2007/8/15
美の壺 平成19年08月15日
飯田周三は濡素六公園前を通りかかった。今日は社用で近くまで来たので、そのまま直帰したのだ。まだ六時頃であり、こんなに早く家に帰る事はない。早く帰ることを妻の佐野茂代に連絡してあるので、そのつもりで食事の支度をしているだろう。子供達もおそらく塾から帰ってきて、七時頃には久しぶりに家族揃って食事が出来る。それが楽しみなのだ。
四十二歳の周三は中堅どころの濡素六照会で業務課長をしている。地味な部署だが、地味な性格の周三には居心地が良かった。営業部や企画部などはいつも成績を上から問われていて、端から見ていてもピリピリしている。とても周三のような性格ではつとまらない。大学を出て一年ほど経験のために営業に回されたが、到底営業課員達の行動にも考え方にも着いて行けなかった。もちろん、他の課員達も周三が経験のために回されてきたお客さんだと承知していたから成績競争のライバルと見ていたわけではないが、同時に仲間とも見てくれず、いわば放って置かれた形だ。
今、入社後二十年経ち、周三も中堅と呼ばれるようになり、当時短期間だけよそよそしくつきあった営業の連中とも普通につきあっている。親しい人間は居ないが、自分に余裕が出来てみるとよく見えるようになった。営業課の激烈な競争は、そこにいる人間達もとげとげしくしてしまうらしい。
家庭もうまくいっていると言えるだろう。毎日それほど遅くはならないし、八時くらいには家に着く。それほど出世も出来ないが、落ちこぼれるわけでもない。三十の時に部長の紹介で四歳年下の茂代と結婚し、直ぐに家を建て、三十二の時に長男竹下陽介が生まれ、二年後に長女中根真美が生まれた。二人とも素直で活発に育ち、成績も悪くない。
茂代はやはりおとなしく控えめで優しい性格であり、これも周三と馬があった。どちらかと言えば、胴長短足どて腹で、タレ目団子鼻鰐口だが、何となく愛嬌があり、生っちろく胴長短足のデブで、みっともない童顔に太い黒ブチのメガネの周三とも釣り合いがとれるという物だ。子供達もそれぞれ両親によく似ているが学校でも塾でも好かれているらしい。目立ちはしないがいつの間にか友人が出来ているタイプだ。
全員健康だ。家族の仲も良く、おそらく見る人が見れば理想の家族と言うだろう。少なくとも周三は満足していた。
その周三が濡素六公園の前を通りかかったとき、公園の入り口にフリーマーケットの看板が出ているのを見た。休日ならこの公園で時々フリマが開かれていて、家族で来たことがある。郊外の小さな公園でのフリマだから規模は非常に小さいが、隣町辺りからも人が来て、結構にぎわっている。しかし、休日でもないのにフリマが開かれていると走らなかった。まだ時間が早いので、周三はふらりと入ってみた。
休日開催の物よりもっと規模が小さく、精々十数軒の出展者が居るだけだったし、そろそろ終了時間で店じまいをしている出展者もいる。客も当然まばらでしかなかった。見るべき物もないと周三がきびすを返したとき、みんなから離れた場所に小さな出展があるのを見つけた。他と違い、何か汚いがらくたが並んでいて、当人もがらくたのような年輩の男がつまらなそうな顔で椅子に座っている。その男の前に、古そうな壺がおいてあるのを見つけた周三は、まるで魔が差したとしか思えないが、立ち止まりそしてしゃがみ込んだ。
「おじさん、これ、何か珍しい壺なのかい?」
「ああ、美の壺だよ。この中に入れた物は何でも美しくなる。珍品中の珍品だ」
言うに事欠いて、ほらもいい加減にしろと周三は内心思ったが、なにしろちょっと風変わりな形をしているし、値段も一万円だ。ちょっと磨いて花など活けて玄関にでも置けばよいかも知れない。そんなわけで、周三はその壺を抱えて家に戻った。
ほとんど同じ頃、みんなが家に戻り、そして久しぶりに揃っての夕食に話が弾んだ。そして、当然ながら周三が買ってきた壺に話が及んだ。美の壺だと聞いて、みんな笑ったが、末っ子の中根真美が笑った拍子に端でつまんでいたジャガイモの切れ端を落とし、それが周三の持っていた壺の中に転がり込んだ。周三は壺を持ち上げテーブルの上でひっくり返して、その芋のかけらを落とした。そして、全員が声を上げた。
「きれい〜!」
実際、何の変哲もないしょうゆ味で煮ただけのジャガイモのかけらが、つややかで見事な、何とも言えない美しい芋のかけらに返信していたのだ。見ていた息子の竹下陽介が自分の皿から結びコンニャクを取り上げ、壺に放り込んだ。そして壺の中に手を突っ込んだ。その瞬間、直径十センチほどの壺の中に陽介は吸い込まれた。周三は反射的に壺の中に手を入れ、陽介を引き出そうとしたが、逆に自分が壺の中に引き込まれた。
あわてて反射的に手を入れた佐野茂代も中根真美も壺の中に引き込まれた。壺の中では周三が無我夢中でみんなを抱き留め、そして壺から出ようともがいた。周三はあっけなく子供達をだいたまま壺から飛び出し、そして直ぐに茂代も出てきた。今のは何だったのだろうとみんなで顔を見合わせ、そして驚いた。周三はまるで画に描いたようないい男に変身していたし、茂代は理想の美女になっていた。陽介も真美もそれぞれ、子役タレントも足元に及ばない可愛い子供達に変身していた。これが美の壺という所以だったのだと、周三は納得した。
その後、周三はろくに仕事をしなくなり手当たり次第女を引っかけては遊び歩くようになり、直ぐに結婚詐欺で警察につかまった。茂代はやはり手当たり次第に男を引きずり込むようになり、直ぐに売春容疑でつかまった。両親の無視されるようになった陽介と真美は万引き、援助交際、恐喝、窃盗、のぞき見、釣り銭詐欺を繰り返すようになり施設に収容された。
むろん美の壺は当然の代償を要求したのだが、バラバラになった家族は誰一人そんなことに気が付くわけもなかった。
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