奈留島ゴミ箱131ヶ所巡り・奈留島百人一首に続いて、天皇陵巡り掲載中。

2018/7/20

35−1皇極天皇  天皇陵巡り
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 前回でも報告した第34代舒明天皇の父34−2押坂彦人大兄皇子のもう一人の息子茅渟王(チヌノオウキミ)が、少しだけ蘇我家の血が入った29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)と結婚して産まれたのが宝皇女(タカラノヒメミコ)(594?〜661)です。
宝皇女は高向王(タカムコノオウキミ)と結婚して漢皇子(アヤノミコ)という息子をもうけていましたが、何故か別れて?、おじにあたる舒明天皇の皇后になり、葛城皇子(カズラキノミコ)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)・大海人皇子(オオアマノミコ)を産みました。
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 夫である第34代舒明天皇が亡くなった時、その次の天皇は、夫の舒明と法堤郎女(ホホテノイラツメ)との子で蘇我蝦夷の甥になる古人大兄皇子か、舒明と自分との間の16歳と少し若いですが葛城皇子(中大兄皇子と書いた方がよく分かりますね)か、まだあきらめきれない山背大兄王か、と混乱しました。
「ややこしい時は女帝にしよう」ではないですが、皇后であった宝皇女が次の天皇ということで、第35代皇極天皇(コウギョク)となりました(在位642〜645)、50歳近くで即位した女性天皇です。
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 高校3年生の春に同級生と見学に行った思い出の飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)跡の写真です(私にとっては好きな娘が参加するから行っただけなのですが)。
 この地で即位した女帝でしたが、雨乞いの祈とうに成功するなど、次第に地位を確保はしていきました。
在位中の643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を討って聖徳太子一族を滅ぼしましたが、なんと言っても大化の改新虫五匹と記臆した(なんで645年の憶え方が虫五匹か知りませんが)、今で言う乙巳の変(イッシノヘン)が起こりました。
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 息子の中大兄皇子が中心になって藤原鎌足達と板蓋宮で蘇我入鹿を殺したと教えられてきた大化の改新(乙巳の変)、今は皇極天皇やその弟後の孝徳天皇の方がこのクーデターにより深く関与していたとの説があります。
まさかと思いますが、皇極天皇が入鹿の愛人説や、前夫高向王との子漢皇子が後の天武天皇ではないかとの説もあるようです。
 乙巳の変後、生前に天皇を辞める譲位をした日本で初の天皇になりました。
 陵印は後の斉明天皇とだけ彫ってあり、皇極天皇とは彫ってありませんでした。
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2018/7/17

祇園祭  京都
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 7月17日今日は祇園祭の巡行日、2週間前の夜にはまだ祇園ばやしのけいこ中。
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 その後大雨があって、今度は猛暑の毎日。
13日の金曜日、10年前に奈留島で総入れ歯にしてもらった私の入れ歯、順調すぎて良かったのですが、やっと1本欠けました。
友人の歯医者はもうリタイアしてて、その紹介で街中の歯医者に行き、1日で欠けた歯は元通りになりました。
帰りに通った長刀鉾の周りは、宵宵宵宵山なのに、もう人が並んでいました。
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 毎年、放下鉾の友人と、長刀鉾の友人の妹からちまきが届きます。
ちまきも今は高いですが、昔は鉾の真下で投げられたちまきを取れましたし、家の前を巡行の鉾が通るので、ちまきは沢山我が家の部屋の中に投げ入れてもらえました。
祇園祭が終わってしばらくは、三輪車に乗ってそこからちまきを投げる祇園祭ごっこをよくしていました。
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 昨日16日の宵山の昼、暑い暑いのにまた出かけて、菊水鉾の町内のお茶会に参加。
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 利休の師匠と言われてる武野紹鷗(タケノジョウオウ)の邸宅跡や、名水菊水の井戸があるためか、菊水鉾町内で毎年お茶会があります。
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 流れ作業のお茶会ですが、毎年この皿が貰えるので行きました。
今日は巡行の日、暑かったので鉾にいる囃子方や見物人も大変だったでしょうね、私は通勤は暑くつらかったですが、あとは家に居るより快適な冷房の部屋で涼しく仕事で終わりました。

    返事
花水木さん:そうです、やや不気味でした。
    夜だったら怖いと思います!
     せめて東海道を歩くかとも考えています。
    その時には沼津で5泊ぐらいしたいです。

2018/7/14

34−2押坂彦人大兄皇子  天皇陵巡り
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 1年間の全国靴下生産量6億足のうち約4割を生産する町、又竹取物語の舞台にもなってるそうで、可愛いのか美人なのか怖いのか、ちょっと迷ってしまうような大きなかぐや姫もそびえていた奈良県広陵町には、古墳もたくさん集まっています。
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 押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトノオオエノミコ)の墓は、一応宮内庁はここ広陵町にある新木山古墳(ニキヤマコフン)を三吉陵墓参考地(ミヨシ)として、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父の墓としています。
 しかし、新木山古墳は5世紀前半の築造なので、先ず当てはまらないようです。
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 ここまでの歴代天皇のうち父親が天皇ではない天皇は、当然の初代神武天皇は別として、日本武尊が父の第14代仲哀天皇、市辺押磐皇子が父の第24代仁賢天皇・第25代顕宗天皇、そして天皇まで5代遡らねばならない第26代継体天皇の4人だけでした。
前回の第34代舒明天皇は、5人目の父が天皇でない天皇です。
 写真の新木山古墳の入り口は、周濠が埋まって葦の森になってる向こうにありました。
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 第34代舒明天皇の父親は、第30代敏達天皇と息長真手王(オキナガマデノミコ)の娘30−2廣姫(滋賀県まで陵を探しに行って報告してます)との間に産まれた今回の押坂彦人大兄皇子です。
敏達天皇の第1皇子だったので、次の天皇候補ではあったのですが、母親の廣姫が早くに亡くなり、後妻に入ったのが蘇我家からの後の推古天皇だったので、結局天皇には成れませんでした。
  写真は新木山古墳の後円部を、石葺きに整えられた三吉石塚古墳(ミヨシイシヅカコフン)から眺めています。
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 押坂彦人大兄皇子は父敏達と推古の間に産まれた娘、すなわち異母妹2人を妃にしていますし、敏達と菟名子との間の娘糠手姫皇女も妃として(すなわち計3人の異母妹を妃に)、その間に産まれたのが田村皇子(舒明)です。
 また、漢王の妹大俣(オオマタノミコ)(女です)も妃として、茅渟王(チヌノオオキミ)を授かり、茅渟王が第29代欽明天皇の孫29−4吉備姫王(キビヒメノオウキミ)(猿石があった墓で、祖母が堅塩媛なので少し蘇我の血が入ってる)と結婚して、後の皇極・斉明天皇と孝徳天皇を産んでいます。
 押坂彦人大兄皇子の本当の墓は、新木山古墳から15分ほど歩いた牧野古墳(バクヤコフン)であろうと言われています。
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 したがって少しややこしいですが、蘇我氏によって天皇になれなかった押坂彦人大兄皇子ですが、その子1人(舒明)と孫2人(皇極・斉明と孝徳)が天皇になりましたし、更にその子供と孫が(舒明と皇極)結婚して、孫のようなひ孫のような天智天皇と天武天皇をも生みだしたことになりました。
 写真は牧野古墳の横穴式石室が開口してる部分ですが、柵があって中までは入れません。
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 この牧野古墳は直径約55ⅿの円墳で、成相墓(ナライノハカ)と呼ばれて、昔から押坂彦人大兄皇子の墓だと言われていたようです。
 柵の間から覗いてみてもよく分かりませんが、写真に撮ると約10ⅿの羨道の向こうに玄室の石棺の一部が見えました。
石棺は2基あったようで、もう一人の埋葬者は誰なのか、糠手姫皇女は息子の舒明天皇と一緒に入っていましたので、他の妃か誰でしょうか。
写真をよく見てみると、棺に卒塔婆が立てかけられていて、柵がなかっても私は一人では入れなかったかもしれません。
じっと柵外から観てただけで、背中がぞくっとしてくる怖がりです。

    返事
花水木さん:いつの世も、大でも小でも、
    跡目争いは他人事なら面白いですね。
     そろそろ神話から歴史上の人物になってくるので、
    面白くしていきます。(予定です)
     ボケず体力が残ってる間に、
    自転車日本一周で毎日ブログ更新するのが夢なのですが、無理かな?
元商家の嫁さんさん1:宝くじでも当たったのですか!
    旦那のブログ相変わらずリッチですが。
元商家の嫁さんさん2:すし富・すし良、憶えておきます。
タグ: 天皇陵

2018/7/10

34−1舒明天皇  天皇陵巡り
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 第33代推古天皇は皇太子であった聖徳太子に先立たれ、次の皇太子に誰も立てませんでしたので、推古天皇没後次の天皇争いは混乱しました。
 勢力を伸ばしていた蘇我一族にとっては、蘇我家の血が濃い聖徳太子の息子山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)の方が、蘇我家の血が全く入ってない第30代敏達天皇の孫田村皇子(タムラノミコ)より良かったと思います。
しかし、蘇我一族内での主導権争いや、蘇我馬子の娘 法堤郎媛(ホテイノイラツメ)と田村皇子との間に古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)が産まれていたこともあって、蘇我蝦夷(エミシ)は田村皇子を推したようです。
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 第30代敏達天皇が30−2廣姫に産ました押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)と、同じく菟名子(ウナコ)に産ました糠手姫皇女(アラテヒメノヒメミコ)の、異母兄妹の結婚に依って産まれた田村皇子は、飛鳥岡本宮(アスカオカモトノミヤ)に即位し第34代舒明天皇(ジョメイ)(593〜641)(在位629〜641)になりました。
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 前述したように、舒明天皇は法堤郎女との間に古人大兄皇子をもうけていましたが、皇后になったのは宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)で、その間には葛城皇子(カズラキノミコ)(後の天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(後の孝徳天皇皇后)・大海皇子(オオアマノミコ)(後の天武天皇)のそうそうたる二男一女ができました。
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 こうして王統は蘇我家から離れて(宝皇女は女系ですが少し蘇我の血が入っていますが)、敏達・舒明系に収斂され、このまま現在の天皇家に繋がっていきます。
 舒明天皇の時代、歴史的には630年遣隋使の経験もある犬上御田鍬(イヌガミノミタスキ)をして第1回遣唐使が始まりました。
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 49歳で亡くなった舒明天皇の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)(奈良県桜井市)には、近鉄桜井駅から奈良らしい道を走って自転車で行きましたが、この陵には息子舒明よりはるかに長生きした母の糠手姫皇女も合葬されてるので、制札には敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女押坂墓(オサカノハカ)とも書いてありました。
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 正式名段ノ塚古墳(ダンノツカコフン)はわが国初と思われる八角墳であり、その後の天皇陵には八角墳が見られるようになりました。
 横の道を少し上ると、第29代欽明天皇の娘で29−3で紹介した大伴皇女の墓や、万葉歌人の鏡女王の墓もありました。
   いいとこです!

       返事
花水木さん:花水木さんはもうちょっと頑張って下さいよ、
    孫の世話は体力入りますし、
    私への追悼コメントも入れなければなりませんよ。
元商家の嫁さんさん:オリンピックとサッカーはあまり興味湧きませんが、
    ラグビーは楽しみにしています。
     小浜は昼しか行かないので、病院前の寿司屋の地元評はどうですか?
    美山の新座さんは覚えておきます。
     それはそうと、今気づきましたが、
    元が付いてる!なんで元が付いてるんですか?
タグ: 天皇陵

2018/7/8

古希  
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 私の住む京都市松ケ崎学区にも、7月5日木曜日には避難勧告が出され、一部の人から安否うかがいも貰いましたが、避難することもなくすみました。
7月6日金曜日に予定していた和歌山県北山村での筏下りは、中止の連絡が入って、この休みは家に居ますし、仕事でもないので止まってる電車の心配もせず過ごしました。
7月8日日曜日、今朝は朝から日もさしていますが、広島や岡山は大変なことになっていますね、こんな時に気楽なブログで申し訳ありません。

 恥ずかしながらとうとう70年も生きてしまいました。
それほどは世間に迷惑はかけてないつもりですが、それ程世間の役にも立たず、自分の思い通りに自己中心的に70年を過ごさせてもらいました。
先日は4人の孫も集まってくれて、孫U−2の7歳の誕生日と一緒に、私の70歳も祝ってくれました。
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 イクメンの練習もしながら、あと10年ほど気楽に生きていけたら上等と考えています。
ほぼ60歳台を綴ってきたこのブログ、読んでる人が嫌になっても、私が嫌にならない限り、もう少し続けたいと思っていますので、よろしくお願いいたします!

    返事
花水木さん1:やっと登録されました!
    この事が、今奈留島に住んでる人々にとって、本当に良かったと思われるようになることを、
    祈っています。
     私にとって奈留島は、すべてが懐かしいです!
大雪男さん:上五島もこれで少しでも良くなれば嬉しいです。
     セ・リーグはもうどこが強いのか判らなくなっていますね。
    7月になって阪神も少しは打ちだしたので、観てる分には面白くなってます。
花水木さん2:ご心配いただきましたが、大丈夫です。
    筏下りも、行けなくなって良かったぐらいですが、他の場所が大変ですね。
和さん:誕生日まで憶えていただいて、ありがとうございます!
     奈留島もあまり観光客が増えすぎるのは、心配です。

2018/7/4

奈留島が世界遺産に  奈留島
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 やっとこさ!
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されました!!
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)もその中に含まれています。
 登録の名前が変わったり、私が奈留島に居る頃より登録されそうでされないと、紆余曲折で10年以上かかったと思いますが、先ずはおめでとうございます!!!
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 10年ぐらい前、私が奈留島にいた頃、大合併で奈留町から五島市に変わった為か、奈留島の道路案内看板がすべて新しくなりました。
撤去された古い看板は、廃屋寸前の家に住み空き缶回収などしていたお爺さんに引き取られました。
その庭にあった看板を、フークの散歩の途中に見つけた先見の明ある?私は、ちょっと知ってたのでお爺さんから無料でもらい受けました。(違反だったら目をつぶって下さい)
 わざわざ車に積んでフークと共に京都まで持って帰り、庭に置いて今日の日を待っていたのです。
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 奈留島で世界遺産登録されたのは、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)なので、私のゴミ箱霊場巡りの江上教会周辺のゴミ箱も、世界遺産になりました!!
 あの頃は天主堂とは呼ばずに、江上教会が普通でしたね。
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 長崎市内や天草の教会群も良いですが、ちょっと足をのばして、皆さまぜひ奈留島の教会も尋ねて下さい!
私も写ってる江上天主堂のポスターも、船着き場でお待ちしています。
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 30個ぐらいあった撤去看板の中から、もう一つだけ貰って帰ったのが、このユーミンの歌碑看板、病院に立っていました。
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 奈留島での2大名所は江上教会と、奈留高校の校歌になりかけたユーミンの「瞳を閉じて」、
この二つの貴重な案内看板、100万円で買ってくれる人がいたら、自宅までお届けいたします。

  返事
花水木さん
小野選手は北海道で選手だと思います。
    静岡県はサッカー王国ですよね

2018/6/30

小野妹子2  天皇陵巡り番外
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 小野妹子のついでに、息子小野毛人に続くその子孫について。
小野家の出は元々、滋賀県湖西の琵琶湖大橋の少し北、小野の郷らしいです。
近くには、小学校の水泳遠足で行った和爾浜水泳場があるので、小野家のもっと先祖になる和爾氏(ワニシ)ゆかりの地でもあるようです。
 家から車ですぐの小野毛人墓のある崇道神社の横を通って、八瀬大原を抜け、途中峠を越えると、小野妹子そのままの名前が付いてる道の駅まである、小野の郷までは30分ぐらいで着きます。
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 小野の郷の新興住宅地の真ん中に残った、小高い丘のような唐臼山古墳(カラウスヤマコフン)は、7世紀前半に造られたようですが、ここも小野妹子の墓だと言われています。
そこには鳥居をくぐって、急な石段を上がる、小野妹子神社もあります。
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 小さな小野妹子神社本殿の裏にある小山は、太子町磯長にある妹子墓や崇道神社奥の毛人墓になんとなくイメージが似ていました。
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 唐臼山古墳の展望台からは、住宅地の向こうに琵琶湖大橋や、湖東の三角形の近江富士も見渡せました。
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 小野妹子から5代後の小野篁(タカムラ)(802〜853)、参議篁として小倉百人一首の11番目の歌でも有名です。
妹子は遣隋使として2回も中国に渡っていますが、篁は遣唐使として派遣されるのを拒否して、嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐に流されています。
その後は許され、昼は朝廷に出廷し、夜は冥土へ通じる六道の井戸を通り、閻魔大王に使えていたという伝説もあります。
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 この篁と小野一族を祭神として祀る小野篁神社と小野神社、この本殿は、何故降格されたか知りませんが、誰かの怒りに触れたのか、旧国宝で現在は重要文化財でした。
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 小倉百人一首第9番小野小町も、篁より2代後の小野一族とも言われていますが、判りません。(奈留島百人一首のため島の官舎の部屋で撮ったカルタ写真、官舎の畳が懐かしい!)
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 小野神社境内には、小野小町の塔もありました。どんな由緒かはわかりません。
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 小野神社から梅雨前の暑い道を歩くと(家内にも付き合ってもらいました)、よく似た造りの小野道風神社にたどり着きました。
小野道風(トウフウ)(894〜967)も篁の2代後になりますので、妹子から数えると道風は7代後、妹子の仍孫(ジョウソン)(孫の孫の孫の子)になります。
この本殿も、旧国宝の今重文でした。
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 字の上手な三筆は、空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)、三蹟は、藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とこの小野道風です。(昔から何回憶えても覚えきれませんでした)
 花札の「柳に小野道風」の絵柄でも有名ですので、鳥居横にはこんな池もありました。
暑い中いくら待っても、蛙は柳に飛びつけませんでしたので、行動しなければなんの結果もかち得ないということを知りました。
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 小野家は、菓子の免許を与えることを許された家でもあったので、小野家は日本の華道・菓道両方の創生発展に寄与していたようです。
 帰り道、琵琶湖大橋のちょっと有名らしい店でランチしましたが、小野家の墓参りをしたおかげか、そのデザートは豪華で美味しかったですよ。

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花水木さん:池坊はごたごたしていて、
    京都でも人気はもひとつのようです。
     珍しい名前と言えば、奈留島にいた大学柔道第3位になった
    熊埜御堂未来(クマノミドウミライ)さん、もうせっかくの苗字も変わってますかね。
タグ: 天皇陵巡り

2018/6/27

小野妹子1  天皇陵巡り番外
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 推古天皇の時代607年、第2回(第1回は600年か?)遣隋使として派遣され、隋の煬帝(ヨウダイ)(在位604〜618年)の返書を帰路になくしてしまったされる小野妹子(オノノイモコ)、日本史でも学んだ有名な人物ですよね。
 その時聖徳太子が書いたと言われる煬帝を怒らせた国書「日出処の天子、日没する処の天子に致す・・・・」の話も有名です。
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 その小野妹子の墓と伝えられているのは、聖徳太子や推古天皇の眠る大阪府太子町磯長の科長神社(シナガジンジャ)の横にありました。
写真は科長神社の鳥居、撮影立ち位置が小野妹子墓の階段下です。
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 階段を上って行くと、丸く石の柵に囲まれた円形の墓がありました。
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 中までも入れますが、中央は小山だけの円墳のようです。
まずまずきれいに整備されているのは、華道家元の池坊が管理されているからのようです。
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 何故池坊管理かと言うと、587年聖徳太子建立の京都六角堂の初代住職(専坊)となった妹子が、隋で学んだ仏前に花を供えるという行為を六角堂でも続けていたので、「華道の祖」となったようです。
京都のへそ石で有名な烏丸六角にある西国第18番札所六角堂の、この正面写真の奥のビルが池坊のビルです。
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 小野家は一応第30代敏達天皇から続く家系で、数々の有名人を輩出しています。
NHK大河「おんな城主直虎」で高橋一生が演じて名を上げた小野政次も小野家の子孫で、現在も小野家の子孫はいるようです。
 先ずは、私はこれまで全く知らなかった妹子の息子小野毛人(オノノエミシ)から。
小野毛人の墓は京都から八瀬大原を通る鯖街道の始まり、八瀬まで行く手前の崇道神社の奥に何故かありました。
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 677年に没したとされる小野毛人の墓が、その頃はまだ未開の地であった京都の比叡山の麓の山中にある理由はわかりませんが、今年の冬に飛鳥資料館で見た国宝(コピーですが)小野毛人墓誌が出てますので、まあ毛人の墓でしょう。
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 崇道神社から山道を登ってたどり着いた小野毛人墓は、なんとなく父の小野妹子墓をこじんまりとしたようで似ていました。
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 途中にはこんな警告書が貼られていて、この切株も熊がむしったようで、山の中ですが自宅から歩いて行けなくはない場所で、これはちょっと怖かったです。
大声で歌を歌いながら、急いで降りてきました。

    返事
花水木さん:夾纈(キョウケチ)、三大染色法の一つです。
     途絶えていたこの染色法を友人が再現しました。
タグ: 天皇陵巡り

2018/6/24

伊賀の創工会展  趣味
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 近鉄のようで近鉄でない伊賀鉄道の上野市駅前、昨秋もここに来ていますので、駅前の芭蕉像後ろ姿のみ。
芭蕉なんてお爺さんの代名詞のようにも思っていましたが、私は芭蕉より20年も長生きしてしまいました。
 伊賀上野、芭蕉の生誕地ですし、上野城や荒木又右エ門の鍵屋の辻の決斗でも有名ですが、今回は第30回記念工芸美術創工会展㏌伊賀2018が開かれていたので行ってきました。
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 伊勢津藩第10代藩主藤堂高兌(トウドウタカサワ)の建てた藩校の崇廣堂(スウコウドウ)が、4カ所ある会場の主会場になっています。
いつもは入館料がいるのに、今回は展覧会があるのに無料でした。
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 広い講堂にも2点だけ展示されていて、土曜日にはジャズの演奏会もあるようです。
友人の京都新聞社賞を獲った夾纈の作品もありました。
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 質素な造りですが殿様の控室になってた部屋には、創工会の一番偉い人たちの作品が並べられていました。
一番高いのは600万円の値が付いていましたが、監視人が誰もいないのがちょっと心配になりました。
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 作品の花器には伊賀の華道家が花をいけていました。
特に華道をしてない家内の意見ですが、伊賀上野のお花のレベルは高いと、申しておりました?。
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 次の会場武家屋敷赤井家住宅までは、歩いて15分ほど。
庭にも作品が並べられています。
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 ここには小さな喫茶スペースもあって、この抹茶セット300円と、京都に比べたらかなり安い。
ついでに、伊賀上野の案内人や駐車場の番人さんは、皆優しく穏やかです。
それに比べて京都の人は、なんであんなに上から目線なんですかね、京都の観光名所で道を聞いたりした時の応答に、ムッととすること多いですよ。
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 三つ目の会場まで歩いて5分、以前は料理旅館だった栄楽館、部屋の細かい細工が楽しい。
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 作品には全て値段がついているので、ついつい値段をみてしまいます。
最高額の100分の一にも満たないが1000分の一よりは高い作品を、記念に一つ買いました。
もう一つ買うのを家内は迷っていましたが、帰ってからは買えば良かったと。
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 最後四つ目の武家屋敷入交家住宅(イリマジリ)はすぐそこ。
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 どこの家も古いガラスが残ってるので、波打って庭が綺麗に見えます。
美術館で観るより、うまく作品が家に溶け込んで、いけてある花も作品をより良く見せて、遠くまで来たかいのある展覧会でした。
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 もちろん昼は、柔らかい伊賀牛を堪能して、帰りはやっぱり天皇陵巡りの一つ、和束墓にも寄って帰りました。

    返事
花水木さん1:地震など天災の時は、
    せめて知ってるとこにいたいです。
花水木さん2:孫の小学校の運動会見に行ったら、
    なんと今どきのコースはセパレートになっていました。
    私の狭い運動場での徒歩競走では、
    1コーナーにトップで入らないと、先ず勝てませんでしたのに。

    

2018/6/20

ごちそう  
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 私の育った家からも近い明倫小学校、私の通った龍池小学校に通学するのとほとんど同じくらいの距離にあったのですが、両小学校共に今は廃校になっています。
四条烏丸に近い旧明倫小学校は京都芸術センターなっていますが、その隣の染の展覧会に行ったついでに寄ってみました。
当時私の龍池小学校の校庭も、800人ぐらいの児童が遊ぶには狭すぎましたが、明倫小学校の校庭はこの様にそれよりも狭い。
運動会は大変でしたでしょうね。
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 この辺り、烏丸四条より西北は呉服屋さんの室町問屋街でしたが、今は町家を改築したような料理店が増えています。
その一軒で友達夫婦とちょっと贅沢なランチ。
綺麗な手の込んだ前菜から始まりました。
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 最後のデザートまで、しょうもないことをしゃべりながらゆっくり出来ました。
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 次の日は、銀閣寺近くの日本料理店で、また違う友達夫婦とランチにしては豪勢な昼会席。
料理の写真は撮ろうと思いながら、遠慮したりして忘れてしまいます。
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 鮎や鱧など初夏の料理の後は、冷やし飴を固めて笹の葉で包んだお菓子で終了。
 50〜60年以上昔からの知り合いとしゃべるのが、一番心が解放されますので、それが一番のご馳走ですよね。

     返事
花水木さん1:女子大生がグランドを使ってる時は、
    いやらしい老人と思われないよう、
    2階からはなるべく見ないようにしています。
     島にいる時は、
    小学生から高校生まで、子供の顔を見るのが嬉しかったですが、
    京都では、
    団体児童や生徒を見ると、ちょっと感じ方が違います。
花水木さん2:通勤の地下鉄、
    丁度駅に停まった時にぐらっときました。
    降りて2駅歩いただけの被害ですみました。
     そちらに東海地震が起こった時の方が心配です。
前回のじょんのび村長さん:西宮古墳のは、
    あとから村人などが穿った本物の盃状穴だと思いますよ。


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