爆笑問題の太田光が総理大臣に扮して模擬法案を出し、それをもとにして討論する番組をやってますが、これは面白いです。太田光、素晴らしいですね。こんなにも熱く原理原則で喋れる人だとは思いませんでした。勇気があるなと思うし、大変なものです。先週の2時間スペシャルから見ましたが、腰抜かしちゃいましたよ。ここまでやれるのか?って。
イラク派遣を決めた自民党代議士が世界地図上のイラクの場所を知らないというのは呆然とさせられましたが、まぁいいか。今日の話の本筋じゃないし。見ている人は分かっちゃったでしょう。どんなモンなのか。
今日は2つの模擬法案を大田総理は熱く論じていたけど、どちらも表現に対する強烈な問題意識があると思った。行為するにも、行為をしないにも、そこに至る動機の表現は簡単じゃないということ。そういう思いがあるんじゃないかと思いましたね。太田光の中に。
だからこそ逆に、一国の総理ならば説明の責任を。別に訥弁でもいいと。ただ行為に至る心根、心のひだ、心情が誠実に伝わればと。それは職責であろうと。
も一つ逆に、表現を「生業」にしている人にしてみれば、その表現は絶え間ない正解の無い繰り返しであろうと。そういったところから思いがぐう〜と突き上げてくるというのかなぁ〜。
そんな真剣さが太田光の中から伝わってきて、いや〜これはたいしたものだな〜と、テレビ、特にバラエティを見なくなった自分も、何か偉そうで申し訳ないですけど、見る甲斐があるな、と。そう思いました。
本当は全部上の文章は前置きのはずだったんですよね。実は、宮沢賢治のこと。
しばらく前に見返した民俗学映像研究所のドキュメントでアイヌの熊送りの映像を見て、ふと宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」が読みたくなって、久方ぶりに読み直して見ると、これがまたも安直な言い方ながら、なまら素晴らしくって。
読みやすいということもありしばらく寝しなに賢治童話を読んでいたのですが、凄くてやめられなくてね。つい、ここ何日か1時間くらいずっと読み込んじゃいました。
宮沢賢治の童話が何故どう凄いのか表現するのは本当に難しい。
それだけ奥深いし、ありていですけれど、心象宇宙みたいなものが表現されているんですね。と、思うんですよね。
賢治自身は「心象スケッチ」という表現を使っているらしいですが。
ある人の言葉を借りると彼自身の資質が作り出す「過透明」な景色、ってありましたけれど。つまり、透明すぎる心象景色を持っていて、それを表現する才能を持っているということなんだろうなぁ。でも、その見え方というか、見えすぎてしまう部分って正直、本人も辛かったろうなと思う。彼の持つ禁欲精神もその才能に磨きをかけたと同時に孤独も深かったろうしね。それに当時の東北の農村社会の現実、家業との確執。
宮沢賢治の実存在としての一番の欲望と役割は、やっぱり客観的に見ても「表現の才能」だし、生前に認められないで終わったことは賢治自身の思いとは別に、同国人として無念だなぁ。こういうことが往々にしてありますね、残念ながら。
たとえば村上春樹は遠からずノーベル賞を取るかもしれないけど、それとは別に宮沢賢治も普遍的ですよ。・・だと思いますが。
「なめとこ山の熊」。この1作だって、それをどう読めたかまだ自分の中で上手く説明が出来ないですね。別に上手く説明できなくたって、そこから感動が得られればそれは間違いなく糧なんですけど、その感動の意味を自分でも言葉で上手くすることが出来ればねー。それはもっと「自分の中にあった何か」が少し解明できることになるような気がするんですよ。。。
と、ここまで来て今日もとりとめがない(苦笑)。
と、そういえば大田光って、エレカシの宮本浩次が好きだったんじゃなかったっけ?それって本当なら結構納得できるな。