われ続けるか、もしくはまったく相手にされなくなるか、その二通りくらいだろう。

しかし、沖浦氏の言う自由人もまた、けっこう的確というか、わたくしの現況をうまく表現できていると思う。
氏とは何の面識もないし、ネット上での付き合いにしてもそれほど緊密というわけではない。だが、妙な話、物凄く親近感があるのだ。それはおそらく氏の人徳によるのだろう。ゆえに、氏を盾にしているという、nabe氏の指摘もあながち外れているわけではないと思う。
これまた正直に書くが、沖浦氏からコメントをもらって気分が悪くなったことなど、一度もない。はっきり言って、その内容には賛成しかねる。しかし、いわゆる嫌悪感のようなものは湧いてこない。

これで、またしてもnabe氏の苦言を免かれないが、それも悪くない。相手にされなくなるのがいちばん悪い状況である。

さて、話は少し変わるが、どうやら読者を一人、失ってしまったようだ。

その原因はわたくしのレスポンスの悪さなのかもしれないが、もしそれが事実であれば、仕方がないことであろう。もともと独白を表看板にしているのだから、そこは読者のほうで承知していてもらわないと困るのである。
また、拙ブログのもう一つの特色を書いておくと、アク禁者ゼロ名であり、コメント削除も行なわない、今まで一度もコメントを削除したことがない、それが拙ブログなのである。
ゆえに、以前はわたくしに対する誹謗中傷と見まがうようなコメントもあったけれども、それもすべてそのまま残っている。ある意味、これはニンニクハラミツのようなものだろう。誰とは言わないが、アク禁連発・徹底削除をしている人には、とうていマネのできないことである。

赤木氏のコメントは、ご自身が承知のごとく、拙稿の内容とはミスマッチだった。しかし、それはそれで構わないのである。基本的には拙稿に対してコメントをするのが筋であるが、拙ブログには明確な規定があるわけではないので、投稿者の自由にすればよいのである。
極端な話、まったく無関係の、何かのビジネスがらみのような、ようは広告媒体としてコメント欄を利用している人たちもいる。本当ならば、これなどは削除してもいいのだが、わたくしはそれすら残したままにしている。
これに比べれば、赤木氏のコメントはまさに顕正会の問題そのものに直接的にアプローチするものであって、けっして無意味ではないのだ。ゆえに、もしご自身が顕正会の将来を思って、あるいは顕正会員の一人ひとりのことを思って、書き綴っているのであれば、今後も書き続ければいいのだと思う。
いや、別に拙ブログでなくてもいいだろう。他の媒体でもいいし、自分でブログを立ち上げてもいいだろう。生意気を言うようであるが、自分自身にその思いがあれば、書くべきなのである。

ひじょうに生意気であるが、わたくしのブログは啓蒙活動の意味がある。

いや、本当は看板どおりのグチ日記であり、ぜんぜん大したことないのである。しょせんは落ちぶれ顕正会員が好き勝手なことを書いているに過ぎないのだ。
しかし、途中からは多少、目的意識を持つようになった。
なぜならば、世には顕正会批判のサイトが山ほどある。ところがそれらの多くは悪意で書かれている。わたくしの思うに悪意で書かれている文章というのは、見る人が見るとわかってしまうものである。別にそれは読解力とか頭脳の問題ではない。むしろ普通の人が読めば、ということなのだ。
つまり、顕正会がロクでもない組織であるのはもちろんだが、それを批判している連中もロクでもない、ハタから見ればそのように映るのである。
わたくしには公平だとか中立だとか、そのような意識があるわけではない。だが、ブログを書き始めてから、徐々に反応が増えていく過程で、そうした各方面からの反応を窺がうに、どうやらわたくしの物の見方とか考え方が案外にマトモであるということがわかってきた。
これならば、もしかしたら熱心な活動会員たちが読んでも反発心をおぼえることなく、それ相応に受け入れられるのではないか、とわたくしは思った。これが目的意識の意味である。

欲張って書けば、二方向への啓蒙の意味がある。

今書いたごとく、内部の顕正会員たちへの啓蒙が一つ、そして外部への啓蒙である。わたくしは顕正会の批判を書くが、たまにはよい面も書いている。教義的な問題にしても、顕正会の主張をぜんぶがぜんぶ間違いとはせず、宗門側にも問題があったことを書いている。たまたま沖浦氏が言ってくれたごとく、わたくしは自由人であるから、どちらか一方に肩入れする必要はない。そこに自ずと公平な見方ができる環境が得られるのだと思う。
ゆえに、内部の顕正会員たちは案外にわたくしの書いていることを素直に読めるのではないか、また、同時に外部の人たちも悪意に満ちた情報とは一線を画す拙ブログに一定以上の理解を下さるのではないか、と思う。

前回の赤木氏のコメントに大いに関連すると思うが、もし熱心な会員ほど正常な判断能力を失っていく傾向があるとしたら顕正会はオシマイである。本当ならば幹部になればなるほど、客観性が求められるのだ。問題は、はたして正常な判断能力を保持したままで、活動を続けられるかどうか、である。早い話が正常であれば、顕正会のおかしさに気がついて、いずれはやめていく運命となるからだ。しかし、現役隊長氏のような人もいるわけだから、望みがないわけではないだろう。つまり、顕正会のダメさ加減をよくわかった上で、顕正会の再生を模索していくという困難に挑戦する人たちが続々と出てくることが理想である。拙ブログがその一助となれば、これ幸い、である。

さて、水無月氏からもコメントを頂戴しているが、相変わらず辛辣である。それはともかく、くだんの論説委員氏がペンネームであるとか、浅井先生の愛読誌のことだとか、そんなことまでよくご存知であるとつくづく感心する。それともわたくしが知らな過ぎるだけなのだろうか?

2009/11/11  11:54

投稿者:山門手前
>ところがそれらの多くは悪意で書かれている。わたくしの思うに悪意で書かれている文章というのは、見る人が見るとわかってしまうものである。

顕正会に対する批判は、悪意ではありません。
顕正会が「社会悪」なのですから、それを擁護
する事は「悪」を広める事です。

http://maglog.jp/renmen/

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