先月から走りっぱなしの旅暮らしだった。
情報は津波のように脳裏をかき回し、収拾がつかないまま年末をむかえてしまった。
何も書き出せない日々に悶々としている。
先月の長旅シリーズもまだ完結していないのに、銀鏡神楽ししとぎりに熱中してしまい、体調を崩し、ようやく帰還してやれやれ身体を休めようとしたとたん、まったくやる気がうせてしまっている自分に気が付かされた。
情報過多である。
車の買い換えや旅行でお金も使い過ぎた。
目の前に見えていたはずの啓示が、一転、茫洋とした知識の海に放り出されたように途方に暮れ、雲散してしまった。人の脳髄とはなんと曖昧なものなのだろう。
西米良の夜は最悪だった。
つま先まで冷え切る低温と湿気。
二晩を悶々とあかし、あとから来た知人ともけんか別れした。銀鏡、米良の持っている気が私には合わないようだ。
燃費のよさで買い換えた車が裏目に出て、あまりの軽さから、ハンドルをこねるような運転になっているらしく、かえって肩を痛めてしまった。
右手が挙がらない数日だった。
気分は最悪。
猪の首は確かに並んでいたが、それは冷凍されたものである。猪の解体もなく、神楽がえんえんと続くだけ。首を並べるのを見るのなら前日でなければならない。ししとぎりの舞い(三十二番)を見るのなら当日のお昼前で充分だ。期待を裏切られ、肩すかしの状態で思った。
日本の祭祀はもうイベントでしかない。
霜月祭の持っているべき「追儺」は今や地元民の「慰安」へと変化しつつある。もっとも、追儺も神楽も当初から慰安である。よそ者の思惑などにとんちゃくするはずはないのだ。
カメラとテレビがはばを効かせ、演者も祭祀者もどうにいったものである。そこに鎮魂もヶもなく、ただハレがましい辟所の安堵が漂うのみ。それでいいのだろう。
帰る途次、古墳と神社をリンクさせながら車を走らせた。
こっちのほうがよほど面白かった。
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宮崎にも日置地名がある。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=32.08089889&lon=131.50124778&sc=5
椎葉、西米良、銀鏡を、一ッ瀬川を下り、西都を抜けて海岸へ出た児湯郡新富町日置である。小丸川と一ッ瀬川に挟まれた平野の真ん中。
米良街道(国道219号)を銀鏡から南下し、高鍋町へ向かう”別れ”を県道313号へと進むと、沿線は次々に古墳群と神社が現れる。
「穂北神社」「千畑古墳」「茶臼原古墳群」「比木神社」「木城町」「岩爪神社」「切原神社」「鬼ヶ久保」「持田古墳群」そして「日置」である。
これらすべての神社には、それぞれ霜月祭神楽行事が残っており、それらは収穫の終わった11月に執り行われる。
木城の名と鬼地名が示すように、宮崎の川はソマ・番匠や山師たちの河川遡上の通路となっていた。愛知県の花祭りが諏訪への通路である天竜川沿いに残ったように、ここもまた高千穂への通路であり、山師、木地師、ソマ・番匠たちと芸能と鎮魂が集中する。そして「船の木を引く」「古墳の石を引く」に関わる祭祀と地名と古墳群が残されていった。
おそらくこの街道の終点は武者小路実篤が切り開いた「新しき村」のそばにある「石神社」で終わるのだろう。これは古墳の石を切り出した場所ではあるまいか。

亀塚頂上から見た持田古墳群遠望。

切原神社

比木神社社伝

西都市岩爪神社
宮崎県の河川はみな急激に落下する。荒ぶる川をものともせず、古代人たちは「目的物」を求めて遡上している。木挽き、岩挽き、「挽き」ながら幾多の生命が川に消えたことだろう。鎮魂は鬼達のためにあるのは当然である。
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西米良から見えた最高峰市房山(1720.8M)は最奧の部落椎葉の頭上に聳えていたが、それは川を下った街道沿いの行き着いた西都や高鍋、新富からもはっきりと円錐状の清き姿を見ることができる。持田古墳の上からながめれば、それはまさに「蓬莱」の西の彼方にそぴえている。職能民たちはこの山を目印に西を目指したのだろうか?

市房山の向こう側はもう熊本人吉地方である。
熊襲がいたという免田まですぐだ。
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話は違うが、宮崎市と西都市の堺に「巨田(こた)神社」という鴨猟をする奇妙な風習と神楽のある神社があって、ここに「佐土原横穴古墳群」がある。
隣り合うようにして鹿野田神社があってこちらは神功皇后潮満珠の伝承がある。

いずれも霜月祭の神楽がある。
また清水には「清水西原古墳群」が。
こうした中から我々は中央の記紀祭祀に帰順しないままの社を探さねばならない。
そして肉食の残存と渡来に関与する祭祀をピックアップし、それらが果たして先住民のものだったか、渡来のものだったかを明確に認識する必要があるだろう。先住は追いやられすでにいない。縄文海進後に南九州には開墾者たちが大量に入り込んでいる。ならばそれが先住の祭祀だったならば、なぜこれまで継続されてきたのか?それが渡来の文化だったのか、それとも先住のものだったのか?そこに謎を見いださねばならない。

西米良児原稲荷神社にて

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