2008/4/24
腐敗 平成20年04月24日
濡素六食品工業は、国内でも大手の一つである食品会社であり、特に各種の発酵食品の開発に優れた会社だ。同社の研究開発室は世界でも名の知れた発酵科学の一大拠点だとも言われている。したがって、その濡素六食品工業研究開発室所属、開発部部長飯田周三は、サラリーマンではあるが、むしろその方面では第一級の科学者として知られていた。潤沢な研究費を使い、常に世界最先端の成果を上げるチームのリーダーというわけだ。
「結局だな、発酵と腐敗は全く同じ現象であることは、君たちならもちろん知っているだろう。しかし、この会社にいる人間全てがそれを理解している訳じゃない。今日も重役会議に呼ばれて説明させられたよ」
全く忙しいのに素人相手に分かり切った説明を何度もさせられる飯田がつい研究員達に愚痴った。
「部長、それは僕も良く聞かれます。女房なんか、何度説明しても分からないみたいです」
研究者の一人、竹下陽介が苦笑いをしながら言った。
「そうだな、みんな苦労するようだ。俺の女房もどうして腐ったものばかりありがたがるのかって言われて唖然としたよ」
「まあ、僕は、腐るのも発酵も同じ事で生物が物質を変化させる現象だが、人間に役立つ場合は発酵で、害のあるのが腐敗だ。だから、外国人にとっては納豆やくさやは腐った食い物だろうし、日本人にとっては発酵した食品だ。つまり、微生物は大豆や干し魚に同じ事をしているのに、日本人は発酵と考え、外国人は腐敗と考える。まあ、だから、変化と考えるだけで腐敗とか発酵とか区別する必要はないんじゃないかな」
その時ドアが開いて、松木和男が入ってきた。もう十一時過ぎなのに、松木はほとんど毎日遅刻してくるし、ほとんど毎日酒臭い。そしてろくに洗っていないジーンズやティーシャツ、ぼさぼさ頭に無精髭というスタイルだ。入って来るなり、言った。
「まあ、詳しくは wiki に書いてあるって言えば良いんじゃないの」
みんな一様に不快な顔をした。なんでこの松木がこのチームの一員なのか理解できない。確かに科学者には非常識な人間が多く、人間関係に問題を抱えたものが多い。飯田自身けっして常識人ではないだろうが、しかしこの松木は度を超している。
なんでも会社の評価は極めて高く、本人の能力を子供時代からさかのぼって調査した結果たぐいまれな才能の持ち主と判断したのだそうだ。たしかに、飯田が見ても、松木には特殊な才能があることは認める。だが、本人はまじめにその才能を使おうとしないのだ。いくら才能があっても、個人の力ではどうにもならない。チームの一員としてその能力を発揮し、チームでそれを支える。そうでなければ、むしろチームワークを乱すだけだ。飯田は、松木をさっさと排除したかったが、会社ではとにかくうまく使えの一点張りだった。松木の才能は認めてもチームの一員としての能力を会社は一切無視している。
「松木君、今日も重役出勤だな。なんだ、酒臭い。少しは竹下陽介君を見習えよ。彼は地味だが毎日こつこつと仕事をしている。君はほとんど仕事もしないで毎日飲んだくれて汚い恰好をして重役出勤だ」
「へい、すんません。まあ、発酵学の検証をしていたんですよ」
「なんだ、発酵学の検証って」
「アルコール発酵。イスラム教徒にとっては、アルコール腐敗でしょうな」
たまりかねて竹下陽介が口を挟んだ。
「アルコールはアラビア語だよ。一番最初にアルコールのありがたさを知っていたのはアラビア人達だ」
松木はじろりと竹下振り返り、吐き捨てるように言った。
「アラビア人がイスラム教徒になったのは、アルコールを知ってから何百年もあとだ」
しかし、その何日かあと、濡素六食品工業が開発した健康食品に重大な発ガン性があることが分かり、急遽発売が中止になった。かろうじて止めることが出来たが、すでに大量に作り全国に発想し、店頭に並ぶ直前だったのが不幸中の幸いだった。
慎重に原因が探られ、その結果分かったのは、採集分析をした竹下陽介がデータを捏造したためだと分かった。しかし、そのために開発した特殊培養装置は他に転用できない構造のため、濡素六食品が被った損害はへたをすれば会社が倒産する可能性があった。
原因が分かると同時に、むろん竹下陽介は解雇されたが、飯田も重大責任を問われた。それはそうだろう。竹下の捏造を見抜けなかったのだ。竹下は飯田のお気に入りで、取り立てて能力のない竹下は、とにかく成績を上げ飯田に取り入るためにデータを捏造したのだ。
自宅謹慎となり、毎日呆然と過ごしていた飯田の元に、会社から呼び出しがあった。いよいよ処分が決まったのだろう。飯田は覚悟をして会社に出た。
発酵装置の改良が成功し、発ガン性物質を完全に取り除くことに成功したと飯田は気化された。それを完成したのは松木であり、その結果濡素六食品はこの新しい製品を大々的に売り出すことが出来るとのことだ。むろん、会社倒産の危機を免れ、それどころか未曾有の利益を上げられる見通しだとのこと。
会社の決定は、飯田が新しい研究開発部部長松木和男の元で仕事をする気があるか、あるいは退職するかを飯田に決めさせると言うことだった。
「分かりました。働かせていただきます。私には発酵と腐敗の区別が付いていなかったのだと、心底分かりましたから」
飯田はそう答えた。
span>

0
投稿者: takaojisan
トラックバック(0)
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。