1973年(昭和48年)当時、晴海で行われていたボートショウに行き、一目惚れしてしまったオセアン22。その場で発注(笑)。愛知県尾西市にある株式会社チタを何度も訪れて、自分が気に入るように作って頂いた。その年の11月11日にサムシングU(オセアン22)が進水した。
清水港ヨット協会大型艇運営規則をいくつかの他県のヨットクラブを訪問し、資料をいただいたりして独自のモノを作っていった。同時に、ヨットレースも始まっていった。NORC駿河湾支部も結成され、最初の発会式は伊豆長岡温泉で行った記憶がある。
清水港用のレースのハンディキャップ方式の計算式などを、あちこちから取り寄せ検討したこともあった。NARYU(ナイル?)方式を採用。簡易レーティングは何度も修正された。清水から神子元島往復レースなど長距離化していった。また、艇が大型化するのに連れ、鳥羽レース、八丈レース、沖縄レース、小笠原レースへ参加する艇も出てきた。沖縄海洋博のハワイ→沖縄レースにでた艇もあった。1979年に三河湾内で第一回ミニトンレースを行った事もあった。
1970年代、1980年代はそんなヨットライフ、クラブライフを過ごしていた。が、残念ながらオセアン22に乗っている頃の写真が見あたらない。どこか段ボールに入って仕舞い込まれているんだろう。
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1980年代の終わり頃、ヨット仲間からヨットハーバー新設の話を聞いた。新設が嘘か本当か分からないけど、一時的に現在海上係留している場所から200mくらい北側に移転しなくてはならないと云う。
今ある海上係留地は埋め立てられるようだ。埋め立てて何にするんだろうか?。当時、知り合いからCGを何枚か入手した。本当にこんな港ができるのだろうか?。疑心暗鬼だった。でも清水港全体の再開発計画だ。日の出埠頭再開発もその一環だった。1989年、日の出埠頭再開発事業が始また。
北側の海面に移動する準備を始めた。新規海面の海底に本船のアンカーチェーンを何本も敷設するのだ。レッカー船、多数のダイバーの協力を得て一ヶ月ほど掛かったと思う。そのアンカーチェーンにはヨットのクリートに結ぶモヤイロープ、なおかつ海底には上記の豆腐を敷設。この海面には3年ほどしか係留できなかった。
ヨット協会誌より
…続く。