「かわかつ三つの冒険・オフ会報告第一弾・赤村・田川」
古代史
行程延べ五日間を要してかわかつワールド冒険の会会員のみなさま、そして相棒との古代史ミステリー冒険をすこしづつアップいたします。
まず初日は予定の出発日を一日早めて豊前、北九、田川です。
当初は遠賀川流域の装飾古墳を研究家のW氏と土曜日に回る予定でしたが、筑豊田川地域にも古墳が発掘中との情報で、かわかつだけ急慮田川に一泊することにしました。
目的地まではかつて仕事や研究調査で何度も訪れていますから、慣れたものです。
HPで無くしてしまった「赤村」ページの修繕のためと、八幡摂社大根川神社、中津市八幡古要(こよう)神社と横穴古墳の再訪問をしました。
大根川神社は河童の淵があって大根とは禰宜の根ですから、祭祀の根本を指しています。

古要は神相撲の里です。中津市伊藤田ほきにあって、八幡にささげる隼人供養の人形劇が行われます。ここの裏側に古い横穴古墳群があり、写真におさめました。
つぎに椎田道路で畑冷泉を経て、行橋から草場、赤村です。
赤村の赤が果たしてロッコーンを持つタイのアカ族と関係あるかどうかはわかるはずもありませんが、とりあえず特牛山だけは鉱物に関与する地名です。とりあえずここはまだ何度か行かねばなりません。それに草場村は中臣氏発祥地のいわれがあるためここも要チェックです。(ロッコーンとはタイ族の村の入り口にある鳥居です。鋸歯紋や連続三角紋が書かれています)

特牛という地名は前回も書きましたし、実は牛の渡来に関してこの地名は重要です。
「こっとい」「とっこい」「ことひ」などと各地で読まれています。
聖なる牛のごとき黒い山・・・でしょうか?
黒い牛は鉄鉱脈の出る山かと読んでいます。
牛の渡来についてはすでに民族学伝承ひろいあげブログの方で馬とともにやりました。
日本の牛は100%渡来で、しかも遺伝子はホルスタインでしたね。欧州牛です。これは6世紀頃にある人物(古代の実業家)が朝鮮から輸入したのが最初だそうです。この件はダダさんHP
http://www.ten-f.com/ankan-to-yodogawa.htm
でご確認を。牛と継体一家は関係があるんです。
(あ、かわかつワールド冒険会は随時会員が増えています。また会員の募集中ですから、どんどん掲示板へご連絡下さい。掲示板からメール送信ができます)
つぎに八幡信仰発祥の地、香春(かわら)を経て田川炭坑歴史博物館へ。ここには古代の発掘物も展示。レンガ造りの洋館です。
明治からの炭坑と古代史がそう関わるかって?民俗学的には大いに関係あります。なぜなら炭坑夫などの職人というのは代々仕事を受け継いでいたからです。たとえ明治や江戸期に発展した職人文化でも、つい現代になる以前は、大昔から探鉱する仕事は探鉱の家がえらが継続してきたし、職人はいつまでも職人だったのですよ。
戦後になって職業の取捨は自由になりましたから、若い人たちはついこないだまで職種が変えられなかったなどと聞いてもまず理解できないでしょうが、日本の自由主義なんてまだ戦後6〜70程度の紙切れのような浅薄な歴史しか無くって、こないだまで封建社会なのです。職業は1000年間変化しませんでした。だから民俗学は歴史解明に必要なアイテムだと申しておるのです。
歴史学者はこれまで柳田国男のフィールドワークをせせら笑ってきましたが、最近はまったく違いますよ。もうみなさん、なんでもかんでも必死に取り込もうとしておられます。かつての権威的学説のほとんどは時の流れにおきざり状態です。これからの歴史学は若い、固定観念のない若者のものです。ネット上の先達ももうみな年寄りました。そろそろ若い世代へと頭を切り替えねば今度はそっちが笑いものになりますね。
60代でももう襲いかも知れません。戦後教育をまともに受けた昭和30年以降の世代以降が今の歴史学の中心なのです。50代から30代が考古学でも歴史学でもメインです。まだ古い権威たちの本を座右の銘にしておられる在野の研究家も多いことでしょうが、世代は着実に変わっていますよ^^
というわけで麻生首相のおうちなども代々探鉱夫ですね。あのかたは1000年の穴掘り事業の申し子です。
さてそれは探鉱や穴掘りだけの話ではありません。田川伊田地区に多いのが窯業やレンガ造りです。これはなぜかご存じですか?
まず香春地区がレンガや瓦の職人が多かったのは、ここが秦部の大量入植地だったためです。溶鉱炉という道具は鉱物精錬だけに使われたわけじゃありませんからね。焼き物いっさいがっさいが高炉を使う共通文化です。ここを押さえて下さいね。
炭焼きからはじまって、すべての火を使う職業は(神職や修験や密教も)全部つながるんですよ。火と水と風と鉱物がすべての文化と街と産業と宗教の源なのです。
レンガは何に使われるかというと国鉄です。線路の土台であるアーチ橋です。これは秦部の穴太衆の技術であった石橋、石積みの応用でしかありませんからね。古代からの技術が少し発展しただけですよ。窯業は?瓦の語源はカッバーラですよ。サンスクリット語の焼いた甕のことですよ。それがカバラという宗教用語に転用されて秘術となります。ほら、職人技術と宗教はつながってるでしょう?
カバラ→瓦→香春です。
高良、甲羅、こうらは似ていますが、こっちは花崗岩→砂鉄で製鉄ですが、最後は結局甲羅→亀→玄武→陰陽五行です。で、日本の修験と密教はどちらも陰陽五行+仏教ですね。だからやはり宗教と技術は同源です。いいですか?わかりますか?
その技術者が1000年間世襲だったんですよ。古代から封建時代の近世まで。それが明治大正昭和戦前までとくに大きく変わっていないんです、民間では。こんあことはえらい人の古墳ばっかりさわっている学者には見えてきませんよ。だから歴史学は発展しなかった。
一番大事な民衆に目を向けてこなかったから歴史学はいつまでも文学部なんです。文学部にいてはだめなんです。歴史は。
文学部はどうでしょうか?文学も科学ですよ。
しかし科学だけれどその中には言語学もあれば小説家の評論もあれば、芸術としての作家、韻文、散文の実戦も含まれるでしょ?研究だけじゃないですよ、文学部は。口に糊しなければ研究もなにもありません。その食事をするためにお金を作る実業も知らない学者さんがお公家さんみたいに机上で考えたってなにも生まれやしません。はたらかなくちゃあ、民衆の苦しみや工夫はわからない。記録に残らないんですから。だったら拾い上げて行かなくちゃ!!そっちのほうが大事でしょう?
考古遺物は土に埋もれていつまでもそこにありますよ。しかし人間は死ぬのです。民俗学はINGの学問なんです。サンカはもう消えてゆきますよ。大事な証言者たちが文明の発展とともに消えてゆく。それを誰が拾い上げるのですか?なにをしていたんでしょうか?われわれは?指をくわえて消滅する証拠品を捨てていたんです。
さあ、翌朝早くWさんと会う前に私は田川・夏吉の古墳のいくつかを訪ねてみました。
遠賀川の東にある田川は飯塚の王塚・川島、宮若の竹原のような装飾古墳はありません。そして阿蘇凝灰岩も少なく、横穴古墳も菊池川などと違ってもろい粘土や砂岩を利用します。ここは阿蘇の噴火よりもかなり新しく脆弱な地層と、もっともっと古い270万年ほど前の九州古地層が入り交じっています。石炭層が掘り返されてしまって地盤沈下もいちじるしく、あらあらしく殺伐として景色がひろがります。
五木寛之の『青春の門』に描かれたボタ山などもうありません。あるのは香春岳の無惨に切り取られてゆく石灰のむき出しの白い姿だけです。
筑豊の街へゆくと、私は相撲取りの魁皇をどうしてもダブらせてしまいます。この街は終わりかけていて、悲痛な叫びが聞こえてきそうな気がして、魁皇を思い出します。彼は筑豊の希望の光でした。もっと驚いたのは私が知っている田川の会社が倒産していることでした。
ビジネスで一泊しましたが、商店街はさびれ、市場はなくなり、それはもう淋しいひなびた街になっていました。10年前、私は大分から早朝、ここの市場へは数回来ています。まだあのころは活気がありました。しかしやはり炭坑の衰弱はどうしようもありません。
ちょうど伊田駅前の八幡がお祭りのようでしたが、人出もまばらで、夜の歓楽街はとくにひどいものでした。お酒二合のんで6000円もぼられました。ですからもう二度と田川には行きたくなくなりました。自分で自分の首をしめている、そんな街でした。

結局、無法松のような荒ぶる人々は衰退する運命にあるのでしょうか?
涙が出ました。
ところが世の中はすてたものではない。田川の炭坑歴史博物館の研究員さんが翌日W氏を救うことになるのです。
乞うご期待。

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