2007/10/8
我が友、周三 六 平成19年10月08日
社会に対する貢献としては、会社を通してであろう。それなりに会社からも頼りにされていた部分もある。同時に会社はわたしがいずれ退職することを当然の事としてちゃんとわたしの後継者を用意していた。経験のために一時期経理に回されてくる若い社員は、いずれ出て行くお客様だが、わたしのように経理一筋をめざして来る者は大切な後継者だ。彼らを育て一人前にするのも、わたしの大切な仕事だった。つまり、会社にとってわたしはその時期その位置にいた一人の経理マンであって、別にわたしでなくとも良かったわけだ。急にわたしがいなくなればその時は会社もある程度困ったろうが、穴埋めは出来る体勢になっている。現に、わたしの部下の、当時係長だった男が胃潰瘍で入院し、五十日ほどいなかった間も、多少急がしい思いはしたがわたしが彼の仕事をやり、会社全体、いや経理部全体としてはいささかの停滞もなかった。その男が復職して来た当座はやらせる仕事が無くて困ったものだ。病み上がりだからと労る振りをしながらその男のために仕事を作ってやった。偉大な才能ではなく、堅実な仕事を求められる社員は、実は誰でも良いのだ。同等の経験を積んでさえいれば、誰でもがすぐ穴埋めを出来るようになっている。少なくともわたしのいた会社くらいの規模以上の企業は必ずそうなっている。
ある意味で飯田はわたしなどよりよほど社会に貢献していたと言えよう。たしかに飯田の持っていた技術は人間の生活に不可欠なものであろうし、飯田のような高いレベルの技術を持っている人間は限られているであろう。さらに、飯田が転々としたような小さな会社ではそのような技術者は得難いであろうから、わたしのようにすぐスペアが控えているのとは違う。それなのに、飯田は普通よりずっと早い五十二で退職を余儀なくされた。どうしてなのか飯田に訊いた。飯田の曰く、技術者ではあるが全て現場の仕事でありつまりは肉体労働なのだという。忙しい時期は月に二、三日も休めず、それもほとんど二十四時間の仕事が連日続いた時もあるのだとか。出張続きで娘が産まれたときも家に帰ることが出来なかった。飯田に言わせれば飯田のような立場で長年続ける人間はざらにいないので技術者の数が絶対的に足りなくなるし、一般に技術者と自称している中には現場に行かず単に実験室で、他人が集めた資料の試験管やビーカーだけを眺めて暮らしている連中が大半で、だから似非技術者なのだそうだ。ずいぶん失礼なことを言う男だが、それにしても一面それは正しいのではないかと思う。
それほど貴重な技術者である飯田が何故そんなに早い時期に辞めなければならないのか、それからかりに辞めたとして他の会社に行くことが出来ないのか。それを言うと飯田は、体力が続かない、本当は五十になったらもう出来る仕事ではないから、というのが返事だった。飯田の性格がずいぶん影響しているのではないかと内心思った。それと、現場仕事ばかりを三十年もやってきた男が、体力的に現場に出ることが無理になったとしても、会社にいて書類を眺めての仕事は全く出来ないだろう。現場だけで生きてきた人間が机に向かっての仕事をこなすことなど出来ないはずだ。それは、わたしが算盤と電卓と帳簿だけを相手にしてきて、なんの仕事でも現場の仕事など出来ないのと同じだ。
好景気と不景気の、ちょうど一番下の時に、仕事が無くなった。すこし待てば多少はましな景気になったのだが、飯田やわたしのような年齢ではそれを当てにする事は、会社としても出来なかったのだろう。わたしのいた会社でもリストラクチャリングとやらで人減らしの最初の対象は高年齢の管理職だ。定年間際になった者が残れるはずがない。飯田のいた会社で、飯田がいくら貰っていたかは知らないが、社内では高額だったのではないか。とすれば、不景気で仕事が無く、といって会社にいてもろくな仕事の出来ない飯田を、いずれ役に立つだろうからと置いておくような余裕は無いはずだ。飯田が、後継者を育てたかどうかは分からないが、おそらく今時の若い人間が飯田に着いていけるわけがない。自分でも言っていたのだ。いまの若い奴は仕事が辛いといってすぐ辞めていくと。その傾向があるのは事実だろうが、飯田の元で素直について行く人間はいない。これはわたしのように、滅多に会わない人間でさえ分かる。
ただ、この年になると人それぞれの性格や長所短所も自分の好みと切り離して見ることが出来るから、人間的には距離を置きたいと思う飯田のような男でも、たまには会ってみようかという気になるのだ。なにしろ、残念な事だが、仕事を離れてみると肉親以外に深いつきあいをしている人間などいないし、飯田が特にわたしから離れたところにいたのではない。わたしがいままで知り合った人間の中ではむしろ近いのかも知れない。従って、飯田が電話をよこすと割合気楽に合っていた。他に時間を決めてやり遂げなければならない仕事もない日々だったのだから、飯田が時折見せるいらだたしい部分も、どうせその時限りの、利害関係のない変人の事だからと、別に腹を立てる必要もなかったのだ。
それとは別に、一つ飯田と会うとき引っかかることがあった。それは、一口に言ってしまえば生活程度の違いということか。わたしは、贅沢さえしなければ別に食うに困るわけではなかったし、あえて金を稼がなくとも生きている間は不自由はしない。美食を追い求める趣味はないし、着飾る趣味もない。家を家具で飾りたてる趣味もなければ、それほど旅行をして歩き回る趣味もない。とすれば、基本的に生活には金が掛からないから、病気さえ用心していれば死ぬまで自分のめんどうは見られる。飯田はそうではなかった。
常識でいえば、その年になっていればそれなりの資産はあったと思いたいが、実際はアパート住まいで、やっと見つけた仕事でかつかつに食っていた状態だった。勿論それまでの経験とは全く関係のない仕事だったようだが、詳しいことは訊いていない。着る物も、決して上等とは言えなかった。吊るしの背広とバーゲンのワイシャツ、古いしみの付いたネクタイが常だったし、靴も底がすり減ってきずだらけだった。飯田もやはりそのような物に気を遣わないのだというのならそれで構わないが、若い頃は精いっぱい飾りたてる方だった。経歴の故もあったろうが、何故そこまで貧しかったのか、詳しいことは分からない。訊く機会も無かった。家族から孤立し、ますます意固地になり、不本意な日雇い仕事にも近い仕事で生きて行かなければならない六十近い男と会うのは、ある意味では苦痛を伴うことだったのだ。
投稿者: takaojisan
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