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夕暮れが次第に迫っている。稚内を出ると、T氏と私は海岸沿いに宗谷岬へ向かう。海は厚い雲に覆われ、断続的に雨が降っている。しかし、7月にT氏と訪れた懐かしいサハリンの島影が見えている。
記憶を辿ると、宗谷岬からオホーツクの海沿いの道を走るのは1994年3月以来のことである。当時、私は神奈川県鎌倉に住んでいた。同じく鎌倉に住むイギリス人の友人と二人で、旭川に飛行機で降り立ち、北上し、美深伯。翌日、稚内を抜けて、浜頓別、枝幸、雄武を抜けてサロマ湖畔に泊まった。そして、網走、釧路湿原、根室を訪れ、旭川へ戻った。約一週間、3月にしては天気がよく、路面も乾いていて男二人ののんびりした旅だった。
宗谷岬の少し手前に、間宮林蔵渡樺出航の地という場所があった。そして、しばらくすると宗谷岬へ着いた。
雨は止んでいる。日本最北端の地の碑と間宮林蔵の立像を撮影する。西の方角には、厚い雲の間から陽が射し、どこか風雲急を告げるといったドラマチックな光景となっている。
70歳を過ぎているが、全く年齢を感じさせないT氏は次第に闇が濃くなっていくオホーツク海を横目で見ながら浜頓別へ向かう。旭川の建築関連の会社社長だったTさんは営業関連でこの周辺にはしばしば訪れているということだった。
午後5時半、クチャロコ湖畔の「浜頓別ウィング」という宿に着く。まだ9月であるが、秋の日はどんどん短くなっていて、周囲はもう真っ暗だった。
温泉は、肌につるつるという感触で「美人の湯」と名づけられている。食事は、簡素なものだが、二人でビールを飲んでおいしく頂く。
部屋に戻り、T氏が撮影した
「間宮林蔵展」
「海の光景」
などのビデオ映像を見て、お話をしているうちに二人とも眠くなる。私は、持って来た
水野忠夫「マヤコフスキー・ノート」を取り出した。水野忠夫は9月20日に亡くなったロシア文学者である。彼の訃報を聞いて、マヤコフスキーを調べていた私は自分の本棚からこの本を取り出した。
そして、その日に、稚内のCさんのブログを拝見していると、なんと水野忠夫の死についてCさんがコメントしている。
つまり、水野忠夫は早稲田大学の露文科の学生だったCさんの先生だったのだ。
Cさんは、私のブログ「サハリン紀行」にコメントを頂いている方である。会ったことはない。しかし、こうして、水野忠夫はCさんの恩師であり、Cさんはロシアに詳しく、私とも何か大きな縁があるらしい。
それで、午後1時、稚内駅近くの喫茶店でCさんとお会いした。喫茶店に入ると何と見たことのある顔だった。9月5日、稚内で行われていた
「間宮林蔵シンポジウム」
で、サハリンから参加していたロシア人の通訳をしていたのがCさんだった。我々は、すっかり意気投合。一時間半にわたり、お話をして、次回は旭川か稚内の居酒屋でということで別れたのだった。
早朝5時。カーテンを開けると快晴である。私はまだ寝ているTさんを残して、カメラを持って湖へ行った。クッチャロ湖は原始の雰囲気を残した大きな湖だった。
そこで、久しぶりに青鷺を撮影した。青鷺を撮影したのは、昨年3月の奈良三月堂の池以来のことだった。
Tさんは、今朝もお元気である。まず、ウソタンナイ砂金採掘公園を訪れ、その後、頓別港で行われているみなと祭りでホタテを仕入れて、海沿いに南下した。
枝幸、雄武、興部・・。興部で内陸部へ入った。旭川まではあと2時間余りの行程である。紅葉が次第に高山から平野部へと降りてきている。

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