昨日の文章で書き足らなかったことを書いておいたほうが良いかと思いまして。
昨日、新しいPCを入れたことでその画質の鮮明さから(何せ、DVDも見ることができる)、これでは活字がやばいな。下手すると映像に負けるな、って書きましたけども。
でも文学や法律関係に関して見ると、新聞などに比べるとそれらはやはり活字が有利で、まず間違いなく本の側が負けることはないだろうと思います。なぜなら、文学は情景描写が出来ないといけないし、風景描写が出来ないといけない。それらの例えば風景描写が作品の登場人物の内面の風景を比喩的に表現することもあるでしょう。極めて「行間を読む」作業が必要なので、作品の前後の間を読み手のわたしが自由に行き来できなければだめだ。その”機微”を養う作業が文学の面白さだし。
もちろん、携帯文学もあるようですが、長い命を持つ古典にまで成長するかはどうにも疑問なのです。。。
法律に関しては、実に分かりにくく構成された日本語で(苦笑)。で、かつ短い文言にうまく気付かれないように解釈を「え?そうだったの?」と思い込みを見事にはねつけるように出来ているものもあります。まぁ、これは極めて悪意をもって解釈すれば、ですが(笑)。後はその法に絡んで付則があったり、通達があったりして一筋縄でいかないように出来ているので。本来おかしいんですけどね。法は法で、本条のみで誰もが理解できるものでなければ意味がないはずなんですが。まあ、善意に解釈すれば現代社会の複雑さと、法律用語の定義の厳密が複雑に絡んで難解になっているとも言える。
ともかく、法律に関してもネットで読み流すのは難しいですね。よくネット上でブログを始める際でもいいのですが、「同意事項」というものを読んだ上で同意してくださいとありますが、ネット上でそれを全部きちんと読む人はあまりいないのではないでしょうか?
僕はいまだきちんと読んだことはないです。白状します。
何かで読みましたが、やはりネットでも例えばプリントアウトして10枚くらいに渡るような硬い文章、論文等はおおむねプリントアウトして読まれることが普通のようです。ネットで価値ある情報だとにらんでも、じっくり読むのはやはり印刷されたもの。どうしても行間まで読むとなると、ネット上では目の力での読み取りは難しいと僕は思います。才能ある人は別かもしれないですけど。
さて、話題転換。
今の大不況で出版業界は大変らしいですね。雑誌はおろか新聞も赤字転落したりで大変なようですが、その中でもきちんとした活字文化、特に伝統的に力の入った活字の文化雑誌はこのような時代でも何とか健闘しているみたいです。
ある意味、イマ風にいえばベタな人文系出版社の雑誌である”青土社”の「ユリイカ」。今号の特集は米原万里。作家として知る人と、僕のように例えばゴルバチョフの来日通訳やエリツェンの通訳で名著『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』の著者の印象が強い人と大きく二つに分けられるのかもしれませんが、何しろいま米原万里さんが時期柄何かあるというわけではないし、そういう、今の話題とか今売りたいものに関しての特集、というスタンスでないのが雑誌の作り手の意気というか、プライドを感じてすばらしいと思います。
音楽雑誌もその意味では今月プッシュしてもらわねばならぬダレダレの新作に合わせる紙面作りとか、ダレダレの再発にあわせて特集を組むとかいうような呪縛から逃れられたらどんなに凄いか。現下、音楽誌の宿命でそれは無理でしょうけど。ちょっと寂しいと思うときがあります。(いや、考えてみればむかしがむしゃらに新譜を聴いていたころ、自分もタイムリーな音楽の特集がほしかったことを考えれば昔とその点は基本変わらないかも。ただ、一誌くらいタイムリー企画と線を画す企画誌があっていいかと思う。それが良い意味で差別化出来て売れるんじゃないか、と思ってみても単なる冒険的な妄想なんだろうな。)
また話がずれた。ユリイカ最新号に話を戻すと、内容はまだ読み始めたばかりです。とはいえ彼女が少女時代からの驚異的なまでロシア文学・日本の古典を読みこんでいた話題など、興味深い話題があります。がとりあえずこの特集の中身に関しては読み込んでから、何かの機会ににまたいずれ書ければと思います。
ただ、通訳として母国と専門にしているロシア(ソ連)のエスタブリッシュメント同士、いかに両方をうまく橋渡しするのかについて両国の文学が文化的に大きな意味を持っているということに関して職業柄、非常に意識的な人だったに違いないと思いますね。もっと広くいえば小さいときからの飛び抜けた読書馴れがその後の彼女のすさまじい読書力につながるのは間違いなさそうです。
米原さんの書評集『打ちのめされるようなすごい本』はむしろ、米原さんの多忙な生活での、また病魔との闘いの間においてさえもの、すさまじい読書量ぶりに「打ちのめされ」てしまいます。本当に本が大好きな人だったのでしょう。もっといえば、本を通して人間が好きだったのかな。