六甲修験について、地元西宮、西宮郷土資料館で昨年催しがあったようです。
企画内容の文章がアップされています。
http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo/tenji/tokubetutenji/26sangaku/zuroku.pdf
六甲修験の関連寺院や行場、ルートなどが確認できます。中でも、六甲山の修験ルートの最後の締めくくりが唐櫃の四鬼家となっていることに注目です。
>『住吉村誌』(住吉村は現在の神戸市東灘区)には「彼の役の小角は、この山を大峰山と同じく日本行者の七修行場の一として開發している。即ち鷲林寺から東六甲を登り頂上の石の宝殿に至り、それから西して住吉越道を横切り尾根傳ひに西六甲の蜘蛛の岩、三國岩等の行場に至り唐櫃越を下つて唐櫃村の修験宿、四鬼山伏の總家に到着するのが所謂六甲修験道の通路であつた。<
六甲山入山に関してすべてを掌握していたのはこの四鬼家であったといえそうです。まさしく検非違使のような役割を果たしていたのであって、特に多聞寺と密接なつながりを持って、六甲山の重要拠点を守ろうとしてきた、ということがよくわかります。
一般の人々が勝手に入山することに対しては厳しく制限が設けられていたようで、特にそれは多聞寺の奥ノ院のある唐櫃山=西六甲方面では厳格に守られてきたようです。 六甲山=ムカツ峰=ムコ山は古くは女人禁制の山であったという話もあります。唐櫃では、男の子は幼少期から弓矢の訓練を受け、腰には刀をさしていました。農業、生活の糧は主に女性が担っていました。(註:参考文献神戸女子民俗学研究会『久里』3号高室佐知子氏『お塔祭りと唐櫃』)
有野や二郎村など、隣村の農民のように農地を主体とした農業を生業とするのではなく、唐櫃の住民は、六甲山に入山して鉱物資源を含む山の産物を収穫することを生業としてきたことの意味には、唐櫃山の重要拠点を守る、ということがあったのではないでしょうか。(註 参考文献『久里』3号 中村咲子氏『唐櫃と多聞寺』)
そのことを最も象徴的に示した逸話が「四鬼家の火なわ」の話です。
http://ameblo.jp/kikyou-70/entry-10625703341.html
>唐櫃村に留吉という、たいそうお母さん思いの息子が居りました。お父さんを早くに亡くしていました。余計に、お母さん思いになったのでしょう。ある日のことです。
村の庄屋さまの御用で、手紙を大阪のお役人さまに届けることになりました。
留吉は、朝早く、薄暗いうちに家を出て、大阪に向かいました。
そのころは、「唐櫃道」といって、六甲山を越えて、住吉へ出る道しかありませんでした。
昼になり、夕方になっても留吉は、戻ってきません。とうとう、日も暮れ始め、あたりは暗くなってきました。お母さんは心配で心配でたまりません。
お母さんは、いても立っても居れません。そこで四鬼さまの御家にとんで行きました。
そして、どんな魔物でも退治する事の出来る。不思議な「火なわ」を分けてもらいました。 この「火なわ」を持って、留吉を迎えに六甲山に登って行きました。
「留吉やぁーい。留吉やぁーい」と、暗い山道を「火なわ」をふりかざしながら、お母さんは六甲山に登って行きました。どんどん登って行くとかすかに「お母さん」「お母さん」と、黒々とした山の上の方から、かすかに留吉の呼ぶ声がします。それに、いつもと呼ぶ声が違っています。
お母さんは、急いで声のする方へと登って行きました。すると、どうでしょう。
黒いかげが、二つも三つも留吉の周りを取り囲んで、「ウフフ、ウフフ」と、奇妙な声を上げていました。留吉は、どこで手に入れたのでしょう。棒を一生懸命に振り回して、影のようなものが近づいてくるのを防いでいます。「留吉や、しっかりしておいで。『四鬼さまの火なわ』をもらってきたから。」と、大声でお母さんは叫びました。
その声が終わるか、終わらないうちに黒い影は「ウォー、ウォー」と、大声を上げて、転びながら山の中へ逃げて行ってしまいました。危ない所で、助かった留吉は、お母さんと抱き合い、涙を流して、無事を喜び会いました。
そんな不思議なことが『四鬼さまの火なわ』には、何度もありました。ですから、唐櫃の村の人達は、『四鬼さまの火なわ』を大切にし、六甲山を越えて行く時には、必ず、『四鬼さまの火なわ』を持っていきました。
ところが、ある秋の日のことです。御影の乾物屋の番頭さで、仁兵衛さんという人が商売のために、六甲山を越えてやってきました。
その日は、お天気もよく、朝からよく品物が売れました。全部売るのに、沢山沢山歩きました。ついつい、帰りが遅くなってしまいました。やっと商売を終えて、唐櫃村までやってきますと、もう日は暮れ始めています。
六甲山を越えて帰るのですが、その前に腹ごしらえをしなくては、とても帰れそうにはありません。 そこで、いつも立ち寄る茶店で夕御飯を食べました。
食べ終わって出かけようとすると、茶店のおばあさんが、びっくりして声をかけました。
「仁兵衛さんや。夜になると、恐ろしい魔物が出るかもしれないから『四鬼さまの火なわ』を持っていかなくてはねぇ。」といいました。
ところが、仁兵衛さんは笑いながら、「なぁに、大丈夫。この刀があるから。」と言って、すたすたと山道を登って行きました。
そのあくる日、村の人がたきぎを取りに山に登りますと、どうでしょう。仁兵衛さんは岩陰で血だらけになって、横たわっていました。きっと魔物に食い殺されてしまったに違いありません。それからと言うもの、村の人たちは『四鬼さまの火なわ』をとても大切にしました。そして、ほかの村の人にも六甲山を越えるときには『四鬼さまの火なわ』を持って行かせたそうです。<
この話にあるように、夜中に北六甲から六甲山南麓へ向かう際、四鬼家の許可をもらった、という証がなければ勝手に入山してはならない、という恐ろしい教訓が地元の人々に浸透していたようです。このような逸話を使って六甲山、特に西六甲=唐櫃山を統率する四鬼家によって、多聞寺奥ノ院は守られてきたものと思われます。
四鬼家は伝承の通り、役行者の子孫に違いありません。もし仮にそうでなくとも、役行者の命を忠実に守ってきた重要な家系です。