「銅鐸・蘇我氏・古代文字・邪馬台国論よさようなら」
考古学・考古理化学
去年の年末に知己から奇妙な本をいただいている。おめでたい成人の日に果たしてこのような古い著作を題材にしてよいのかどうかわからないが、とりあえず二ヶ月ばかりほったらかしにしておいた本で、うららかな日差しの窓辺で横になったり、うたた寝したり、はばかりに持ち込んだりしながら、断片的にめくってみることにした。
さしずめ昨今ならばこのような種類の本は”歴史推理エンターテインメント”とかいうジャンルにはいるのだろうと思う。そういう意味ではかわかつの『秦氏が祭る神の国 ・その謎』と同じ部類だろう。題名は『銅鐸の謎』作者は元高校校長先生だったという大羽弘道、昭和49年カッパブックス。
最初から「やめようかな」「どうしようかな」と思わせる。だって銅鐸が古墳時代、4〜5世紀の蘇我氏によって造られたとある。「なにそれ?」
一般に膾炙されている定説では銅鐸は2世紀、弥生時代の銅製品。それが蘇我氏の?しかもその絵が漢字渡来以前の古文字だった・・・。後半は許せる。漢字以前に日本に文字が・・・というか、表現したい観念を表現するための簡便な記号があってもまったく不思議はない、むしろないという文献学者たちの常識の方がとんちんかんであることはまったく認める。
しかし銅鐸が古墳時代の鋳造品だというこの本の論拠はあいまいである。
銅鐸が出てくる地層の年代測定という高い壁に対するだけの論拠に乏しい。
銅鐸が古墳時代だと言われる決め手は刻まれた線刻画のうち、有名な大石一号鐸の「船を漕ぐ人物」があって、この絵が弥生時代の土器に描かれたもがり船に似ていたからだった、と著者は言う。ほう、これは本当に知らなンだ。そうなんですか?だとしたら、過去の学説はサンプルをたくさん集めずにいきなり結論を出していたことのいい証拠である。
しかしそれとこれはまた別問題で、それだけでは銅鐸鋳造編年を引き下げる論拠には弱い。なにしろこれまで出土した多くの銅鐸が出た地層から否定する強い理論がなければなるまい。となると例えばかわかつならば、「銅鐸は地中深く埋められたのだから、その地層は弥生地層にまで到達するんだ。だから出土地層と鋳造年代にはずれがある」という説でも持ってきた方が説得力がある。しかし、これも、全国的に弥生年代の地層から出たり、同時出土する土器などの謎は解明できない。
著者はまた、滋賀県野洲町出土の銅鐸群が、古墳群造営の際に出てきたはずで、それはなんらかの処理をされたはずなのに、その痕跡がないばかりか、むしろ古墳は銅鐸をよけるように造営されているとし、だから銅鐸は古い時代のものでなく、古墳時代同時期に埋められたのだとする。
それはたまたま残っていた銅鐸が古墳造営地を運良くはずれた場所だったかもしれないし、運悪く出てきた銅鐸は鋳直されて銅鏡にでもなってしまったかも知れないではないか?まして近畿の古墳は九州や東国のような、一度穴を掘り石棺を置くスタイルだったかどうかも調査言及されていないから、強引過ぎる。平地にそのまま盛り土すれば、過去の土壌に出合うすべもない。むしろ、古墳の真下を調べたのか?と逆襲されそうな説である。
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今回本当に言いたいことは、実はこの本のことではない。
この本の中にあった大石の銅鐸の絵の稚拙さである。
大石に限らず、銅鐸の絵がたとえ2世紀に造られたものであったとしても、なおかつ、唐古鍵などから出た土器破片の線刻などもまったく同じに、その稚拙さがそれほど問題になっていないことなのである。
というのは5世紀の九州の装飾古墳壁画に対して、あれほどまでに・・・権威的考古学者S氏は幼稚園児の絵まで持ち出して「稚拙だ」「幼稚」だとこきおろしたあの九州の出土物への執拗なほどの敵意が、いざヤマトからたくさん出てくる銅鐸の「へたくそ」にはまったく言及もないことが問題なのだ。
20年ほど前までのヤマト学派は「先に邪馬台国ありき」だった。あったかどうかもわからない?幻の国の記述をヤマトにしてしまうために、都合のいい物は取り込み、不都合は無視し、そしてライバルは蹴倒し、け落とし、コケにし・・・といったあからさまな「差別」「恣意」の繰り返しなのであった。
九州から橿原研究所へ行ったある著名な学者が書いている。権威に「おまえは九州出身なんだから邪馬台国ツクシ説をやってみろ」。本人はヤマト説肯定派で、やりたくもないのにおずおずとやってみると「甘い」「証明してみろ」といった押しつけがましくも見せしめのようなことをやらされる。しかしおかげで度胸はついた、と。
当時の学者も一般のファンも、邪馬台国は大都市だと錯覚していた。中国の史書に載るくらいだからたいした大都会だったろうと。だから必死のもっしで、どいつもこいつも考古学者は目を皿にして都市遺構を探した。しかし3世紀後半の遺跡は出なかった。
なんですか?今の奈良市の真下にはあるって?残念ながら奈良盆地の真ん中は当時縄文海進残存の「奈良湖」の残照で沼地である。それこそ柿本人麻呂が詠じたように「天皇は神にしませば・・・水沼を都と」したのは奈良時代になってからである。奈良市周辺の高台に石上や大神神社や秦氏の秦楽寺や多氏の多神社が今あるのは水沼を干拓した歴史の証明だろう。真ん中にはなにもあるはずはない。奈良市民を立ち退かせようなどと考えている奴はおるまいな?奈良の遺跡は中心部の周囲にあるのだ。ドーナツ型なのだ。まして邪馬台国時代なら、もっと真ん中はどろどろであっただろう。
昔からの古代史ファンには残念ながら、かつての権威たちがあとへあとへと引き継がせてきた、「ヤマト至上主義」の影響を多大に受けてしまったことだろうが、これからの歴史学はまず邪馬台国論というホームランをねらい続けていけば清原になるといいたい。意味は通じるかな?イチローのようにヒットを打ち続けている学者の本を読むべきだと。邪馬台国論はもう歴史学の中心にはないと考えるのが、実は邪馬台国への最短距離なのだということなんです。
ちなみに、大石銅鐸の出た野洲市周辺には三つの掘っ立て柱建造物があった遺跡がある。

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