また静かに早朝に上野駅に到着した20系”ゆうづる”です。この牽引機のEF80は前日の223レで水戸まで行って上り”ゆうづる”を牽引して返ってきていました。なぜ、その運用を小・中学生が把握していかと言うと223レの牽引機の上野側に”ゆうづる”のヘッドマークが付けたままで充当されていたからです。 72,09,23 上野 EF80ゆうづる
過日、那須さんより面白い記事を紹介していただきました。それは
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0502G_V00C12A9000000/?dg=1
です。
記事の内容は「子供が電車好きななることは当然であるし、親は”こんなに電車好きになって将来が心配!このまま大人になって大丈夫か?”等と思う必要は一切必要はない。それどころかその後の発達において電車好きは役に立つ」と言う記事です。
なかなか面白い記事で、自分の幼少期と重ね合わせて通勤電車の中で読んでいてニヤニヤ笑ってしまいました。また書いたライターも女性で鉄好きの大学教授が自己弁護で書いていないのが鉄道趣味がメジャー化した今の時代を象徴していて面白いところです。
さて、40年前の私がまさにこの鉄道だけに興味を持って、勉強は一切しない(結果論かに言うと出来ない)子供でした。正直言って学校の成績はクラスで下から数えて片手で足りる位でした。駅名は難読駅までほとんど読み書きが出来るけど、教科書の漢字は読み書きと言う以前に憶える気は全くありませんでした。数字も計算式等チンブンカンプンでしたが、24時間制の時間計算は得意でした。テストは0点と言うことはありませんでしたが、テストの回答を持って家に帰るといつも親が(特に母親が…)嘆いていました。もともと父親は数学者(それも非常に特異な応用数学)で、思想的にも戦時中から社会主義デモクラシーを勉強し特高警察に追っ掛けられ、没収されないように本を池に沈めたと言う逸話を持つ人物です。また母親も成城学園の卒業で両親とも頭は良いはずなのですが…きっと劣性(または隔世)遺伝だったのだと今も思っています。
当時は鉄道趣味が学業の妨げとなり、勉強が疎かになる原因とされ学校が休みの日にカメラをぶら下げて上野駅や東京駅へ行く事を禁止された時代もありました。そのため撮影に行くときも何かと理由をつけて親の目を気にしながら出掛けていた時代です。そのひとつ手が東京・人形町にある母親の実家に祖父母に逢いに行くとか理由をつけるのですが、お昼過ぎに行く事になっているのに何故か初電で出かけてしまうとか…
また、担任から家庭へのの連絡帳にも「鉄道の事は人一倍知っていて、記憶力も良いのになんで学校で教える事は憶えない、また全く覚える気がないのが不思議でたまりません」と書かれていたほどでした。
そんな時代に撮った写真がこの2枚です。上の”ゆうづる”の写真はその人形町へ行くために、6時前に到着した上野駅です。午後に人形町へ行けば良いので(上野―人形町間は日比谷線で10分足らずです。)上野駅の滞在時間は7時間以上はあり、ゆっくり特急を眺め、撮影が出来ました。当時はヘッドマークが付いているのが当たり前でしたので感動することも無く撮影した記憶があります。ヘッドマークが東京発着のブルトレ以外は省略されたしたのはこの直後だったと記憶しています。
もう1枚が横須賀線のEF10の貨物列車です。この写真は”電車の写真を撮りに行く!”と言うとあまり良い顔をされないので”学校で教わった鎌倉幕府に関係するお寺などを廻って来る”と言うもっともらしい理由をつけて撮影したものです。当時の横須賀線では横須賀まで2往復の貨物列車が設定されていました。この頃の横須賀線の貨物列車は大船駅の西側で貨物線から分岐して東海道線上下線と大船電車区の入出区線を本線横断して横須賀線の本線に入っていた時代で、多数の線路を平面交差のために運転上制約が多かったとみえてこの翌年には根岸線大船延伸開業に伴い本郷台から大船駅根岸線ホームを経由して横須賀線へ入れる貨物ルートをつくったので平面の本線横断はこの写真の1年後には消滅しています。そんだったら、こんなところで撮らずに家にもっと近い大船駅構内で撮影していればと悔んでいる1枚です。
横須賀行の貨物列車と言うので米軍関係の荷が多いかと思いきや、意外とバラエティーに富んだ組成内容です。この当時、EF10は国府津機関区所属でした。その後、EF13に追われて廃車になっています。 72,09,10 北鎌倉 EF10