2007/12/2
絶対証拠 平成19年12月02日
飯田周三はこんどこそ証拠を突きつけ、女房の佐野茂代に言い逃れをさせるものかと思った。今までも周三としては確信を持ったのにどうしても確証と言える物がないために茂代に突きつけることが出来なかったのだ。それに、惚れた弱みというのがある。だから、どうしても茂代を追いつめるまでの気にはなれない。まして、絶対確実な物的証拠がない状況証拠だけでは言い出すことも出来ない。
確かに、自分が惚れているのは弱みかも知れないが、もちろん茂代も自分にはべた惚れのはずだと周三は確信している。それにしても、と茂代のことを思い浮かべる度にどうしても頬がゆるむ。だから、今日確かな物的証拠を見つけたからと言って、現実には茂代を責めることは出来ないだろう。ただ、ちょっとお灸を据えればよいのだ。そうしたい気分なのだ
それにしても、と周三は思う。一緒になっておよそ十年。時々周三は自分が本当に茂代と夫婦なのだろうか、もしかしたら夢なのではないかと思うことがある。十年前、周三は三十二歳で、一応大手といえる濡素六食品で中堅どころとして仕事をしていた。我ながら仕事は出来る報だったと思うが、なにしろ地味で一の中心になるようなタイプではなかった。それに、生っちろく胴長短足のデブで、みっともない童顔に太い黒ブチのメガネで、本来女性には縁がないと自分でもあきらめていた節がある。だから、佐野茂代が自分に好意を持っていると気が付いた時はまさかと思ったのだ。
茂代は人目を引くほどの美人だったが性格は控え目でいつも誰かの後にいるような女だった。当時、茂代は二十五歳で、茂代に対しおそらく同じ部署の男達が好意を持っていたのだろうと思う。だが、茂代は誰にも優しかったが特定の誰にも近づくようなことはなかったようだ。化粧をしてそれなりの服装をすればおそらくテレビなどで売れている美人女優などには決して引けを取らないのだろうが、茂代はほとんどすっぴんとも言える薄化粧で、長めの髪を無造作に束ね、地味というより少し野暮とも言える服装をしていた。
これは結婚してから聞いたのだが、大人になる前男で酷い目に遭い、それから男に関心を持たれるのが嫌でわざとそんな姿をし、目立たないように振る舞っていたのだそうだ。たしかに茂代ほどの美人であれば男の経験が皆無とは思わなかったが、それでも周三はよしとした。若い頃の過ちなのだ。それを悔い、うかつなことにならないよう身を律してきた茂代を、むしろ偉いと思っていた。
その茂代が、気が付いたら周三にだけ特別な視線を送っているような気がして、最初の内は気のせいだと思っていた。仕事は出来ると自分で思っていても、女については全く奥手としか言いようのない自分に、茂代のような可愛い清楚な女性が好意を持つなど信じられなかったのだ。だが、どうしてもそれは気のせいとは思えなくなり、ある時思い切って食事に誘ってみた。そうしたら茂代はうれしそうに頷いたのだ。
それから何度かデートをした。会社にいる時とはうってかわって茂代は華やかな化粧に髪型、そして若々しいしかし決して派手ではない服装で来た。そんな茂代を知っているのは自分だけだと、周三は会社で他の男達に優越感を持ち、そしてますます張り切って仕事をし、成績を上げ出世した。
周三と茂代が結婚すると聞いて、同僚達は仰天した。だが、現実に結婚式に招待され今まで見たこともなく美しい茂代の花嫁姿を見、そしてその茂代が結婚退社をしたことで、ようやくそれが事実だと思ったようだ。周三は随分うらやましがられたが、それでも日頃から仕事ぶりや実直な性格を好かれていた為もあり、嫉まれることも無かった。
茂代との結婚生活は楽しかった。ただ、十年経っても子供に恵まれず、二人で医者に行こうと行ったのだが、茂代は自分に問題があるのだろうと、医者に行くのを拒んだ。周三もいつの間にか出来ない物は出来ないと子供をあきらめた。子供がいなくともそれにかかる時間や金を二人のために使えばいいのだ。
周三は出世をし、今では部長になっている。勢いますます仕事で費やす時間が多くなり、家にいる時間が短くなる。茂代が習い事をしたいと言いだした時、周三は賛成した。一人で家にいるより、友人でも出来ればいいだろうし、外で楽しみを見つけるのも茂代のためだと思ったのだ。
そんな茂代だから、喩え物的証拠を見つけてもきつくとがめるつもりはない。ただ、周三が気づいていることを知らせればいいのだ。なにも止めろと言うつもりはないが、こそこそされるのがいやなのだ。茂代のことだから素直に過ちを認めるだろう。そうしたら、周三はむろん、それを受け入れるつもりだ。
「なあ、茂代。俺、今まで黙っていたんだけれど、君が知らない振りをしているので決心した。俺は気が付いているんだよ、茂代がやっていることを。絶対証拠もあるんだ。ただ、茂代の口からそのことが話されるのを、俺は待っていたんだけれど、茂代はとうとう俺に最後まで言わないつもりなんだな」
周三が、その日遅く帰ってきた茂代にこう言った時、茂代は蒼白になりそれからぶるぶると震え始めた。
「ごめんなさい、あなた。ほんの少し時間をちょうだい」
そう言うと茂代はそのまま家から出ていった。周三が止めるまもなくだ。
その真夜中、警察からの電話で周三は目を覚ました。茂代が、周三の会社の上司、松木和男を刺し殺し、自分も胸をさして死んだというのだ。周三は警察へ行き、そして茂代の遺体と対面した。呆然としている周三に、担当の刑事、竹下陽介が言った。
「飯田さん。奥さんの遺書ですが、飯田さんに、松木さんとの何年も続いていた不倫がばれていたことが分かって、もう生きてはいけない、と書いてあります。飯田さん、奥さんに何を言ったんですか。これは無理心中ですよ」
周三は絞り出すような声で答えた。
「私は、私はただ、家内が、私のまんじゅうを、私が楽しみにとって置いたまんじゅうをいつも盗み食いすることに気が付いて、白状しろと言っただけなんです・・」
投稿者: takaojisan
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