2007/8/18
漂着二 平成19年08月18日
船が沈んだのは一瞬のことだった。寝ていた飯田周三は何が起きたのか分からない。とにかく、いきなり狭いベッドから投げ出され、次の瞬間大量の水が押し寄せてきて、反射的にベッドにしがみついた。水がものすごい力で荒れ狂い、何度も水を飲みながら必死に足をばたつかせても身体自体が振り回されるのでどうにもならない。
意識が遠のきかけたとき、自分の身体が激しく回転をしながら下へ引きずり込まれるのを感じた。意識の片隅で、船が沈むときに生ずる渦に自分は巻き込まれたのだと思った。そうなれば、絶対に抜け出すことは出来ない。もう俺は死ぬんだ、と思ったのが最後の記憶だった。
周三が目を覚ましたのはどこかの海岸だった。季節は夏だからびしょぬれでも寒くはないが、それより、波にもまれたためかほとんど全裸だった。にもかかわらず、痛いところも動かないところもない。信じられない思いで周三は自分の身体を眺め回した。見える範囲では傷一つ無い。二十六歳の鍛え上げた筋骨隆々、しなやかな身体があるだけだ。辺りを見回しても誰も居ない。ここはどこなのかと考えたが、自分が当直開けで寝る直前レーダーで確認したのだが、近くには小島一つ無い大洋の真ん中だった。それは海図を見、船の航路が正しいことをチェックした上での確認だから、一番近い島にも数百キロはあったはずだ。そして海流は船を大洋の真ん中へ押し出すように流れていた。むろん、燃料を節約するために、その海流に乗って進路をとったのだから全てが間違いない。だから、自分が仮に助かったとしても、何かにつかまって海の上に浮いているはずなのだ。
自分が寝る前、海は完全に凪いでいたし、近くに低気圧があるような情報もなかった。これは常に気象情報を受信しながら確認しているので、滅多にない穏やかな航海になると安心して眠りについたのだ。いきなり船が沈んで水の底に引きずり込まれたのでその時嵐が来ていたのか凪いでいたのかは分からない。ただ、船に乗ってもう二十年にもなる周三は、多少の船の揺れで目を覚ますことはない。だから、寝ているとき船が揺れていたかどうかも分からない。第一、船が沈んだのが昼なのか夜なのかも分からないが、おそらく昼間だ。当直開けで寝たのが朝であり、熟睡していたときに沈んだのだからおそらく昼間のことだ。
そして、この浜辺は直ぐ近くまでうっそうたる茂みが迫り、ここが島なのか大陸なのかも分からないが、そもそも気を失ったまま流れ着く場所に、いかなる島もなかったのは確かめてあるのだ。昔と違い、ほんの小さな岩礁でも海図に乗っているし、未発見の島など今は存在しない。
腹は減っていない。そしてのども渇いていない。と言うことは、遭難してそんなに時間は経っていないはずだから、同じ日の昼なのだろう。結局、精々あれから一,二時間しか経っていないのだ。何が起きたのだろう、ここはどこだろう、女房の佐野茂代や息子達、松木和夫や竹下陽介はどうしているだろう、いやとにかくここで何とか生き延びる方法を考えなければならない、もうじき腹も減るし喉も渇く。今の内にせめて水か何かを探さなければならないと、立ち上がって直ぐ思いもかけないところに小さな船が居るのを見つけた。どうやら漁船らしく、精々十メートルくらいの大きさだ。しかし、それなりに近代装備を備えた船であることは船を見慣れている周三にはよく解る。決して遠洋に出るような船ではなく、沿岸で漁をする船だ。と言うことは、ここは文明社会の直ぐ傍なのだ。周三は夢中になって手を振り、大声で助けてくれと叫んだ。なにしろ、船の上に人影が見えるほど近いのだ。自分がほとんど全裸であることも気にならなかった。
しかし、その船は気が付かないのか見る見るうちに遠ざかり、そして消えてしまった。だが、周三は気を取り直した。ここは文明社会の直ぐ傍、と言うことはここも無人島というわけではないのだ。茂みの向こうにはきっと人が住んでいるはずだ。
周三は茂みに分け入った。そして、直ぐに小道を見つけた。やはり、人が通っているのだ。ペットボトルやレジ袋などが落ちている。それらにはなんと日本語が書いてあった。日本を離れて三日ほども経っていたはずなのに、ここは日本人が暮らしている土地らしい。そんなことはあり得ない。混乱しながら周三は歩き続け、直ぐに大きな道路に出た。コンクリートで舗装された幅の広い道路で、両側にガードレールが設置されている。つまり、この道路は、海岸に沿って続いているのだ。道路の向こう側もまた茂みだが、ここにいればいずれ車が通るだろう。そうしたら車を止めて町へ連れて行ってもらえばいい。もし携帯電話でも借りられたら家や会社に連絡が出来るだろう。
車は直ぐ来た。周三は道路に立ち、両腕を大きく広げて合図をした。しかし、その車は全くスピードを緩めず、あっと言う間に走りすぎていった。とっさに飛び退いた周三は、その車が明らかに日本のナンバーが着いていて、左側を走っていたこと、そして運転していたのはどう見ても日本人らしい男だったことを見た。間違いない、ここは日本なのだ。
それから何台も車が来たが、どんなに周三が合図をしても大声で叫んでも、全く無視をして通り過ぎてゆく。全裸に近い男がわめいているので関わりたくないのだろうかとも思ったが、それならそれで通報されて警察が来るだろうと思った。だが、警察は来ず、相変わらず車は周三を無視し続けた。
あきらめた周三は、全裸のまま道路を歩き続けた。そしてやっと町に着いた。町の入り口の道路沿いに食堂があったので、開いている入り口から中に入った。全裸の男が入り込んだのだから、いくら何でも無視はされないだろうと思ったが、若い女の従業員は全く無視したままテレビを観ていた。客は一人も居なかった。
テレビでは大型貨物船濡素六丸が自衛隊の潜水艦にぶつけられ、乗組員が全て死んだことを告げていた。呆然とした周三が、そのテレビの下にかけてある鏡を見たとき、全てを理解した。鏡には映っているべき周三の姿がなかった。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。