いつも”パンダ号”は田植えの終わった直後に運転されるのが通例でした。この撮影地も少し早めに到着して線路際の草を刈りました。当時、トランクに草刈鎌を忍ばせている鉄ちゃんはほとんどなく、”用意がいいなぁ!”と笑われたのを思い出します。 90,05,29 鹿島鉄道四箇村駅−常陸小川 パンダ号回客レ
20年前の5月に何を撮っていたかと、ネガを見返すと鹿島鉄道の”パンダ号”を撮影していました。
まず、この”パンダ号”が運転されなくなってから数十年も経ちます。更に鹿島鉄道自体が廃止となり”パンダ号”の存在を知らない方も多くなっていると思われますので、この列車がどんな使命を持った列車であったかご説明したいと思います。
この”パンダ号”は茨城県内の幼稚園・保育園の園児が遠足で上野動物園に出掛ける際に園児の利便性を考慮して運転されていた団体臨時列車で主に12系客車で運転され、そのほとんどが常磐線内駅発着でしたが、一部にレアな例として鹿島鉄道へ12系客車が乗り入れる列車があり、普段はタンク車しか牽引しない鹿島鉄道のDLが客車を牽引すると言うので、私たちの格好の撮影ターゲットとなったわけです。(私は見ていませんが、鹿島のカバさん事、DD901が12系を牽引した時代もあったそうです。)
当時はまだ自衛隊百里基地へのタンク車(ジェット燃料輸送)も行われていたので石岡駅での国鉄から鹿島鉄道への入換作業等にはなんら問題なく、きわめてスムーズに運転されていたと記憶しています。
鹿島鉄道への乗り入れ列車は前日深夜に石岡駅まで12系を回送しておき、早朝に最遠の機廻しの出来る駅(年によって異なり巴川駅だったり鉾田駅だったり。ある年には玉造駅だったこともあります。)までDLの牽引で回送し、折り返して園児を各駅で乗車させ(この臨時列車の特徴はひとつの幼稚園やひとつの保育園がチャーターするのではなく、地域全体で運転するというものです。)石岡駅経由(毎年、運転時刻は多少異なりましたがだいたい石岡駅着が8時過ぎでした。)で上野駅へ向かうと言う設定でした。通常は6両編成が二日間にわたり運転されましたが、年によっては日程調整が出来なかったのか1日だけの運転で11両と言う長編成が乗り入れた事もありました。このような場合はさすがにDL単機牽引では足りず、DL重連にして運転していました。(今も不思議なのですが12系11両+DL2両の有効長は鹿島鉄道にはなく、どうやって運転したかだす。交換駅は殿様列車に時刻変更すれば良いのですが、機廻し駅はどうやったのでしょうか…?)
実は、この”パンダ号”は当時の国鉄にしても、鹿島鉄道にしても今で言う「ボランティア」精神運転されていました…と言うのも、乗客はその性格から先生や保母さんあるいは引率の親以外は幼児ですので運賃収入から言えば微々たるもので、臨時列車を運転する人件費・燃料代等の経費を考えれば少なくとも鹿島鉄道にとっては赤字だった事は明白です。それでも毎年、運転されていたのは地方私鉄と言えどもまだまだ経営に余裕があった証拠だと今も思っています。
園児を各駅で乗車させて石岡駅に近づく”パンダ号”です。特製のヘッドマークまで用意されて運転していました。この後、常磐線はEF81にバトンを渡すのですが、今だったら神立あたりで撮影するのですが、当時はまったく眼中になく、この写真を撮ってから近くのファミレスへ向かってしまいました(笑) 90,05,29 鹿島鉄道石岡 パンダ号上り臨客レ
この”パンダ号”の面白い運転形態をとっていて、たしか上りは定期列車スジに乗るしかなく、そのために一般旅客も12系で乗降させながら運転していました。さらに園児が乗車する駅は停車時分がたっぷりとってあり、そのためにスジが寝ていて、車での追っかけは容易でした。今だったらカーチェイスもどきの修羅場になりそうですが、当時はこの列車を追っかける車も数台で、追っかけた先の撮影地でも誰とも知れぬ後から来る鉄車のために綺麗に縦列駐車をしておき、後から来た鉄ちゃんが撮影地で誰に言うでもなく「ありがとうございます!」と言う位に和気藹々な雰囲気でした。
朝、鹿島鉄道線内を出発したルートを午後は逆パターンで運転されます。毎年時刻が異なりましたが、だいたい15時〜16時台に石岡駅を出る設定だったと思います。復路は臨スジが入るので団体客が降車する駅のみ停車して折り返し、最後は12系客車は石岡駅で待ち構えていたEF80(後にEF81)に牽引され上野経由で尾久に回送されていくパターンでした。
この”パンダ号”は毎年恒例で5月の東京北局の団・創臨運転報(正式には東京北鉄道管理局報乙報と言います。)号外の客車運用欄に鹿島鉄道乗り入れ運用があると”オッ、今年も在るなぁ!”とつぶやいてから出撃のために年休(休暇)を入れ忘れないように必ずチェックを入れておいたのも懐かしい思い出です。
運転報では客車運用には通常、運転時刻は記載されていないのですが、北局では鹿島鉄道に限らず私鉄への乗り入れ運用では私鉄区間だけ始発駅と終着駅の時刻が記載されていていました。当然、業務上必要だったのでしょうが、今思えば運用計画担当者の我々への配慮だったのかもしれません。
復路の”パンダ号”を待つ間にこんな列車も撮影してます。この時代はタンク列車は午前・午後の2往復体制でしたが、それ以前は1往復重連運転でした。重連時代のタンク列車の写真を撮っていないのが、今は悔いています。 90,05,29 鹿島鉄道四箇村駅−常陸小川 上り貨レ
鹿島鉄道で”パンダ号”が運転されると言う事実を知ったのは70年代後半でした。当時はまだ撮影する対象が多く、また高校生→新社会人の時代でしたので早朝に運転される”パンダ号”は撮影しづらく(復路の夕方は撮影できたのですが、そこまで気が回りませんでした。)、本格的に撮影しだしたのは自動車を所有してからでした。それでも常磐高速道(以下:常磐道と略)が都心に直結されておらず都内を通って国道16号に出て、柏ICから常磐道に乗るだけでも一苦労でした。まだ往路は深夜だったり。早朝だからまだマシで、帰路は夕方から夜にかけて逆ルートを走らなくてはならず、今思い返しても、それは想像を絶する苦痛そのものでした。(当時は鹿島鉄道はもとより関東鉄道常総線撮影でさえも前日深夜出発した事もあったくらいです。)しかしそんな道路環境だからこそ”パンダ号”の存在意義があったわけで、80年代後半に常磐道が都心まで延び、首都高と直結されると撮影に出掛けるのには好都合になりましたが、逆に観光バスで都心まで行くのに所要時間が飛躍的に短縮され、いつしか”パンダ号”の運転はされなくなってしまいました。
何度か”パンダ号”を撮影していますが、帰りの渋滞を嫌って朝だけで切り上げる事がほとんどでした。この年は意を決して、夕方ので待って復路の列車も撮影しました。この時、帰りの渋滞ははたしてどんなものだったのでしょうか?…全く記憶がありません(笑) 90,05,29 鹿島鉄道四箇村駅−常陸小川 パンダ号客レ