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2011/5/20

『星を追う子ども』感想  映画

どうも、この春卒業した海原です。卒業しても多文研での創作などの発表を継続していきたいと思います。
今回の記事は、今月7日に公開された、新海誠監督の最新作『星を追う子ども』の拙い感想です。
一応、ネタバレも含みますので、未見の方は注意して閲覧してください。



あらすじ
父の形見のラジオ鉱石で不思議な歌を聴いたアスナは、ある日、ケツァルトルという怪物と出くわし、追い詰められるが、シュンと名乗る少年に助けられる。シュンはアガルタからやってきたという。2人はすぐに打ち解けるが、意味深な言葉を残してシュンは死んでしまう。
授業で、世界各地の地下世界や死者の復活の神話を聞いたアスナは、新しく赴任してきた教師のモリサキを訪ねる。そこで地下世界アガルタの存在を知らされる。
シュンの姿を求めて秘密基地にやってきたアスナは、シュンに似た少年と、彼を追う男たちとのいざこざに巻き込まれる。
そこで、シュンに似た少年は彼の弟のシンであることと、モリサキは、亡き妻を蘇らせるためにアガルタの奥地を目指していることが語られた。
ひょんなことからアガルタへの扉が開かれ、アスナとモリサキは地下世界を旅する。


『ほしのこえ』(2002)『雲のむこう、約束の場所』(2004)のようなSF要素とは打って変わって、少年少女の冒険物、ジュヴナイルを押し出した内容となっているのは新海監督の中では新しい試みで、これは散々言われている―公開前から「ジブリ色が濃い」―ような印象はありました。
モリサキが、きれいとまでは言わないが、ムスカ大佐みたいだった。監督も、日本でアニメを作ろうと思ったらジブリは避けて通れない、みたいなことを言っています。

物語の時代設定が1970年代を意識したとあるのは、パンフの中でも言われているけど、当時、地球空洞説が流行っていました。
そして、アガルタをはじめとする地下世界の神話。私はそういうオカルト?みたいなのはあまり好きではないけど、神話とか民俗とか少しかじっていたこともあって、少し惹き付けられました。

私がいちばん書きたい感想は、新海監督の本質が今作でもしっかり描かれていたということです。
1つは、監督のこれまでの作品には、他者との距離を、雲などの風景を用いて記号的に描いていて、今回もそういう印象を持ちました。モリサキもアスナも、死んだ人間との再会を望んでアガルタを旅しますが、そこで死んだ人間との距離が描かれています。
また、星は人の命を表していたり、あるいは地上との物理的な距離を表現していることからも、星空のないアガルタでアスナが求めているのは、他者=シュン=シンとの距離を縮めることなのかもしれない。

もう1つは、ある場所への想像力が描かれていること。
今作で描かれている他者との距離とも深い関連があると思うけど、『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』『秒速5センチメートル』(2007)でも、ある場所に対する登場人物の、好奇心に似た想像力が描かれているように思います。
モリサキの、アガルタの神話をアスナに語っているあたり(その言い方がどこかムスカ大佐っぽかったけど)。
冒険物やファンタジーは、だいたいある場所にたどり着くことを目的としたストーリー展開ですよね。
その想像力と、他者との距離がクロスして、惹かれました。しかし、その想像力も、目的地、フィニス・テラの奥にあるアストラムにたどり着いた途端にしぼんでしまう。それは、監督のこれまでの作品でも描かれていた「結局他者との距離を縮めることはできなかった」ことに収斂されるように思います。

それと、アガルタ世界に入ったところだったと思いますが、壁画に舟の絵が描かれているのが気になりました。今作はシャクナ・ヴィマーナのように、舟が多く描かれているけど、舟は旅や冒険の象徴なのでしょうか。
過去の作品を思い出すと、監督の作品にはよく乗り物が出てくる(『ほしのこえ』=宇宙船、『雲のむこう、約束の場所』=飛行機、『秒速5センチメートル』第1話=電車)あたり、距離感を演出しているような気がします。
しかし記号だという感想ばかり書いていても面白くありません。

あと、これは映画館の環境のせいなのかもしれないが、音楽の音量が全体的に大きくて、時々驚いたり「うるさいなあ」とさえ思いました。
主題歌は、私が元々熊木杏里を聴くこともあって、わりといいなあと思った。でもなぜ熊木?と思ったけど、監督も彼女も出身が長野だからでしょう。ストーリーの最初の舞台も監督の地元長野をロケハンに用いているそうです。
画期的な作品、とまでは言えないけど、新海監督らしさがあって安心しました。
問題は、今日この時代に、なぜ地下世界を舞台にしたか、だけど。その答えはもう少し深く読んでみてからにしたいです。
3



2011/6/13  23:25

投稿者:カリメン2号

こんにちは。
カリメン2号です。

ブログコメント、ありがとうございます。
なかなか、深い読みをしていることに感心いたします。
象徴学的に言うと、新海監督の象徴は分かりやすいですよね。
もともと新海監督の作品は、心の距離を物理的な距離に置き換えられるように思う。
また「結局他者との距離を縮めることはできなかった」とは自分は思えない。
どちらかと言うと、別れを受けいれるための心の整理という意味合いが強いのではないだろうか。

今回はこんな感じで。
また、ブログの方にも遊びに来て下さい。

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