11月20日、大正期の旭川新聞に関する調べものがあり、旭川の常盤公園にある「文学資料室」へ行った。そこで、久しぶりに会った沓澤氏とお話していると
「鈴木政輝さんの娘さんに最近ここへおいで頂き、鈴木さん宛ての二枚のはがきを寄付して頂きました」
と、教えてもらった。
鈴木政輝とは、詩人小熊秀雄の大正から昭和にかけての友人で、昭和3年の小熊の上京後、彼は生家のある旭川へ戻り、残りの生涯を旭川で過ごした詩人である。
さっそく、沓澤氏に、古いとはいえ小熊筆跡が生々しい二枚のはがきを見せて頂いた。私は、小熊書簡の本物を見るのは初めてである。
昭和15年4月19日と24日の日付がる。宛先は
「本郷区帝大産婦人科別室20号 鈴木政輝様」
となっている。当時、鈴木政輝は旭川に住んでいたが、妻が癌となり、東大病院に入院中で葉書は東大病院宛てだった。
小熊は、この葉書の出された直前の4月3日に東大病院へ鈴木の妻を見舞に行っている。小熊は、その時、病室で出会った鈴木と、鈴木の友人達と共に東大赤門前の「ブラックキャット」という喫茶店へ行った。小熊のその時
「僕は(胸を指さし)ここが悪いんだからビールは遠慮するから、皆は飲んでくれ給え、その代り、コーヒーかプレソーダを僕は飲む」(鈴木政輝-「郷土の二詩人」より)
と語った。半年後に迫った小熊の死を彷彿とさせる語り口である。
その後、東京にいる鈴木と何度か葉書でやり取りしていたらしい。
この葉書には、鈴木の妻を気遣う思いやりと、自分の最近の健康状態を知らせる痛々しい文面が読み取れる。
3月に出た萩原朔太郎編「昭和詩鈔」のことが出てくる。これは、当時の詩人たちの詩を集めたアンソロジーである。
小熊は、萩原の詩の選択を適切だと考え、小熊自身も選ばれ、さらに鈴木政輝も選ばれていることを小熊は非常に喜んでいる文面である。
この直後の5月には、小熊、鈴木の二人は、揃って編者の萩原朔太郎のもとを訪れている。
葉書の中に、気になる人間の名が書かれていた。
4月19日
「千家宏君とは逢う機会が少しもありません」
4月24日
「千家君、こないだ僕の処に来ました。近日、あなたのところを訪ねると言っていました」
千家・・。千家元麿という詩人がいたのは知っている。しかし、千家宏とは誰だろう?
私は家へ戻ってから、文学辞典で千家元麿を調べた。
千家元麿 明治21年〜昭和23年(1888-1948)東京生まれ。人道的な情熱と自然賛美の素朴な作風で知られる。息子は宏。宏は俳句雑誌などに携わるが昭和19年ビルマで戦死。
やはり、小熊の葉書にある「千家宏」とは、詩人千家元麿の息子だった。さらに調べると小熊の亡くなった翌年一月の法政大学新聞の小熊追悼号で千家は非常に好意的に小熊を取り上げ、
「僕より息子の方が、親しくなって、家が近々なのでで時々訪ねてきた」
と、書いている。
それにしても、何故、鈴木政輝と千家宏は知り合いなのだろう。なにしろ、鈴木は旭川の人である。
さらに調べると、鈴木政輝が戦後に小熊を回想した文章によると
「昭和13年に小熊が旭川へ帰省した際、東京の千家へ電報を打ち、その際、息子の宏が旭川へ来て滞在した」
とある。つまり、千家宏と鈴木政輝は、旭川ですでに面識があったのだった。
こうして、小熊秀雄の命日に読んだ二枚の葉書は、鈴木政輝、そして千家元麿、千家宏にいたる友情の絆を私に教えてくれる結果となった。今から69年前の二枚の葉書は、実に大きな重みを持っていた。

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