奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2017/9/23

京の夏の旅1  京都から
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 今日はお彼岸の中日、自宅前に最後に残った小さな畑にも彼岸花が咲いています。
桜はだんだん北上して地方地方で開花時期が違うのに、彼岸花は奈留島でも600km離れた京都でも、お彼岸になったらきちっと咲いてくる、どんな器官が彼岸花に「お彼岸だぞ」と教えているのでしょうね。
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 初めてかもしれませんが、京都の観光バスに乗りました。
定期観光バス特別コース「京の夏の旅=モダン!京の近代建築と市内一望の絶景をたずねて=」、昼付きで5~6時間9千円で、曇り空の京都駅を出発です。
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 日本モダニズム建築の先駆けとして、大正13年に本野精吾(モトノセイゴ)さんが建てた自宅から見学です。
 だいたい本野精吾さんを全く知らなかったし、案内された場所は前の日に往診で行った患者さんの家のすぐそこ、立命館大学の衣笠校舎近くですが、これも知りませんでした。
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 家の外壁は、関東大震災でも唯一壊れなかった中村鎮式(ナカムラチンシキ)コンクリートブロック(L型に組み合わせるそうです)をむきだしたまま使用して(当時の近所の人はいつまでも工事中と思っていた)作られています。
 一見貧乏臭そうな家ですが、90年前の家とは思えないぐらいハイカラですね。
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 早速お昼ご飯は、岡崎の動物園前にある白河院でした。
ここは近代建築の父と言われる武田五一の設計した数寄屋造の建物が残ってるそうですが、武田五一のこともほとんど知りません。
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 庭は岡崎周辺の庭園をたくさん造ってる、7代目小川治兵衛(オガワジヘイ)の作で、平安神宮や有鄰館の庭と似てないこともなかったです。
 このコースを選んだ肝心の行き先は午後からで、次回にまわします。

     返事
花水木さん:虹を愛でて、天地真理を歌わなかった私も恥ずかしいですが?、
    その時は、
      けれどおも ようやく 虹を見た〜
      あなたあの ひとお〜みに 虹を見た
       君こそを〜 いのお〜ち
                      と歌っていました。

2017/9/20

虹  
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  先週の私は4連休でした。
 1日は孫の幼稚園敬老参観日、1日は雨の中是枝監督の「三度目の殺人」を観に行きました。
映画も行き出すと又行きたくなる、是枝作品も「歩いても歩いても」・「海よりもまだ深く」など観ましたし、先週のTVで「そして父になる」も録画したので又観ます。
是枝作品は作品名が考えるようになってるのか、今回の三度目が何なのかが解答みつかりません。
台風の一日はさすがに家に居て競馬ですが(チャラですみました)、京都は風が強いぐらいで雨は夜まで降りませんでしたので、中止した息子家族との遊びも出来たかもです。
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 最後の敬老の日は久しぶりのゴルフで、朝6時前に出発。
桂川を越えた辺りで、台風一過の空に虹を見ました。(老いの坂を越えてゴルフ場に近づくと雨でしたが)
綺麗な完全な半円で、しかも薄く二重の虹です。(キミマロズームもそろそろ変え時か、空を写したりすると黒の斑点が目立ちます)
 幸先いいかと思ったゴルフは、まあそれなりという感じ、ほんまにゴルフはタラネバのスポーツですね。
 でも、虹を写すために徐行したり停まったりした丁度この辺りで、朝の6時からねずみ獲りをしていたようで、ゴルフ同行者で捕まった人もいて、悔しがっていたので、私にとってはこの虹はかなり幸運な虹となったようです。
 (2〜3万円助かりました、ブログの為に虹を撮ろうと思って大正解です)

    返事
花水木さん:この墓、土盛した金魚の墓?のちょっと大きめ、
    ぐらいしかないので、中に何が入ってるかな?
     周りの柵が以前はなかっただけかもしれません、それで登った気がしたのか

2017/9/17

17−2履中天皇皇子市辺押磐皇子  天皇陵巡り
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 第17代履中天皇は黒比売命(クロヒメノミコト)との間に3人の子をもうけていますが、その長子の市辺之忍歯王(イチノベノオシハミコ)⦅書紀では市辺押磐皇子⦆は、本来なら次期天皇になっても良かったし、実際同じ世代で従弟の第20代安康天皇は、市辺押磐皇子に次の天皇を任せようともしていました。
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 しかし、安康天皇の弟だった雄略はこれを恨んで、市辺押磐皇子を滋賀県の蚊屋野(カヤノ)に狩に誘い、射殺した上に死骸を馬の飼い葉桶に入れて埋めたそうです。(その頃の滋賀県は、湖東も湖西も発展してたようです)
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                      右
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                      左
 日本書紀では、この時雄略は押磐皇子の遺骸を抱いて悲しんでいた舎人も殺して、同じ穴に埋めてしまったそうです。
 後日、天皇になった押磐皇子の子供が、なんとか遺骨を見つけましたが、皇子と舎人の遺骨の区別がつかないので、二つの似た墓を作ったそうで、この写真の通り左右に二つの土盛がある墓になっています。
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 ここ磐坂市邊押磐皇子墓は、滋賀県近江市市辺町の車がよく通る道のそばにある、確かに円墳二基でした。
15年ほど前に訪れた時には、この円墳に登れたような気がしていますが?

     返事

花水木さん:この辺から奈良時代まで、
    天皇家の婚姻関係はかなり血が濃くなってきて、
    なんか判りにくくなってきますので、よろしくお願いいたします。
タグ: 天皇陵

2017/9/15

17-1履中天皇  天皇陵巡り
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 先代の仁徳天皇と磐之媛命との間に産まれた子供は、大江之伊邪本和気命(オホエノイザホワケノミコト)・墨江之中津王(スミノエノナカツミコ)・蝮之水歯別命(タヂヒノミズハワケノミコト)・男浅津間若子宿禰命(ヲアサヅマノワクコノスクネノミコト)の4人です。
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 4人の長男のイザホワケノミコトが、仁徳天皇亡き後まだ難波の宮殿にいた頃、次男のスミノエノナカツミコに宮殿に火を付けられて殺されそうになりましたが、なんとか大和へ逃れたそうです。(日本書紀では、自分の妻にしようとして、弟のスミノエノナカツミコを使者にして呼びに行かせましたが、その娘の美貌に惑わされた弟に略奪されたことが、この事件の発端になったとも書いてあります)
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 疑心暗鬼になったイザホワケノミコトは、三男のミズハワケノミコトに「お前も疑わしいので、忠誠心があるなら次男のスミノエノナカツミコを殺せ」と命じました。
 長男の命令で次男を殺す羽目になった三男は、次男の家臣を煽動して、厠に入っていたスミノエノナカツミコを矛で刺殺させました。
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 その家臣とは栄転の約束はしていましたが、主君を裏切るような家臣を信じることは出来なかった三男のミズハワケノミコトは、自らの手で栄転の宴会中に主君を裏切った家臣を殺してしまいました。
 かくして三男は長男の信を得て、次の皇太子にたてられました。
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 履中天皇記は、ほぼこのスミノエノナカツミコの乱の話で埋め尽くされていますが、こうしてイザホワケノミコトは大和に磐余稚桜宮(イワレノワカザクラノミヤ)⦅今の奈良県桜井市⦆を設けて、第17代履中天皇(リチュウ)として天下を治めました。
 天皇はクロヒメノミコトを妻として、市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)・御馬王(ミマノミコ)・飯豊郎女(イヒトヨノイラツメ)をもうけています。
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 在位6年で64歳で崩御し、百舌鳥耳原南陵(モズノミミハラノミナミノミササギ)に葬られました。
ここは父の仁徳天皇の陵と建て並びに隣接した陵で、日本第3位の大きさの前方後円墳の上石津ミサンザイ古墳(カミイシズミサンザイコフン)で、元々は二重の濠があったそうです。

     返事
花水木さん:家内も「ボーカリスト」で徳永さんのファンになり、
    島にもMDを作って持ってきてくれましたが、60代になっても好きなようです
タグ: 天皇陵

2017/9/12

徳永英明  趣味
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 金曜日二人でランチ後、「幼な子われらに生まれ」を観ました。
重松清原作、三島有紀子さんという女性監督の作品です。
たまたま読んだ週刊朝日の映画批評欄で褒められていたので、行きました。
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 上手に無理なく説明されていて、だんだん家族の今ある位置が解かってくるようになっていて、それなりに面白かったですが、大作映画を観たという感じにはなれません。
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 土曜は午前中は仕事で、その最中にメールで「コンサートが今日でなく明日だった」と家内から連絡、帰りに新聞買って急遽競馬も、家内も落ち込んでいましたし、私も一つも入らず、へこんでしまいました。
 日曜日、岡崎にある昔の京都会館、島から帰ったらロームシアターに変わっていましたが、に足を運びます。
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 蔦屋が入っていたり、中からは平安神宮の鴟尾も大文字山も比叡山も見えます。
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 徳永英明のコンサート。
「壊れかけのRadio」をレイデオと歌うのではなく、今日はラディオと歌っていました。
「ヴォーカリスト」で女性歌手のカバー曲を歌って、女性ファンが増えたようで、ファンクラブの女性たちの声がよく聞こえました。
私もそんなに知ってる曲はなく、ドラゴンクエストの主題歌「夢を信じて」ぐらいですかね。
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 席は4階で一番上、見下ろすと恐ろしいぐらいの席で、徳永英明の姿は小指大ぐらいでした。
声は相変わらず良いですね、あんな声を持ちたいです。
都会に住むと、それなりに楽しい暮らしも出来ますし、夕食は高校同級生の寿司屋で、話ばかりしてなかなか握ってくれない彼とも久しぶりでした。

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花水木さん:西日本のお城は、けっこう巡りました。
     花水木さんにはいつも褒められてるばかりだと、認識しています。
大雪男さん:巨人戦1勝5敗でも2位は確保できそうですが、
    なんとか5勝1敗で、巨人を4位にしたいです。
     金時は入ってないので、宇治金時ではありません。

2017/9/9

伊賀上野  
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 9月になった休日、ぶらっとドライブに出かけました。
島から戻ると、第2名神が一部開通していたため、近畿の中央の信楽や伊賀に行き易くなっていました。
 伊賀上野は芭蕉の生誕地、忍者の里としても有名です。
近鉄上野駅前に車を停めて周囲を散策、秋の空は高く、駅前の芭蕉さんも高い空を見上げていました。
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 昔々駅前で食べた伊賀牛が美味しかったので、その店を探しましたが、駅前再開発の為かもうありません。
「金谷」という伊賀牛の有名店はありますが、そこではなく再開発ビルの中にあった店で伊賀牛の昼ご飯。
牛のタタキは美味しくて、半分食べた所で気付いて写真。
ステーキは小さい少しだけのを頼んだので、写真はなしですが、これも美味しかった。
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 伊賀焼きも有名なので、安いのと高いのと、二つお茶碗を買いました。 
 伊賀上野城も秋の空の中にそびえていましたが、昭和の再建なので、天守閣には入場料を惜しんで登りませんでした。
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 お堀の石垣は高く立派で、城作りの名人藤堂高虎の築城のはずです。
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 この高い石垣に行く道案内看板に、「日本1・2の高さ」と書いているのが、自慢はしたいが一番ではないようと思う、残念さと正直さが入り混じっていて、うれしくなりました。
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 昭和17年に出来ているのに、国指定重要文化財になってる俳聖殿、芭蕉の歩く姿に似せた建物で、中の暗がりを覗くと、芭蕉の等身大伊賀焼き座像が飾ってありました。
 伊賀忍者博物館には、30年程前に子供たちと行きましたが、今回は老夫婦二人なので、地味な芭蕉記念館に行ったのみです。
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 帰りは京都の南の、京都府で唯一の村南山城村を通って帰りました。
この辺はお茶の産地、道の駅お茶の京都みなみやましろ村で食べた300円のかき氷も、かかってる抹茶は濃厚で美味しかったです。

     返事
花水木さん:この辺から河内王朝が終焉するまで、
    結構おどろおどろしい話が続きます。

2017/9/6

16−2仁徳天皇皇后磐之媛命  天皇陵巡り
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 葛城のソコビコの娘、石之日売命(イワノヒメノミコト・古事記)・磐之媛命(イワノヒメノミコト・書紀)は、仁徳天皇の大后として4人の子をもうけました。
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 4人の子は後に、17-1履中天皇・18−1反正天皇・19−1允恭天皇になりましたが、唯一次男の墨江之中津王(スミノエノナカツミコ)だけは兄弟間の主権争いの中、裏切った家臣に厠の中で鉾に刺されて死に、天皇になれませんでした。
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 兄弟で天皇になった例は以後もたくさんあって、最高は4兄弟姉妹が天皇になっていますが、いずれも異母兄弟姉妹の例が多く、同じ母親から3人も子供が天皇になった例はなく、3天皇の母親は磐之媛命が唯一です。
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 ただしこの磐之媛命は非常に嫉妬深い女性で、夫の仁徳天皇を苦しめたそうです。
特に、仁徳天皇の異母妹八田皇女(ヤタノヒメミコ)を宮中に入れた時には、自分より八田皇女の身分が高いこともあって、磐之媛命は激怒し山城(京都府田辺市)へ引きこもって帰らず、別居生活のまま亡くなったそうです。
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 夫の大きな仁徳天皇陵は大阪の堺市ですが、磐之媛命の陵は奈良市北部の神功皇后陵などがあって紹介した佐紀盾列古墳群(サキタテナミコフングン)の大きな前方後円墳が集まってる所と、夫婦の墓は離れています。
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 この磐之媛命の陵はヒシアゲ古墳と言われ、全長219ⅿの大きさですが(写真の3つの一番下)、その傍のコナベ・ウワナベ古墳はもっと大きいです。
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 実はこの二つの古墳もそれぞれ宇和奈辺陵墓参考地・小奈辺陵墓参考地で、大きなウワナベ古墳はよりによって恋敵だった八田皇女の墓と言われてるようですので、磐之媛命は死んでからもこの地で地団駄を踏んでいるのかもしれません。

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花水木さん1:大山古墳の石棺の話は、もひとつ解かっていません。
花水木さん2:天皇陵巡りの間に、他の楽しい話を入れることで、
    お許しください。
     最近面白い話が載ってないことを、作者が一番気にしていますがね
タグ: 天皇陵

2017/9/3

16−1仁徳天皇  天皇陵巡り
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 第15代応神天皇から色々あって(15-1・15−2・15−3・15−4参照)、結局第16代天皇になったのは、仲姫命の産んだ大雀命(古事記)・大鷦鷯尊(日本書紀)の仁徳天皇(ニントク)です。
鳥の名前のせいか、仁徳天皇陵の外濠に鳥を見ました。
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 古事記は神話の上巻、神武天皇からの中巻、そしてこの16代仁徳天皇からの下巻の3巻から出来ています。
これは仁徳天皇の頃から始まる河内王朝が、今までの天皇家の系統から少し離れてることを、古事記の編者も示唆しようとしてるのかもしれません。
 写真によると、仁徳天皇陵1周は2850ⅿもあるということです。
暑かったです!
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 仁徳天皇は最初の妻で大后(オオキサキ)のイワノヒメノミコトとの間に4人の子をもうけていますが、その内オホエノイザホワケノミコト(履中)・タヂヒノミヅハワケノミコト(反正)・ヲワサヅマノワクゴノスクネノミコト(允恭)と3人の子供が次々と天皇になりました。
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 弟の菟道稚郎子が夭折か自殺かしたために第16代天皇になった仁徳は、宮の高殿(タカドノ)から国見をした時、民のかまどから煙が立ち上ってないので、「これは民が貧しいためなので、3年間租税や賦役を免除する」と命じました。
この為宮殿は傷みましたが、3年後には民のかまどから煙も上がり、民が豊かになったと又税などを取りだしたそうです。
これが、戦前の道徳教育で有名な「民の竈」の話です。
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 今は宇治墓のそばに住む昭和1桁生まれの叔父は、昔は大阪人ですので、大阪市歌を憶えていて、
         高津の宮の昔より
             よよの栄を重ねきて
              民のかまどにたつ煙
               にぎわいまさる 大阪市 〜
 と歌ってくれました。(大正10年作) 
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 仁徳天皇の世は、その名の如く善政をしいたので、聖の御世(ヒジリノミヨ)と呼ばれるようになりましたが、反面、大后のイワノヒメノミコトの嫉妬に苦しめられたようです。(身から出た錆なのですが)
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 仁徳天皇は都を難波高津宮(ナニワタカツノミヤ)(大阪市中央区)に構え、83歳で亡くなりました。(書紀では143歳)
ここ百舌鳥耳原中陵(モズノミミハラノナカツノミササギ)(堺市)に葬られています。
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 立派な三重の濠に囲まれ(写真は一番外側の濠で、一番内側の大きな濠はまったく見えません)、墳丘の全長486ⅿ(周濠も含むと840ⅿ)と日本一の前方後円墳で、公式には大山古墳(ダイセンコフン)と言うことです。
今回世界遺産候補地に選ばれた百舌鳥古市古墳群の目玉なのですが、地上から見る限りその大きさを実感できませんし、内部の様子がまったく判らないという欠点はあります。
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 拝所の向かい、大きな公園の中にある堺市博物館には、大山古墳から出土したがアメリカに渡ってしまったという、大きな石棺のレプリカが飾ってありました。

    返事
花水木さん:松茸は鱧と一緒に炊いてあったと思います。
     コメントが入って、やっと一人前のブログになりました。
和さん:和さんともバトルしたいですよ、またお願いします。
タグ: 天皇陵

2017/8/30

萬亀楼  京都から
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 ちょっと敷居が高く、払った値段もイタリア料理店よりもちょびっと高い、京都の老舗萬亀楼で食事する機会がありました。
 萬亀楼はいつもは往診で走ってる西陣の狭い道沿いにある店で、式包丁で有名ですが、今回は家族で食事のみ。
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 京都の町中ですが、立派な庭がたくさんあって、それぞれが夏の庭にしつらえてありました。
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 奥の部屋に通される途中の広間の床の間の壁は、全てすだれがかかっていたのも珍しかったです。
軸は池田遙邨です。
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 その場の庭で焼いてくれた鮎・いろいろな鱧料理・松茸・ウニご飯と、久しぶりの本格京料理は美味しくて、写真を撮るのも忘れていました。
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 一つだけ、蓮の葉と花弁に盛られた料理は、綺麗で珍しかったので、これだけは写真に撮らせてもらいました。
  たまには贅沢も良いものですね。

     返事
花水木さん:コメント無しの文字、やけに太くなって、
    嫌味たらしいですね、すみません。
    コメントは本文書くより労力がいるのに、いつもありがとうございます。
    花水木さんのコメントが楽しみで書いていますので、天皇陵巡りに飽きず、
    末永くよろしくお願いいたします。

2017/8/27

15−4応神天皇皇子菟道稚郎子  天皇陵巡り
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 第15代応神天皇が京都の宇治市木幡(コハタ)で、みめ麗しい乙女のミヤヌシヤバハエヒメと出会い、早速合体して産まれたのが、古事記では宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、日本書紀では菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)です。
  クリックすると元のサイズで表示します 父応神天皇に可愛がられ、兄達を差し置いて後継ぎになるよう遺言されました。
しかし、前回書いた異母兄大山守命の反乱は、策略で打ち負かしましたが、天皇の位を異母兄大鷦鷯命(仁徳天皇)と譲り合っている間に夭折してしまったそうです。
   
 日本書紀では、大鷦鷯命と位を譲りあって、天下に空位時代が3年続いたので、これを憂慮して自らが命を絶って、大鷦鷯命(仁徳天皇)に位を譲ったそうです。
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 宇治川のほとりにあるこの宇治墓は、宇治橋の下流の京阪電車宇治線の三室戸駅から歩いてすぐにあり、隣には太閤さんが築いた太閤堤の跡もありました。
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 宇治墓参道の横に、私の叔父叔母の隠居した家があるので、一時期ゴルフのお迎えに行ったものですが、この前行くと、道が広げられたためか参道も広く綺麗に整備されていました。

      返事はコメント無いためなし
タグ: 天皇陵


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