また野暮な話題で恐縮です。
裁判員制度が始まってしまったけれど。
私は断固この制度に反対ですし、仮に裁判員になるように通知が来ても、納得が行く制度の説明が制度を運営する側からしてもらえない限り、裁判員を受け入れるつもりはありません。
そして、ここ最近になってようやくいろいろ運営側の説明らしきものがあるようですが、それに関してはとても納得が行くようなものになっているとは思えない。
審議は短くて3日、長くても5日!?
まるで裁判員に負担をかけないよと云うことを強調しているが如しですが、逆のはずです。殺人などの重大裁判を審議するのにたった3日から5日程度で終わらせるほうがどれだけ安易なことか。
有罪か無罪か、そして死刑も含む量刑を市民が決める。短期間で。そのことのほうがずっと恐ろしいですよ。
それをあたかも納得させるように、公判前整理手続という過程ですでに「絵」が描かれるでしょう。おまけに公判に入ったら新証拠が提出されないという話ではないですか。すでに法的・法の解釈の情報量で圧倒的に、各段な落差がある中で事件が審議されるんです。
何のために、プロ、職業専門家としての「裁判官」が存在するのでしょうか。彼らは死刑の量刑を下すことの重荷を市民と分けたい、重荷を減らしたいと思っている。そう考えるのはうがちすぎでしょうか?かりに専門家が専門家としての裁量としてそういう真実があるならば、それは率直に司法として語り、市民的な議論にすべきです。
もしその点ではないのだ、というのなら。。。
まず行政訴訟裁判から始めてください。それならば大賛成。何故なら絶対に行政訴訟に市民を入れるわけはないからです。私に言わせればそれは断言できることです。国としての行政目標を達成させることに反対する訴訟に市民が参加して正否を争うことなどまずありえないと考えてよい。
何にせよ、何故殺人等の重大事件に対する裁判員制度なのか。
それが裁判官にとっての「根本的な部分における」負担の軽減が深いところであるのではないか。そうとしか思えないのです。
市民はおそらく執行猶予を含むような裁判であれば、百歩譲ってそれくらいまでであれば、裁判参加も今ほどは否定的にならないでしょう。それでも私は裁きたくはありませんが。
そもそも、「人を裁きたくない」というのは近代法における幸福追求権にはあたらないのでしょか。人を裁く苦痛から自由になる自由が欲しい。ささやかな望みです。
それを重大事件で裁判員をサボタージュすると罰金だという。私は人を裁きたくない自由を手に入れるために10万くらいの罰金を払わなければならない。ついでにもしかしたらそれで履歴にも妙な箔がつくのかもしれない。
誰が考えたのか。というよりも、最初の考えがどこでどうして妙な方向へとずれていったのか。そして立法された過程で誰が『本気』で賛成したのか。この制度が作られるとき、作った人間の顔が見えない。これがまた恐ろしいことです。現代社会のテクノクラテックな慣性の法則の一つとしか思えない。
ただ、おそらく本気で裁判員制度が必要だと思っている人間と話してもきっと私は深いところで折り合いがつかないでしょう。人間はそれぞれで、「正義」の実現に対する確信が強い人もいるようですので。まぁ、これはほとんど価値観の問題になってしまいます。
僕の中ではある人を裁き、場合によれば人間実存的な問題に係わる死刑ということに触れることは出来ないと思っているとことと、この制度が深いところまで練られないまま見切り発車してしまったことの不快感。この二点で非常に不愉快なものが自分の中に滓のようにたまってしまった制度の始まりとして記憶される日でした。
職業裁判官は云うかもしれない。お前のようなものこそ現代のシステムにあぐらをかくものだ。人を裁くのは市民社会の義務である。私たちは余りにも長く、市民から離れ(逆に言えば負担を一手に引き受けて)、隔絶したところで市民を裁き、市民たちを日常から隔離してきた。今こそ、普通の市民の日常の中に人の裁きというものを返すときだと。
いいでしょう。そこまでの考えであれば、下衆な話で申し訳ないが、人を長く懲役したり場合によって死刑にする制度に市民が参加するなら、その裁判に応じた経済コストは裁判官のコストと等分にすべきです。すなわち、一つの裁判にかかる裁判官の給料をすべて公平・等分に裁判員と分け合うべきです。
追記:裁判員制度については作家の高村薫さんが正鵠を得た批判と問題提起をされてきました。このたび5月15日の北海道新聞夕刊の社会批評に裁判員制度について論じておられます。もう一つの自分のブログに少し自分の考えを書いた部分に相当部分転載させてもらいました。興味のある方がいらっしゃれば、よろしかったらこちらも併読してみてください。「
夢のでこぼこブログ:5月21日記事」