ロッキン・オンの3月号を買った。巻頭の特集は「ロック名詞選100」。この雑誌は550円なので、この部分だけでもその価値に見合う。基本的に訳詞に編集者の解説(解釈?感想?)がつくというもの。見開き1ページで扱われているのはボブ・ディラン、ストーンズ、デビット・ボウイ、ニルヴァーナ(何故か訳詞なし)、エミネム、ザ・フー、ブルース・スプリングスティーン、ザ・スミス、レディオヘッド、アークテック・モンキーズ。その他数多くの著名なロックミュージシャンによるロックの歴史に残る名詞を短い行数でそれぞれ所感(?)が記述されている。この短いスペースに詞と、時代背景なりミュージシャンのキャラクターなりを受け手からの視点も織り込みつつ書かれている文章がなかなか素晴らしい。流石にロック編集者だけあって勉強されている分の蓄積が引き出されているな、と思う。この労力は率直に賞賛したい。コストをはるかに超えていると思う。
ただひとつ、個人的な感想として90年代以降のロックに対する語り口は編集者たち自身のリアルタイムのためなのか、私自身が中年のせいなのか少々気恥ずかしい感じもする。それはちょっと抽象的な言い方になりますが、「社会」ということばが遠景に引き、「自分」というものがせりあがったまま宙吊りになっている感じがあるのだ。これがいまのロックの時代的気分というものなのだろうか?それにしては、その季節が長すぎる気もする。ザ・フーの「ババ・オライリィ」が1ページ割かれているのは今の時代のロックの(ぶっちゃけ言ってしまうと、いまのロッキンオンの書き手の)変わらぬアンセムになっているということではないか、と。つまり「十代は不毛の荒野だ」という有名な、あの。ニルヴァーナに象徴される何かともずっと繋がるような。
だが、僕はむしろディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」やストーンズの「悪魔を哀れむ歌」のページが刺激的。そこにはレノンの「ストロベリー・フィールズ」や「アイム・ザ・ウォラス」に通ずる「僕とて君とて」と「その時代の社会性」のプラスアルファがあるから。上手くいえないが、覚醒作用は社会的感覚との接点と切り結ばないと袋小路にはいってしまう気がするのだ。ブラック・ユーモアというのは、それがある。袋小路から抜けるための。ブラックでもユーモアはヒューモアだろうし。。。
でも同時にわかる。僕も「ババ・オラィリィ」の詞も曲ももう夢中な人だし、ザ・スミスは今でも”背負っている”。しかしそこから考えなければならない視点もあるかと。例えば(唐突だけども)そこから先は橋本治の90年代の若者向けの著作を読むとか。今ではぼくは意識としてそちらにある。
しかしこんなことを書くなんて。本当に恥ずかしい。中年期に差し掛かれば、もう乗り越えるべき心象風景のはずなのだ。いちいちツッコミを入れるくらいこんな恥ずかしいことはない。おそらくロッキン・オン読者は学生さんとか、二十代から三十代前半くらいまでのはずだから。しかしロッキン・オンはそれでも雑誌として良くやっていると思う。やや過剰な装飾調の文体(人のことが言えるか!)を差し引けば、ロックに対する熱さや愛情がわかる。多くのロック系雑誌がコレクター雑誌で低温度になりつつある現在でも。
本当にロック雑誌はキビシイと正直思う。今の「YOUTUBE+myspace」の席巻の中では。ただ、それも先走った考えかもしれないし、この雑誌の編集後記に書いてある通り、好きなロックアルバムを購入し、訳詞を読んで新たにミュージシャンにまた思い入れを深めるというものがある(あった?)。それが無くなるのはロックカルチャー自身の衰退になってしまうと思う。言葉が分からない日本人としては特にそうだ。ロックは音楽であると同時にことばでもある。ぼくは現在でもそう考えている。今では輸入盤に頼ったり、サウンドとしての興味で聴く機会が増えても、本質に対する考え方は変わっていない。(だから英語が全然出来ないというのは致命的な誤りを犯しているとも思う(苦笑))。
何だか書いているうちに熱さと恥ずかしさでワケが分からない文章になってしまった(汗)。
ロッキン・オンに話を戻せば、これが月刊誌だという意味ではなかなか凄い。もともとインタビューに強い雑誌(初期はミュージシャン架空対談さえありましたなw)とはいえ、かなりのインタビュー数だ。通訳、翻訳含むと相当コストが抑えられている。それは本当に賞賛に値すると思う。とはいえ、今また愛読者になるというわけではありませんが。。。
そうそう、今回の訳詞選ではスプリングスティーンの「ザ・リバー」に虚を衝かれた。こんな美しい詞を書いていたなんて!リアルだし、本当にストーリーとして説得力があるし。ということで、この詞をまんま書き写してしまおうかな。本日かなり暴挙です。