北海道旭川で新聞記者だった若き日の詩人小熊秀雄と、大正末期に東京で出会ったロシア文学者湯浅芳子と作家宮本百合子のことを調査している。この二人の女性に関しては、すでに多くの人が調べているが、小熊と湯浅、宮本の三人の関係について言及している人は少ない。
最近、浜野佐知監督の「百合子ダスヴィダーニャ」という映画が上映されている。この映画は湯浅と宮本の初期の出会いについて描いている。いずれにしろ、湯浅、宮本について私が調べて新しい発見を付け加える事実はまったくない。
私は、詩人小熊秀雄がこの二人とどのようにめぐり合い、二人より年下の小熊が好感をもって迎えられ、湯浅の助力で童話「焼かれた魚」で東京でデビューを果たした経緯を明確にとらえたいと思った。また、二人が留学したソビエトで見聞きしたロシア革命や文学情報が小熊の詩と人生にどのような痕跡を残したかを知り、それを書き残す必要性を感じている。
私の関心は詩人・小熊秀雄の側から見た湯浅芳子と宮本百合子の二人ということになる。しかし、そうは言ってもここ数年、湯浅、宮本関連の書物をずいぶんと読んだ。それらは、湯浅の二冊の随筆「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」とチエーホフやゴーリキーなどの翻訳書はもちろん、宮本の「伸子」「ふたつの庭」「道標」、ソビエト旅行記や日記、果ては二人の間に交わされた往復書簡集に至る。
才気あふれた二人の女流文学者が大正13年に作家野上弥生子宅で出会い交友を深め、二人でロシア革命後のソビエト留学を果たしてゆく過程は興味深い。そして、帰国後には決定的な問題となった百合子の宮本顕治との出会いが発生、7年間にわたる湯浅と宮本の関係は終わる。
私は湯浅芳子というロシア文学者の確かな目と影響力がなければ小熊秀雄という詩人の存在はなかったと思う。少なくとも、小熊が書き残したロシアを歌った詩は、湯浅の影響が色濃く表れている。
湯浅は創造力豊かな芸術家ではなかったが、他者の才能と人格の豊かさを見抜く抜群の直観力と行動力があった。
宮本百合子をソビエト留学へ導いたのも湯浅芳子である。この二人の昭和2年から5年に至る3年間のソビエト留学留学が宮本に与えた影響ははかりしれない。湯浅と出会わなければ宮本の代表作「伸子」「二つの庭」「道標」という三作は絶対に生まれず、これほど存在感ある文学者、共産主義者としての生涯を送ることはなく、宮本顕治との出会いさえなかったと言える。
最近、湯浅芳子の墓が鎌倉東慶寺にあることを知った。湯浅と縁深き作家田村俊子の墓の隣にあるという。さらに調べると、湯浅、宮本を結ぶ縁を作った野上弥生子の墓も東慶寺にあるという。宮本の墓は、東京の小平霊園と青山霊園に分骨されている。
2011年10月末、北海道から上京した私は、羽田から北鎌倉へ直行し東慶寺を訪ねた。かつて鎌倉に住み、何度も訪れたことのある東慶寺だが、私は湯浅芳子の墓がここにあることを認識していなかった。
金曜日の午後である。東慶寺は想像よりも人が少なく、幸いにも尼寺にふさわしく静かな雰囲気だった。山門を入り、苔むした坂道を少し上った。田村俊子の墓の横に小さな菩薩像があり、それが湯浅芳子の墓だった。
湯浅芳子は毀誉褒貶に富み、万人に好かれた女性ではない。人に対する好き嫌いが激しく、物事を常にはっきりと言い切る。
しかし、小熊の死後に書かれた湯浅の追悼文
「小熊さん」(昭和15年)
と後に書かれた回想文
「その頃の小熊クン」(昭和28年)
に感じられるあの独特の優しさと鋭い洞察力は一体何処から来ているのか。詩人小熊秀雄についての追悼文、回想文は非常に多く残されているのだが、私は特に湯浅のこの二つの文章が好きである。
菩薩像に手を合わせ、鎌倉の秋の風に吹かれていると、大正末期の小熊と湯浅の出会いがさらに深く現実味のあるものとして私に迫ってきた。
よく見ると、菩薩像の表情が湯浅の晩年の表情と重なって見えてくる。人と人の邂逅はなんと不思議に満ちていることだろう。


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