2007/12/20

師走雑感  
昨夜も耕治氏から懇切なる解説をたまわった。

 ある人は「衆生は如来ではない」といいました。では、大聖人様はなんと仰せでしょう。

//唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、
 ここが結論です。「衆生は如来ではない」という考え方は、現在、創価学会以外のおそらくすべての教団が、立てている共通した認識であると思います。では、大聖人様はなんと仰せですか?
 「唯凡夫の当体本有の侭を」と仰せですね。私には、何度読み返してもこの段は、「凡夫の当体」が「此の品の極理」と仰せのようにしか読めません。


気がつけば師走も半ばを過ぎ、もう今年も残り十日あまりとなった。意識としてはまだ十二月に入ったばかりのような錯覚があって、顕正新聞の五日号の話題もまだ書いていないし、是正協議会の動きも書いていないし、やらなきゃいけないことがたくさん溜まってしまっているのである。時間がいくらあっても足りない。投稿回数を増やして帳尻を合わしたいところであるが、それもままならない。第一、普段からして雑な文章なのである。ましてや投稿頻度を上げれば、余計にヒドイ文章になることだろう。だから今のペースで書いて行くしかない。

グチを書いている場合ではなかった。上掲の、創価学会以外のすべての教団・・・ということには異論がある。ようするに裏を返せば、創価学会だけが唯一の正しい教団なのだと、そういう意味を言っているわけだろう。しかし、ここでの耕治氏の論は一義に偏している、とわたくしは思う。

衆生は如来ではない

この点については、すでに書いたつもりだったが、未だに理解が及ばないようなので、もう少し書かねばならないようだ。

http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html

ここに書いてあることを少し言い換えてみよう。

衆生は、理性所具の意味では如来であるが、実相証得の意味では如来ではない、ということになると思う。三大秘法抄の御文を挙げておこう。

底下の凡夫理性所具の一念三千

大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千


また、おそらく次の日妙聖人御書などは、耕治氏もひじょうに感ずるものがあると思う。

我等具縛の凡夫忽ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なり・・・教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず・・・民の現身に王となると凡夫の忽ちに仏となると同じ事なるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。

忽ちに仏となる・・・

ここでのポイントは、まだ仏ではないことである。忽ちというのだから、次の瞬間には仏になっているのかもしれないが、現時点ではまだなのである。

樋田氏が質問会の中で言っていたはずだ。最初から成仏してたら仏道修行なんて必要ないじゃないかと・・・

これに関しては別に異論はないであろう。

最初から仏であるというのは、それはそれで魅力的である。また、ある程度の修行を積んだ段階で、自分はすでに仏と同等であると錯覚する場合がある。だが、大聖人はこれを破折あそばしている。法華講員がしばしば引用しているので、今さら紹介するまでもないが、いちおう二つの御文を示しておこう。

禅宗は理性の仏を尊びて己仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり。

(禅宗は)是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷ふて、大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てゝ而二を知らず。謂己均仏の大慢を成せり。

蓮盛抄と聖愚問答抄である。いずれも禅宗を破折あそばす段であるから、直接的には創価学会とは関係ない。ただし、一歩間違えれば、同じ穴のムジナとなる危険性があるのだ。法華講の諸氏はそれを言っているのである。

2007/12/21  6:35

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、おはようございます。

 一般的に言って法華講の方々は、即。の概念の理解に貧しさがあります。

 衆生と仏は、即。の関係です。
 イコールではないのです。

 仏道修行とは、即。の部分です。

 『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、』
 (四信五品抄)

 産着を着た皇太子は赤ちゃんであり、天子ではありません。
 しかし無事育てば天子です。

 竜も、生まれたときは蛇に劣ります。
 育てばば竜です。

 本質が同じで形態にだがあるだけなんですよ。
 然しながら育つためには凄まじい生存競争を勝ち抜かねばなりません。
 この勝ち抜く行為が、即。です。

 では衆生はどのように仏を開けるか。

 『、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。』
 (一生成仏抄)

 大聖人様は衆生と仏は迷いと悟りの差。と、明確に仰せです。
 そしてその迷いを悟りにするためには、命を磨け。と。仰せです。
 磨き方は、
 『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。』

 とご指南です。
 
 そしてそのお題目を、

 『末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり』
 (三大秘法禀承事)

 布教を伴うお題目でなければならない。と、明確に規定されておられます。

 これが、末法の、即。なんです。
 大聖人様の仰せです。
 信じる以外に無いと思いますね。

 

2007/12/20  23:28

投稿者:耕治
まず、何度も繰り返し述べていますが、衆生と仏の差は、自らが仏で有ると悟っているか迷っているかの差である。

 迷っていても、当体そのものは不変です。仮にあなたが悟って仏になっても、あなたは別人の何者かにはならないのです。

 怒って入る時のあなたも、喜んでいるときのあなたも、同一人物であり何者かに取って代わられるわけではありません。

 菩提樹の下で成仏する前の釈尊も、成道後の釈尊もその体は同一です。では、なにが変わるのか?
 それは自らが南無妙法蓮華経如来そのものであることを覚悟して、その後の人生が、本有の生死に変わるのです。

 釈尊はもともと凡夫で、難行苦行のすえ30歳で仏になったといいます。(しゃく仏)
 なにを悟ったの?
 それは五百塵点前にすでに修行して仏になってたことを悟ったのでしょう?(本仏)

 しかし、悟る前は苦しんでいたんですよね。ところが悟った時、もともと自分が仏であったことに築いたのですよね。

 では、修行はいらないのかというと違いますよね。あなたは、仏様ですといわれてそれが、なんになるのですか?何にもなりませんよ、悟らないと。

 このことは、一貫して申し上げているとおりです。

 

 

2007/12/20  23:28

投稿者:耕治
まず、何度も繰り返し述べていますが、衆生と仏の差は、自らが仏で有ると悟っているか迷っているかの差である。

 迷っていても、当体そのものは不変です。仮にあなたが悟って仏になっても、あなたは別人の何者かにはならないのです。

 怒って入る時のあなたも、喜んでいるときのあなたも、同一人物であり何者かに取って代わられるわけではありません。

 菩提樹の下で成仏する前の釈尊も、成道後の釈尊もその体は同一です。では、なにが変わるのか?
 それは自らが南無妙法蓮華経如来そのものであることを覚悟して、その後の人生が、本有の生死に変わるのです。

 釈尊はもともと凡夫で、難行苦行のすえ30歳で仏になったといいます。(しゃく仏)
 なにを悟ったの?
 それは五百塵点前にすでに修行して仏になってたことを悟ったのでしょう?(本仏)

 しかし、悟る前は苦しんでいたんですよね。ところが悟った時、もともと自分が仏であったことに築いたのですよね。

 では、修行はいらないのかというと違いますよね。あなたは、仏様ですといわれてそれが、なんになるのですか?何にもなりませんよ、悟らないと。

 このことは、一貫して申し上げているとおりです。

 

 

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