渡辺清の師である“田中訥言”(とつげん)は、明和4年(1767)に尾張清洲田中(現在の清洲城趾のすぐ南の地)に生まれたとされる。名は“痴”もしくは“敏”、字は“虎頭”、別号は“痴翁”・“得中”・“過不及子”。幼少の時に家を出て、比叡山延暦寺で僧侶としての修行をした。修法の余暇に画を京都の狩野派の石田幽汀に学んだが、後に還俗して土佐派の土佐光貞の門に入って大和絵を習った。しかし当時の土佐派の綺麗ごとに終始して形式化した画風に飽き足らず、「古土佐」の旺盛な写実的描法を取り入れ、大和絵本来の姿の復古を唱え、平安・鎌倉時代の絵巻物などに見られる優れた大和絵の伝統の復活をめざした。有職故実に精通し、「復古大和絵」派という一派を形成し世に名をなした。
京都の大火で灰じんに帰した内裏が、寛政2年(1790)再建されることになった時、訥言は御用絵師の一人に若くして選ばれた(23歳の時)。このときの絵が評判となり、その実力が認められることとなる。京都には「賀茂祭礼図」などの訥言の多くの作品が残されている。
最高傑作とされるのは、現在徳川美術館に所蔵されている「百花百草図屏風」(国重文)である。この作品は、尾張の豪商岡谷家の六世惣助(二珪)が訥言に描かせたものである。代々岡谷家に伝えられたが、昭和41年(1966)岡谷家から徳川美術館に寄贈された数多くのコレクション(80余点)の中の逸品である。春秋の花卉約百種を二双に、それぞれの特徴を捉えて写実的に描き分けている。
訥言は、文政6年(1823)両眼を失明してしまい、絶望の中で自ら食を断ち、最後は舌を噛み切って命を絶ったという。57歳の生涯であった。
「百花百草図屏風」(徳川美術館『名品図録』より)
金箔を置いた檀紙の料紙に、直接四季の草花を色彩鮮やかに描いた。的確な筆致、鮮やかな彩色により写実装飾画の技法を完成させた。
白地の裏面には訥言の門人、渡辺清が鳥襷文を雲母で克明に描いている。
