大陸が動乱時代にあった三世紀、中国三国争乱と半島の胎動はそのまま小さな島国の女王を死に追い込んだ。代わりにたった新女王は幼く、力もなかった。
狗奴国と邪馬台国の大乱は、要するに大陸の二大勢力の争乱をそのまま受けた縮図であっただろう。
すなわち諸葛公明死後、北朝魏・晋が国家成立したあとも文献には現れず南朝呉にはまだまだ残存不平分子は如実に存在していたはずなのである。
山尾幸久もこの点を強調しているように、当時の東アジアはまだ一触即発の危険性を孕んでいたに違いない。
半島では百済と高句麗の間に小競り合いが続く。そこへ新参の新羅が加羅へと新修しようとしていた。百済は北と東からの侵略に弱り果て、加羅もまた虎の子の鉄素材を守りきれずにいた。この時期、加羅王は倭国へ援助を求める親書を送っている。
史書では三国志の戦いばかりが言われるが、肝心の公孫淵以後の半島周辺の小競り合いについてほとんど知らされていないのである。ところがここが最も邪馬台国研究で追求すべき間隙なのだ。
狗奴国はすでに中国南朝と古くから通じていた。それは九州南部の海人たちが自らの出自を呉太伯に求めていることから、中国南部の海岸地帯の白水郎が来ていたことが想定できるからであるし、かつ弥生時代の鉄器、稲作の渡来が、今や中国南部からダイレクトに船で来ていたという新しい論理の定説化が考古学的にわかってきたことからもわかることである。
有明海にはすでにそうした胎動が伝わっていた。
これに対して九州北岸に位置する邪馬台国同盟の旧勢力は半島・百済を通じて魏に朝貢している。つまりこれは代理戦争なのである。
だが肝心の百済は衰弱が始まっており、のちには倭国に百済王の皇子たちが逃れるようにまでなってゆく。すでにこの頃、加羅も風前の灯火だったが、倭国は加羅王の申請で援助の軍を送った。
この動乱のどさくさで、半島から逃げ出してくる勢力があった。
おそらく加羅から、騎馬と弓と戦術に長けた一族が遠路やってくる。
彼らはまず佐賀県唐津から西回りに有明海に入る。
なぜなら邪馬台国同盟の名残があった先進国北部九州は手強いし、中国北朝ともえにしがあるからだ。
また有明海にはすでに狗奴国勢力があって、これは南朝と深くつながっていたが、彼らは南朝を選ぶ背景を持っていた。それは加羅は白水郎の拠点だったからだ。この時の水先案内は対馬にいた海人族・久米部であろう。
久米部とのえにしはすでに大伴氏と呼ばれるようになる氏族が持っていた。
大伴は弓の達人でもあった。
そこでまず狗奴国を手名付け、弓技術と騎馬を伝授し、北部九州を席巻していった。
これが倭五王讃となる仁徳の先祖である。
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これが天孫降臨の真実ではないか。
倭王の事績はのちの藤原政権によって神武天皇の栄誉として国史に反映されてしまう。奪われた事績。
欽明朝以降の正統性証明の道具とされたのだ。
二世紀までの実力者、北部九州は大陸の争乱によって手に入らなくなった鉄素材を確保するために諸国への技術流出を封じてしまう。
そして近隣の出雲とだけ交流する。日本海交流である。瀬戸内は閉じこめられ、まず吉備が出雲へ侵害を開始する。
出雲は吉備勢力の精巧なマンガン技術による武器にはかなわず銅鐸祭祀を捨て去る。吉備が出雲を飲み込み、北部九州と戦乱に陥る。
仁徳たちはこれを狗奴国勢力をつかって迎え撃ち、吉備を懐柔する。
こうして倭王は河内へ入ることとなる。
このとき大和はただのシャーマンの住む秘所であり、墓場であった。女王の墓もそこにあった。だから都市機能としてダメ。そこで住之江周辺を居住地に選ぶ。ところがそこには先住者がいた。河内物部本家である。
懐柔されて物部氏は大和の桜井へ移動する。
大和には葛城族が勢力を持っていた。ふたつは共闘する。
そして葛城族の同族出雲と協力し、日本海ルートに活路を見いだした。
結局、これは倭王によって出雲奪回されてしまい、物部も葛城も懐柔され強力させられ大和開城となる。
倭王済の時代である。
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そんなことを小説にしたら面白いかもとおもいながらちびちび酒を飲むとテレビなんか必要なくなるのである。
シャーマンの住む邪馬台国はいずこ?