快晴・完全無風というすばらしいコンディションで陽の出を迎えました。ここで来てくれれば…そう思っていると遠く沙沙格台站に狼煙がぁ…思わず撮る前にガッツポーズが出てしまいました。このすばらしい煙は一生忘れられません。 99,12,11 包神線沙沙格台−敷包溝
自分の周囲を見回すと、何も変わらない10年と思う場面と、すべてが変わってしまい激動の10年を感じる事があります。
さて10年前の12月は私は何をしていたかと言うと中国・包神線に出掛けて前進型変則三重連を撮影しています。
包神線は北京から西に約500キロほど離れた、黄河の中流に位置した包頭から北に向かい神池まで結び、更に朔黄線を介して黄力港を結ぶ路線で主に石炭輸送を主として鉄道で、同線は日本の援助(円借款)で96年に完成した鉄道です。
包神線の途中の内蒙古自治区と陝西省の境にある神府東勝炭田は、埋蔵量約2300億トン以上の中国最大級の炭田(日本の釧路炭田の約100倍以上)がありそこで産出した石炭を中国各地へ輸送するために6000トン列車が運転(当初は1万トン列車を計画したものの安全性から縮小)されたために全線で前進型重連運転。さらに勾配区間の沙沙格台−敷包溝―東勝間では列車後部にさらに前型1両を連結し変則三重連で運転されていました。ちなみに包神線は全線電化開業が前提でしたが暫定的に非電化運転(蒸機運転として開業しましたが日本にはDLでの開業したと報告してあるらしいです。)していたと言う逸話もあります。
まぁ、そんな堅い話は置いておいて、96年に開通した包神線で変則三重連が運転されだすと(96年から三重連が運転されていたと言う確証はどこにもないので、あくまでも仮定ですか…)当時、中国蒸機を追い求めていた我々の耳にも包頭に行くと変則三重連が見られると言う噂が流れていました。
当時は96年に集通鉄路を見つけて狩勝峠の再来と言ってその魅力にとりつかれて中国に足しげく通っていた時代でした。しかし集通鉄路に少し飽きも感じていたので、包神線変則三重連の情報は狩勝の次は奥中山の再来か?とその情報に色めき立ち、飛びつきました。
現地情報が乏しい中、調査を進めて行き、ある程度様子がわかった時点で当時我々の専属ガイドみたいになっていた赤峰国際旅行社の李彦軍氏を現地に下見に向かわせました。彼は後に旅行社を分社化した際の子会社の社長となり我々の相手などしてくれなくなりましたが、当時は彼の熱烈服務のおかげでいろいろ制約のあった中国で比較的スムーズに撮影が出来たといまも感謝しています。彼の存在なくしては、初期の中国蒸機撮影の成功はあり得なかったと、今も思っています。(…とは言うものの関係者との行き違いで現地公安にお縄となりフイルム没収と言うこともあるにはありましたが…笑)
私の依頼で包頭に向かった彼は現地では列車そのものの確認できなかったものの包神線の関係者から”確かに機関車が前に2台、後ろに1台の列車が来る”と言う貴重な情報を得る事が出来、ならばと99年2月に少数精鋭の先発隊が、そして現地のすばらしさを確認の上、10名以上の本隊が99年12月に現地入りしています。
後部にも前進型が連結されていますが、煙で見えづらくなってしまっています。一日に夜明け直後に1本。昼前後に各1本と、最後にうまくすれば日没直前に1本と一日に4本の変則三重連が撮影出来ました。 99,12,10 包神鉄路 敷包淘−東勝
とにかく、包神線の魅力はその煙でした。集通鉄路に比べて風が強くないので、厳冬の現地では前進型から吐き出した煙はいつまでも残り、感動を覚えたことを昨日のように覚えています。また、寒さも集通鉄路に比べればかなり楽で陽の出前で−10℃前後でフイルムが折れるとかのトラブルも皆無てした。
かつての夕張をはじめとする炭鉱で栄えた北海道の街の様に、石炭のためにこの地域は非常に潤っており、宿をとった東勝の街は人にあふれ、車の往来が多数あり活気を呈し、中国の地方都市にしてはホテルは大都市並みに立派でした。またODAで日本人が現地に多数在留しているために、ホテルの服務員の中には日本語が出来る人が居たくらいです。
たかが10年かも知れませんが、たった10年前には近代化の押し寄せる中国でこの感動の路線を撮影出来た事は今も忘れられません。
なお、包神線はその後は当初の計画通り全線電化されていますが、今も石炭輸送の重要路線であることには変わりありません。