素晴らしかったです。
当日のパンフレットです。
クリックすると大きくなりますが読みにくい方の為に
転載します。
里見のぞみ 浜松 Hamamatsu
ひとりにこだわっているわけてはないのた
が、何故か演じ手はいつも里見一人だ。
それでもその場に居合わせた人々は時と場
合によって、観客とも目撃者とも共演者と
もなリ得る。
縁があれば人とのコラボレーションはいと
わないが、例えば音のもつ力の強さに辞易
することも多いので、かなり慎重だ。
今のところ音楽家高橋壌司氏との仲は、う
まくいっている。長いこと路上にこだわっ
てきたが、壁の内外自在に出入りできた方
がいい。そう思うようになった。
田舎に住んでいる。それで本当に芝居を見なくなった。
だが、東京に住んでいるからといって、劇場に足を運ぶ
人はごく一握りだろう。
芝居を見ないで、何を見ているのか。蟻か、かたつむ
りか。テレビニュースか、市場の安売りか。
俳優の演技、ダンサーの踊り、大道芸人の芸、演る人
と観る人が、前提を共通了解した上で成り立つ芸事に、
何一つ心惹かれなくなってしまった。悲しい性だ。勿論、
前提をのり越えてこちらに揺さぶりをかける舞台はあ
るだろう、努力して探していけば。あるいはすでに評価
の定まったもののなかにも。だが、眼前に生々しく起こっ
ていることに立ち会うというエキサイティングな経験
をしたい私は、劇場空間にそれは見つけにくいと感じる。
メキシコの路上で、路上に暮らす子ども達(ストリー
トチルドレン)が自分達の日常を劇にして見せるという
ことを、やっていた。それを見た私の中で、演劇の持つ
意味とポジショ・ンが確かに変わった。
演技が見たいのではないのだ。演ずる人が垣間見せる、
皮膚の裂け目からのぞけるいのち、それが見たいのだ。
(魔女のような発言だな)
路上に自分の作品を置いてみる。路上に演劇を置いて
みる。どうしたって壊される、格闘する。私は武装して
いく。
なんだ武装?芸と言う?技と言う?
私が見たいのは裂け目だったのではないのか、武装され
たものではなくて。かくして私はどつぼにはまっていく。
逃げ道をみつけた。紙であり布であり紐だ。素材が私
を不自由にする。言葉を使わないという制約、視覚を
遮断するという安直な方法。それらも私を不自由にす
る。不自由な中に裂け目はできるのではないかと思っ
て。だが、慣れてしまえば裂け目はただの模様に過ぎ
ない。いのちが見えるだと?何を言う。
それでもやっぱりやってみようと思う。演劇とは何
かということは、ひとまず棚に上げておいて。
動くこと、何らかの行為をすること、そこに意味を
こめてひとつの作品として作りあげた上で、それを脆
いものとして差し出そう。結局のところ路上であれ劇
場であれ、私は人と出会いたいのだ。出会いにいのちは
必要か?
必要に決まっている。
里見のぞみ