2007/9/29
名古屋市博物館開館30周年記念の「大にぎわい 城下町名古屋展」が始まり、考査期間中の午後を有効に使って、見学に出かけた。いやいや面白いのひとことである。名古屋のまちというのはこんな風にしてできたんだ!とか、こんな出来事があったんだ!とか、ひとつひとつが「なるほど!」の連続であった。購入したカタログを精細に読んだが、半日ぐらいかかった。もう一度、じっくり見に行きたいと思っている。
私自身今回初めて見ることができた名古屋ゆかりの文化財もたくさんあり、カタログから紹介してみる。

博物館前の案内。

カタログ表紙。

大須真福寺宝生院蔵の国宝「古事記」は、現在、名古屋市博物館が管理している。この写本には、奥書に書写年が記されていなかったが、尾張藩士稲葉通邦(みちくに)によって、応安4年(1371)僧賢瑜が書写したものであることを解明した。中巻の糊継ぎ目のところに28才の賢瑜が書写したというメモ書きを発見したのである。稲葉通邦は、大須文庫の書籍をすべて調べ直し、賢瑜が書写した「秘蔵宝やく」に応安3年(1370)27才と記されていることを見つけたのである。
そもそもの発端は、9代尾張藩主徳川宗睦(むねちか)が「古事記」の出版を命じたことにあった。宗睦は、藩校明倫堂も創設した学問・教育に力を入れた藩主であった。

これも大須真福寺宝生院蔵の重要文化財、源為憲「口遊(くちずさみ)」の写本。「口遊」は、天禄元年(970)に源為憲が時の太政大臣藤原為光の子息のために作成した教養書である。弘長3年(1263)の写本である。この頁は九九の数え方を教える内容である。平安時代の九九は、「九々 八十一」から始まっているのですね。

文化11年(1814)笠寺観音の境内で発見された「出現観音像、宝塔、壺」も出展されている。間近に本物を見ることができ、まさに出開帳ですね。

高さ10pほどの小さな十一面観音である。こんなに小さいとは思わなかった。

これは名古屋城本丸御殿の障壁画のひとつ「帝鑑図」。狩野探幽作。将軍を迎えて御座所となった上洛殿上段の間と寝所となった納戸を結ぶ襖に描かれたものである。
私自身今回初めて見ることができた名古屋ゆかりの文化財もたくさんあり、カタログから紹介してみる。

博物館前の案内。

カタログ表紙。

大須真福寺宝生院蔵の国宝「古事記」は、現在、名古屋市博物館が管理している。この写本には、奥書に書写年が記されていなかったが、尾張藩士稲葉通邦(みちくに)によって、応安4年(1371)僧賢瑜が書写したものであることを解明した。中巻の糊継ぎ目のところに28才の賢瑜が書写したというメモ書きを発見したのである。稲葉通邦は、大須文庫の書籍をすべて調べ直し、賢瑜が書写した「秘蔵宝やく」に応安3年(1370)27才と記されていることを見つけたのである。
そもそもの発端は、9代尾張藩主徳川宗睦(むねちか)が「古事記」の出版を命じたことにあった。宗睦は、藩校明倫堂も創設した学問・教育に力を入れた藩主であった。

これも大須真福寺宝生院蔵の重要文化財、源為憲「口遊(くちずさみ)」の写本。「口遊」は、天禄元年(970)に源為憲が時の太政大臣藤原為光の子息のために作成した教養書である。弘長3年(1263)の写本である。この頁は九九の数え方を教える内容である。平安時代の九九は、「九々 八十一」から始まっているのですね。

文化11年(1814)笠寺観音の境内で発見された「出現観音像、宝塔、壺」も出展されている。間近に本物を見ることができ、まさに出開帳ですね。

高さ10pほどの小さな十一面観音である。こんなに小さいとは思わなかった。

これは名古屋城本丸御殿の障壁画のひとつ「帝鑑図」。狩野探幽作。将軍を迎えて御座所となった上洛殿上段の間と寝所となった納戸を結ぶ襖に描かれたものである。
投稿者:masa





