来月、北区郷土史会で話しをすることになった。何を話そうかとここしばらく迷っていたのだが、この地区の古代の信仰や海人の動向についてまとめてみることにした。
弥生時代の海岸線は、現在の北区と西区の境界あたりまで深く入り込んでいる。ここに九州博多湾の志賀島に拠点を持っていた海人(あま)の一族が稲作文化を持って移住してきた。志賀の地名の起こりである。西志賀遺跡はこの海人集団が残した弥生時代の遺跡だ。この海人集団の信仰対象が、海神(わだつみ)である。
後世、筑前志賀島には「志賀海神社」、尾張のこの地には「綿神社」が建てられる。「海」は、「綿」に転化しているが、わだつみの「わた」である。「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」は、福岡の海の中道の先端、志賀島の南側に位置する神社である。「龍の都」とも呼ばれ、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)の三柱を祀る。全国の綿津見神社の総本宮であり、代々阿曇(あずみ)氏が祭祀を司った。「あずみ」は、「あまずみ」からの転化と考えられる。また、この地は、「後漢書」に記載された倭の奴国の金印が発見された場所でもある。
一方、尾張の「綿神社」の主祭神は、玉依比売命(たまよりひめのみこと)である。綿津見神の子で、豊玉比売命の妹である。『記紀』の「天孫降臨」の段および「鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)」の段に登場する。豊玉比売命が産んだ火遠理命(ホオリノミコト)の子である鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)を養育した後にその妻となり、イツセ、イナヒ、ミケヌ、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)を産む。古事記および日本書紀の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ってきたが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。日本書紀本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。
この海人(あま)の歴史上の検討を行った本が出版された。『海人たちの世界』(中日出版社 H20年3月刊)。編著者の森浩一先生は、私の学生時代の恩師である。森先生の「日本文化にとっての海人」と春日井市教育委員会の大下武さんの「尾張氏の変身−海人から開拓者へ−」にずいぶん示唆を受けた。
海人(あま)は、漁労・製塩だけでなく、航海を統轄していたという指摘はなるほどと思わせられた。海部郡の設置された豊後、紀伊、隠岐、尾張の4ヵ国の共通項は?尾張氏と海人の関連は?など古代世界への想像が膨らんだ。
