2008/5/6
――弟が生まれた日のことは、昨日のことのように、よく覚えている。
私にとって、弟とは、初めて――下の兄弟が生まれるということの意味を――物心ついた自分が初めて経験する、『母の出産』という出来事だった。それまで2人の妹がいたものの、私と年がさほど離れていなかったため、幼い私はよく覚えていなかったのだ。
遠いどこかの国では、生まれる前から、おなかの中の赤ん坊が、男であるか女であるか見分けることのできる医療技術が発達していると耳にしたことがある。だが、ここ・アメストリス国では、そのような知識も知恵も持たず、ごく普通に赤子は生れ、育つものだった。
軍事国家であればどこもそうだが、1つの家に少なくとも1人以上は男児がいないと、その家の者は肩身の狭い思いをする。兵役をこなすことができないからだ。女ばかり続いた家は、どうしてもその妻が責め立てられ、いかにも畑が悪いから女しか生まれぬだの、子が出来ぬだのと、親族から責め立てられる。そうして、離縁された妻が、次の男と所帯を持ったとき、すぐさま子どもができたり、男が生まれたりすることが、往々にしてあるのは何故だろう?それは、男にも原因があるのではないかと私は勘繰りたくなっている――歳を重ね、多少のことでは動じなくなった今では。
だが、その頃の私は、まだ幼かったし、3人目の子どもがまたもや女であるということに、父があからさまに落胆していたのをよく覚えている。無理もない。アームストロング家は、180年余り続く、名門――と人は言う――軍事貴族の家柄であるのだから。
その頃からだろうか、父の仕事から帰る時間が遅くなり、時には家に帰らぬことがままあるようになったことを。家の召使たちは、陰でこそこそと、お館様は、サウスエンドに馴染みの娼婦が出来、そのまま居続けているのだろう、そちらで子どもができ、それが男であればお館様は奥方様を説得され、お子を引き取られるに違いない、と噂していた。事実、側室とか愛人とかいう名の遊び女の中で、父の種だと名乗る女が現われたのも、私は耳にしている。
だが、その子どもは、どうしたことか生まれることは1度もなかった――いや、一度だけあるにはあったが、死産であったらしく、しかもその子どもは女であったと聞いたことがある。
父の浮気に母は苦しんだと思う。その仕返しだろうか、後に――弟が生まれてから、間もなく、父が西方に飛ばされた時も、父についていくこともなく、母は私を合わせ、都合4人の子どもともども、セントラルに残った。軍事貴族や大商人の家では、軍人である夫が、単身赴任することは、ままあることだから、取り立てて珍しいことではないが。
話を元に戻そう。私は、父がサウスエンドに入り浸るようになったとき、召使の1人に訊ねた。『なぜ、お父様は、家になかなか帰らずに、よくお外でお泊りされるようになったの?』。
召使は困った顔をし、やがて年かさの召使の1人――先代である、私の祖父から仕えている者――がこう口にした。
「お館様は、いろいろとお忙しいのです。だから、お帰りになれないのですよ。」と。
あいにく、私はもう生まれて数年たち、それなりの知識は召使や家庭教師や、時折訪ねてくるいとこたちから聞かされていた。
「ごまかさないで。私には、お父様に別にお付き合いされている女の人がいると知っています。なぜ、そのような女をお父様は選ぶのか、教えてほしいの。」と。
召使たちは、更に困った顔をし、即答しなかったが、数日後、アームストロング家の執事の1人が、このように告げた。
「お父様は、やはり跡取りとなられる男のお子様が欲しいのです。オリヴィエお嬢様をはじめ、3人いらっしゃるお子様は、全て女の子。ですが、お母様からは、もう恐らく、女のお子しか生まれないのでしょう。それが、わがアームストロング家に代々伝わる、先祖に対する呪詛の1つではないか、と言われておりますゆえ、お父様はあれこれ考えられた末、今のような行動を取られているのです。」
子ども騙しの言い訳言葉だった。先祖への呪詛なんてものは、他の誰からも聞いたことがなかったし、そんなものは大人の作り話だと、私はすぐに見破った。だが、こうして、父が不在の家を切り盛りする母の顔からは、笑顔がどんどん消えていくのが私には分かった。下々の家であれば、家の端々、いやいたるところに綿ぼこりが溜まり、洗濯物は雑に干され、食器洗い物もたまり、家の中が荒れていったことだろう。
「お母様は、男のお子さまをお生みできなかったことに、ひどく責任を感じられているのです、オリヴィエ様。ご存じのとおり、アメストリス国では、兵役に出せない家の軍事貴族は、誰か優秀な方と養子縁組できない場合、お家がお取りつぶしになるからです。フィリップ様も、奥方様も、その意味を十分感じとっているのです。」
つまり、兵隊に出来ないから、軍事貴族でなくなる、ということになるのだ、と執事は教えた。そして、オリヴィエ様も、あと1、2年もすれば、それなりの方と正式に御婚約され、アームストロング家に婿養子として入ってもらうようにと考えているのです、と付け加えた。
それからしばらくして、家でガーデンパーティが開かれた。私は、父と同じ軍服を纏い、父から聞いた通り、できるだけ階層の高そうな軍人さん――後に、それが亡くなった婚約者の、親友の父親だと聞いた――をつかまえ、訊ねることにした。『アメストリス国には、女の軍人さんは、いないのですか?』と。
その男は、少しびっくりした顔をしたが、すぐさま『もちろん、いますよ。』と笑顔で答えてくれた。
「ただ、殆どの軍属の女性は、いわゆる職業軍人ではなく、軍部の中でも、秘書官や、大総統府の補佐官、あるいは総務部の事務官や女性医官、或いは司書や看護師ぐらいで、本当に、男性と同じような形で働かれている女性は、ごく少ないです。――ところで、どうして、それを?」
「気になったの。私の家には、まだ男の子が生まれていないから、軍人になる人がいないので、そのうち、ええと『おとりつぶし』になる、と、執事から言われたの。」
将校は、少し難しい顔をしたが、すぐに表情を取りつくろうと、大丈夫ですよ、と答えてくれた。
「貴女はとても美しく、聡明なお嬢様だから、きっとすぐにでも、養子縁組相手が見つかります。それに、確かに少数ですが、私どもと同じように、国のために戦う女性兵士もいることはいますから。」
「私も、なれるかしら?」
将校はそれにはすぐには答えず、ただ、『もしも、軍人になりたい、と思うのであれば、お父様やお母様によく相談されてみてください。』とだけ答えてくれた。
軍というものが何であるかもよく知らないまま、漠然と私は軍人になった方がいいのではないかと思うようになっていった。そこで、数日間考え抜いた後、私は母に頼みこみ、とりあえずは剣術を身につけることにした。護身用のための指南役を探してもらうことにしたい、という名目で。
「今のこの家では、お母様と私と、2人の妹と、召使くらいしか、家にはいないわ。それではまずいでしょ、お母様。もしも、ならず者がこの家に入り込んだら、誰か、撃退できるだけの力を持った人間がいないと、いけないと思うの。」
「貴女が気に病むことではありません、オリヴィエ。この家には、召使も執事もおります。」
「でも、執事は、お父様よりもはるかにご高齢よ、お母様。それに、私は、私の身を自分で守りたいの。」
確かに執事は、先代からこの家を引き継いだ男だった。母はしばらく考え込んでいたが、やがて「お父様とご相談してから決めましょう」とだけ言い残し、私と差し向かいで座っていた椅子から立ち去っていった。そして、数日後、私はとても厳しいと評判の、剣の指南役にご教授いただけるようになった。
後、その指南役を選んだのは、父が「できるだけ早く、オリヴィエが男の真似ごとをやらなくなるよう、できるだけスパルタで、鬼のように教える時は厳しい男」だという理由で選んだのだと知った。
だが、そんな裏事情も知らなかった私は、彼の教えについていくのに必死だった。幸い、その指南役をうならせるだけの素質が私には与えられていたらしい。指南役も驚くほどのスピードで、剣の腕は上達していった。
そのことが、召使の口から両親に伝えられたらしい。やがて、その指南役は『一身上の都合で』と、暇乞いを申し出たが、召使らの様子から、両親が彼をクビにしたのだ、ということを私は察した。そこで、辞める際には、彼に後任を紹介するよう頼み込むことを私は忘れなかった。次の家庭教師を見つけてくれなければ、辞めてはダメだから、と脅したのだ。幸い、次の指南役もすぐさま見つかり、それから弟が生まれるまでのしばらくの間、後任となった者に教えを乞うことが出来た。
やがて、執事も『年老いたので』と、帰郷のため暇乞いを申し出てきた。この家に暮らすようになって数十年、故郷とは名ばかりの、誰一人と言って良いほど知人もいない場所に帰すことが忍び得ず、両親は、セントラル郊外に一軒家を借りて、彼を住まわせた。
彼の後進には、やはり長くこの家に仕えてきた男が選ばれた、執事としてそつなく何でもこなせるよう、彼を指導した後、かなりあっけなく、前の執事はこの世を去っていった。
後に、私が剣を止めないため、執事がそのことを気に病んで自ら引退したと、召使らから聞かされた。少し心が痛んだ。
投稿者: miyanomiki
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