地震の混乱の中、情報通りに列車がやって来るのだろうか?と言う半信半疑の中、トンネルの出口から風が出てきて程なくしてDE10の甲高い汽笛とともに列車が飛び出してきました。 04,10,29 三川ー五十島 9226レ Canon EOS−1v RDP−V(+1) スキャナー : Nikon COOLSCAN WED
中越地震で上越新幹線は脱線のため不通。上越線もがけ崩れで不通で首都圏から新潟へ鉄道で入る手段は断たれてしまいました。鉄道だけならまだしも関越道も17号線も不通で新潟は陸の孤島化となってしまいました。この為、JALは被害が軽微だった新潟空港を使い羽田ー新潟間の出して被災地への足の確保に努めましたが短距離ながらもこの臨時便には多くの搭乗者があったそうです。鉄道の被害の中で磐越西線は比較的揺れが少なかった地域を走る為に復旧がいち早くなされ東北新幹線を使えば郡山ー会津若松―新津ー新潟ルートが確保さる事になりました。磐越西線の復旧当日は定期普通列車に多くの人が乗車して大混雑だったと言う事でした。そしてその混雑緩和のためにばんえつ物語用の12系客車を4連に組成換してDE10に牽引させ救済臨として運転する情報が入ってきました。実は当時は今と職種が異なり営業関係の仕事で得意先(大企業の出張担当者等に)に災害時に現地の鉄道運行情報を提供する事も大切な仕事でした。そのために被災地域の不通区間のFAXによる告知や迂回ルートの提示照会もひとつの仕事でその情報収集の過程で前述の救済臨の運転を知った訳です。まだ新潟の人は避難したり自宅にいる人もライフラインが絶たれて困っている事は百も承知ですがDE10牽引のばん物の救済臨は是非とも撮影したいと写欲にかられました。迷いに迷い本当に顰蹙ではありますがこの列車を情報を得て、さらに仕事も休む事は可能で撮れる環境にありながら撮らないと一生の悔いになるかもしれないと出撃を決意しました。出撃は湘南チサ區様と相模鉄労様のご同行をお願いし3人で出撃した次第です。ただ後に発生した東日本大震災での磐越西線燃料迂回輸送の際も同じ事を考えたのですが、とにかく被災地域での撮影なので地元地域の人に顰蹙を買うような行動は厳に謹もうと出撃しました。東北道は地震の影響はほとんどなくいつもと同じように走れて陽の出の時間には会津に入っていました。会津に入って感じた事は新潟県とは隣接しているものの会津は崖崩れ等も見掛けず被害が軽微だったために普段と変わらない街の雰囲気だった事です。
まずは紅葉が少し始まった会津西方ー会津桧原間の只見第一橋梁で只見線の朝の列車を撮影してから(この時点で只見線は只見ー小出間が不通だったはず)磐越西線へ向かいました。国道49号線で新潟県内に入り若干の緊張を感じながら走りましたが磐越西線沿線は震源地から離れているのか、あるいは岩盤が硬いのか顕著な被害はなく三川ー五十島間のトンネル飛び出しの撮影地に到着しました。DE10救済臨の時刻(ばん物とほとんど同時刻)まで時間がありましたが三脚は立てず目立たないように車内で待機します。元々、救済臨の運転決定がギリギリだったために同業の鉄ちゃんの姿は全く見掛けないだけに焦ったりする必要もなく場所とりで三脚を立てて車外にいるより車内で待機しているのが目立たず得策と判断したからでした。
被災直後の臨時列車だけに゛本当に来るの?゛と言う一抹の不安はありましたが、時刻になるとDE10を先頭とした列車がやって来てまずは安心です。その後は磐越自動車道を使って日出谷→野沢と同列車を追い掛けて山都で遅い昼食を摂りました。山都で昼食の入った食堂では地元のオジサンらしき人がテレビで新潟県下の被害情況が映し出されると゛新潟の人は大変だぁ!゛とさも遠くで起きた出来事の様に言っていたのを聞いて驚いた事を鮮明に覚えています。
下りの救済臨(下り゛ばん物゛と同時刻)を撮影してからまだ太陽のパワーはありましたが追っかけは被災地に近くなり禁物と判断し一日晴天に感謝して被災し不自由な思いをしている被災地の方には申し訳なかったですが充実感を噛み締めて引き上げる事にしました。
会津に入ると地震の影響がほとんどなかった事もあり至って普段の雰囲気だったのが意外でした。夕方のエロエロ光線にDEのオレンジが映えます。この時代の12系客車ならまだ我慢が出来る色です。 04,10,29 山都―荻野 9223レ Canon EOS−1v RDP−V(+1) スキャナー : Nikon COOLSCAN WED