金城学院中学校の東側の長久寺は何度も記事に取り上げているが、ここにも特徴的な地蔵像が残されている。
「道しるべ地蔵」とよばれる地蔵で、「左なるみみち」とあるのでたとえば善光寺街道を鍋屋町の通りで右に折れ、東から西へ向かった時に、現在の国道41号線(昔の善光寺筋)に交差するところあたりにあれば状況的には一致するかと思う。右は木曽街道(上街道、稲置街道)につながる。しかし、いつ頃のものでどこにあったか、どういう経緯で長久寺に安置されるようになったかは定かではない。
元禄15年(1607)の古い年代の地蔵もある。六地蔵の対面にある庚申像には寛文8年(1668)の刻銘があるが、それよりも60年も古いものである。これも元々長久寺に建てられたものかどうかよくわからないが、長久寺の歴史から推察すれば当初からここに建てられたと考えても問題はない。
県内で地蔵像の最も古いものは、北区の安栄寺の六地蔵であるが、大永七年(1527)の刻銘がある。この地域の地蔵信仰の広がり具合についてもう少し調べてみよう。
*長久寺の記事
http://gold.ap.teacup.com/syumoku/70.html
*安栄寺の記事
http://black.ap.teacup.com/syumoku/34.html

長久寺境内の六地蔵。時代や由緒の違うものが並べられているようだ。

「道しるべ地蔵」左なるみ道 右○○○道 の刻銘 かってどこに置かれていたかは不明。

地蔵の脇に童子が取り付いている。

元禄15年(1602)の刻銘。元禄15年といえば赤穂事件の起こった年だ。この地の少し東は片岡源五衛門出生の地でもある。
*片岡源五衛門の記事
http://silver.ap.teacup.com/syumoku/76.html

水差しと沓が彫られているのは、冥途の旅の助けとなるようにということであろうか。

葵の紋。長久寺は清須越しの寺であり、鬼門鎮護の役割を担い尾張徳川家の保護下にあった。

額は「東覚山」