やっと暖かくなったようだ。桜もようやく開いてきた。― 今年は非常に遅い。
何せ昨日まで、最高気温が10度前後の状態だったのだから。
桜開花宣言が出るのはヘタしたら20年以上ぶりくらいに遅いかもしれません。
昨日、久しぶりに古本屋を巡ってたら、薄幸の人の本と出会え、迷わず購入。
何せ再び出会える機会がそうそうあるとは思えないですから。
それはセックス・ピストルズのオリジナルメンバー・ベーシスト、グレン・マトロックの自伝『オレはセックス・ピストルズだった』(タイトルが泣かせる(--;))。
思うにピストルズのメンバーの中で、印象として最もジェントルで、最も普通な感じであり、そして大部分の曲を手がけたのにもかかわらず、当時はあのジョニー・ロットン(ジョン・ライドンー以下“JL”)にクソミソに言われ、ベースがまともにひけないシド・ヴィシャスにその座を奪われてしまったという。
満開の桜の下では「花より団子」の大衆から、存在を消されたような人なのだ。残念!
JLの自伝は書店で案外容易に見つけられるけど、こちらの方の回想録は絶版であろう。まず通常書店にはあるまいて。残念!で、おそらく他のメンバー、GやDrの人たちは本を書くようなタイプじゃない。
その点グレン・マトロック氏は案の定、かなり学業優秀な人。常識を知った上でアウトサイダーの道を選んでしまったという感じ。
再結成日本ツアーでも、ジョニー・ロットンを演じていたJLと違って、このグレンさんにインタビューアーがずいぶん助けられたという話もあるかのような。。。
その日本ツアーの武道館の演奏を衛星放送で見たけど、グレンが一番若々しく、ファッションも当時のブリット・ポップ系カジュアル、動きも軽快な感じだった。リズムに乗った動きがかなりにクールでした。
実はJLが普通のロックの伝統から大きく離れた方向をピストルズ時代から持っていたのと同じく、グレン・マトロックもドイツのCANのようなバンドが好きだったという。JLが好みだったピーター・ハミル率いるヴァン・ダー・グラフ・ジェネレィターなども含めてお互いに好みが通じていたらしく、幼なじみであるGとDrの間で居場所に困っていたJLと最初に接近し、お互い曲のアイデアを出しあっていた、というエピソードは興味深い。
有名になっていく過程で特にJLのエゴが酷くなってきた、というのはおそらくグレン氏が言うとおりだったのだろうと思う。おそらくJLはとんでもなく嫌なやつだったに相違ない。
しかし、あのサウンドの上に乗ったボーカルは空前にして絶後といってよいものだ。
僕にとっても、日常的に聞けるようなサウンドではもう無いけれど、今聴いても「超絶的」だったのは間違いないと言い切れる。嫌な奴であっても、そのボーカリストとしての天才ぶりはグレン氏も認めざるを得なかったことでしょう。
ややっこしいもんすね。
あとひとつ、グレン氏はピストルズを続けたかったらしい。より長く続けながら大きくなっていく、という。いわば革新的ながらも「ロックの枠組み」の中でアメリカも制覇できたら、と考えていた。そこが決定的にJLと違った点なのだろう。
もちろん、JLも「こんなものは壊れてしまえ」と思って活動していたわけではないだろうが。。。初期のPILが生み出したもののように、もっと前衛的になりたかったのだろう。
二大巨頭は並び立たず。それにしても、この二人の自伝を通して、輪郭がますますぼやけてくるのがマルコム・マクラーレンという超有名マネージャー。二人の証言をつき合わせてみればみるほど、いわゆるマネージャーらしいことをしていたとはとても思えない。むしろこのバンドを通して、自分がハプニングの主役になることを楽しんでいる風でさえある。
この意味では、後にクラッシュのマネージャーになるバーナード・ローズの方が、パンクの時代を本当の意味で作った当事者ではないかという気がする。
PS. 定価1500円が750円。ある意味トホホ...な。
(シド・ヴィシャスの英国最後でのライヴでベースを弾いたり。いい人ですねぇーちなみにこの写真は本国版の表紙)