2007/6/4
オリヴィエ・ミラ・アームストロングが初めて――学生らしい利用方法で――図書館を利用し始めたのは、4年次に入ってからだった。
これは、何も彼女が不勉強だというわけではない。ただ、書物に対してのオリヴィエの価値観は、『本は買って読む』がモットーだったためだ。自宅にはたくさんの本はあったし、実際、彼女の家は富裕層だったから、たいていの本は買い求めて読むことができた。
図書館に行くのがなんとなく億劫だったのは、せっかくの静かな空間であるにもかかわらず、騒乱を起こす心違いな上級生がいたからだ。横恋慕の上にストーカー紛いの行為に出、こともあろうに図書館にまでつきまとわられて迷惑したためだ。
だが、その問題な男も卒業、素行の悪さ故か、遠く離れた西方司令部への配属が決まった。
ちょうど、彼女が選択した卒論の教授が引用文献として、やたらと稀こう本や絶版本を好んで使うというのがあった。機械工学を選択した以上は、最新知識はもちろん必要だが、それ以上にゼミ教授がやたらと引き合いに出す本の1つも目通ししておかなければならない。だが、それらの本の性格からして、買って読むのは難しい。絶版本など取り寄せできないものがほとんどだし、古本屋に注文したところで、いつ手に入るかの見通しなど立つものではないから。
やむなく、セントラル第一図書館や、学内図書館に通い始め、これらの本をずいぶん手にすることになった。
図書館の古くさい――少しかび臭いにおいのする本たちだが、背表紙に残された黒ずみから、たくさんの学生たちの学業の手助けをしてきたという矜持が感じられた。オリヴィエはこうした本を手に取るのが少し好きになり、夏休み前には毎日のように図書館通いが日課となった。今までほとんど行ったことがないのが信じられないほどだった。
図書館通いをし始めると、いつものように出会う人がいる。曜日によって、この時間帯には必ずといっていいほど見かける人間もいるし、この人を捕まえるのならば図書館に行けば早い、という者もいた。
そんな人の中の1人に、マイルズがいた。
マイルズは、たいてい図書館の、自分の専門分野である書架のすぐそばにある閲覧机に座り、暇さえあれば本を手に、決まって書き写していた。その机が彼の指定席であるかのように、いつもいつもそこに座り続け、熱心に勉強していた。
最初のうち、オリヴィエは彼の存在に気づかなかった。自身も卒論の勉強のために本を借りに来ているわけだし――図書館に男をナンパしに来ているわけではないから。
だが、ある日、借りたいと思っていた本がすぐに見つからなかった。畑違いの分野のものを、参考程度に目通ししようと思ったからだ。司書に問い合わせたところ、マイルズがいつも座っている机のすぐそばの書架にあるだろうと言われ、早速探すことにした。そのとき、マイルズは指定席にはいなかった。探し物の本もあいにく貸し出し中だということが判り、返却され次第、次に借りたい、と予約簿に記載した。司書は貸し出しカードの綴りをすばやくめくると、オリヴィエからの予約票をクリップで留めた。
「返却され次第、ご連絡します。――この借りている人は割りとすぐに返す人だから、あまり待たされないとは思いますが。」
数日後、オリヴィエが図書館を訪ねたところ、予約していた本が返却されたと連絡を受けた。
「たった今、ちょうど返却されたところですよ、アームストロングさん。」
差し出された本は、オリヴィエが思っていたよりも小さくて軽かった。その本の貸し出しカードに自身の名を書き入れながら、ところで、とオリヴィエは訊ねた。いったいどんな人がこの本を借りていたのだ、と。
司書はにっこり笑いながら、いつもの指定席に座っている、若いイシュヴァール人にも見える青年を示した。
「マイルズさんですよ、アームストロングさん。あの人は読書家ですよ。しょっちゅう本を借りていますし、暇さえあればここに来て勉強している。」
貸し出しカードに記載されていたマイルズのサインは、丁寧だった。几帳面な性格なのだろうなと思い、そのままカードを司書に渡し、本を手に入れた。
その後、時々マイルズが先に借りたとかいう本に出会うことがあった。だが、当時、それだけの関係で2人は終わった。オリヴィエの方が年上だったこともある。学生にとって、2つ3つ年上というのは、少年少女ほどの差異はないものの、やはり大きな違いとなって受け取られるものだ。まだ、士官学校に入りたてのマイルズは、マイルズ本人が思っているよりもずっと、オリヴィエの目には幼く映っていたのだ。
一方、マイルズも、オリヴィエの存在に気づいていた。
いつも一人で図書館には来るが、外で見かけるときは、取り巻きの数人も連れて、歩いている。同級生から、アームストロング家の長子のお嬢様であることを聞いた。
「いわゆる高嶺の花というところだろうな、彼女は。家柄もいいし、頭もいい。運動神経も悪くないし、もちろん美人だ。ああいう女と付き合ってみたいという気持ちはあるが、家柄が違いすぎれば男のほうが疲れるだけだろうし。」
まあ、見て楽しむ分には悪くはないだろうというのが、友人のコメントだった。
その後、図書館で彼女が手にした本を見かけた。オリヴィエが図書館を退出してからこっそり手にとって見て、貸し出しカードから彼女の名前を知った。何冊か手に取ることで、オリヴィエがどんな本を多く借りているかで、専門分野が何であるかもおおよそ見当がついた。
だが、マイルズにとっても、オリヴィエとの接点はそれっきりだった。住む世界が違う、それだけで2人が当時、直接会話をすることはなかった。互いに、学業熱心で、真面目な性格なのだ、ということだけは理解できたものの。
翌年になり、オリヴィエたちが卒業する日が来た。卒業生を見送るための手伝いは、下級生も行う。マイルズも士官学校の教授に頼まれ、卒業式の受付や会場案内などをするスタッフとして式に参列した。
たいていの学校がそうであるように、成績優秀な者が卒業生代表として答辞を読む。
今年はオリヴィエが壇上に立っていた。よく通る、澄んだ美しい声だなとマイルズは思った。総代としての答辞内容もしっかりとしていて、人をひきつける魅力がある。こういう人はきっと、どこかで早々と将軍職を得るか、あるいは似合いのエリート軍人と見合いでもしてまとまり、幸せな一生が保障されているのだろう、マイルズは漠然と感じていた。自分より上に立つオリヴィエの姿は立派で輝いていて、自分と彼女との距離は遠く、本当に遠くてもう手が届かないと思っていた。
そして、数年後――。
セントラルの将軍職の人間から、ブリッグズ要塞で1人、急ではあるが人事異動で人を引き取ってもらいたいという話がきた。
「将校の中で、一人女に手を出して難儀している奴がいる。相手は人妻だったが、女の方が本気になってしまい、また、少し――面倒なことが起こった。その夫は軍属だ。真面目な男だと聞いているので、バレればいろいろゴタつくのが目に見えている。セントラルからどこか別のところに異動させたいが、引き取って貰えぬか。単身赴任という形を取りたい。」
「融通の利かない、使えない男はウチでも要らないのですが。」
オリヴィエの言葉に、相手の将校はははは、と笑い声を立てた。
「頭も悪くないと聞いている。とにかく真面目だけはとりえの人間だ。君にとっても悪いようにはしないが、どうだろう?」
恐らく、早い段階での昇格の切符と引き換えに、使えない男の1人を引き取れ、とでも言うのだろう。或いは、何らかの理由で、中央の人間にとって知られてはまずいことでもかぎつけられたか。妻に浮気された挙句、逃げ出されかけた寝取られ男。ずいぶんと情けない者を引き取るのは正直気が引けたが、上位職の将軍からのたっての願いとあればそうむげにも断ることができない。
「いったいなんという男ですか?」
履歴書を見たとき、オリヴィエの手が止まった。あの時、図書館でよく見かけた青年が、少し大人っぽくなり、そして寂しげに微笑んで写っていた。
「――いいでしょう、うちで引き取ります。」
人柄はある程度予測できたし、話を持ち込んだ男のいうとおり、真面目で仕事もできることはすぐにわかった。ただ、念のため、数週間は手元で仕事ぶりを見、その後自分の副官として任命することにした。
そして、現在に至る――。
「あのとき、もっと熱烈に貴女にアタックしていたら、こんな遠回りはしなくて済んだのでしょうね。」
マイルズの腕の中でオリヴィエはふと顔をほころばせる。
「いいではないか、今、こうしてすぐそばにいられるのだから。」
男が嬉しそうにまた動くと、体中が歓びでぞくりと感じるのが分かった。甘い声が漏れそうになる。背中にしっかりしがみつくと、オリヴィエはマイルズの力強さを知ることができた。
「これからやり直しましょう。もしもまだ、生きられるのであれば、二人で過ごせる時間は残されているでしょうから。」
愛しています、の言葉は耳元に囁かれ、甘い麻酔薬のように全身を痺れさせる。
夜はまだ、始まったばかりだった。 (FIN)

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投稿者: miyanomiki
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