父親の病気のために更新がおろそかになっている。申し訳なく思うがいたしかたない。彼もこの月曜日には無事退院し、もとの介護施設に移れることになったので、これからなんとか書いて行けそうに思う。
知己も忙しい仕事の合間であるにも関わらず、新たなページで最初の出会いの古墳探訪紀行をものし始めておられるようなので、その記事に刺激されて、かわかつも久しぶりにここを更新しておこうと思い至った次第である。
装飾古墳今昔紀行
http://blog.livedoor.jp/warabite/
「筑後川中流域 オフ会現地同行探訪を満喫しました」ページ
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50665377.html
書きためておけばよかったのだが、なかなかそういう気分にもなれないまま、あたら月日が経ってしまった。
赤い石棺について以前から不思議だと感じていたことがある。
熊本の中部地域・宇土から切り出された石棺が、実は地元九州にはないと言われていること。そしてもうひとつ中国地方の岡山県高梁川流域にいたるまでの山口、広島にもやはりないこと。
阿蘇ピンク石(馬門石)家型石棺の分布は、今のところ次のようになっている。
ほとんどが吉備から滋賀県に分布している。

図説上部は阿蘇凝灰岩石棺の分布、下部は宇土ピンク石石棺分布。
凝灰岩灰色石には菊池川産と氷川産がある。
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彼と同行した3月の紀行では日ノ岡古墳そばにある月ノ岡古墳石棺についてあまり詳細には書いていない。朝倉の宮近くにあるこの豪族の石棺が阿蘇ピンク石製品であるとは確定していないようだからだ。
http://white.ap.teacup.com/applet/kawakatublog/145/trackback
石室に使われたのなら宇土市近郊の城南町井寺古墳がある。しかし石棺そのものに使われた例は九州ではないことになっている。
しかし彼の画像を見るとどうもピンク色なのだ。

もしこれがピンク石ならば、北部九州にもピンク石を運ぶ「陸の道」があったことにならないか?
もちろん井寺のピンク石は煉瓦ようなブロック状にして運んだに違いない。しかし石棺は分解できないから、運び込めるのは海岸、河川の港湾近くに限られるわけで、日ノ岡地域まで運び込むとしたら筑後川しかありえない。しかし不可能ではない。
馬門の緑川にあった曲野の港から八代海へ出れば筑後川河口までわずかである。
しかしながら、現状ではどの学者もそれは認めていないのか、北部九州でのピンク石石棺使用はないことになっている。
石室、せん道に部分的に使うのと石棺自体に使うのとでは権威の意味合いに雲泥の差がある。ダイヤをちりばめたバックの裏と表である。表がいくらきらびやかでも肝心の裏側まで絢爛豪華でなければエグゼの持ち物とは言えまい。
肝心の大王の遺骸を納める身も蓋もピンク石でなければ、呪力は半減する。
また、大和に比べれば地方の旧王朝で、衰退していたといえども、ほかの地方に比べれば当時もまだ副都心、迎賓窓口として繁栄していたはずの玄界灘・博多湾からも出てこない。
阿蘇凝灰岩灰色石ならば四国北岸でさえ出てくるものが、瀬戸内を挟んだ広島、山口に出てこない・・・。
阿蘇の棺のミッシングリング。
志賀島にも遠賀川流域にもない。
要するに赤い棺を乗せた船は玄界灘の、おそらく岡の水門から穴門を抜けて四国・伊予、讃岐を経由してそのまま備前岡山の高梁川へ向かっているのである。
これが5〜6世紀の力関係なのだ。
赤いブランド石を取り寄せることができた氏族は、伊予、讃岐、吉備、大和、大坂、摂津、そして近江だけ。
具体的には、
岡山造山古墳、築山石棺
大阪長持山古墳、峯ヶ塚古墳、天王寺礼拝石、摂津今城塚古墳
奈良野神石棺、ミロク谷石棺、兜塚古墳、東乗鞍古墳、慶運寺石棺、植山古墳東石棺、鑵子塚(かんしづか)古墳、
滋賀円山古墳、甲山古墳
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ちなみに継体大王にもっともえにしのあるはずの日本海側福井県でも一件も見つかっていない。ほぼ百年間の間のできごと。
そしてぽつんとはなれて継体死後60年もたった推古女帝の皇子に使われた。
もしこれらが継体大王にえにしのある氏族だとするならば、岡山の高梁川流域は葦北国造だった鴨分君出身地でわかるし、近江は継体の父・彦ウシ王の領地、奈良県も継体関係だということになるが、植山東だけがなぜ60年も経ってピンク石を使ったのかが解せないわけだ。