舟形埴輪は海部に多く、家型埴輪は乳部に多い?
家型の埴輪は家をステータスとする意味があるわけだから、そこで大王を養育したのだというひとつの権威を表現したのかも知れない。
一方船は生命を運ぶ乗り物を表現し九州から関東にいたる広範囲に主に海部地名の土地から多く出る。
どちらも死者の新たな誕生=再生=神仙思想から派生したと考えられる。
乳部は「にうべ」と読み、河内王権時代から王の養育者である。
「にう」は入、壬生、丹生とも表記されその一族には大和郡山や肥後大野の額田部、日向西都の日下部、大和吉野の丹生部、河内鵜野の馬飼部、丹後の海部、日下部、阿波徳島の海部などが著名だ。
東海地方の富士山古墳から出た家型埴輪もおそらく地名が壬生だから、天皇になる家柄の誰かのための乳部があったのだろう。成立は4〜5世紀で、河内王朝の定めたものだろう。日本書紀の応神紀、允恭紀などに入部などの役職記事が出ていて合致している。
さきたま古墳群のある場所も秩父であるから入部=乳部を訓読したものではあるまいか。
さきたまは「さちたま」で、玉造部があったからだ。
玉は魂であるから、勾玉は胎児を形状にしており、これは雄略紀、武烈紀などにある産婦の腹を切り開いたという記事に合致する。これは帝王切開だったことは一目瞭然。
こういう時の未熟な胎児や流れた水子などを古代人は見たのだろう。医学が遅れた時代なのだからそういうチャンスは非常に多かったはずだ。そしてそれを最も多く見るチャンスがあったのは女性・・・それもシャーマンだったろう。
そもそも助産婦の始まりは巫女だろう。シャーマン=カンナギ=巫は、再生と出産を司り、それこそ「さちたま」の誕生である。
埼玉県の「さきたま」語源というのも元来「幸魂生まれる場所」というげんのよい地名で、同時に渡来系玉造部があった。玉造部と幸魂はリンクしていたのだろう。
乳部がちちべではなく「にうべ」と音読されるのは丹生の赤が再生の色で音が同じ事から混同していったためだろう。
宮崎県西都市にある日下部氏住居跡がある都萬(つま)神社にはお乳の神様がある。「つま」とは妻であるから、乳を出す乳母を示す。西都原古墳群の被葬者を考える時に日下部氏はヒントになるだろう。