日本書紀の応神天皇14年の条に、秦氏の祖「弓月君(ゆづきのきみ)」が、127県の民を率いて百済より渡来したという記述がある。応神天皇は、河内王権の始祖ともいうべき大王であり、後に八幡信仰の主祭神となり、崇敬の対象となる。
ところで、「神」という字を与えられた天皇は3人いる。神武天皇・崇神天皇・応神天皇である。神武と崇神は、ともに「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれ、始祖王としての伝承が付託される。神武には、東征により大和を制圧した始祖王として「カムヤマトイワレヒコ」の名が与えられる。崇神は、「ミマキイリヒコイニエノミコト」と称され、三輪山の麓に古墳を築造した三輪王権の始祖と考えられる。また、応神(ホムダワケノミコト)は、その子仁徳(オオサザキノミコト)とともに河内に巨大古墳を構築する河内王権の祖と認識されていたことによるだろう。
その河内王権の時代(5世紀代)が、中国史書(『晋書』『宋書』など)に記される倭の五王(讃・珍・済・興・武)の時代である。この時代に朝鮮から多くの人々が渡来し、須恵器作り・錦織(にしこり)・韓鍛冶(からのかぬち)・鞍作り、など様々な技術が伝わった。横穴式石室の構築や乗馬の風習、文字の使用・・・。王権は、これらの新技術を掌握し、伴造(とものみやつこ)の管理下に職業部民として位置づけた。
その内、秦氏の技術は、多岐にわたり、養蚕・機織り、鍛冶(精銅・製鉄)、土木技術(古墳築造・用水管理)などに関わる。また、信仰面でも重要な役割を担い、稲荷信仰のもとの伏見稲荷も八幡信仰のもとの宇佐八幡社も秦氏によって広められた。
八幡神は、「ヤハタ神」と呼ばれる豊前の宇佐地方の秦氏が祀った神が原形のようだ。奈良時代になって、皇室の祖先神として応神天皇やその母神宮皇后を祭るようになる。
なぜ、応神天皇なのか?朝廷が、御子神として示現した応神天皇を王権の始祖として認識し、宇佐八幡宮として整える中で、朝廷の保護下に諸国の秦人集団によって八幡信仰が広がっていったのか?
多奈波太神社の祭神にも応神天皇が加えられている。志賀橋の北西にある「児子八幡社(ちごはちまんしゃ)」も当然、応神天皇を祭っているが、こちらの創建の経緯はよくわからない。

児子八幡社(ちごはちまんしゃ)