率爾ながらそろそろこの旅の簡単な報告をしていきたいと思う。
大分空港からまるでトビウオかサンマのように細長く頼りないJALに乗って、目線の端にブンブン回っているプロペラを内心ひやひやしながら降りたのは伊丹空港。ここから定宿のある茨木市にモノレールで向かい、その日は今城塚古墳などを再訪問。翌日阪急で梅田から環状線に乗り換えて天王寺へ。
四天王寺へと考えていたがアナウンスが「森の宮」と告げたとたんに降車。

そのまま鵲森宮(かささぎもりのみや)神社からタクシーで鶴橋の
比売許曾(ひめこそ)神社へまわってもらう。ついでに玉造神社へも立ち寄った。
乗り合わせた大阪タクシーの運転手さんは中国史に詳しく、将来は書いている原稿を出版したいのだという話だった。こっちが古代史をやっていて、中国史と日本史は大いにリンクするという話をしたら、本を買ってくれ、原稿が仕上がったら推敲してくれと大変な頼み事をお受けすることになったが、お互い名刺を交換する楽しい道行きとなった。
旅でタクシーを使うとこういう拾い物をすることがとても多い。少々の出費はがまんして地元に詳しい人との出会いも勉強になるものだ。
さて鵲森ノ宮神社はもともと蘇我氏に滅ぼされた物部守屋を祭っていたが、記紀では聖徳太子がその神霊を鎮魂するために大阪の四天王寺に移したとされていることは以前書いた。これは民俗学者・谷川健一らの調査による。その四天王寺にはなぜか阿蘇のピンク石石版があって、これが果たして聖徳太子が守屋の石棺として置いた物かなどと昨今では諸説かまびすしいのである。
聖徳太子は想像上の人物で、実際には蘇我一族のことであるから、自らの祖先が滅ぼした相手の荒ぶる神霊を、鵲神社から移して祟り封じするというのなら話は非常に明快である。
比売許曾神社は出雲の下照姫を祭るが、実際にはこの女神はアカル姫という新羅の王子の妻とイコールである。豊後国風土記はツヌガアラシトの妻とし、記紀はアメノヒボコの妻とするが、出雲の下照姫はオオクニヌシの入り婿であるアジスキタカヒコネという葛城鴨の高おかみ神の妹のこと。そうすると葛城鴨の神は新羅の王子だったことになる。新羅かどうかは知らないがとにかく三者ともに半島系の人であると言って良いだろう。それが出雲にいたとなると、少なくともアメノヒボコが出雲に何度もちょっかいを出したという播磨国風土記逸文とは矛盾することになるが、そんなことは気にしなくていい。
玉造神社は豊臣秀吉=実名は羽柴秀吉。家康に負けたから豊臣。
豊は負けた氏族のすべてにあてられた持ち上げる文字で、その心は「忌み名」である。
玉造は古代の渡来技術者がいたという地名。
鶴橋も渡来技術者地名で、こっちは鉱山師や鍛冶の意味。「ツル」とは湿地帯、田園のある平地、そして鉱脈を指す。
「かささぎ」も半島の鳥で、本来渡来系の地名だから、物部氏はふる〜〜〜い渡来系だ。それが在地縄文系ナガスネヒコを配下にしている。これすなわち物部氏の祖人であるニギハヤヒの尊の記録である。それが大和では東国の尾張氏や海部氏も一緒に連合していた。それでホアカリが彼等の共通の祖神であるが、この神はすなわちニギハヤヒと同根である。これをいわゆる大和の原始共同祭祀体制と呼び、そこへ神武さんがやってきて三者はこの九州経由の新渡来人に帰順。縄文系だけがそれをきらって出雲へ流されたというお話である。裏切られたのだ、犬の氏族が飼い主に。
さてJR天王寺から熊取町へ向かう。
熊取町には京大のX線研究所がある。まあかつての被爆研究所である。たまたま乗り合わせた若いカップルが専門学校の研修でちょうど研究所へ向かっている最中だったから、詳しく話が聞けた。放射線研究所がなぜ熊取にあるかなど二人は知らないようだ。なかなかフレッシュでかわいらしいふたり連れだったので、比売許曾で買った赤い珠のお守りを二人にあげた。いずれそういうことになればかわかつは縁結びの神ということになるだろうか。もっとも二人にはいらぬお世話だったかも知れない。若い頃の自分と妻を思い出したための世話焼きだ。
熊取という地名からは「くらがり」則ち山のねきの扇状地という意味が読み取れるが、かつては駅前に牛が飼われていたような僻地だった。ここから岡を上がって行けばもう金剛山地である。
ネット知人の車に待ち合わせ、早速山へ入る。するとまず入り口に火走神社が見えてくる。「火走り」とは鍛冶だろうか?

神楽殿に三十六歌仙の扁額がずらりと並ぶ。和歌はもちろん歌垣で、芸能の意味だからおそらく木地師や山師などの漂泊の技術者がここにいて、空海真言との神仏習合がこの社を産んだ。いよいよここから弘法大師のテリトリーなのだと知る。
紅葉に色づき始めた金剛山地を越え和歌山県伊都郡かつらぎ町へ。
今年の紅葉はいまいちだ。
ネット知人が最近、一族の推挙で神職に入った丹生都比売神社から南は世界遺産高野山である。
天野丹生への登山道入り口に、なぜか関西に三社ある蟻通(ありどおし)神社。この神社は古く紀貫之の記事があり、中国(唐)の王様が日本の天皇(天智?)の知力を試すために謎かけをしてきたのだという。すなわち何カ所も曲がり角のある穴の開いた珠に糸を通せと。考え抜いた天皇は穴の向こう側に蜂蜜を塗り、蟻に糸を巻いて穴に入れたところ、密につられて蟻はみごとに糸を通す・・・という説話である。

ちょっと大物主の苧環説話にも似た、話だが、蟻が通るほどの狭い道とは山師が隠語とした鉱脈へのありのとわたり道(転じてちょっとHな意味にも使う)を指すから、これは物部氏の蟻臣(ありのおみ)が鉱物氏族という読みが必要か?
ここの地名は伊都郡かつらぎ町東渋田である。
伊都郡とは平安時代くらいの銘々で古くない合併地名であるから、九州とは関係ないそうだ。かつらぎ町とは北に対面する金剛葛城山系の葛城山から。越えれば大阪府河内長野市である。柿が名産で、柿渋は江戸時代まで顔料である。黒くて渋い光沢があるので主にお城の壁に塗り込めた。
例えば秀吉の長浜城。そのほかに椀物に漆のかわりにも使われたり、染め物にも。
ところで秀吉は黒好みで、忠実な部下だった加藤清正の熊本城も漆と膠で真っ黒なので黒烏城と言う。対する家康の配下である姫路のお城は白鷺城で漆喰を使って真っ白。このように家康(三河の馬の骨)と秀吉(尾張のドン百所)はことあるごとに対立する。
しかしどちらも実は漂泊民だったといわれている。武将のほとんどは被差別民とか流懺された渡来人だったとする説もあるほどだ。
東洋では技術者はみな漂泊する。
技術とは見下げられるべき職能だった。
それは孔子さまのせいである。
儒教は身分差別のはげしい教義である。だから封建制度が生まれた。
丹生都比売のおわす天野はひなびた山の中にある。
ここからが世界遺産である。
神社には真実古い言い伝えが残されてはいない。言い換えると、神職、丹生一族自体には知らされていないベンガラという存在が忘れ去られてしまっている。そこで丹生氏は丹を空海の水銀=辰沙とするか、「たん」ベンガラ精製とするかなど世間一般の古代史ファンの思惑など通用しない。テレビが宮司をだまして宝庫から奇妙な赤い石を持ち出させたようだが、あの辰沙原石まがいのものを宮司はまったくそういう意味で取り出したのではない。そんなのがころがっていたらしいよと見せただけなのだった。テレビは信じていけないといういい例である。なにしろ映像は再確認が難しい「芸能」でしかない。通り過ぎてしまえば残像しか残らず、厳しく確認のチェックができにくいのをいいことあらぬことをビジュアル的に作り上げるから、容易に信ずるのはばかである。


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