※ 今回書いたものはすごく個人的です。こうの史代の作品を読んでいないとちょっと、という。。。また、紹介のための細やかさがほとんどありませんし、長くて暴走してますので、興味がない方はスルーしてくださいませ。。。
名作『夕凪の街 桜の国』の作者、こうの史代の作品をさかのぼって読み始めている。今年になって単行本化されたこちらも名作の『長い道』に続いて入手したのが今回の『こっこさん』。
オビの売り文句「小学生のやよいがある日帰り道で出会ったのは目つきの悪いニワトリ“こっこさん”。・・・一人と一羽のドタバタで、のほほーんな日々“ということで、こうの氏お得意の柔らかなタッチによるギャグ漫画。
といってもそれだけに終わらないモノを感じてしまうのが、こうの作品に僕が強烈に思い入れるところ。この作品の後に『長い道』連載が始まるわけだけども、単行本化された『長い道』は幾つか編集された部分があるらしく、『こっこさん』に収められたストーリーも『長い道』に収録されたストーリーと微妙にリンクされている。ここら辺、こうの史代という漫画家が、けして日の当たる場所で作家活動を展開していたわけではなく、ぼくのような一般的漫画ファンには全く不案内な”コミックマーケット“なる市場で自費出版などを結構行っている。大手出版とも縁があるわけではなく(せいぜい双葉社?)普通の人には『夕凪の街〜』がこの作者のほとんどデビュー作と思われているのではないかと思う。僕もキャリアがある人だとは思っていなかった。しかし実際は’95年にデビューしている文字通り10年選手なのだ。
話が脇にそれたけれども、こうの史代はこのようにメインストリートとは距離を置くことによって自分のオリジナリティを育んできた人だということは言えるのではないだろうか。
『こっこさん』に戻ると、この一羽のニワトリ、実にペットらしくない。動物的な生々しさに満ちあふれている。特に初期の話ではそうで、作品の終盤になってからやっと(?)だいぶ擬人化されてくる。あとがきで作者が触れているように、もともとは誰かの代打で連載が始まったものらしく、初期の作品では独立した一羽の動物として、いつでも主人公の手を離れる用意がある姿勢を見せている。であるが故にこの一冊の本を前にした読者としては“この展開で続くのだろうか?”とドキドキさせられる。第一話で木にとまって遠くを見つめるこっこさんを眺めながら「何を考えているのだろう 新しい旅のことを考えているんだろうか」と独言しながら微笑んでいる主人公、やよい。また、2話でラスト近く、黄色い花が爛漫と咲く中、「ここずっと前にきたことがある・・黄色い花がいっぱいで露店のひよこみたいだなぁと思ったっけ」とつぶやくやよい。映画で云えばラストを飾りそうな展開で、かなり大胆な印象が残る。
思うに、この段階では作者は“いつ連載が打ち切られてもいい”という準備があったのではないかと思う。それと、これはいつか改めて述べたいことなのだけど、作者・こうの史代の一種の哲学が反映されているのではないかと想像されるのだ。
ヒロシマをとりあげた『夕凪の街 桜の国』を提起し、担当した編集者は、『長い道』の編集さんらしい。夕凪〜があのような作品として仕上がる青写真が編集者にあったかどうかは分からないけれど、原爆とその二次被害というシリアスな問題を、「はだしのゲン」からも遠く隔たった現代というこの時代においても、一般的な説得力を与えることが出来るはず、とおそらく踏んだのはこうの史代の作品の中に“緊張と弛緩”の絶妙な才能、また“日常の中に潜む深遠”を汲み取る才能を読み取ったからに違いないと思う。もちろん何より親しみやすい絵柄も説得力に力を与えると見ただろうと思う。
『長い道』は日常的過ぎるくらい日常的な要素にふと見える内実の深さと、シュールな実験が混ざった作品に仕上がったけれども、その要素は『こっこさん』の中にすでに胚胎していたと言っていい。どの作品もギャグで落ちるのだけれども、そのギャグの前には大ゴマや1ページを使って切り取られた真面目な一瞬・凛とした姿・風景と溶け合う姿などがある。そのコントラストは『長い道』に比べてもかなりはっきりとしているので、『こっこさん』は『長い道』に結実される世界への原型だと見ることも出来るかもしれない。特に風景描写と登場人物との心象風景が交じり合う姿は絵柄としても美しく、力が入っている。そしてそれは多分にこの作品では意図的なものでもあろうかと思う。こうの史代の作風に劇画的というか、リアリティを重視する姿勢があることがこの作品で発見できた気が僕にはした。そこで、『夕凪の街』にも少し触れておきたい。
『夕凪の街』で、主人公が恋人と口づけを交わす瞬間に、ヒロシマで起きた惨劇が次々にフラッシュバックし、押さえつけていた記憶が一挙に溢れ出し、蘇るシーンがある。この作品のかなめであるこの場面でのスピード感は、恋人から逃げ出すようにして走るところでは、速く激しく惨状の実態が語られ、息切れてとぼとぼ歩くところでは、自責への思いとなり、「お前のすむ世界はここではないという声がする」というモノローグとともに草むらの中にへたり込ませる。
読者を今までのんびりとした日常の空気の中におき、それでも“何か隠されているなぁ”という感触の中に包み込んでおいて、一挙に猛加速して主人公の悲劇に繋がるモノローグ世界へ転換させる。日常風景から主人公のモノローグと、その主人公が逃げようとする記憶の世界は絵の動作で見事に連動している。こうの史代の劇画的世界がここで爆発している。
先に書いたとおり、ヒロシマを描かせたいと思った編集者はこうの史代の作品にその可能性を見たに違いない。それは『長い道』での男女の機微だろうし、『こっこさん』の中にあるニワトリをめぐる、あるいはニワトリを含めた家族とその周辺の温かさと凛々しさの描写の中にきっと何かを見たのではなかろうか。それはまた同時に「こっこさん」に描写されたリアルな自然点描の美しさと、ひとり、あるいは一匹の持つ実存感に打たれたこともあったのではないか?と推測する。この作者なら描ける、と。
こっこさんの世話をする主人公やよいは、こっこさんと「友だち関係」といってもよいような無邪気さで魅力的だが、中三の姉・はづきの優しさもかなり魅力的である。個人的には「はづき」は作者自身ではないかと邪推するのだが?それだけに、あとがきで触れているように、はづきについてもっと書いてもらいたいものである。『夕凪の街 桜の国』は別としても、こうの史代の作風と才能からして、今まで書きついで来たユーモア作品も全て一つの連関した繋がりでまとめる事は十分可能な気がする。そのときには各支流はアッと驚く形で繋がり、素晴らしい第一級河川、あるいは大河をもたらすかもしれない。
いずれにせよ、繰り返しになるけれど、こうの史代という作家を一作の中に閉じ込めておこうと思っていた自分は間違えていたと思う。遡及して作品を読んでよかったと本当に思っている。