これまで自由トライアルだった九州秋の装飾古墳公開。
今年からは有料のバスツアーがメインになった。
こうした文化財公開事業が料金を取ることにやぶさかではない。むしろ、20年関西に住んできたKawakatuには、これまで無料だったことの方が不思議である。
民主党政権になったからというわけではないが、もちろん前政権下でも緊縮財政になって行けば、いずれにせよ文化財保護、学問へのしわ寄せはいずれはやってくる。公共事業費の削減が学究の世界にもいよいよ影響してきたことの証明が、今回の有料バスツアー化になったことは想像に難くない。
たとえそうでなかったとしても億単位の保護費がかかる文化財保護には、みかえりがほとんどないのが実情。これらに相応の金銭を払い、見せてもらうのは当然なのだ。
ただし、そうしたならば、この時期だけは、自由トライアルしたものからも有料(ツアーよりも格安で、一律料金)にしてよかった。今回の公開でチブサン古墳だけは通常通り、ツアー客以外から入館料金をとったが、それはかまわない。料金100円などは安すぎるくらいだ。管理している全古墳で一律の拝観料を謳いあげるべきである。
バスツアーは4台のバスが出るほどの盛況ぶりだった。つまり有料でも、ちゃんと九州の装飾古墳はツアーになったのだ。
京都や奈良では地名ブランドに便乗して、どうでもいいような社寺でさえ有料である。九州も古墳に関わらずもっとブランド力を信じてもいいのだ。国指定だからとか県指定だとかに本当の好事家はこだわらない。自信を持ってお金を取り、施設、管理を充実することに誰も反対などしない。
さて、今度は見る側の問題。
装飾古墳の見方の問題。
最初、古墳に関わらず、初心者は漠然とそれらをながめるが、リピーターは違う。一度見学したらなんらかの問題意識を持ってやってくる。
どのように問題を持つかは人それぞれである。
Kawakatuの場合、
■石材は何でどこから調達し、それにはどんな人が関わったか?
■被葬者はどのような人か?(おおまかに言えば中央の人だったか地方豪族だったか)
■装飾に地域によりグル−プ化は可能か?氏族によって違う装飾を持っていたか
■大きな古墳の周辺には民衆墳(横穴墓)が存在するか。
■その氏族グループはなんのために辺境の台地(尾)にやってきたのか?
などをいつも質問する。
巨大な古墳、美しい装飾がある古墳の人はリーダーであり、横穴墓は民衆のものである場合が九州の場合多い。奈良時代の墳墓縮小命令(薄葬令=はくそうれい、700年代初頭)による横穴古墳の時代が始まるが、九州の横穴墓は6世紀あたりからすでにあったとされているゆえ、それらは氏族の部民のものである。そういう目でみると当時の氏族構成にまで意識が行き、がぜん生活感が出てきて、古墳探訪は実に想像性がわいてくるものだ。
これまで考古学が一般に告知してきた古代は、巨大な古墳、巨大な遺跡・・・すなわち「えらい人の立派な、言い換えれば一般受けすると学者が勝手に考えてきた・・・もの」ばかりだった。そこに生活感はなかった。「なぜそこに彼らは着たのか?」これには必ず理由があるはずだ。
都市ができていく過程には、必ず「必要」がある。その必要とは「産業」である。
縄文時代のように移動しながら産物の多い場所を探す時代ではなく、弥生以降は定着の時代である。それが稲作ばかりのためであるはずがないと思うのは、食い物だけでは国外交流、貿易には発展しないからである。とうぜん、外国が欲しがる鉱物、塩、魚介類、織物、美術工芸品などなどが必要である。中でも自国の防衛力や軍事力、富国強兵にすぐにつながるのは重工業=製鉄、鍛冶である。鉄は武器や農具に、銅や銀や金は祭器、装飾品になる重要な産物だ。これは実は現代もなにひとつ変わっていない。製鉄がだめになれば自動車産業は大打撃を喰い、家電などもそうなる。そして鉄を溶かすための燃料=古代は炭、現代なら石油、もまた非常に重要なものである。
大古墳があるならその被葬者一家を養うための産業が生まれる。そんあことは自明の理である。だから彼等には子飼いの部民が何十人もいたはずだ。彼等も生活しなければならない。
さらに、それらの氏族もまた、中央の人々を食わせるためにそこに出張してきていたわけである。6世紀の時代にはもう国家ができている。それは倭五王の時代だからである。
倭五王の直轄宰相は日本の東西に一つずつあった。
西は大伴氏である。
大伴氏は靭負大伴(ゆげい・おおとも)部という配下を持っていた。
靫とは弓矢を入れるための背負い籠である。
靫負とはその武器を背負う・・・武器・・・軍人・・・武器管理者であることを示している。
しかるに九州の北半分の古墳のほとんどにこの弓と靫の装飾が描かれている。
だから装飾古墳の被葬者たちの多くが大伴靭負部(靫部とも書く)の眷属だったと、おおまかに考えられるわけだ。
その一族には地域によってグループがあった。
日田の日下部、葦北国造、八女の水沼君、企求物部、宗形、海部、津守部、的臣(いくはのおみ)などである。
このように1400年前の氏族名はあらかた想像できる。記録と考古学が合致するのだ。
的臣などは地名になっている。「うきは」郡。だから浮羽郡朝倉、日ノ岡などの装飾は円紋系でこれは弓矢の的をも象徴した・・・などなど想像が可能になるわけだ。
日田の東寺ダンワラ古墳の場合は日下部である。
葦北国造はおそらく日田日下部の大元となる人吉地方の草部であろうか?
考古学は絶対にこうした断定はしてくれない。遺物や古墳には名前が書いているわけではないからだ。これが考古学の学問的限界である。
文献歴史学と考古学が融合して、初めてこうした仮定は可能になる。
もちろん断定は不可能だ。推定80%である。
けれどそういう言い方をすると、素人には断然、古代人が卑近な存在になるのは間違いがない。それは古代史ブームに火をともすのだ。
ひいては古墳ファンの増加に必ずつながるのである。
「うそも方便」だということなのではない。
ちゃんと記録がある人物たちにあてはめてゆくのは決しておかしなことではない。記録されたということは大古墳をもてるほどの有力豪族だったということなのだから。
倭五王の5から6世紀以降の記録はほぼ信頼できる。5世紀以降の記録なら記紀にも信頼感がある。それより前は記述に空想が多すぎるのである。
その信頼できる時代の遺物が古墳なのだ。
卑弥呼の時代では資料が少なすぎるが、5世紀以降ならかなり氏族特定は可能なのである。
こうした楽しみ方をしながら、今度は大古墳周辺の横穴古墳群を巡れば、そこに円紋や船や馬の絵・・・すなわり大古墳の親分と同じ絵を持った民衆が存在したことがわかるのだ。
彼らは山の中に墓がある、そんな台地の奥で、果たして何をしていたか?
台地のことを尾といい、尾とは蛇の尾を差す、
台地の這うような地形を蛇の尾と古代の常民は言い表したのだ。
その尾という言葉には鉱脈という意味もある。蛇にも鉱脈と言う意味がある。
ゆえに台地に横穴墓を持つ、装飾を持つ常民たちは大伴靫負部の一番下にいる労働者とそのリーダー(族長)の墓だと仮定できるだろう。
こうした横穴墓は管理の外にある場合が多いので、常時見学可能。
しかしかなり足腰がいためつけられますがね^^。
その横穴を探すのは素人には至難の業である。
無名の少ない、しかも馬鹿高い価格の資料をひっくり返し、足腰をいため、這いずり回って見つけ、さらに装飾がある大きなものを探す。つまり究極の古墳探訪の局地である。その名人がKawakatuの九州友人にひとりいる。それが蕨手氏である。
もちろん名人はほかにもいる。
スカイトレッカー氏、Obito氏、Oobuta氏、筑紫国造氏、物怪穴守氏・・・数え上げたら山になるが、蕨手氏とKawakatuはお互い、分野の違う方面から刺激しあいながやっている。時には激しく挑発することもある。彼は忙しい。家族も大切。なにより優しい。真摯で情熱家で一直線だ。九州の装飾古墳のことなら学者以上に詳しい。

ダイタ=さえの神=古墳に掘られた魔よけの立ちふさがる人物 のごとく横穴墓に立ち向かう蕨手・インディ・ジョーンズ。我等がヒーロー。^^
昨日の古墳めぐりの解説がたじたじとなるシーンが山ほどあった。もちろんKawakatuの空想推理にもうなっていたが・・・。
実に楽しい秋の一日を、おそらく最後の無料ツアーを楽しめた。
来年から有料公開、大いに結構である。
其の分、もっともっとたくさんの古墳を公開してもらいたいものである。
儲けちゃいけませんよ、史跡で。役立ててください。未来に。
たまあにクリクリしてちょうだい!↓↓↓


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