奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2017/6/22

12−3景行天皇皇子日本武尊の1  天皇陵巡り
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 三重県亀山市は、東海道亀山宿で栄えた城下町で、有名な亀山ローソクやAQUOSで一時は世界的になったシャープの亀山モデルの工場があった所です。
 第2名神高速が出来て、京都からも行き易くなりましたが、そこの能褒野神社(ノボノジンジャ)を訪ねます。
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 左へ行けば日本武尊(ヤマトタケル)の墓へ、右の鳥居は明るい林に囲まれた能褒野神社の鳥居です。
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 神社自体は明治以後に出来た、それほど由緒のある神社ではないですが、ご祭神は12-1景行天皇と12-2播磨稲日大郎姫との間に産まれたヲウスノ命、すなわち大英雄の日本武尊です。
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 先ほどの道標に従ってぐるっと回っていって、最後かぎ状の坂道を曲がると、第12代景行天皇皇子日本武尊の能褒野墓(ノボノハカ)です。
ここは全長90ⅿ・高さ9ⅿの4世紀後半の前方後円墳の能褒野王塚古墳(ノボノオウツカコフン)で、明治まではあまり日本武尊の墓とは思われてなかったようです。
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 父の景行天皇記のほとんどを占めて記されている、息子の日本武尊の話の発端は次の如くです。
父の景行天皇は上の息子大碓命(オオウスノミコト)が食事の席に出てこないので、弟の小碓命(ヲウスノミコト)に、兄を呼ぶように命じました。
それでも兄が出てこないので、ヲウス命に尋ねると、「手足をもぎ取ってバラバラにし、薦に包んで捨てました」と平然と答えたそうです。
 父の景行天皇は、優しそうな少年がこんなことをするのかと、行く末を恐れて、地方の征伐に行かせるようにしたそうです。
ここから日本武尊の武勇伝は始まりました。
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 先ずは九州の熊襲(クマソ)退治を命じられたヲウス命は、叔母のヤマトヒメから貰った衣装を身に付けて女装し、クマソタケルの宴会に潜り込みます。
宴たけなわになった頃に、酔って無防備になったクマソタケル兄弟を刺殺するという、ちょっとひきような手で退治されたクマソタケルは、それでもあなたは強いのでと、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と称えたそうです。
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 その後の話は次回に又続きます、なんせ日本武尊の墓(陵)は四つもあるのですから。
 話の最後は、日本武尊は伊吹山の神に喧嘩を売ってあなどったため、祟りのような感じで足も腫れあがり、三重(ミエ)にくびれた餅のようになったため、この地を三重(県)と言うようになったそうです。
    大和は  国のまほろば
      たたなづく   青垣
         山ごもれる  大和しうるわし
と、有名な望郷歌を詠んで、日本書紀によると30歳ぐらいで亡くなりました。
昔フークと一緒に登った(伊吹山ドライブウエイでほとんどを)伊吹山の山頂には、この日本武尊の像が建っていますし、その麓のここ亀山市に能褒野墓があるのです。

     返事 
花水木さん:この漢字を出すのに私も苦労しました。
    ヒレでは出ませんで、中学地理で習った押されてできる褶曲山脈(シュウキョクサンミャク)、
    で漢字を出し、曲山脈を消して褶だけで検索すると出てきます。
     褶(ヒレ)は最近の中高年女子がしてる薄い軽いマフラーの様なものですかね
。   
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2017/6/17

12−2景行天皇皇后  天皇陵巡り
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 吉備の臣の祖である若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)は第7代孝霊天皇の皇子で、以前岡山の墓にも行って紹介した7−3大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)の弟にあたります。
この若建吉備津日子の娘が今回の針間(ハリマ)の伊那毘能大郎女(イナビノオホイラツメ)、書紀では播磨稲日大郎姫命(ハリマノイナビノオオイラツメ)と書き、第8代孝元天皇の従妹になるのですが、その人が第12代景行天皇の最初の皇后なので、やや時代的には無理があるような気もします。
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 第12代景行天皇は名前が挙がってるだけでも7人の妻がいるのですが、その最初の妻、この播磨稲日大郎姫命との間には5人の子をもうけています。
5人のうち2番目が大碓命(オホウスノミコト)、3番目が小碓命(ヲウスノミコト)です。
この3番目が別名倭男具那命(ヤマトヲグナノミコト)、すなわち超有名な倭建命(ヤマトタケルノミコト)・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。
  次回から4回続けて日本武尊を書きます。
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 兵庫県加古川市にある日岡神社(ヒオカジンジャ)は日本武尊の出産に際して、安産祈願をしたので、今でも安産の神様です。
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 この神社の北門の横から、日岡御陵への石畳の道が続いていました。
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 陵の山すその石畳を上がってやっと、景行天皇皇后播磨稲日大郎姫命の
日岡陵(ヒノオカノミササギ)にたどり着きました。
 この陵の学名は日岡陵古墳(ヒオカリョウコフン)で、4世紀の古墳時代前期の前方後円墳です。
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 昭和11年に建てられた不思議な建物 聖徳閣。
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 その跡地に建てられた日岡山展望台から、手前の陵と加古川を望みます。
 日岡陵は別名 褶墓(ヒレハカ)とも呼ばれています。
これは姫の遺骸を船に乗せて加古川を渡る時、急に嵐になって舟が沈み、遺骸は川中に没して上がらず、わずかに匣(クシゲ)(化粧箱)と褶(首にかける布)だけが見つかったため、この二つだけを墓に入れたので、この名があるそうです。
わざわざ加古川まで行って、私は空の陵を見ただけということですかね。

     返事 
花水木さん:コメントが入ってないと非常に寂しいです。
     なるべく花水木さんの興味を引くような文を書いていきますので、
     よろしくお願いいたします。
      他の人も時にはコメントお願いいたします。
大雪男さん:絵画鑑賞も好きですが、映画鑑賞も好きです。
    昨日日本映画の「追憶」を観ましたが、なかなかよく出来ていました。
     中日・ヤクルト・巨人の得点力が、
    少し上向いてきたのが気になりますので、
    いつもいつも不安ばかりの観戦人生です。
タグ: 天皇陵

2017/6/14

展覧会  趣味
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 先週と先々週は展覧会週間、無料券を貰ったこともあって、いろんな展覧会に行きました。
でも、展覧会のはしごもしんどくなった年頃、一日一展がせいぜいです。
 第2名神が出来て便利になった、滋賀県の信楽にまずは出かけました。
タヌキの置物で有名な信楽焼きの本場です。
このタヌキ、人間に化けてみましたが、腹がへこまないのですぐにばれそうです。
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 信楽陶芸の森で「うつわ ドラマチック展」を観ました。
日本の陶芸を観る機会は多いのですが、世界の陶芸家の方がダイナミックで独創的で、色々な試みをしてるような気がして、なかなか楽しい展覧会でした。
また陶芸を始めようかとまで思いました。
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 西園寺公望公が揮毫した「泉屋博古」の額が架けられている泉屋博古館(センオクハクコカン)は、京都東山の鹿ケ谷にあります。
あの財閥住友家の美術コレクション、特に中国古代青銅器(3千年以上前ですよ)の収集で有名です。
あまり青銅器には興味ありませんでしたが、今回はボランティアの解説員が丁寧に説明してくれたので、ちょっとは理解でき面白かったです。
それに京都久津川車塚古墳出土の本物の三角縁神獣鏡も観れたので、天皇陵巡りで少しはその辺りの歴史にも興味を持っている私には、良かったです。
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 でもそこへ行ったのは、青銅器の常設展を観るためではなく、浅井忠の展覧会
「浅井忠の京都遺産ー京都工芸繊維大学美術工芸コレクション」です。
私の今の家のすぐ近くにある京都工芸繊維大学の教授として、浅井忠は長く京都に住み、墓も京都にあるそうです。
私の思う洋画ばかりの浅井忠のイメージと違って、大津絵的なデザインや、フランス留学から持って帰ってきたアールヌーボのガラス器や陶芸品も陳列されていました。
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 京都駅も大きく綺麗になってもう20年ぐらいか、大階段も有名ですが、中に入った伊勢丹にある美術館「えき」KYOTOでやっている
  「これぞ暁斎!This is Kyosai!」にも行きました。
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 河鍋暁斎(カワナベキョウサイ)を私は知りませんでしたが、江戸から明治にかけての浮世絵画家です。
でも国芳の弟子だけあって大胆な構図や、北斎のような漫画絵も書き、春画でさえもユーモラスで、絵の一枚一枚が目の付け所が違う、と思いながら観て回りました。
それでいて筆力や写生力はすごいですし、なかなか良い画家ですね。
父親は幕臣の株を買って武士になり、母親は慶喜に付いて静岡に移住したりしてる所も、うれしいかぎりです。
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 最後はこんな茶釜の展覧会にも行ってきました。
私の実家から500mぐらい、高校の通学路としてよく通っていた懐かしい場所にある
   大西清右衛門美術館です。

      返事
大雪男さん:大雪男さんと私の予想がほぼ当たれば良いのですが。
    でも久しぶりに死のロードまでは楽しめそうで、うれしい限りです。

2017/6/11

12−1景行天皇  天皇陵巡り
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 前々回11−1で書いたように、第11代垂仁天皇は寵愛してたものの裏切られた最初の妻サホヒメとの間にも一人皇子がいましたが、さすがに裏切った妻の子ではなく、二番目の妻日葉酢媛命(ヒバスヒメ)との間の第二皇子 大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケノミコト)、書紀では大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケスメラミコト)を次の天皇、第12代景行天皇(ケイコウ)にしました。
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 第12代景行天皇は纏向日代宮(マキムクノヒシロノミヤ)(奈良県桜井市)に都を移し、日本書紀では在位60年で106歳で崩御(古事記ではなんと137歳です)、この山辺道上陵(ヤマノベノミチノエノミササギ)(天理市)に葬られたそうです。
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 この拝所の後方すぐに広がる小山が、近くにある祖父の第10代崇神天皇陵よりも大きく、前方後円墳では8番目の大きさの渋谷向山古墳(シブタニムカイヤマコフン)、4世紀前半の築造なので古墳時代前期ですが景行天皇陵です。
 天皇家の始まりを暦的に良い紀元前660年にしてしまった古事記や日本書紀によると、第12代景行天皇は計算上紀元300年頃になっていますが、陵の歴史学的年代ともだいぶ合ってきました。
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 第12代景行天皇はイナビノオオイラツメとの間に5人の子をもうけ、その内の一人が有名な日本武尊(ヤマトタケル)になります。
 またヤサカノイリヒメノミコトとの間に4人の子をもうけ、その内の一人が次の第13代成務天皇(セイム)になりました。
 そのほかに計7人の妻に計21人の名前のある子をもうけましたが、それ以外にいちいち書き留めないが合計80人の子を、景行天皇はもうけたそうです。
 80人の子供の内3人だけが、今で言う話題の宮家をついで、それ以外の子は全て各地の地方官に任命したそうです。(女の子は地方官にしたのではなく、多分有力者に嫁がしたんでしょうね)
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 横から拝所を眺めると、周濠に突き出たようにあることが分かりますでしょう。
 この景行天皇の業績は、古事記にはたくさん子を作ったこと以外あまり記述がなく、景行記のほとんどは息子の日本武尊の武勇伝に当てられています。
 日本書紀では、九州遠征に自ら出かけたり、都を滋賀県坂本の志賀高穴穂宮(シガタカアナホノミヤ)に移したことなども書かれています。
 まあ80人の子の男女比が47:33として、今の世で100歳以上生きて総理大臣をして、男の子を全員都道府県知事にしていたら、安倍総理以上にやりたい放題でしょうね。
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 車を停める所がないので、周濠近くの道路に車を置いて家内に残ってもらい、走って拝所まで行ってきました。
 自動ブレーキや警告音、急発進しない装置など付いた老人向け日産ノートにもだいぶ慣れてきました。
車を撮るのに、ナンバープレートを隠す意味が解かりません、ナンバーから素人が簡単に持ち主を探すことが可能なんでしょうかね?
 と言いつつ、隠しています。

     返事
花水木さん:もう少し回が進むと、
    夫婦で同じ陵に入ってる天皇も出てきますよ。
大雪男さん:ゴールデンウイークに私が予想した
    阪神・広島・ヤクルト・ベイスター・中日・巨人も
    あながち夢ではないかもしれませんね。
     今回交流戦途中の予想は
    広島・阪神・中日・ベイスター・ヤクルト・巨人に訂正します。
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2017/6/7

11-2垂仁天皇皇后  天皇陵巡り
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 この地図、中央の駅が近鉄西大寺駅、右に平城京跡、地図を離れた少し下方に前回の垂仁天皇陵、上方三つの前方後円墳の一つが今回の第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ヒバスヒメ)の陵です。
したがってこの垂仁天皇夫婦の陵は、歩ける範囲の距離にありました。
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 今年のゴールデンウイークの上天気の日に、近鉄西大寺駅から歩いて、この辺りの陵を巡りました。
三つの陵が軒を連ねる、綺麗で散歩には絶好の地に佐紀陵山古墳(サキミササギヤマコフン)、すなわち日葉酢媛命の狭木之寺間陵(サキノテラマノミササギ)はありました。
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 前回書いたように、夫の垂仁天皇に謀反を起こした妻のサホヒメの遺言に従って、垂仁天皇は丹波から4姉妹を妻に迎えましたが、妹二人は姿かたちが醜いので丹波に返しました。
4姉妹の長女で綺麗な、古事記では氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)、書紀では日葉酢媛命は、垂仁天皇との間に5人の子をもうけ、その内の一人が後の第12代景行天皇です。
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 日葉酢媛命、なんとなく目にも耳にも心地よい響きの名前を持つこのお姫様、私は好感を持っています。
その死に際して、夫の垂仁天皇は弟である倭彦命の家臣の生き埋めのむごさを思いだし、「殉死の替わりになるものを」と、家臣の野見宿祢に命じて、家臣の替わりに埴輪を作って埋める習慣を作ったようです。

      返事
花水木さん:橘は東京では育たないのですね。
     皇居には左近の桜は植えられても、右近の橘は植えられないということは、
     やっぱり明治の東京遷都は間違いでしたね。
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2017/6/3

11−1垂仁天皇  天皇陵巡り
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 自宅から急行奈良行の地下鉄に乗って一時間ほど、近鉄西大寺駅で普通に乗り換えて一駅、近くには唐招提寺もある尼ヶ辻駅で降りて、この道標に沿って歩きます。
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 目線と同じ高さに立派な周濠を持つ前方後円墳が見えてきました。
鷺?の群れが巣を作っているのか、その糞で木々が白っぽく見える所もあります。
宝来山古墳(ホウライヤマコフン)、全国第20位の大きさの前方後円墳で、4世紀後半に築かれたようです。
奈良盆地の真ん中近くの平地に築かれているので、全容が見渡せて余計に立派に見えます。
 これが153歳で亡くなった(書紀では139歳)第11代垂仁天皇(スイニン)陵の菅原伏見東陵(スガワラノフシミノヒガシノミササギ)です。
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 第10代崇神天皇の第3皇子で、母は大彦命の娘で御間城姫(ミマキヒメ)、古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)、日本書紀では活目入彦五十狭茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト)で、都を纏向珠城宮(マキムクノタマキノミヤ)(桜井市)に置いて即位し第11代垂仁天皇に成りました。
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 最初の妻サホビメ(父崇神天皇の兄弟の娘なので従兄妹同士の結婚です)を寵愛していました。
サホヒメの兄サホビコノミコ(同じく従兄弟になりますね)が、妹に夫の垂仁天皇を殺す様に小刀を渡しましたが、サホビメは夫を殺すことが出来ず計画がばれてしまいましたので、二人とも垂仁天皇の軍勢に殺されてしまいました。
 死ぬ前にサホビメから推薦された姉妹を含め、垂仁天皇は計8人の妻との間に16人の子をもうけました。
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 垂仁天皇から常世の国に非時香果(トキジクノカグノコノミ)を取ってくるように派遣された、家臣の田道間守(タジマモリ)が持ち帰った時には、垂仁天皇は亡くなっていました。
タジマモリは陵の前で泣き叫び続けて、自分も死んでしまいましたので、大きな周濠の中にあるこの小島に墓が作られたそうです。
 私はこのトキジクノカグノコノミは字づらから、なんとなくイチジクのことだと思ってしまいましたが、古事記では今に言う橘のことと書いてありました。
御所の紫宸殿の前に右近の橘があるのは、この故事かららしいです。
 小島の前には鳥居があって、その石碑には果祖神 田道間守と書いてあるように、タジマモリはお菓子屋さんの守り神でもあるようです。
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 この垂仁天皇の御代には、野見宿祢(ノミノスクネ)と当麻蹴早(タイマノケハヤ)が角力を取って、ノミノスクネが勝ったと記されていて、これが相撲の始まりのようです。

    返事
花水木さん:五島の少し味は薄いが身は厚い鯖寿司も、
    京都の有名店の鯖寿司も、若い時より好きになっています。
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2017/5/31

小浜往復  
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 若狭小浜から京都を結ぶ道の一つ鯖街道。
ここを通って運ばれた若狭湾で獲れた鯖は、揺られて丁度良い酢加減か塩加減になって、京都で美味しいきずしや鯖寿司になったので、鯖街道と呼ばれています。
 今は車なら、この鯖街道を通って自宅から1時間ちょっとで着く小浜、今回は久しぶりに途中で瓜割り公園に寄りました。
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 島へ行く前の一時期、小浜まで美味しい魚を食べに行ったり、神泉と言われる瓜割の清水を貰いに通った時もありました。
 爪があるので、爪ではなく瓜割の滝(ウリワリノタキ)、夏でもこれに漬けた瓜が割れるほど冷たいので、この名が付いています。
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 有名な奈良の「お水取り」の10日前に、この近くの神宮寺で「お水送り」の行事があって、川に「お香水」を撒きます。
その水が10日かかって奈良に流れて、「お水取り」の水になるそうです。
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 瓜割の名水で淹れたコーヒーとくずまんじゅうを食べました。
その後、小浜の港で干しカレイを買って、小浜の町を少し歩き、以前から行きたかったが行けなかった海岸の割烹店で昼ご飯。
漁師丼も焼き鯖も美味しかった。
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 帰りは西の鯖街道と言われる、もう少し西の方の道で、京北町を抜けて京都へ帰りました。
 高石ともやと言うフォーク歌手を知っていますか?
「赤いヤッケ」は私の愛唱歌でしたし、√2・√3を覚えられる「受験生ブルース」も有名です。
その「高石ともやとザ・ナターシャセブン」と言うグループ名繋がりで、高石ともやが移住していた名田庄村が、西の鯖街道の途中にあります。
 ここの暦会館(200円)にも寄りました。
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 陰陽師安倍清明で有名な安倍一族が、応仁の乱の戦乱を逃れて、一族の荘園であったこの名田庄村に住み着き、一族の墓もここにあるそうです。
移住後もこの地から、宮中の暦・天文・時刻などを管轄していたので、ここに暦会館があり、熱心に説明してくれたお姉さんから資料までいただきました。
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 いろんな暦の展示の中で、懐かしいこの布製の刺繍もされたカレンダーに遭えたのが嬉しかった。
あの頃どこの家に行っても見たし、終わってからもなかなか捨てきれずに、何か利用できないかと思ったこのカレンダー、どこの家にもあったはず、郵便局がくれた物だったのですね。

    返事
花水木さん:私は自分の墓を探さねばならない立場なのですが、
    作らない選択肢も考えていますが・・・・。

2017/5/27

10−2倭彦命  天皇陵巡り
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 自転車で第10代までの天皇陵を巡っている時、橿原神宮前駅から西の方に、少し時代の飛んだ第28代宣化天皇陵の道標がありました。
その向こうには橿原高校の道標も見えますが、この宣化天皇陵の裏側にももう一つ陵があるようなので、ついでに行ってきました。
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 橿原高校の裏門辺りに古墳らしき山がありましたが、どこから入って良いのか判りません。
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 前方後円墳の中央のくびれの部分を横切るように、農家の人たちが通れるような感じで道がついていました。
 実はこの前方後円墳(桝山古墳(マスヤマコフン))は、日本最大規模(一辺90ⅿ・高さ15m)の方墳に、明治時代に前方部をくっつけたようなので、宮内庁管轄にしては堂々とその中を通れる道があるようです。
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 狭い周囲の道を廻って、なんとか前方部の拝所に行きつきました。
第10代崇神天皇皇子倭彦命(ヤマトヒコノミコト)の身狭桃花坂墓(ムサノツキサカノハカ)です。
 陵と名が付くのは、例外はありますが天皇・皇后だけで、その他の皇族は墓です。
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 倭彦命は第10代崇神天皇の皇子ですので、第11代垂仁天皇の同母弟になります。
 倭彦命が亡くなった時、近習のものは墓の周りに生き埋めにされる風習がありましたが、生き埋めにされた者が死なずに、そのうめき声が周囲に響いたり、死後は腐肉に犬や鳥が集るという惨さを見た垂仁天皇は、殉死の禁止令を出したそうです。
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 ぐるっと後円部(元々の方墳の方)を廻って無事帰りました。
本当ならこの辺りは生き埋めにされた霊が飛び交ってるはずなのですが、実はこの桝山古墳は5世紀前半に築かれたそうですので、倭彦命の墓であるはずがないのです。
 私の天皇陵巡り、天皇陵は必ず廻るようにして、出来れば皇后や天皇になれなかった兄弟などの陵や墓も巡って、数を稼ぎたいと思っています。

      返事
花水木さん:私もスーパーでは家内のかごについて、
    時々お菓子やジュースをそっとかごに入れていますが、
    スーパーはそれほど嫌いではありません。
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2017/5/24

10−1崇神天皇  天皇陵巡り
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 第10代崇神天皇陵(スジン)は奈良盆地の東、桜井市の北の天理市の三輪山近くの山際にあります。
 この地図の中央の前方後円墳が4世紀後半ぐらいの行燈山古墳(アンドンヤマコフン)、すなわち崇神天皇陵です。
右側のもう少し大きい前方後円墳は第12代景行天皇陵ですし、地図を離れてもう少し右側(南側)は桜井市で、以前行ったヤマトトヒモモソヒメの箸墓があります。
地図の上の方を右から左に(南から北へ)走ってるのが、日本で一番古い道とされている山辺の道(ヤマノベノミチ)です。
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 行燈山古墳、すなわち第10代崇神天皇陵である山辺道勾岡上陵(ヤマノベノミチノオカノエノミササギ)は、前方後円墳としては日本で16番目の大きさを誇る立派な古墳です。
 前方後円墳と言う語を初めて起用したと言われる、江戸時代の蒲生君平の書いた「山陵志」では、第12代景行天皇陵とされていたようですが、その方が正解かもしれません。
  一周すれば1.5kmぐらいを散策しました。
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 以前廻った頃に比べて、柵で閉められた陵の駐車場が多い中、ここは広い駐車場が生きていたので、そこに車を停めて拝所に上がりました。
ここの拝所は周濠の堤の上にありましたが、堤自体は江戸時代の修復でかさ上げされたようです。
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 拝所に登って振り返ると、周りにも小さな前方後円墳の陪塚が数カ所ありました。
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 周濠周囲に沿って(375ⅿ×215m)歩きますが、渡土堤(ワタリドテ)と言って墳丘と外部を繋ぐ三カ所の土堤に寄って、周濠は区切られていました。
これは陵が斜面に建てられたため、周濠の水位を調節するためでもあるようです。
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 二人でぐるっと一周をゆっくり歩きました。
 前方部に戻ってきて、この小さく見える拝所から前方部まで、濠は63ⅿありますし、前方部の横幅は100ⅿと立派なものですが、第10代崇神天皇陵とすると全く年代は合いません。
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 古事記では、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)は師木の水垣の宮(シキノミズカキノミヤ)(奈良県桜井市)で、第10代崇神天皇として天下を治め、168歳(書紀では120歳)で崩御し、この陵に葬られたことになっています。
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 第10代崇神天皇は3人の妻で12人の子をもうけました。
前々回の孝元天皇で書いたように、叔父にあたる武埴安彦命の反乱の話や、四道将軍(シドウショウグン)を派遣した話など有って、この天皇の御世を讃えて所知初国之御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)とも表記されていることより、実際は崇神天皇が事実上の初代天皇ではないかという説や、卑弥呼の時代に実際に政治を行った男の王様が崇神天皇ではないかとも言われています。

    返事
花水木さん:確かに男と女の違いは永遠のテーマですね。
     ロダンの考える人のポーズ、座ってるので疲れるという印象は持ちませんが、
    あんな恰好でずっといたら、背中が日焼けして痛そうな気はします。
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2017/5/21

海北友松  京都から
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 この週末は京都は夏です。
こう暑いと体がついていかない気がするのは、年齢のせいでしょうか?
夏を喜ぶ気にはなりません。
 金曜日朝から、京都国立博物館に行きました。
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 朝なのにもう暑い!
噴水見てるのが気持ち良いぐらい。
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 こんな格好でじっと考えてるのも、いくら噴水の横だと言っても辛いでしょうね。
世界に20体以上あると言っても、本物なので、夏は屋内展示にしてくれるように策を練ってるのかもしれません。
   ロダンの考える人です。 奈留小学校にも二宮金次郎の替わりにありましたね。
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 目的は海北友松(カイホウユウショウ)(1533〜1615年)の展覧会。
朝一番なのに並ばなくてはならないことで、出鼻をくじかれました。
 浅井長政の家臣の子として生まれ、信長に滅ぼされたため絵師になったそうです。
   「誤落芸家(あやまりてげいかにおつ)」らしいですが、
それなら私は「誤落外科(あやまりてげかにおつ)」です。
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 国立博物館の新しくなった新館には初めて入りました。
以前からここには仏像が並んでいて、若い時は興味なかったですが、今回は海北友松の絵よりも熱心に観たかもしれません。
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 日曜日も暑く、早朝散歩と買い物以外は家に居ました。
オークスの3連複、5000円弱をやっと獲って、今年のGTの初勝利です。
     返事
花水木さん:私も家内から、
    助けなく一人で二人の幼子を風呂に入れる苦労を聞かされ続けています。
    今はすまんことをしてたと思ってますが、その頃はなんとも思ってなかったし、
    そもそも昔は苦労話を聞かされていませんでした。
     継母と夫婦って、まあ同母兄弟姉妹以外は誰とでもOKです。
    神武天皇の妻も神武の連れ子と結婚しています。


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