丹生氏が本当に水銀に関連したかどうか?
物質民俗学によるこれまでの検証は本当に正しかったのか?
精銅、製鉄以外に本当に聖武以前の歴史も見えてくるのか?
きわめて疑わしいので、再検証する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●水銀 Hg
http://209.85.175.104/search?q=cache:0jeipgqyy4cJ:www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/kijun/dl/k05.pdf+%EF%BC%A8%EF%BD%87%E3%80%80%E6%B0%B4%E9%8A%80%E9%89%B1%E5%BA%8A&hl=ja&ct=clnk&cd=6&gl=jp
●日本の水銀鉱山
「辰砂(水銀朱)は,ベンガラなどよりも色あざやかで好まれ,朱,丹などとよばれる.辰砂を産出する水銀鉱床は,日本列島各地に分布するが,とくに中央構造線上に分布する大和水銀鉱床群や,阿波水銀鉱床群は代表的なものである.『魏志』倭人伝にいう「其山有丹」は,これらの鉱山であるという説もある」
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/josetsuten/3.htm
「丹生鉱山(にうこうざん)は、三重県多気郡多気町(旧・同郡勢和村)にあった水銀鉱山である。丹生水銀鉱山、丹生丹坑、丹生水銀山ともいう。」
「昭和17年(1942年)の名古屋通産局による分析結果では、水銀の含有率は保賀口付近において2.03%、日ノ谷前においては1.81%であった。鉱石の品位は0.5%であり、当時の全国平均は0.3%であった。」
「伊勢国飯高郡において郡司によって水銀採掘に徴用された人夫達がいた。彼らは常日頃から地蔵菩薩を熱心に信仰していた。水銀採掘のために「十余丈」ある坑内で作業をしていた彼らは落盤事故に遭遇して閉じ込められてしまった。彼らは、お地蔵様に念じ続けた。すると、見事救い出された。」
「丹生には日本で唯一、水銀座と呼ばれる座が存在した。水銀座も他の座同様、本所と呼ばれる庇護者が存在したが、それは近隣の伊勢神宮ではなく、朝廷の中心に位置する摂関家が本所になっていたのではないかと考えられている。伊勢神宮側が朝廷に対して商取引や水銀山の領有を巡る丹生の水銀商人の横暴を告発する訴訟が提起されている。当時、水銀座は摂関家の権威を借りて、威圧的に商取引を進めたり、他の座の利権を侵食したりする事もたびたびあったと見られる。」
「このように、水銀は重要な物資であり、これによって丹生は中央と強い結び付きを持っていたと見られる。こうした実際の水銀生産を巡る遺跡として、丹生若宮遺跡が存在する。ここからは辰砂原石や辰砂粉砕用とみられる10点の小型石臼の他に、水銀の製錬に使用したと考えられる甕が発見されている。甕の内部には、水銀鉱石等の分量を示すと考えられる墨線が引かれている。また、甕の内部からは微量の水銀が検出されていると同時に、最高25万6300ppmに達するヒ素が検出されており、これは天然のヒ素鉱物に匹敵する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9
●国内鉱山一覧(注:これらの分布図はあくまで現代の、工業用目的堀である。かわかつ)
http://www6.airnet.ne.jp/~mura/mine/info/list/index.html
このサイトのトップページ
http://www6.airnet.ne.jp/~mura/index.html
この鉱山一覧によれば・・・
奈良県には大和水銀鉱山というものがあり、
和歌山県飯盛鉱山は硫化鉄であるから、天野の丹生氏の「丹」とは当初ベンガラであったと考えられる。
西日本でその他の水銀鉱床は
徳島県の鉱床・水井水銀鉱床や
三重県の鉱床・丹生(にゅう)、水沢(すいさわ)水銀鉱山がある。
この伊勢丹生の水銀は確実に近世頃まで採掘記録がある。また実際に古代からの坑道と近世の坑道も並んで残っている。
(奈良時代の大仏鍍金関連、あるいは飛鳥・天平、あるいはそれ以外の古代・中世の水銀採掘のほとんどは三重県伊勢の丹生水銀鉱山からだと考えられている。つまり伊勢丹生鉱床のそれだけ大きかったことがわかるし、なおかつ近代になってもまだ採掘されていたことからも、伊勢の丹生が日本最大級の水銀鉱床であったことがわかればよいだろう。かわかつ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関連項目→伊勢白粉(おしろい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9%89%B1%E5%B1%B1#.E4.BC.8A.E5.8B.A2.E7.99.BD.E7.B2.89.EF.BC.88.E5.B0.84.E5.92.8C.E8.BB.BD.E7.B2.89.EF.BC.89
鉛も丹である (黄丹、鉛丹)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41692744.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり「丹」と書かれていたからと言って、必ずしも水銀とは限らないのだということ。
鉛丹(黄丹)、褐鉄鋼、赤鉄鋼(ベンガラ)なども丹と混用している可能性が高い。
また、水銀(朱)そのものにもいくつもの種類と性質がある。
さらに水溶性のもとそうでないものがある。
古い文献における朱沙、辰沙、丹などの使い方はあいまいなことが多い。
丹生都比売伝承がある場所に水銀が出るとは限らず、鉛丹、ベンガラの混用であった可能性も頭に置かねばならない。
水銀鉱床が中央構造線と関係があるとする考え方そのものを見直す必要性すら考えられる。
しかしながら古代日本の水銀採集鉱床の分布一覧などないわけだし、文献そのものが信頼に充分ではなく、まして現代の目的試掘外の鉱床分布となればまったく存在しない。
自分で行って土を採集し分析してもらうしか、まったく調査手段はない。
近代以降の物質民族学からのアプローチはあくまでこうした理科学的分析を経た推論ではなく、きわめて空想文学的な類推に過ぎないことも知っておかねばならない。中にはPPM数値を提示する著作もあるが、その数値の把握の仕方がはじめから間違えている。そしてその著作が丹生分析のパイオニアで、他の意見のすべてがその著作から始まっている。これでは信頼できるものではないと判断するしかない。
こうした中にあって、伊勢丹生水銀鉱山のみが大仏鍍金に関して唯一の産出可能地域であったと言えるだろう。
その産出量から考えて、奈良大仏の鍍金に用いた水銀の量(500両以上)に充分な産出量を持ち得たと見てよいのではなかろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丹生氏という不明の氏族が、和歌山県と奈良県の境にある葛城山の裏側にある天野地区を本拠としていたと考えられている。
当初、縄文からの?ベンガラ採集民であったものが、鍍金用水銀探索採掘民となっていったと考えられている。
その探索の痕跡地に丹生都比売を祀っていったとも考えられている。
そして仏像ブームが水銀禍によって下火になり、都も京都へ移ってしまうと、彼等も農耕へとなりわいを移行し、かつての丹生都比売はミツハメノカミという水の女神に変わっていったとも考えられている。
しかしながら、残存されている丹生氏の末裔?の方々はすでに古代の鉱山氏族の記憶はご存じないようだ。
結論として現時点で、丹生氏がベンガラあるいは水銀に関わったかどうかまったく不明であるというしかない。
ただ、天野の丹生川上神社敷地内には銅鉱山は存在する。
そして多くの鉱山開発氏族達が、鉱毒を恐れて鉱山の近くには住んでいなかったことを考え合わせれば、伊勢に丹生地名があるのだから、丹生氏が入ったのではないかという推定は可能である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
みぶ、にゅう部と丹生部の違い?
壬生、乳、入といった部が存在し、それと丹生部の関連がたまに取りざたされてきたが、いかがなものだろうか?
まず音韻に違いがあるようだ。前者が「みう」「にう」であるのに対し、丹生は「にほ」派生である。
「にほ」とは丹が生まれるという意味であろう。
しかしながら「みう」「にう」は皇族親王たちの乳部、すなわち養育係の役職名だと思われる。
ただ、宮崎県西都市にある都萬(つま)神社には「お乳」の神様としておそらくだが水銀?の女神が祀られている。
そのお乳の神様の社殿のそばに大王家の養育者だったと思われる日下部氏の痕跡が書き残されている。
日下部氏もまた全国に広がる氏族であるが、日下部という部民の管理者で、4〜5世紀には九州各地で靫負部だった氏族なので、天皇以前の倭国の大王家の国衙だったと考えられ、草壁皇子などの皇族の名前があることからもおそらく養育者だったのかも知れない。
今のところやはり推論だが、都萬だけが私が知りうる、水銀と乳部のつながりそうな場所である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この問題は結局、門外漢の出る幕ではなさそうで、丹生川上神社の神職となる知人の考察に期待するしかない。この氏族の末裔の方々が真実を告知するかどうかはわからないし、それは個人の自由である。
しかし飯盛山が現在も硫化鉄鉱山なのだから、丹生氏がまずはベンガラから来た氏族名だったことはほぼ間違いないのではないか?
それがもし水銀へと移行していくとすれば、大仏鍍金のつながりで聖武時代になにか記述が残るはずだし、貢献度から相当な役職になっているはずであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丹生氏がなぜかまど神を名乗るか?
丹生氏の枝族に竈にまつわる氏姓があったようだが、竈神とは「おくどさん」の火を守る神であろうか。
一般の常民の間では昭和初期まで台所のかまどの上にこの神様の顔を刻んだ面が火災除けとして祀られていた事例がある。
かまど神の派生を鍛冶神ととらえれば、吉備などのような湯立て神事があってもおかしくないが、その点はつまびらかではない。
もしも鍛冶神であるならば天野では硫化鉄や銅鉱床があるのだから、当然、飯盛山から吹き下ろす季節風は春の北西、吹き上げる風は秋の南西双方がやってきて、まさに鍛冶屋にはふさわしい場所である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丹生氏たちは丹生都比売がもともと国主神という名前であって(『丹生祝本系帳』)、のちに丹生氏の神なので丹生都比売としたとあり、丹生都比売は「豊穣の象徴としての母なる神」であると言っているそうである。
「丹生都姫には確かに赤(朱、丹、赤土、銅(あかがね)など)にまつわる一面はありますが、それはあくまでも、丹生都姫の性格ではなく、丹生氏の職能がそうであったかもしれない(可能性としては高い)と言うだけで、丹生氏は丹生都姫をそのような神としては祀っていないと言う。丹生氏は丹生都姫は守り導いてくれる母なる神と言っている。
それに関して面白い話をしましょう。丹生祝氏本系帳には、丹生氏がまだ名前が無いころ、祖先の神を「国主神」と言う表記で書いています。その後丹生氏を名乗り、その後に丹生都比売の大神と表記されています。つまり、もともと祀る神がおり、のちその神に名前を付けるとなった時に、自分達の一族の神(祖先神)と言うことから、つまり丹生氏の姫神と言う意味で丹生都(もともとは津)比売となったのではと言う推量も可能なんです。」
http://kamado.blog.ocn.ne.jp/niu/2008/09/post_1c7b.html
しかしながら、この「母なる神」という観念は全世界的に存在し、その実態はやはり「豊穣のヴィーナス」である。そして豊穣の富を生み出すという意味を世界中に探してゆくとそれは具体的になってゆき、まず海の民ならば湾処の海産物であり、山の民ならば鉱物や水源だったり、野の民ならば農産物となるわけだ。その共通概念としては女神はすべての生産者の先祖で、特に中国の神仙思想では西王母という人類と土器を作った概念である。土器こそは壁画、籠編みとともに人類のもっとも古くからの創造物で、それにはベンガラでの塗色が必ずついてくるのだ。
従ってどうやら豊穣の女神、母なる大地神という概念と土器制作者が世界的に女性であることは、やがて女神、母神というものが「こねた」「あみこんだ」=つまり念と呪によって創作した器物すべてが「豊穣の富」となった可能性が見えてくる。
そして鍛冶屋が同じく母を、あるときは神とし(金屋子姫など)、またある時は月経時や産気づいた女性を禁忌としたことと、ベンガラ塗色による再生願望がある人種から見て「忌」でもあり、またある人種から見れば「祝」だったり表裏一体となっているわけで、やはりなんらかの類似性はありそうなのではある。そしてこうした信仰がその始原を縄文以前の原始の頃にまでさかのぼれる(少なくとも朱を土器や墓に塗る習慣は4000年以上前にまで遡る)ことは確定している。
しかながら、だからといって、丹生氏がそうだったとするにはいささか恣意的な「先にありき」論とは思えるが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いくつかの確定事項はあったことになるか?
1まずすべての丹生が丹からきたかどうかはまだわからない。
2伊勢の丹生は水銀で間違いない。
3天野とは雨乞い。
4天野の丹生は銅と硫化鉄。
5丹生都比売は豊穣の大地母神。この観念が入る以前は国主神(くにぬしのかみ)という土地所有者を示す男神。
6ミツハメノカミになったのは記紀神祇以降。
7全国の丹生氏がすべて同じ祖から生じたかどうかはわからない。
8水銀は度を超えなければミネラルのひとつ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いまひとつだけ・・・。
「国主」の音読みは「くず」。
丹生川上神社の領域には国樔がいたことがわかっている。
吉野から熊野は職能民と漂泊民がたくさんおり、この中から木地師や漆職人など今に伝わる人間国宝級の匠が出ている。
この遊民たちはかなり古くから住み着き、おそらく狩猟採集生活をしていなければ生きていけないだろう。
これはそれだけを書いておきたい。
国主とはオオクニヌシがあるので、まず土地の開発と領有の意味だろう。ならば国樔たちも束ねる必要があったはずである。
天武時代以降、丹生川上神社は何度も肉食禁忌令によって彼等を戒めている。そして自らも動物供犠による祭祀をやめたのだと思う。
古代は祭政一致なので、神祇官は政治にたづさわった。つまり神社は国司でもあるわけだ。これを国造(こくぞう)と言う。
紀伊国造は紀氏である。
紀氏は、のちに紀貫之などの文人を出す家柄でもあるが、『新撰姓氏録』では蘇我氏、平群氏などとは同族である。
由来では神武天皇設置の国造祖先の子孫である。もちろんこれらは付会に過ぎない。時代によって変遷する権威的な肩書きに過ぎない。
丹生氏は紀氏よりも古い氏族だろう。
丹生氏が古い名族であるのに国造を紀氏に譲り、表に現れた様子がないのは、おそらくこの氏族の気概なのだろう。
ピュアな氏族性を重んじて、中央に媚びなかったということなのかも知れない。
すなわち丹生氏そのもは決して滅びてしまってはいないのだから、今後、真実はおのずと表出してくる可能性はあるわけである。
もっとも閉鎖された森の中の古い規律が時代に合わせて(相撲界のように)ゆるむことが前提の希望に過ぎないが。
ともかく、葛城山の南側にいまだ古代を引く継ぐ伝統が残存していることは、とりもなおさず日本の誇りでもある。
変わって欲しいような、欲しくないような、知りたいような、知らない方がいいような、そういう気持ちだ。
氏族をくどくど調べることにあまり興味はないが、記録された氏族は少ない。そこから歴史が見えるのならば、学者はどこまでも踏み込むのが仕事だろう。それが命をかけるほどの価値があるかどうか私は知らない。
ヒトがいるかぎり「知りたい」はなくならない。それだけはどうしようもない。知ったところで、桜井女史ではないが「日本の歴史を知らない者は日本人じゃない!」とまで思う一般人は「残念ながら」ごくごくわずか。知られたところで世界がどうなるわけでもない。
だったら言っちゃえば?とも思いもする。どちらでもいい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かわかつは稲作より鉄器鉱物、鉄器よりも土器、土器よりも籠編み・・・というふうに過去へ過去へと遡るしかない。
知りたいことは山のようにある。

HP
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/や、姉妹ブログの「民族学伝承ひろいあげ辞典」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.htmlも考慮されたうえでクリクリしてねっ!!