名古屋駅東側の「大名古屋ビルヂング」から桜通りに沿って東に行き、一筋目を北へ向かう。東横インの北側のビルの前庭のところ(名駅3丁目11)に「坪内逍遙旧居跡」の石碑が建てられている。坪内逍遙が、11歳から18歳までを過ごした場所である。
坪内逍遙は、安政6年 (1859) に、美濃国加茂郡太田村(美濃加茂市太田町)の尾張藩代官所役宅に生まれ、幼名勇蔵、後に雄蔵に改名した。尾張藩に仕えた父平右衛門の隠退とともに、名古屋の上笹島村に転居した。、
明治5年(1872)8月、14歳で「愛知県洋学校」に入学し、教師レーザムのゼスチャー入りの朗読法や、マックレランからシェークスピアの講義を受けた。
その余暇に母の影響で芝居見物をしたり、通学途中にあった貸本屋「大惣」(大野屋惣八)で様々な本を読み、幅広い文学的・芸術的素養を身に付けた。逍遙自身が後に、「大惣」は「心の故郷」であったと述べている。
明治9年(1876)8月、18歳の時、、愛知県の選抜生となって上京し、開成学校(翌年、東京大学と改称)に進学した。しかし、学年試験に不合格となった逍遙は、給費生資格を失い、生活費と学費を稼ぐために私塾を開いて学生を預かるようになった。
明治11年 (1878) 本科(文学部政治学科)に進み、明治16年(1883) 東京大学卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となり、「外国歴史」、「憲法論」などを担当している。
逍遙は大学在学中から、高田早苗の示唆によりシェークスピア、スコット等の翻訳に手を染めたが、しだいに江戸戯作と欧米の小説との差異に思いをひそめ、新しい文学理念の確立を模索するようになった。その成果として世に問うたのが、明治18年(1885)26歳のときの『小説神髄』である。心理主義的写実主義の原理を体系的に説くものだった。更に彼は、自らその実践として、小説『当世書生気質』を著し世に示した。この2書の与えたインパクトは大きく、従来の価値観を根底から覆すものであった。文学革新への道を示し、人間の心の葛藤を写実的に描写することを提唱したいわゆる「写実主義」の主張と実践である。日本の近代文学は、ここに始まる。
なお「逍遙」という筆名は、「荘子」の中の句から取っている。「逍遙」とは「ぶらぶら歩く」という意味である。

「坪内逍遙旧居跡」の石碑(名駅3丁目11)

少年時代(16歳)の逍遙と父平右衛門、母ミチ。明治7年名古屋にて

東京専門学校時代 明治18年の講師と学生たち。前列右端が坪内逍遙,右から3人目が高田早苗。

『当世書生気質』執筆当時の逍遙

『小説神髄』 坪内逍遙著 明18-19 松月堂

坪内逍遙自筆 『当世書生気質』挿画指定画 画家長原止水に示したもの。