あくがれありく

 「名古屋なんでも情報」を「憧れ歩く」と改めた。古語では「あくがれありく」と発音する。(『源氏物語』野分の章 夕霧の場面)」
・・・何かに心をひかれ、家を出て憑かれたように彷徨う様子をいう。
 これからこのブログは、テーマを決めずにあちらこちらを彷徨い歩いてみることにしよう。
 「けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴らしつつあくがれていく」(牧水)

 

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50 妙安寺 士朗塚

 住吉神社と八熊通りをはさんだ南東に妙安寺がある。2層になった大きな駐車場の東側だ。恐らく、かっては駐車場の区域も妙安寺の敷地であったのだろう。現在の妙安寺は、コンパクトにまとまって、こぢんまりとした寺になっている。
 妙安寺は、山号が富春山。臨済宗妙心寺派に属する禅寺である。元来は、海東郡にあったのだが、寛文9年(1669)織田久左衛門正直がこの地に移したといわれる。「妙安」は正直の妻の法名であるという。延宝5年(1762)熱田四観音の一つ『沢の観音』が荒廃していたのを、境内に迎え復興したため、通称は『沢の観音』と呼ばれるようになった。
 本尊は宋の古銭で作られたという十一面観音。境内の弁天堂には、木石の二大道祖神が安置され、金精大明神として祀られ、庶民の子授けの信仰の対象となった。
 昔はこのあたりから鈴鹿の山々を望むなど眺望がよく、名古屋三景の一つと言われ文人墨客が往来した。その故に境内には、文人たちのたくさんの記念碑が残されている。その内の一つに「士朗塚」がある。句碑といった方がよいが、戦災に遭い無惨な姿に変わっている。これはこれで貴重な資料として後世に伝えて行く必要があるのではないかと思う。
 この句碑が建立されたのは、文化元年(1804)5月16日である。士朗が亡くなるのが、文化9年5月16日(1812)であるから、士朗存命中に建てられている。一門の岳輅(かくろ)の企てで、碑には

 万代や 山の上より けふの月

という士朗の代表作が記されている。士朗の句碑は、全国にあるが、現在、名古屋では、鍋屋町の大光寺に戦後新しく建てられた句碑と古いものではこの妙安寺のものがあるのみである。かって士朗の菩提寺照運寺にあった「桜塚」は戦後の混乱の中で行方不明となってしまっている。
*「桜塚」は士朗七回忌の文政元年(1818)一門の岡田梅間が建立したもので、「つくづくと見ておれば散る桜哉」の句が刻まれていた。
*岳輅、号は虎足庵。僧名源恵。暁台門の五老。師の歿後は、士朗を助けて尾張俳壇の重鎮として尊敬を受けた。『法々華経』『をださか』等著書がある。文政4年(1821)没、72才。
*岡田梅間(おかだばいかん)江戸後期の俳人。尾張名古屋藩士。名は登・宝、字は子善、通称は保十郎、別号に梅花園・張古。井上士朗に学ぶ。家に梅園を営み梅を愛し、梅の画を能くした。『梅香帖』等著書がある。嘉永2年(1849)歿、77才。
*井上士朗宅址・句碑
 http://red.ap.teacup.com/syumoku/50.html

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無惨な姿になった「士朗塚」。

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「士朗塚」裏面。井上、士朗、琵琶園などの字が読みとれる。

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右手前の碑は、芭蕉の「時雨塚」。これは、明日の記事の題材。中央奥が「士朗塚」。その左手前が、「岳輅塚」。

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「岳輅塚」

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「岳輅塚」の横面。岳輅の僧名「源恵」が記されている。

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妙安寺全景。

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案内標識。
投稿者:masa
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