11月11日の纏向遺跡新発掘・卑弥呼の宮殿!?記事。今回も報道は大和の学者が大好きな土器からの分析が多かった。
まきむく(あえてひらがな表記する。というのはパソコンで表示される纏向という文字は誤りという意見があるので)遺跡の土器からは、この時期、ここが地方の連合体だったことがわかっており、それは魏志記述から類推される女王国連合があっただろうことに合致する。
しかしどの地方がもっとも多かったかという分類では、3世紀当時まだ縄文文化のメッカで後進地帯だったはずの東海地方の土器が最も多い。これらの東海系土器はその多くが実用食器群であり、東海からまきむくに集合していた人々が常民技術者たち(土木関係者)だったことが類推できる。
その点、岡山県吉備系の土器は多くが祭祀用であるから、当初、まきむくは吉備の祭祀者によって管理される場所だったと考えられているわけだ。
これが3世紀後半から北部九州系の祭祀用土器に変遷してゆくことは、報道では伝えられてはいないのは問題である。
また、土器では東海、吉備、丹後からの来訪が多かったのは間違いないが、鉄器に関しては圧倒的に九州系という結果が出ていることも報道されていない。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50109346.html
総合的に類推するなら、卑弥呼の時代以前ののまきむくは吉備系王族が中心、卑弥呼以後は北部九州皇族が中心にいたとなる。ということは吉備の衰退があって、次第に九州に、まきむくは奪われていく(交代していく)という結果になる。
従ってまきむく建設の指導者だったのはやはり北部九州の「大陸渡来人=大陸の騒乱を避けて九州に逃避行していた長江あるいは黄河文明人=倭人であり、博多周辺でまきむくの建設が整うと同時に大挙してまきむくに移住してきたと考えるのが整合的である。
稲作と鉄器を西九州に持ち込んだのは長江からの逃避行倭人である。
ところがそのあとから中国では再び騒乱があって今度は黄河文明の人々が博多にやってきた。長江逃避行倭人は次第に南下や東へ移動し、九州では有明海、近畿では大阪湾へと中心地を大きく変え、博多をあとから来たものに明け渡すのである。
邪馬台国連合、女王国連合とは長江流域から逃避行した倭人の連合だったが、3世紀後半にはそれが黄河流域から来た新しい勢力に帰順したと考えられる。
その黄河からの逃避行人が倭五王になるのだと考えている。
その痕跡は、これまで民族学伝承ひろいあげ辞典ブログでコラージュ的に分析してきた
1博多と大阪に残った粉食文化
2博多人と大阪人の頭骸骨の「ハチ」形状の大陸的類似
3言葉のイントネーションの類似
4ふるい海人族風習(産小屋や埋甕、隠居、月経小屋風習など)が博多と近畿には空白。
を裏付けるのである。
現在までに畿内と博多だけは中国黄河流域のステップ・乾燥地帯独特の文化が残存したことは明白であり、それは長江人の稲作・南方系湿地文化ではないことも明白。関西弁という日本ではそこだけの抑揚が残った希少地域が畿内なのであり、博多弁もそうなのだとなるわけだ。
これは日本人のDNA遺伝子分析結果で圧倒的に北方系DNAが多いことと矛盾しない。先土器時代に日本にやってきていた先住民と弥生人が北方系であり、長江逃避行人と縄文からの海人族=白水郎=海人だけが南方系だった。
弥生人の中で北方系黄河流域からの逃避行人が邪馬台国連合にとってかわって畿内に入ったことがそのまま倭五王の大古墳出現になっていったのであろう。こうして畿内には邪馬台国時代からの残存長江倭人王室と黄河流域逃避行人の王室とがせめぎあい葛藤が起こるのであろう。
日本人は世界的にも例を見ない複雑なアジア人種の坩堝である。
記紀や『宋書』が言う、先住民がニギハヤヒに帰順していたところへ神武がやってきてこれをさらに帰順させ、それが崇神によってさらにミックスされ、最後に応神の河内王朝が現れて中国の大将軍称号授受となったという流れこそがこの列島の大きな道筋で、それはそのまま聖徳太子時代の『隋書』記述に延長されていく。そして二大血脈と旧態先住民の三位一体で日本ができあがる。結果的に民衆は先住民、貴族は中国人、その中間の武家は倭人という中世日本人の基本的構造が完成したのではあるまいか。
たまあにクリクリしてちょうだい!↓↓↓


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